第13話 公主降嫁

 そして、明楽公主は吉日を選んで降嫁していった。


 その日、鴛鴦えんおう柘榴ざくろをはじめ、吉祥紋様で埋めつくされた赤い婚礼衣装を身にまとって鳳凰ほうおうの冠を戴き、白粉を塗り紅をさした彼女は、国君と王妃の御前に進み出て最上級の拝礼をし、撫育ぶいくの謝辞を懇ろに述べた。


 さらに出立に立ち会う世子や桂舜に一人ずつ頭を下げ、

「世子さま、桂舜公子さま、この日までふつつかな妹を慈しみ、お見守りくださいまして」

とこれまた礼を述べた。頭に赤いをかぶせられる直前、それまで人形のようだった異母妹はうるむ眼で自分を見つめ、ものを言いたげだったが、桂舜もただわずかに頷くことしかできなかった。


――天よ、地よ。どうか私の異母妹に末永き幸せをお恵みください。


「明楽公主さま、ご出立――!」

 屋根に鳳凰、側面に華やかな飾りが施された赤い輿が宦官たちの手で担がれ、殿庭で見送る桂舜からどんどん遠ざかっていった。


「……寂しくなるな」

 世子が隣でぽつんと呟いたが、それを聞いた桂舜は胸がふさがる心地がした。


――私が明楽ともっと距離を取っていれば良かったのだろうか。そうすれば、父上達のお心を煩わせることもなく、降嫁ももっと違った形になっていたのかもしれない。


「桂舜、そなたも浮かぬ顔だな。ああ、あいつはそなたに懐いていたから……」

 世子も自分と明楽にまつわる噂の一つや二つは聞いていただろうが、何か言ってくるどころか、少しでも態度に出すことはない。それがかえって桂舜の心にはこたえた。


「ええ、兄上。寂しくなります、本当に」

 ごく小さな声でそれだけを答えた桂舜は、花嫁行列が消え人々が散り散りになったからの殿庭で、いつまでも風に吹かれていた。


     *****



「どうかなさいましたか、公子?」


 呼ばれて桂舜は、はっと意識を引き戻された。眼前には寝台に横たわった一人の老人と、自分と同じ年頃の若者、そして部屋の隅には劉星衛がひっそりと控えている。


「ああ、先生を前にして失礼した」

 桂舜は学問の師に対して一揖した。老人は李才文りさいぶんという当代きっての学者で、世子や桂舜に学問を教えてきたが、昨冬から体調が思わしくないので主上に願い出て致仕し、自宅での療養に勤めていたのである。


 李の容態を案じた主上は、息子を非公式の使者に仕立てて見舞いに遣わし、いま寝台脇の大きな卓には書簡の入った函と下賜品である薬がうやうやしく載せられている。

 一方、横のやや小ぶりな卓上には経書の注釈書の秩が幾たりか広げられているが、これは師の三番弟子にあたる楊舜雪ようしゅんせつが若者を遣わして自書を奉呈したもので、師は国君の心配りと弟子の活躍を二つながら手にし、いかにも嬉しげであった。


