第20話 東巌寨行

「ふう……」


 桂舜は担いでいた天秤棒を降ろし、籠の土をむしろの上にぶちまけた。

「星衛、あとどのくらいある?」

 後からついてきた武官はやはり天秤棒を担いでおり、下問に対し首を傾ける。

「そうですね、あと五往復というところでしょうか」


 彼らは朝から防壁の修復に駆り出されているところであった。空には弱々しく白い光を放つ太陽が、地には荒野と低い山々、そして銀に光る川筋がそれぞれ見えている。


「東の寨」こと東巌寨とうがんさいは涼国東方の防御の拠点でもあり、隣国のとの境を望む碧雲江へきうんこう沿いに砦を築き、そこに将兵が駐屯している。

 もともとは比較的安全な拠点であったはずだが、ここしばらく魏と涼の間で小競り合いが散発し、公子の配属先にしてはやや危険の度合いが増していた。

 ただ、桂舜のためにここが選ばれたのは、主上としても息子を身の危険にさらすことでしか権門からの譲歩を引き出し得なかったことを明白に示している。

 桂舜の母親の身分の低さをあげつらい、彼の常日頃の態度を主上と世子への脅威と見なし、傲岸不遜と断じて苦々しく思う面々は、公子の「放逐」に祝杯を挙げたとも聞いた。


 桂舜が名ばかりの官職を与えられ、都城から二百華里ばかり離れたこの東巌寨までたどり着いたときにはすでに辺境の地は冬が迫り、その後は雪が降る日も増えていった。


 彼の上官は葛潤之かつじゅんしといい、かならずしも平穏無事とはいえない状況で、よりによって公子が自分の配下として寨に配属されたことに困惑……いや、どちらかというと迷惑している様子ではあったが、贔屓も圧迫もせず淡々と桂舜を扱い、公平に仕事を割り当てた。また、兵たちには彼の身分も明かされなかった。

 桂舜はこうした処遇のされ方に不満はなく、慣れない任務に試行錯誤しつつも、星衛や他の武官たちとともに訓練に励み、寨を修築し、歩哨ほしょうや夜間の宿直に立って過ごしていた。


 もっとも、本当のところは、彼の兵営生活に波乱が皆無だったわけではなかった。

「ふん、このひよっこめ、どこから出てきたか知らないが、小僧のくせに同僚の俺達より偉そうな顔を……!」

 兵営の裏手で桂舜の前に立ちはだかり、剣を抜いてしているのは年上の同僚である陶豪とうごう。角ばったその顔は、憤怒のためか朱塗りの箱のごとく赤い。


「別に偉そうな顔をしているわけではない。兵に対する貴官の振舞いが目に余るゆえ注意しただけのこと。平素からそのように虐待を加えていて、果たして戦の際に兵がついてこようか?」

 公子は怒りをこらえつつ、冷静な口調を維持しようと努めているようだった。彼は、駆け付けてきた星衛が剣を抜きかけるのを制する。

「手を出すな、星衛」

「ふん、番犬もろとも躾け直すか。兵営の飯粒を多く食べた分だけこちらが上ってことを教えてやる!」


 そう吠えるなり剣を抜き斬りかかってきた陶だが、桂舜は足払いを食らわせたあげく脇腹を剣の鞘で打ちすえ、顔を張り飛ばしてひっくり返した。

「そなたには兵を率いる資格などない、そのようにあっさりと敗北するとは。さては鍛錬もなまけているのではないか?」

 冷たい口調で言い捨てると、集まった兵士達に合図して「ならず者」を上官のもとへ連れて行かせた。


  *****


 そして、特に冷え込みの厳しいある夜、宿直に当たった桂舜は星衛と火を囲み、同僚から差し入れられた鹿肉をあぶってかじりついていた。身に明楽の作った綿入れを羽織っているが、それでも寒いものは、寒い。


「それにしても、そなたは私と出会ってから踏んだり蹴ったりだな、星衛。鞭打ちの刑を受けるわ、侵入の手伝いをさせられるわ、挙句の果てに私と一緒にここまで……そなた自身は淡々としているが、そなたの実家は私に怒り心頭なのでは?大切な嫡男の職歴に傷がつく、と」

「そんなことはありません。それに欧陽の邸に行くとき、本官は公子をあえてお止めしなかったばかりか同道し、死をもって償うことになると覚悟しました。ですがこうして生き永らえることができたのですから、主上のご寛恕かんじょには伏して感謝するばかりです。そして、我が実家をお気遣いくださる公子にも」

「星衛……」


 桂舜は、かねて疑問に思っていたことを口にした。

「それだ。欧陽の件でそなたが私を止めなかったこと、何かそなたに思う所があったように見えた。素雲を庇った時も似た目つきをしていたが」

「なぜそう思われました?」

「何というか……ただならぬ覚悟で真剣なのは当然としても、以前こういうことで何かがあったのではないか、そう思わせる種類の眼をしていたのだ、あの時のそなたは。私の思い過ごしかもしれないが。どうなのだ? 当たっているか?」


