第8話 鞭と血痕

 翌日、桂舜が眼を開けた時にまず飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井だった。


「……?」

 起き上がろうとした彼はこみ上げてくる吐き気と容赦ない頭痛に呻き、また枕に頭を沈めた。


――どうしたというのだ?


「桂舜、一体これはどういうことです?」

 視界に逆さまに入り込んできたのは、李氏の姿であった。

「母上……」

 頭が痛くて起き上がるどころではない。母親は眉根を寄せ、手にした梅湯の椀を傍らの卓に置いた。

「あなたは城外で何をなさっていたのです? 昨夜遅く、酔いつぶれたあなたを劉星衛が背負って還宮しました。主上も私も、どれほど心配したことか…」

「星衛が? 私を?」

 李氏は深いため息をつく。

「何も覚えておられぬのですか……仕方のない子だわ」


――そういえば。

 一軒めの酒家を出て「ある用事」を済ませたあと、さらにもう一軒の酒家に行った。そこは本当に場末もいいところで強い安酒しか置いておらず、飲んでいて途中からの記憶がない。

 そして、酔いに任せてまどろんでいる間、何かに担がれていたような気がする。

――あの感じは。そうだ、父上のお背中、広くて温かくて……。


 遠い昔、滅多になかったことだが父が幼い自分とともに後苑を散歩していたとき、途中から息子を背負い、小さな手が桃の枝に届くよう手伝ってくれたことを思い出した。だが、ほのかな温もりを宿した懐旧の念も、母の咳払いで霧消むしょうする。

「まあ、仕方がありません。ご記憶にないのなら。ともあれ、このような失態を犯せばきっと微行自体も……」


 その言葉も終わらぬうちに

「国君のおなーりー」と声がかかり、ほどなくざわめきが廊から聞こえたかと思うと、主上が宦官や女官たちを従え、ずかずかと寝室に入ってきた。

「お越しなされませ、主上」

 李氏が拝跪するのにちらりと眼をやり、国王は次男坊の寝台の帳を荒々しくはぐる。


「……気分はどうだ? 昨夜は楽しかったか?」

「父上」

 息子は、父親がこの殿に自ら足を運ぶことは珍しいうえ、これほどまでに「無表情」なのは初めてだったから、嫌な予感がした。

児臣わたくし、主上の御心を騒がせたる罪は幾重にも……」

「心にもない言葉は要らぬ。これからそなたを外朝に連れていく。そなたの犯した罪は、そなた自身の眼で確かめよ」

 言い終わるやいなや、乱暴に桂舜の腕を掴み寝台から引きずり出し、大いによろめかせた。


「主上、何をなさいます……!」

 声を上げたのは、頭痛と吐き気に口もきけない息子ではなく、母親のほうだった。

「息子を放してやってください。もとはと言えば私の監督が行き届かぬのが原因なれば、どうかこの子の体調をお考え遊ばして、今は……どうしても今と仰るならば、私が罪を」

「口を出すでない」

 決して冷酷ではないが有無を言わさぬ口調で夫がさえぎると、息子を同道して紅霞殿を出て行った。


    *****


 外朝の文徳殿の庭には、既に多くの武官が集まり、位階に応じて排列していた。病人状態の桂舜は今にも倒れそうだったが、正面に引き据えられた人物を一見して息をのんだ。

「……あ」

 顔は見えないが、背の高い、体格の良い若者が上半身を裸にされ、後ろ手に縛られている。

 いっしゅん二日酔いも忘れた桂舜が父のほうを勢いよく振り向くと、相手はわずかに頷き、息子をそのまま引き立てて正面に回った。そこには宝座が用意されており、こうべを垂れる皆の前で主上がゆったりと腰かけ、桂舜をすぐ脇に侍らせた。


 それを待っていたかのように進み出たのは、羽林郎将の王準である。平素は穏やかな表情を絶やさぬ剣術の師も、今日は苦虫を噛み潰したかのごとき顔であった。


「主上におかれましてはご降臨を賜り恐縮の極みに存じます。羽林の見習い武官である劉星衛、昨日かたじけなくも主上の命を受けし任務において飲酒を致しましたゆえ、法に照らして処分することにいたしました」

