第9話 茶と酒と

 医院の奥の部屋で、うつぶせに横たわった星衛は医官の手当を受けていた。傷をぬぐわれるだけでもこたえているようであったが、薬を塗られる段になって辛さの度合いは増したかに見え、彼は断続的に呻いた。枕頭ちんとうでは桂舜が悄然しょうぜんとしている。


「許してくれ、星衛。主上の仰せの通り、私が愚かだったのだ……。そなたは我が父の臣であって、私の臣ではない。私が命じたりする権限などないのに酒を強いるなど、全くもって僭越せんえつであった」


 しおれた草木のようになっている公子を前に、星衛は優しい眼差しになった。

「お気持ちはありがたく頂戴いたしますが、かといって微行をおやめになるあなた様ではありますまい」

「それは……!」

 違う、と即座に反論すべきだったかもしれないが、言葉が上手く出てこなかった。

「そういえば、主上から公子には何かお咎めがありましたか」

「向こう十日間、朝は父上のもとに行って経書を暗誦してみせるのと、執務の間は傍らに侍して墨をすったり紙を取り換えたりせよ、とそんなことを命ぜられた。父上のなさることを見て学べ、ということらしい。ええと……あと、今さらではあるが、そなたに詫びは申したが、礼を忘れていた。ありがとう、酔いつぶれた私を無事に連れ帰ってくれて」

 星衛は薬が傷にしみるのかしかめ顔をしていたが、それを聞いてまた微笑んだ。

「そう、公子は重うございました。背負って帰るのも一苦労で……」

「だろうな。いや、本当にすまなかったと思う。それが証拠に私は考え直したぞ。やっぱり微行はせぬことにしよう。だから、許してくれ」

 星衛ははじかれたように桂舜を見つめた。

「なぜそのような顔をする?」

「それでよろしいのですか? 規範を守れば微行も差し支えない筈です。それに、私の任もまだ解かれてはおりません。それとも主上から直々に禁じられましたか?」

「いや……」

 そういえば、父からは「今後微行はまかりならぬ」というお達しは出なかった。

「では、行ってもかまわぬのかな」

 半ば独り言のように呟いた桂舜に星衛は小さくうなずくと渋面じゅうめんに戻り、敷布団に沈み込んだ。



     *****


 そんなわけで、公子はまた番犬よろしく傷の癒えた武官見習いを従え、夜の街に繰り出している。行く先は、かつて酔客相手に大立ち回りを演じた酒場だった。河岸を変えて寄り付くのをやめようと思ったが、その居心地の良さが忘れられずに舞い戻ってきた次第である。


「……おい、酒肴が減っていくのが早すぎやないか?」

 酒家の広間の片隅で、口を尖らせて文句を言う桂舜に対し、星衛は箸を止めた。

「早すぎますか?」

 彼の前には酒ではなく、茶の入った椀が置かれている。


「私は酒が飲めないので、食べねば場が持たず……それに、若君の分まで頂いているわけではありません」

「いや、明らかに私の分まで浸食している、少しは遠慮してほしい。それとも羽林うりんではろくに食べさせてもらえぬのか?」

 そんな言い合いをしていると、彼らの広間の一角がざわついた。派手な身なりをした、桂舜よりやや年上の貴族らしき若者が二、三人、団子のように固まって高歌放吟こうかほうぎんしているが、酒を振りまき肴を食い散らかし、他の客の迷惑となっているようである。

 しかし、客たちは不快げな顔をするだけで、若者たちを咎めようとはしない。店の者たちも注意するのに及び腰となっているのがわかった。


「何だ、あれは。人もなげな……私だけではなく、皆のせっかくのひと時を台無しにして」

 憤然とした桂舜が立ち上がりかけるのを、星衛が「ご免」といいざま両肩に手をかけて座らせる。有無を言わさぬ、強い力だった。


「なりません。私の不覚とはいえ、この間は懲罰騒ぎとなったではありませんか。ここでまた問題を起こしては駄目です」

「しかし、あのような輩をのさばらせておいては……」


 首を伸ばして連中を見届けようとする桂舜だが、星衛の怪力の前には屈せざるを得なかった。渋々座り直した貴公子に、武官は笑顔をもって報いた。

「なんだ?」

「お優しくていらっしゃるのですね。さっきあの者達にお怒りになられたとき、『私だけではなく皆のひと時を』と仰った。他者に対する気遣いを怠らぬのは、さすが主上の御子と感服つかまつりました」

