第12話 妹の想い
「
久しぶりに
「……ええ、復命の折、主上から直々に窺いました。いくら権勢のある家でも、よりによって欧陽哲の長男なんかに……」
酒家で
――あんな奴のもとに降嫁したのでは、明楽の幸せなど望めないのでは?
苛々した調子で返事をした桂舜は、母のもの言いたげな視線に気が付いた。
「何か?」
「わかりませぬか、明楽さまのご降嫁にはそなたも絡んでいるのですよ」
「ええっ⁉ 」
思わず公子は大声を上げ、ついで笑い出してしまった。
「あり得ぬことです、明楽の降嫁と私と、何の関係が……。第一、あれは父上が権門と上手く渡り合って行かねばならぬ苦渋の決断なのであって」
李氏はふうっと息をついて長椅子に座り、桂舜にも傍らに腰かけるよう命じた。
「確かにご降嫁は第一に政略によるもの、ですがそれだけではないのですよ」
「他にも何か理由が? 母上」
「いいですか、そなたは気づいていましたか? 明楽さまは幼い頃からそなたを慕ってくださいましたな」
「はい、腹違いなのに……私のあとばかりをくっついて」
――お兄さま、大好きよ。
――私、大きくなったらお兄さまのお嫁さんになるの。
ちょこまかとまとわりついては、笑ったりむくれたりする感情豊かな妹。兄は懐旧にふけっていたが、それを咳払いとともに母親が引き戻した。
「桂舜。幼い頃の無邪気な言葉が、まだ忘れられていなかったとしたら? そなたはどう思います?」
「母上、何を……。御冗談でしょう、まさか、明楽が私のことを」
笑い飛ばそうとした桂舜の表情が固まった。
――まさか!
「いや、そんな。母上、あり得ません……それぞれ別の腹から生まれたとはいえ、私達は兄妹ではありませんか。人倫にもとるようなことを、いくら何でも彼女が」
「ええ、私もそう信じていますし、事実はきっと違いましょう。おそらくは思い過ごしにすぎぬと。ただ、主上も王妃さまも、明楽さまのそなたに対する態度をかねて心配なさっていたのですよ。ですから何事もなくとも、念のためにとご降嫁を急がれた」
「……そんな」
「それに、火がないところにもあえて煙を立てる輩が、残念ながらこの宮中には大勢おります。たとえ事実でなくとも、そのような噂が広がるだけでも明楽さまとそなたに痛手となってしまうのですよ。特に、そなたを苦々しく思う者にはこれを『好機』ととらえるでしょう。あえて明楽さまを巻き添えにしてでも、そなたの名誉を傷つけようとすると」
「……」
およそ突拍子もない話に聞こえるが、桂舜も宮中の人間ではあり、母の言わんとすることは理解できた。
「およそ公子は成人すれば王宮を出て、独立の府を構えるもの。ですが、主上はそなたをお手元にとどめ置いた。そのご判断を今さらどうこう申し上げるつもりはないけれども、ああ、そなたが早く
いつの間にか、母の長い慨嘆の言葉も息子の耳には全く入らなくなっていた。桂舜は畏怖をもって、異母妹のことを考え続けていたからである。
*****
明楽公主降嫁の件は、桂舜の心に無限の波紋を広げた。彼は半ば上の空で二日間を過ごし、その日も剣術の稽古に向かうべく身支度をすると、憂鬱な気持ちで木剣を手に取った。
――駄目だ、こんな心が乱れたままで稽古をしたら師父に見抜かれるばかりか、怪我までしかねない……。
お付きの女官や宦官を全て追い払い、一人で紅霞殿を出て回廊を行く。ずんずん歩いている間も、考えることは一つしかない。
――お兄さま、桂舜お兄さま。
ぎょっとして桂舜が目を向けると、がさがさと音がして当の明楽公主が姿を見せた。
「そなた……」
慌てて周囲を見渡したが、誰もいない。異母妹の腕を引っ張り、回廊を外れて裏の庭に連れていく。隠れていたためか、髪と服のそこかしこに葉っぱをつけたままである。
「なぜこんなところに……」
相手の顔をよくよく見れば、泣きはらして真っ赤になった眼と震える唇が痛々しい。桂舜ははっと気が付いた。
「まさか、私が出てくるのを待っていたのか?ずっと」
「そうよ、ひどいわ。お兄さまったら私を慰めにも来て下さらないから、私のほうから……いつもこの時間には、この
「そなた……」
異母妹の瞳にゆらめく必死さに、彼は負けてしまいそうだった。
「降嫁なんて私は嫌です、欧陽の家になど参りません」
「だが、王命がすでに出た以上は誰にも覆すことはできぬ。それに、私もそなたも王の子だ。高貴な身の上として富貴と栄誉を手にする代償として、国の安寧と平和のためならばどのような境遇も甘んじて受けるべきで、我儘が通るものではない」
「我儘などではありません!」
明楽があまりに激しく首を振るものだから、ゆるんでいた銀の
「欧陽の長男は評判が良くないと、女官達が噂していました。よりによって、そんな男のところへ私をやるなんて、お父さまはひどい。そして、止めないお母さまも……!」
兄は鴛鴦殿の女官のうかつさに心のうちで舌打ちするとともに、打ちひしがれた明楽を目の前にして、「ならず者同然のあの男にこの可愛い妹を……」と思うと、胸が張り裂け、怒りで頭が沸騰しそうな勢いであった。
だが彼は、すがりついてくる妹の身体を両手で押しとどめた――どうかその手の震えを相手に気づかれぬよう、願いながら。
「主上は至尊の御方なれども、これまで権門との関係に苦慮なさって政治を行われてきた。欧陽は権門の要ともなる重要な家だ、そこにお前を嫁がせれば父上の立場も少しくお楽になる」
「そのための降嫁なんて……私はお兄様の側にずっといるわ。それでは、駄目なの?」
「
涙でしとどに濡れた妹の顔。そこには降嫁への嫌悪や嘆きだけではなく、兄に対する燃え盛る感情が渦巻いているのが見え、異母兄はおののく。だが、つとめて冷静な声を出そうとした。
「私の側にずっといる? そうは申しても、私だっていずれ妻を迎え、側室をも置くことになるのだ。それをそなた、まさかずっと間近で見ているつもりか?」
我ながら彼女にはいとも残酷な言葉を吐いたものだ、と思う。
――だが、いつかはそうなるのだ。そうなっても、お前は本当に辛くないのか?
「お兄さままで……!」
明楽公主は「裏切られた」というかのごとき歪んだ表情になり、次の瞬間にはしゃにむに抱きついてきた。桂舜の腰に下がっている、明楽から贈られた香袋が揺れた。もはやこれ以上拒むことはできず、彼は異母妹の身体をそっと抱え、その艶やかな髪を撫でながら葉を取ってやる。
「明楽、明楽。いけないよ。このようなところをひとに見られたら……」
そうは言っても、彼にはもはや相手を押し返す気力はなかった。二人はしばらくの間、恋人同士がするように寄り添っていたが、身体を離したのは明楽のほうが先だった。
「お兄さま、わかりました。もう我儘は申しません。お兄さまを待ち伏せしたり、追いかけたりもしませんからご安心ください」
辛くなった桂舜は落ちたものを拾い上げて明楽に渡そうとしたが、拒まれた。彼女は半眼となって「もうそれは必要ありませんの」、そして「さようなら、お兄さま」とつぶやき、ぱっと身を翻して駆け去っていった。
――明楽、私のいもうと。
つむじ風が去った後、兄は光を失った銀の牡丹を手に呆然と立ち尽くしていた。
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