「なっ……」

 桂舜は絶句して、父親の御前に飛び出して片膝をついた。


「なりませぬ! 劉星衛には何の罪も落ち度もありません。昨夜、微行先で拒む彼に飲酒を強いたのは私です。彼を罪するなら、私も同じく罰せられねば……!」

「桂舜公子さま」

 声を発したのは詰め寄られている王ではなく、王準だった。


「公子さま、よろしいですか。あなた様が何をなさろうと、何を言おうと、劉星衛が職務の規範を破ったことに変わりはありません。たとえあなた様のお口添えがあったとしても、また畏れ多くも主上の取り成しがあったとしても、この犯した罪が消えることがないのですよ。武官たるもの、主君と主君に繋がる方をお守りするにあたっては、『常在戦場つねにせんじょうにあり』の覚悟でおらねば。今からこのようなことで、劉がこれから勤めを果たしおおせるとでも?」


「そんな……」

 桂舜はわずかな望みをかけて、王の衣の裾に取りすがろうとしたが、睨み返されて伸ばした手を引っ込めざるを得なかった。

「王準の申す通りだ、桂舜公子」

 公子が振り返ると、星衛と目が合った。見習い武官は平静で、その両眼には何の表情も浮かんでいないように見えた。

「星衛……」

 ぎりっと唇を噛むと自分もおもむろにもろ肌脱ぎになろうとしたが、側の宦官達に取り押さえられた。

「離せっ……!」


「まだわからぬのか、愚かな息子よ。そなたのしでかした事の始末を見届けさせるためにこの場に呼んだのだ、これから起こることをその酒精に濁った眼でしかと見て置け」


 もがく公子に言い放つと、父親は王準に向かって頷いてみせる。既に劉星衛の縄は解かれていたが、それは赦免ではむろんなく、罰を受けるための準備だった。同じ羽林の武官が鞭を持ち、跪いたままの星衛の背後に立つ。


「星衛……すまぬ……私のせいで……!」

 取り押さえられたままの桂舜の眼尻には、涙がにじんだ。それに気が付いたのか否か、公子を見つめる「罪びと」の表情が柔らかくなったが、一瞬のちにはそれも苦痛に満ちたものに変わった。なぜなら、その裸の背に最初の鞭が振り下ろされたからである。

 ぴしっ、びしっ。

「一、二、三……五……七……」

 若い別の見習い武官が声を張り上げて数を数え、それに合わせ規則正しく、空気を切り裂き鞭が鳴り渡る。桂舜は眼をそらすこともできず、星衛が受ける折檻の様を眺めるしかなかった。背の皮が破れ、血が流れ始める。打擲ちょうちゃくの鋭い音が、桂舜の心をも責めてやまなかった。


――ああ、やめてくれ。お願いだから、もう……!


 「罪人」は声もあげず歯を食いしばって耐えていたが、だんだんに呼吸が荒くなり、とうとうわずかな呻きも漏らし始めた。


――いつ終わるんだ、いつ。早く……!


 背が鞭の傷だらけになり、血が幾筋も脇腹に流れていく。ついに星衛はがっくり前のめりに倒れ、両肘りょうひじせんにつけた。禍々しく赤いものがしたたり落ち、磚の上に広がっていく。

「……五十!」

 その数を最後として鞭は地に垂れ、殿庭はしん、と静まり返った。


「星衛――!」

 やっと身体が自由になった桂舜は、兎のように飛び出し星衛のもとに駆け付けた。

「ああ、こんなになって……すまない、星衛」

 星衛はまだ呻いていたが、首筋を震わせると苦しい息の下で囁いた。

「何でもないことです。公子さま……お願いですから、背をそのようにさすらないでいただけますか、かえって痛みが増しますゆえ……」

はっと気が付いた桂舜が慌てて手を離すと、ぬるりとした赤いものが手についてきた。

「い、医官を、誰か――!」

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