第5話 敵手出現

「ふふん……」


 物陰に潜む桂舜はほくそ笑んで、宮城の東北を目指す。最北の玄武門げんぶもんから離れてわずかに壁が低くなった箇所があり、近くの築山に潜みつつ見回りの兵士をやり過ごし、おもむろに壁を乗り越えるのが、彼の「脱走」の常套手段であった。


 だが。

 その日は、いつもと様相が異なっていた。いや、脱出に至るまでは何ということもなかったのだ。しかし、壁を乗り越え外の道に降りたち、安堵の息をついたところでぬっと人影が現れた。


「――誰だ」


 相手は自分と同じ、もしくはやや上の歳頃であろうか。だが体格がよく、背もすらりと高い。凛々しく濃い眉の上に紺色の鉢巻を締め、羽林うりんを表す黒に青の縁取りをした衣を着こみ、帯には見習い武官であることを示す浅黄色の紐が回されている。腰には大きな剣を帯び、長靴は真新しく黒光りしていた。


「誰かと聞いている」

 いかつい若者は片膝をつき、頭を下げた。

「私は羽林の任に当たる、劉星衛りゅうせいえいと申し上げます。桂舜公子さまには、初めてお目にかかる栄に浴しまして」

 桂舜はすっと眼を細めた。

「羽林の……? そなた、私を待ち伏せしていたのか?」

 星衛は立ち上がったが、その上背の高さは桂舜に圧迫感を与えた。

「左様、待ち伏せではありますが、これは王命によるものでございますれば」

「父上の?」

 公子は顔をしかめ、内心舌打ちした。あの劉内官がおせっかいにも王に注進したに違いない。


「『公子を都城に行かせてはならぬ』とかしこき辺りより羽林に厳命を賜ったゆえ、上官が私をここに遣わした次第です」

 ごく若い武官は、真正面から公子を見据えた。その口調は丁寧だったが気迫のこもったもので、媚びももなく、堂々としていた。


――見習い武官ごときが、この私を威圧しようとするのか。


 いわおのごとき相手の顔を見返し、桂舜は挑戦的な笑みを浮かべた。

「それはそれは、そなたも損な役割を割り振られたものだ。果たして、私の邪魔を出来るかな? 怪我をするだけだぞ。骨折り損のくたびれ儲けとはよく言ったもの、そうなる前に道を開けるがいい」

「なりませぬ、お戻りいただかねば――力ずくでも任務を果たさせていただくことになります」

「何だと? 」


 売り言葉に買い言葉、冷静なように見えてやはり見習い武官も経験が浅いためか、段々と相手に乗せられ口調が険しくなっていく。いっぽう桂舜も顔を赤くして唇を噛み、腰の剣に手を伸ばした。


「おそらく、そなたは任務を果たせぬことで大きな譴責けんせきを受けるであろうが――恨むなら上官と父を恨め。私もここまで来たら引けぬ!」

 言いざま剣を抜き放ち、相手に迫っていく。星衛も「ご免」と一声発するや剣を――ただし鞘ごと腰の帯から抜き、左手を柄に添えて迎え撃つ。


 斬るつもりはないが、場合によっては大怪我をするだけではすまぬ桂舜の刃の鋭さ、だがそれは武官によって難なく流された。

「くっ……!」

 そのままですり抜けようという公子のもくろみは粉砕され、身体がはじき返されてしまった。体勢を崩し、隙を見せた桂舜は冷や汗をかいたが、打ち込まれはしなかった。ただ、行く手を阻んだ星衛は表情を変えず息も荒げず、ただ片眉をぴくりと上げて公子に眼の焦点を合わせ、構えを取っている。


――強い。

 桂舜は緊張でかさついた唇を舐め、星衛の出方を窺った。だが、相手は隙をちらりとも見せず、鉄壁の防御である。

――国一番の遣い手である王準に手ほどきを受けた、この私が。


「どけ! 邪魔な……」

 羞恥と焦りにいささか我を忘れた公子は、もう一度剣を構え、はじめよりさらに速度を上げて駆け抜けようとした。それを待っていたかのように、鞘に入ったままの剣が容赦なく薙ぎ払ってくる。

「……!」

 桂舜の右手首にびりっとした痛みが走り、それと同時に彼の剣は地に転がった。星衛は素早く鞘を払い、再び「ご免」と言いざま公子に剣を向ける。


「我が命に代えても、ここはお通しできません。玄武門までお送りいたしますゆえ、痛められた手首は早く御医にお見せになったほうがよろしいでしょう」


 星衛は静かな口調で、だが決定的な勝利の言葉を発した。それにはひと匙のいたわりが込められていた分だけ、敗者を惨めな気分にさせる。少しは自分も腕が立つはずだ――桂舜の自惚れは、かくも完膚かんぷなきほどに叩きつぶされてしまったのだ。


「そなた……」

 屈辱と痛みに身を震わせる公子だったが息を静め、地面の剣を拾い上げてくるりと踵を返す。すぐ背後に「邪魔者」がつき従ってくる、その隙のない気配を感じながら。

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