第7話 船底の貝

「なあ、何故そなたが? 何故そなたがついてくるのだ?」


 桂舜は煩わし気に振り返った。その背後には、例の見習い武官がぴったり貼りついている。

「主上が仰った条件にございます。本官が御身おんみをお守りする条件で公子はお忍びが叶ったのですから……」

「一人で勝手気ままにできねば、微行の楽しみがないではないか! 船底についた貝のように、そう私の背にしがみつかれては。第一、そなたはこうした役目にはまるで向かぬ」

「何故でございますか?」

 仏頂面の護衛に対し、公子もしかめ顔で首を振る。

「わからぬのか?」

 確かに、先ほどから往来の人々の目はもっぱら背が高くいかつい、この若い美丈夫に注がれている。

「忍びというのに、こんなに目立つ護衛がいてたまるか」


 桂舜は吐き捨て、くるりと背中を向けてずんずん歩く。そのまま橋を一つ渡り、大路を越え、そして気が付けば都の外れである。

 ちらちらと星衛の反応を窺いつつ公子は歩みを進めるが、武官見習いは表情も変えず、ただ黙々とついてくる。


「桂舜公子におかれましては、微行にて何をなさるおつもりですか?」

 問われたほうの眉間の皺が一層深くなる。

「公子呼ばわりはやめよ、誰かに聞きとがめられたらどうする?」

「では、本官はあなた様を何とお呼びすれば?」

 公子は面倒くさそうに答えた。

「若君、もしくは李の若君とでも」

 母の姓をそのまま用いた安直な思いつきである。

「それに、そなたも自分を『本官』と呼ぶのはやめよ」

 星衛は澄まし顔で首肯した。


 都の城壁のほど近くに一軒の酒家があった。公子が大立ち回りを演じた繁華街の立派な酒家とは違って佇まいは特にどうということもなく、むしろあばら家に近い趣きがあったが、近づいてみれば中から人々の賑やかな話し声が漏れてくる。


 戸口をくぐると、すかさず若女将と思しき女性が振り向き、明るい表情となった。

「あらまあ、男前の旦那がいらしたこと。しかも、これまた……」

 女性は背後の、圧迫感を与える男のほうをより気にしている。

「ああ、彼は用心棒のようなものだが、何か悪さをするわけではない。ここで一番良い酒と、自慢の酒肴を用意してくれぬか。二人分、たっぷりとな。言っておくが、盃などというまだるっこしいものでは飲まぬぞ、椀だ、椀を二つ持ってきてくれ。席は……そうだな、そこの隅で良い」


 星衛が何か言いたげに口を半開きしているのを無視し、桂舜は次々と注文を出し、案内された最も隅の席に壁を背にして陣取った。そして相方にも座るよう、あごで示した。

「さっさと座らぬか。それに、女将を怯えさせてどうする。広間の客もこちらをちらちら見ているし。全く、そなたが目立ち過ぎて忍びも何もあったものではない」

 ひとしきりくさされて、さすがに星衛は理不尽極まるという表情を露わにした。

「公……いや、若君。私は任務中ゆえ酒を飲むわけにはまいりません」

「主君も同然である私の酒が飲めぬというのか」

 睨みつける「若君」にも武官は動じない。

「私が飲酒で何か失態でも犯せば、若君のお命も危のうございます」

「ふん、そなたにだけは不覚を取ったが、他の者相手に負けるものか、さあ、飲めと言うに」

 桂舜は椀をつきつける。

 実のところ、わざわざ都外れの酒家まで星衛を引っ張ってきたのには、彼を酔い潰してしまおうという算段と、「もう一つの目的」のためであった。むろんそのようなことはおくびにも出さず、公子は悪戯気な、そして人懐こそうな笑みを浮かべた。


「私には学友は幾たりかいるが、飲み友達の類はおらぬ。そなたにしばし代わりをつとめてもらいたいのだ。な? 酒は飲めるたちだろう?」

「……若君より先に酒を口にするわけにはまいらぬ」

 しつこい誘いに対し、武官はついに一歩譲った。

「そんな、堅苦しいことは今日は抜きだ、無礼講、無礼講。それにそなたのほうが年上なのだから、長幼の序を重んじなければ」

 根負けしたのか、星衛は椀を受け取って口をつけた。


「そらそら、そんなにちびちびと飲んで……この酒家はかねて眼をつけていた、とっておきの場所なのだ。そんな、葬儀の参列者のような顔をして、美味な酒と肴を飲み食いされても困る」

 煽られたためか、星衛はぐっと飲み干して椀を置いた。

「若君に先んじてご無礼を仕った。では、献酬を……」

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