 星衛は肩にかけた毛織物を掻き合わせ、しばらく無言で夜空を見上げていたが、やがて桂舜に向き直った。その眼は常に似ず悲しみと怒りを二つながら宿していた。


「あなた様に畏怖を覚えることがあるとすれば、その勘の良さと申せましょう。ご覧になっていらっしゃらないようで、相手のことを良く見ておられる。……ええ、相違ありません。実は、本官には歳の離れた姉がおりまして、幼いときにはよく可愛がってもらったものです。我が家の気風として武芸だけではなく学問をも尊びますが、姉も学ぶことを愛し、詩を作り、絵を描き……多芸多才とはまこと姉上のことを言うのだと、弟としても誇らしく、慕わしく思っていました」

 武官は悲し気に微笑んだ。


「ですが、姉の生活は嫁いだ後で一変しました。同じ武門の名家であっても婚家は武芸一点張りの家風で、姉の持っていた素質や才能は全て否定され、生意気な女だ、婚家の人間を馬鹿にしていると、いわれのない暴言や虐待を受け続け……とうとう出産のときに胎児ともども亡くなりました」

「何と……」

「姉の亡くなった春はこれほど悲しい春があろうかと、咲く花、啼く鳥さえも憎みました。ですから、明楽公主さまのお話を伺った時に、畏れ多いことながら姉のことが引き移しで思い出されたのです」


 一気に語り終えると、星衛は火を掻き立てた。炎に照らされたその顔に、桂舜は我知らず見入っていた。


「私は、そなたが好きだ」

 鳩のごとく目を丸くする星衛に、公子は声をあげて笑い、同じ言葉を繰り返した。

「私はそなたが好きなのだ。いや、一人の人間としてそなたを好ましい、見上げた人物と尊敬している。そなたのように誠実で情に厚く、しかも任務に力を尽くす人間が一人でも多くいれば、きっと父上や兄上の御代は手堅いものとなる」


 言われたほうは脱力した態で相手を眺め、口の中で

「いえ、私はまだ未熟者で、そんな……あの、お気持ちは嬉しいのですが言い方をもう少し。あまりに直接的に過ぎて」

と、もごもご呟くので精一杯である。


 桂舜はぱっと立ち上がると物見台の頂上に駆け上がり、「来い、星衛!」と呼びかけた。武官も負けず劣らず身軽に動き、あっと言う間に公子の隣に立つ。

 そのまま二人は並んで星空を見上げた。東の山の端は既に白くなっており、深い紺色をした夜の幕も、金剛石をばらまいたかのような星の瞬きも薄れつつある。

「あ、流れ星だ」

 桂舜が言うそばから、星が二すじ南を指して流れさった。


「父上は私にこう仰せられた、『一人ひとり施しをして国中を救って歩くつもりか?それで鼓腹撃壌の国が実現できると思うか?』と。確かに、そのようなことは不可能だし、あるいは『小人しょうじんじん』と非難されるのかもしれない。だが、私は流れゆく星を一つでもすくい取りたい。私の腕は長くなく、掌もこのように小さい。だが、施政や人間じんかんの網目からこぼれ落ちる星ぼし――橋の下の貧しい親子、そなたの姉や私の妹のような存在、飢えや寒さに苦しむ民草――そう、一つひとつの星をできるだけ多くすくって夜空にとどめ、輝かせたいのだ。たとえ全てをすくい取ることができなくても。あるいは、腕を伸ばすことにすら価値がない? そうかもしれない。だが、私がいずれ父や兄を実際にお助けすることになっても、流れる星々のことを忘れないでいようと思う」


 星衛も空に視線を据えたまま、くすりと笑った。

「まだまだ青くていらっしゃる。てらいもなく理想を仰って……」

「何だ、人が真剣に考えてるのに。理想を語って何が悪い。それに人を子ども扱いしてけしからん。歳だってそなたとそれほど違いはない……」

「はは、やはりお怒りになられた。でも本官も、理想を真っすぐ仰る公子を眩しいほどに仰ぎ見ています。たとえ現実にぶつかったとしても、選びうるなかから最善の道を選び取るには、やはり理想あってのことです」

 公子は褒められて喜ぶと思いきや、眉根を寄せた。

「他人に言う分には何とも思わないが、自分が言われる立場に回ると、落ちつかぬものだな、その言葉は、『眩しい』とか何とか」

「ええ、そうです。敵討ちです」

「ここに来てから、いかつい武官はかなり饒舌になったのでは? ん? 以前はもっと寡黙だったぞ。恰好が悪くなった」

「誰にでも饒舌というわけではありません。あなた様にだけですので誤解なさらぬよう」


 見張りの緊張が二人をいささかおしゃべりにしたらしい。だが武官としての勘はなまっておらぬ星衛がふとしゃべるのをやめ、しっと唇に指を当てざま前方右の河の方向に目を凝らした。

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