第6話 嫦娥出宮

 それからも、桂舜けいしゅん公子は幾度も後宮からの脱走を試みたが、その都度あの見習い武官に阻まれた。


 「敵」は後宮の外側から見張っているようで、まず標的が壁を乗り越えるにまかせ、いざというところになって、どこからともなく現れて立ちはだかるのである。最初のうちは桂舜もただ剣をもって、真正面から立ち向かっては跳ね返されていた。

 それは、避けて通るのは卑怯だという単純素朴な闘争心からであったが、劉星衛りゅうせいえいと剣を交えると、呼吸がふっと合うというか、ある種の心地良さも感じるようにもなっていたからである。

――いつか彼とは剣の稽古をしてみたいものだが。


 とはいえ、このままではいつまで経っても微行に出かけることはできない。そこで、彼は一計を案じた。

――ふん。こうなったら堂々と玄武門から出て行ってやるさ。


「まあ、お兄様。私に頼みとは何ですか?」

 後苑こうえんの、人気ひとけを避けた小さな四阿あずまやで、明楽公主は首をかしげた。

「このようなところまで私を連れ出されて……でも、お兄さまと二人きりでお話しできるなんて、嬉しいですけど」

 いつもながら仙女のような装いで、腰から下げた薄紫色の香袋こうぶくろ――公主自ら縫って刺繍し、お揃いを桂舜にも贈った――をいじり回して頬を染める妹に当惑しながらも、兄はごくりと唾を飲み込んだ。


「いや、人に聞かれたくないからここまで来たのだ。それに頼みごととは、そなたを失望させるやもしれぬ。だが、我が目的を遂げるためにはこれしかないのだ」

 公主は眉をあげた。

「まあ、それほどまでのお頼みとあれば、協力して差し上げぬでもありませんけど……お兄さまは見返りに、私に何をしてくださるの?」


     *****


 その日、紅霞殿からは一人の女官が出立した。殿の主人たる李氏は信心深く、かねてからゆかりの道観どうかんに季節の贈り物を届けており、今日も若い女官が手に荷物を捧げながら、玄武門に向かって滑らかに歩みを進めていく。

 

 日差しが強いためか頭からはを引き被り、その下から覗く半開きの唇は紅のいろも鮮やかに、帯の佩玉もきらきらと、一幅の仕女しじょ図のごとき風情である。

 だが、彼女は玄武門を出たところでふと足を止めた。かさばった若い武官見習いが青龍刀せいりゅうとうを構え、女官の行く手を遮ったからである。


「女官、ここから先は行ってはならぬ、出直せ」

 横にびしっと刀を構えて威嚇する武官に、女官は羅をかぶったまま口を開いた。


「無礼者、私を誰だと心得るか。たかが武官見習いが、御用を承った女官の行く手を阻んでただで済むかと思うか。退がりゃ!」

 怒気のこもったその口調に、武官は恐れ入るどころかふっと微笑み、「ご免」と言いざま得物えもので女官を横に薙ぎ払う。


「何をする!」

 素早く飛びすさった女官は荷物を投げ捨て、声を張り上げる。切られた羅がはらりと頭から落ち、で止めた髷もゆるんだまま、女官は相手を睨みつけている。とうとう劉星衛はこらえ切れず声を上げて笑った。


「ははは、また桂舜公子さまにおかれては、突飛な手を考えつかれたもの。だが、そのように不自然な体格で、喉ぼとけも露わな嫦娥じょうが(注)さまがいるものではありません。それに、声を高く作ったところで……」


「……わかるのか?」

 眉根を寄せて問う公子に対し、星衛は笑みが収まらぬまま首を振った。

「鏡でご覧になればおわかりになりましょう」

「言われなくともじっくり点検したぞ、鏡で。ばれないかと思っていたのに」

 あっさり扮装を見破られてぶつぶつ言う桂舜を、思いもかけぬ優しい眼ざしで武官見習いは見守っていた。


 星衛から玄武門詰めの宦官に引き渡され、さらに紅霞殿に送り返された桂舜は、まず母の李氏にこっぴどく叱られ、ついで話が耳に入ったのか父に呼び出された。主上は外朝の文徳殿もんとくでんにおり、さっきの武官見習いも神妙な顔でかしこまっている。


 今日の父親は執務の手を休め、正面きって息子を見据えていた。

「委細は劉星衛の上官から聞いた。明楽の女官の衣裳を借り、玄武門を通り抜けて捕まったと。この話は事実か?」

 息子はいつものように伏し目になった。

「はい、間違いありません」


「男が女の恰好をする、また女が男の服を着る、これは『異装』といって先賢の教えが禁じていることだ。そして、先賢の教えを奉じて国を治める私の息子が、よりによって異装を行うとは……」

 桂舜はそこまで聞くと拝跪した。

「不肖の息子が、父上の施政を汚す真似を致しました。どのような罰もお受けします」

 主上の両眼がきらりと光った。


「『どのような罰もお受けします』……この宮中では王の息子から女官見習いに至るまで、よく口にする言葉だが、どれだけ本気で皆が言っているのか怪しいものだな」

「いえ、父上!!確かに私は出来の悪い、父上の悩みの種となっている者ではありますが、決して自分の言葉を軽く扱っているわけでは……」

「では、私が『ただちに死ね』と命じたら、そなたはどうする?」

「……」

「そのようなことなどあり得ぬと、たかをくくっているのか? 私には世子とそなた、男子は二人だけだ。だが、道理を重んじ秩序を守るためならば、たとえ実の息子といえども排除することも辞せぬぞ」

「……」

 唇を噛んでうつむく次男を見やって、王は溜息をついた。


「……そなた、そんなに外を見たいのか? そなたが外に出るたび、宮中でのそなたに対する眼も険しくなっている。わからぬか?」

「わかっております」

「では、なぜ……」


 口を引き結んだまま答えぬ桂舜ではあったが、その反応は王の想定内だったと見えた。息子はふとこの場にいる星衛を見て、彼はなぜここにいるのだろうと考えた。若い見習い武官は無表情のまま、微動だにしない。


「まあ、良い。そんなに外を見たい、出歩きたいと申すなら今後は咎めぬ」

「えっ……」

父親からの思いもかけぬ言葉に息子は眼を見張り、次に喜色を浮かべた。

「ほ、本当ですか。主上……」

 だが、王は星衛を一瞥いちべつしてから、意地悪げな笑みで息子に応えた。

「ただし、条件づきだがな」



    ****

注「嫦娥」……神話上の女性、転じて女官の美称。

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