「しっ、こんな場所で父の名を出すな。そこつ者め」

 咎めつつも、褒められてまんざらではなさそうな公子ではあった。


「それにしても、あいつらは何者なんだろう?」

 星衛はちらりと後方を見やった。

「あれは権門の子弟です。おそらく妓楼に上がる前に、ここで一杯やっているのでしょう」

「ふん、権門か」

 桂舜がつい吐き捨てるような口調になったのは、いったい涼国はこの数代にわたり、権門が幅を利かせて王権を圧迫し続けているからで、父の悩みの種であることも知っていたからだった。


「こうして都城で飲み食いしているだけでも、民草たみくさの言葉の端々から奴らの専横ぶりが窺えて、胸が悪い。星衛、そなたの劉家も……ええと、河西かせい劉氏だったか、名族だったな」

「はあ、一応は。ただ、彼等のように権勢が強いというわけではありませんが」

「だが、そなたの一門は代々忠義者だ。それに引きかえあいつらの一族は、父上の努力もご苦心も無にしてはばかることがないのだ」

 酔いも手伝って次第に口調が激してくる公子を制し、星衛はまた彼方を見やった。


「山吹色の上着を着ているのが欧陽哲おうようてつの長男、水色の帯に大刀を提げているのが李海仙りかいせんの次男坊……ここまではわかりますが、後は私も知らぬ連中です」

「そうか、だが、もうあんな奴らのことはどうでもいい。酒と肴の追加を……」


 桂舜が言いさしたところ、領巾ひれを翻して踊り子が卓に近寄ってきた。歳は十八、九にならんとする華やかな容貌の女性である。白粉の匂いが桂舜の鼻腔をかすめ、桃色と若草色の鮮やかな衣裳が目を引いた。


「まあ、これは粋な若様。あの時は私の可愛い後輩を助けてくださってありがとうございます。あれからとんとお顔をお出しににならないから、すっかりお見限りかと思っておりました」

「かえって迷惑になったのではないかと思ったのだ。それで……」

「いいえ、迷惑だなんてとんでもない。あたくし、ずっとお待ちしておりましたのよ。薄情な方とお恨みしながら」

 かがみ込んで桂舜を覗き込んだ拍子に、衣裳の隙間から豊かな胸の谷間が見えた。


「それで、今日は何やら頼もしそうなお連れ様もご一緒で?用心棒?」

 またもやの「用心棒」呼ばわりに星衛はむっとした表情となり、桂舜はくすくす笑った。

「まあ、そんなところだ。この間は店で派手な振る舞いをしてしまったからな。どうだ?あれから仕返しの類は来ないかな?」

「ええ、お蔭様で」


 踊り子は「素雲そうん」と名乗り、公子の隣にすとんと腰かけた。星衛の眉が鋭角に跳ね上がる。

「助けていただいた御礼に、若様の今日の酒肴代はみな私につけてあるから、どうか好きなだけ召し上がってくださいな。もう酒瓶も皿も空になっているではありませんか? ご遠慮なさらずにどんどん注文なさって」

「それでは悪いではないか」

「お店の修繕費も頂戴したのですもの、それくらいは……」

 桂舜の身体にしなだれかからんばかりの素雲に、星衛は眼を剥いた。

「あら、お邪魔虫さんが睨みつけているわ。用心棒のお役目ご苦労ね」

 

 踊り子と武官が目に見えぬ火花を散らしている様子に、公子はにやりとした。

「まあまあ、私を間に挟んで何のさや当てか? 素雲、つけ勘定は良いから、礼の気持ちを表したいのであれば何か舞ってくれぬか?」

 素雲の顔がぱっと輝く。

「嬉しいわ、若様のためだけに舞うなんて。ここは人でごみごみしているから、庭ででも……」

 だが、嬉々として立ち上がりかけた彼女の手首を、後ろから掴んだ者がいる。

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