第4話 明楽公主

「お兄さまぁ、お兄さまぁー」


 鼻にかかったような、甘ったるい声が自分の背を追いかけて来る。桂舜けいしゅんが振り向くと、桃色の上着に水色のを穿いた少女が息を切らせながら走り寄るところだった。頭に挿したかんざしがぴらぴらと揺れ、帯の端が風にひるがえる。

 彼女の後からは、数人の宦官や女官が金魚の糞のようにつながり、やはり小走りでつき従う。


明楽めいらく、そんなに息を切らせて。まったく、公主たるものがまるで犬猫のように駆けるなど……」

 はあはあと呼吸を荒くし、頬を上気させて見上げてくる妹に対し、しかめ顔で説教を垂れる兄である。


「いったい何の用だ。私はこれから剣術の稽古があるのだから……」

 妹はみなまで言わせず、手にした白檀びゃくだんの扇で兄の胸先をぺちぺち叩いた。

「まあ、桂舜お兄さま! お忘れになってしまったの? 今日はお兄さまに私の書のお稽古を見ていただくお約束でしょう?」

「あ、すっかり忘れていた」

 そうでしょう? しょうがないお兄さま。だから、わざわざ迎えに来て差し上げたのよ――そう言って得意げに鼻をうごめかす明楽公主めいらくこうしゅに、桂舜も笑みを禁じえなかった。


 桂舜のすぐ下の異母妹にあたる明楽公主は芳紀ほうき十五、王妃の所生ということはすなわち世子の同母妹でもある。彼女の我儘さと紙一重の天真爛漫さは、豊かに変わる愛らしい表情と相まって、父王からも格別な鍾愛しょうあいを受けていた。

 そしてもう一つ、兄妹のうち明楽が最もなついているのが異母兄の桂舜で、暇さえあれば彼の後を追いかけまわしているのである。


「それは悪いことをしたな。でもそんなに後宮を走り回ったり、この間のように馬に乗ったりなどしていたら、お嫁の貰い手がなくなってしまうぞ」

 からかいを帯びた兄の言葉に、妹はつんとする。

「あら、お兄さまったらひどい。私はね、お嫁になんて行きません。ずっと王宮で暮らして、お兄さまの側にいます」

「そんなこと、許されるはずないだろう?」

 桂舜は声を上げて笑い、妹のふくらんだ頬を指の先でつついた。

 本人が果たして知っているのかどうか、この妹に降嫁こうかの話が出ていることをすでに桂舜は小耳にはさんでいた。だが、目の前の妹は苛々を高まらせているだけである。


「柱にしがみついてもお嫁にはいきませんから。ああ、もうくだらない話はいいわ、早く行きましょう、お兄さま」



    *****



 木剣と木剣ががっちり打ち合わされ、地面に伸びた二人の影が絡まったかと思うと、ぱっと飛び離れた。

「……今日はどうなさいましたか?公子さま」

 影の片方が口を聞いた。籠手こてと胸当ての軽い武装をした小柄な中年の男で、名を王準おうじゅんという。もう一方の影すなわち桂舜は、ふっと笑って木剣の切っ先を降ろす。

師父しふには見抜かれてしまったか、打ち込みが上手く決まったから良いと思ったのに」

 「師父」と呼ばれた中年男もまた構えを解いた。


「わかりましたとも。集中しているようでそうではない、何かにお気を取られているのでは?」

「さすが涼国随一の剣の遣い手とあれば、動きひとつで弟子の心のうちなどたやすく見抜いてしまうものだな」

 兄の件での屈託が、剣の切っ先にも現れていたらしい。


「ええ。ですがこの頃は鍛錬にご熱心なせいか、随分と腕を上げられた。引き続き、たゆまず努力なされよ」

「そうか! 我が腕は上がっているのか」

 喜色満面の弟子にふふふ、と笑う剣術師範だったが、ふと真顔になって首をかしげた。


「『涼国随一の剣の遣い手』とはありがたきお言葉なれども、将来にはその呼称も、別の男のものになるやもしれません」

「ほう……それは誰だ? そなたにそう思わせる者がいるなんて」

 興味津々の眼つきとなった桂舜を、王準は温かな表情で答えた。


「その者は、いずれ公子さまにお目にかかる栄誉も得ることになるでしょう」

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