「それにしても縁は異なもの、宝英ほうえいと星衛がともに舜雪に学んでいたとはな」

 「宝英」と呼ばれた若者と星衛ははにかむような微笑で一揖した。

「ええ、私も驚きました。特に星衛が武術だけではなく、学問も怠らぬということに。てっきり剣技にしか関心を持たぬかと……」

「筋肉や腕力だけでは真に優れた武人とはなれませぬ、公子よ。河西の劉氏は代々優れた武官だけではなく、学究の徒もまた排出しているが、星衛もやはりあの一門の出じゃな」

「そんな、誇賞にあずかりまして、まことに恐縮に存じます」

 一騎当千の気概を持ち、敵の白刃に物おじせぬ若い武官も、思いもかけぬ褒め言葉にたじたじとなっている。


 病人を疲れさせぬほどの短い歓談の後、趙宝英と桂舜は揃って師のもとを辞したが、建物を出るや否や宝英は桂舜の袖をそっと引いた。

 実のところ、彼は王妃の甥であるばかりか桂舜の数少ない友人で、幼い頃より親しい付き合いをしていたのである。


「桂舜さま、ちょっと……」

 風采こそ地味だが、温雅で知的な雰囲気を持つ宝英を桂舜も大切に遇していた。しかし、今の宝英は常日頃の穏やかさはどこへやら、思いつめたような表情である。

「何だ? 話なら道すがら……私は主上に約束させられたのだ、決して寄り道をせぬと。用を済ませたら早く復命をせねば」

「どうしてもなりませんか、ほんの少しの間でも?」

 宝英は右の人差し指と親指を近づけ隙間を作ったが、桂舜は微笑みながらも首を振る。

「うむ、この星衛がまた鞭打たれてしまうからな」

 星衛は何か言いたげな顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻った。


「やむを得ません。では……桂舜公子さま。道々に申し上げましょう」

 桂舜は乗ってきた馬を使わず、宝英と途中まで一緒に歩くことにした。それでもしばらく宝英は逡巡していたようが、歩みが遅くなって声量も落ち、ほとんど囁き声となった。

「明楽公主さまの近況、何かお聞き及びですか?」

「明楽の?」

 桂舜は怪訝な顔をする。異母妹のことは気になってはいたものの、降嫁後の消息はとんと自分のもとへは届かなかったのである。

「いや、私は何も……」

「そうですか」

 宝英は溜息をついた。


「やはりあなた様には知らされていませんか。まあ、私はかたじけなくも、明楽さまの従兄にあたりますのでいささか事情は……。それで、あなた様にお伝えするのは軽率かとも思ったのですが、状況があまりに……」

「状況があまりに?どういうことだ、それは」

 明楽の兄は胸騒ぎを覚え、背後の星衛がすっと距離を取ったのを察知しながら、続きを話すよう眼で相手を促す。


「どうか私からの話ということは内密に。明楽さまは欧陽の邸で日々泣き暮らしているとのことで……」

「泣き暮らす⁉ 」

 桂舜の大声が響き渡り二、三の通行人が振り返ったので、宝英はまたもや袖を引かなければならなかった。

「どういうことだ、それは」

 公子は相手に噛みつかんばかりに顔を近寄せる。


「実は、花婿と花嫁は当初から折り合いが悪いばかりか、婿は公主さまに何かと辛く当たっているとかで……」

「何故だ、私の妹に何の不満があって……!」


 頭から湯気を立てて怒り狂う桂舜は、宝英の次の言葉に憤死寸前だった。


「欧陽は一家あげて蓄財に狂奔しているとの専らの噂です。あの跡取りなどは、良からぬ手を使っているとも漏れ聞きますし。むろん公主ご降嫁の折、主上は王妃さまとはかって懇ろなお仕度をなさいましたが、欧陽にとってはそれでも不足と感じていたようです。化粧料をはじめとした……」

「そんなはずはない! 明楽の化粧料は」

 父は、公主としてはあらん限りの化粧料を愛娘に賜ったはずなのである。


「おのれ、欲に眼をくらんで妹をいびっているのか……」

 想像の斜め上を行く桂舜の様子に、宝英もさすがに漏らしたことを悔いる目つきになった。


「お静まりください、公子さま。主上も王妃さまも心を痛めておいでですが、既に嫁した御身であり、公主さまといえども婚家には従うもの。事実、主上におかれては、欧陽を押さえることで政治はこれまでより遅滞が少なくなったのです。それにご自身もご降嫁先で大きな顔をして憚ることのない姉上方に苦労されてきたので、何も仰れないのですよ」

「伯母上たちのことは知らん、明楽がそんな苦労をするなんて……だから私は反対だったのだ……」

 吐き捨てる桂舜の眼尻には涙がにじんでいた。

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