第3話 東宮殿で
翌日の中午過ぎ、すでに学問を終え軽食をとった
「世子さまは書斎にいらっしゃいますれば……あの、桂舜公子さま」
公子は頷く。
「わかっている、あまり長居をせねば良いのだろう?案ずるな。無沙汰の詫びとともに、お見舞いを申し上げてすぐ帰る」
恐縮する女官に微笑んだ桂舜は、世子の書斎に足を踏み入れた。訪問者に驚いたのか、止まり木の
「おやおや、私の顔も忘れてわめいているのか、仕方のない奴だ。緑色にめかしこんでいても、おつむは回らんと見える」
桂舜がぶつぶつ言うと、窓際から静かな声が飛んできた。
「そのように申すな、そなたがしばらくこちらに顔を出さぬものだから、
花窓の側に置かれた長椅子には、桂舜より二つほど年上に見える若者が、
「ご挨拶にも伺いませず失礼しました、世子。お身体の調子はいかがですか?」
「見ての通りだ。桂舜、そなたの母上ともども大事ないか。……ここへは父に言われて来たのか?」
「御明察、恐れ入ります」
桂舜の背を、わずかにひやりとしたものが撫でる。世子はふっと笑みを浮かべた。
「まあ、そうであろうな」
それからあとは、ぎこちない沈黙が兄弟の間を支配する。
「昨日は、またもや都城にこっそり出かけて行ったそうだな」
「恐れ入ります。噂がお耳に入りましたか」
「何を見てきた? 何か面白いものでも?」
「いえ、さほどのことはありませんでした」
「そなたにしては、だんまりだな。でも羨ましいことだ。いつでも出ようと思えばそなたは出られるのだから、私と違って」
「いえ、兄上はこの国を継がれる世子、私は一介の公子に過ぎません。立場が違いましょう。それに……主上は、私に呆れておいでです」
「そんなに謙遜するな。父上も何だかんだと、そなたには甘くもあり、期待もかけているのだから」
「はあ」
――ああ、まただ。どうして兄上とお話ししていると、このように居心地が悪くなってしまうのか。
だがしかし、桂舜もその答えを半ば自分で導き出してはいたのである。
「まあ、良い。久々に顔を出してくれたゆえ私も嬉しい。翠翁がまた見忘れぬうちに挨拶に来よ」
*****
「ふう……」
東宮殿から伸びる回廊を曲がって、解放された桂舜は溜息をついた。
――以前は、こんなことはなかったのに。
都城へのお忍びをするようになったのは約一年前、
むろん、それまでも王陵への参詣など行事で宮外に出ることはあったが、その時の微行では何かもが初めての経験だった――自由に飲食をするのも、寄り道するのも、そして金銭を自分の手で払うのも。
桂舜はその鮮烈かつ魅惑に満ちた体験にすっかり参ってしまい、両親や仕える者達に叱責されても渋い顔をされても懲りることはなく、たびたび王宮を抜け出すようになった。遠慮がちな後宮生活で鬱屈してたところ、彼は突然世界が開けた心地がしたのだ。
そしてそうした体験を、桂舜は東宮殿に行っては得意満面で報告していたものである。思うように外出もできない、そればかりか床に伏せることも多い兄に、少しでも外の世界を知って慰めにしてほしいという、弟の単純素朴な善意によるものだった。
また、最初のうちは、世子もいかにも関心ありそうに笑みを浮かべながら、身振り手振りで話す弟に相槌を打っていた。――そう、最初のうちは。
いつからだろう、話を聞く兄の瞳から好奇心の輝きが消え、代わりに「煩わしい」という意が揺らめくようになったのは。熱心な
健康で活発な弟の姿が病弱な兄には眩しく映り、無邪気さがその心を傷つけていたのを悟ったのはそれから間もなくのことだった。桂舜は世子の実母である王妃からやんわりと、そして自分の実母の李氏からはもっとはっきりと、世子の気持ちを慮るよう注意されたのである。
――宮中での、私とご自分の立場や関係を巡る噂も、兄上を苛立たせているのかもしれない。でも……いや、考えるのはよそう。
何もあからさまに対立しているわけではない。だが、あえて一緒にいなければならぬ理由もない。今のように、時々ご挨拶に赴けば良いだけのこと――彼はふっと息をつき、天のひばりを見上げた。そこへ。
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