第10話 流星一つ
「聞いたぞ聞いたぞ、
そう言って手首を離さぬ貴族らしき男は、連れの者たちにわざとらしく頷いて見せる。
「
先程の山吹色の上着の男、彼の吐き出す酒臭い息が、桂舜の鼻先をもかすめる。
だが、素雲は酔っ払いの醜態にも怯えることはなかった。落ち着いて、手首を握られたまま相手に向き直る。
「お手をお離しください、欧陽の若様。あなた様やご一党のなさりよう、お店にいらしてくださった皆さまの楽しみをぶち壊しているのに、そのような方々を相手に踊ろうなどと、あたくしは思いませんの。それにあまりこの酒家で騒ぐと、『
その凛とした口調に桂舜は目をみはったが、恥をかかされた欧陽は顔が一瞬にして赤黒くなった。
「翁何たらがどうした! この
手首を握る力を一気に増したので、さしもの素雲も痛さに悲鳴を上げる。その時、男の腕が剣の柄でしたたかに打ち据えられた。
「なっ……」
欧陽が喚きざまに自分を打った相手を見ると、身の丈六尺近い若者が立ち上がり、剣を抜いていた。その表情は、桂舜がはっとするほど厳しいものだった。
「婦人に対し無礼な物言いをするな。その手を離してさがれ。でなくば、お前の手首を断つ」
「この野郎、やってみるならやってみやがれ! 俺を誰だと思っている……」
だが、欧陽某は続きの言葉を言うことができなかった。武官は素早く卓上に飛び上がると天井からさがる燈明の紐を断ち切り、それが落下するのと同時に床に着地した。
「わっ……!」
卓に落ちた燈明はもわっと埃を上げて炎を発し、声をあげた男の帯と髷もはらりと解けた。落ちた燈明の火は、桂舜が素早く消したので無事である。
「さっさとここを去るがいい。でなくば、今度は灯りや帯では済まぬ」
「なっ……」
ざんばら髪となった欧陽なにがしは頭から湯気を立てたが、相手が怖いのか「覚えていろ」と捨て台詞を残し、そそくさと仲間と連れ立って店を出て行った。星衛は無表情にそれを見送っていたが、剣を鞘に納めて桂舜に向き直る。
「あれだけ若君には自重せよと申し上げておいて、結局騒ぎを起こしたのは私です。また罰を受けねば……」
「そんなことはさせない!」
思わず大声をあげた公子に、星衛はただ一礼をして謝意を表す。
「あら、あたくしったら若様ばかりか、この用心棒さんにも借りをこさえてしまったのね」
素雲は複雑な表情をし、ただ助けてもらった恩義は恩義と考えたのだろう、星衛に対して最上級の敬礼をした。その拍子にまたもや彼女の胸の谷間がちらつき、桂舜はまじまじと観察したのち、相手に気づかれる前に視線をそらした。
*****
「……公子。いや、若君」
「ん? 」
「あの踊り子……素雲とやらを、まさかお気に召したわけでは?」
帰る道すがら、桂舜は恐縮する星衛と肩を並べて歩いていた。酒のあと「ある場所」に立ち寄って、目指すものを手に入れた公子は安堵したような顔つきだった。
「うん、気に入った。大いに気に入っている。私の好む種類の女性だ。あの大輪の花のごとき容貌も竹を割ったような気性も、実に気持ちが良い。それが何か?」
てらいのない答えに、武官見習いは溜息をついた。
「そのように仰ったところで、どうにもならぬではありませんか」
「どうにも、とは?」
「妻に迎えるでもない女性に、あそこまで
相手の言わんとすることを察し、ふくれっ面になった桂舜である。
「別に狎れているわけではない。どの道、私の傍らに座ることになる女性は私の預かり知らぬところで決められるのだ。世子の兄上の体調が良くなり次第、相手を選び婚儀をお挙げになるだろうから、そうなればすぐに私の番だ。ふん、そういえば星衛、そなたに妻は?」
矛先がこちらを向き、狼狽したかのような星衛だった。
「いえ。未だ……」
「そなたは嫡男だろう? ん? ではじきにその話も出るであろうな。私が先か、そなたが先か」
「私は未熟者ゆえ、今は任務のことしか考えられません」
「そうか。でも名家の嫡男とあっては、それでは済むまい」
桂舜は丸い橋の上で立ち止まって見下ろした。水面は墨を流したかのようで、遠くの灯りが頼りなく映り込んでいる。
「そなたは父上をお守りするのが任務。私は……父上と兄上に仕えこの国を盛り立てていくのが務め。だが、私は何なのだろう? 公子でありながらこの歳になっても後宮にとどめ置かれたままで……」
星衛はためらうそぶりだったが、自ら口を開いた。
「その答えを、微行で見つけることができましたか」
公子は眼を見開いたが、一笑してまた水面に眼をやった。
「そうだな。……街で施しをした私に、父上はこう仰せだった。『そうやって、国中を救って歩くつもりか?』と。一人ひとり貧しい者に食を与えたところで、とうてい皆すべて救えるわけではない、それは私もわかっている。だが、あのまま見ぬふりをすることもできかねた。父が私に発した問いが頭を離れず、一体どうしたらいいのか答えを求めて街に出てみたが……」
それ以上は公子も言わず、星衛も訊くことはなかった。若者二人はただだまって水中にゆらめくもうひとつの都を眺め、彼らの頭上を流れ星が一筋すうっと落ちていった。
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