第19話 一針の情

 そして半月後――例年になく速足で秋が過ぎ去ろうとするある日、東宮殿ではまた鸚哥がうるさく啼きたてている。


翠翁すいおう、いい加減に私の顔を覚えろと言っているだろう? 困った鳥頭とりあたまだ」

 口を尖らせた桂舜に対し、書見台を前にした世子が微笑みかける。

「相変わらず不義理な奴だ、こまめに顔を出せば威嚇されることもないのに」

「恐れ入ります、世子さま」

 鸚哥が苛立っているのは、不人情な客よりも、自分の足首に嵌る銀の枷と鎖が忌々しいのが原因かもしれない。それが証拠に、しきりに枷を気にしてくちばしでつついている。


「それで――」 

 世子は読書をやめて円卓に移り、かしこまって座る異母弟に茶と菓子を進めた。

「やはり東のさいに行くのか」

「はい、以前から内意は伺っておりましたが、本日をもって正式に主上より王命を賜りました。劉星衛も一緒です」

「そうか」

 向かい合わせになった世子は難しげな顔つきをした。


「そなたに名ばかりの官職を与え放逐同然に最前線の寨にやるなど、父上も苦渋の決断だろうが、それにしても酷だ。不正の有無とて、今だに……」

「世子さま」

 桂舜は不満そうな兄をなだめるかのように笑った。


「父上から、兄上が私を弁護なさったと伺いました。不忠にして不孝の弟にお味方してくださり、本当にありがたいことです。でも、私のことで主上は新たなご心痛を抱えたばかりか、欧陽はじめ権門と駆け引きせざるを得なくなりました。連中はあの覚書の写しにも『記憶がない』『知らぬ』『写しなどいかようにも作れる』の一点張りです。確かに、決定的な証拠とするには弱い。それでも父上は譲歩を引き出し、書類に関しては罪を問わぬことと引き換えに、兄が妹の婚家で盗賊まがいの振舞をしたこともまた不問に付す、と」


「あの蓄財については、惜しいことをしたな。弾劾もできただろうに……」

「私を放逐で済ませるためです。もっと重い罪に問われても文句は言えませんでしたから。ただ、明楽には申し訳ないことをしました。おそらく危険を冒して証拠を書き写し持っていただろうに……」

「桂舜」

 弟の右手を、兄はそっと自分の手に取った。


「大それたことをしたのは確かだが、自分をそのように責めるな。明楽も辛い生活のなかで、そなたに会えて嬉しかっただろう。何より、最大の『譲歩』としてあいつを救ったことにもなるのだから。父上も心のどこかでそなたに感謝をしているやもしれぬ、いや、少なくとも私はそなたに感謝をしている」

 結局のところ、蓄財については内済ないさいで済ませるのと引き換えに、明楽公主は回復が難しいほどの重病と称して欧陽からの離縁を勝ちとった。ただ、すぐに宮城に戻るのをはばかっていまは王妃の里に身を寄せ、傷ついた心身をゆっくり癒している。


「先日、趙宝英ちょうほうえいが外朝まで謝恩の挨拶に参ってな、自分が明楽に家来同然の扱いを受けているとこぼしていた。見舞いに行くと、御簾越しにでも容赦せずとものを言われ、ろくに返すこともできないそうだ」

「彼は大人しいですしね、それに、母親同士が姉妹といっても、まさか公主に口答えもできかねる。明楽にとっては格好の玩具おもちゃでしょうよ」


 案外、明楽には宝英のような男のほうが良いかもな――ふと思いついた桂舜だったが、頭を小さく振って埒もない考えを追い出した。彼女は降嫁によって大きな心の傷を作ってしまったのだから、結婚などもう二度としないと誓っているかもしれないのだ。


「何を考えている?」

「明楽も、いつかは再嫁して今度は幸せに暮らせればと。まあ、新たな縁があればの話ですし、無理強いするわけにはいかないでしょうが……」

「全くだな」

今日はいつも桂舜が感じるぎくしゃくした雰囲気はなく、兄弟はふふふと声を合わせて笑ったが、先に真顔にもどったのは世子のほうだった。


「そなたも慣れぬ暮らしとなり、しかもこれから冬だ。支度ははかどっているか?」

「はい、五日後の出立となります」

「そうか、ではこれも持っていくがいい」

 世子は宦官に頷くと、薄水色の絹の包みを持って来させた。中からは紺色の男物の綿入れと、ひと振りの短剣。

「これは……?」

「実は、そなたの処遇の話を誰よりも先に主上から伺ったあと、明楽には委細を告げずにただそなたの綿入れを作ってほしいと頼んだのだ。彼女は夜なべをしてこれを縫い、『桂舜お兄さまのことを思うと心が痛む、よろしく伝えて欲しい』と言ってよこした」

「明楽が……」

 桂舜は、愛おしげな眼をして綿入れを撫でた。縫い目はひと針ひと針丁寧な仕事で、これを作った人の真心が察せられた。


「兄上、私が東へ行くことは明楽には内緒にしてください。いずれ漏れ聞く時も来るでしょうが、彼女の嘆きの種をこれ以上増やしたくはないのです」

「わかっている。そして、その短剣は私からだ。そなたの身を守り無事に戻って来られるように……」

「世子さま」


 胸が一杯となった弟はそれ以上何も言えずに立ち上がり、最上の敬礼を兄に捧げる。翠翁が一声啼いてばさりと羽根を広げた。

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