第2話 父子対話

「桂舜公子さまのおなーりー」


 建寧殿けんねいでんは後宮での王の常殿にあたり、その扉の前で桂舜はかしこまって手を垂れていた。

「入るが良い」

 中から低い声が聞こえて扉が開き、公子は音を立てずに戸口をすり抜ける。そこより三間ほど離れて、主上――すなわち自分の父親が机に向かって座していた。


「桂舜。楽しかったか? お忍びでの都城行きは」

 父は書物から眼を上げようともしない。息子も作法通り、伏し目になって答えた。

「ええ、楽しゅうございました。主上」

「ほう? どんな?」

「いつも行っている酒家では新酒が出ておりましたので痛飲し、さかなに舌鼓を打ち、隣り合わせた客と楽しく談じました」

「それから?」

「踊り子が酔客に絡まれていたので助けてやりました。また、崩れた橋の下でひどく腹を空かせている母子に行き合わせたので、私のつけていた佩玉はいぎょくを持たせてやりました。あの、瑞雲のなかで龍が二頭絡み合った白玉のです。質舗しちほで何がしかの金銭にはなろうかと……」

「桂舜」


 やっと父が目を上げ、息子を見据えた。平素は物静かでめったなことでは怖い顔をしない王も、今日は厳しさをおもてに宿す。

「その佩玉は、我が父上――先王が、そなたが生まれたときに賜ったもの。なぜそれを手放したのだ?」

「……」

公子は俯き、主上はふっと息をつく。


「佩玉のことはまだよい。そなた、そのようにして一人や二人を救って、それで小さな満足は得られるやもしれぬ。だが――それは、私の不徳の致すところだが――この都城、いや、この涼国は鼓腹撃壌こふくげきじょうの国を実現できてはおらず、まだまだ貧窮にあえぐ者達が大勢おる。それをそなた、国中みな救って歩くつもりか? さん

 父親は息子のいみなを呼び、公子も顔を上げた。

「いえ! 父上……。わかっています、一人二人の問題ではなく、堯舜ぎょうしゅんの聖代を目指して、父上が粉骨砕身、政に精励されていることを。でも見てしまった以上、私はそれをなかったことにはできません。何もせぬよりはましです」

「そなた、忍び歩きはそのためなのか? それが目的なのか?」

「私は王宮で育ち、髪を結ってかんざしを挿す年頃になっても、成人した公子として『郡公ぐんこう』の号も未だ賜っておらず、王宮を出て独立の府を構えることもかないません。でも、世間を見たいのです。いずれ世子せいし――兄上の治世をお助けするために、見聞したことを役に立てたいと……」


 王は息子を何とも言えぬ表情で眺めていたが、やがて書を閉じた。

「そなた、言い訳だけは日々上達していくな。まあいい、どうせ何度禁じてもそなたは忍び歩きに出てしまう。だが、明日は世子のもとに行き挨拶をしなさい。世子のためとそなたは称するが、この頃は顔も合わせていないだろう? あれはここ数日、加減が良くない。弟として兄への礼は尽くさねば」

「……はい」

 公子は唇を噛んで頭を下げる。

「もう退がって良い。そなたの母親もいたく心配している。彼女に懇ろに詫びよ」

「承りました。ですが遅ればせながら、まず父上に深くお詫び申し上げます」


    *****



「まあ、桂舜。心配したのですよ、日暮れになっても姿が見えないから……夜もこんなに更けてからやっとお戻りとは」

「申し訳ありません、母上」


 後宮の隅にある紅霞殿こうかでんは、父のいる建寧殿からは最も遠い。脇の間では母の李氏が夕餉ゆうげも取らず、心配顔で息子を待っていた。

 

 李氏は貴族とは名ばかりの寒門の出で、何かのおまけのように他の嬪御ひんぎょの入内とともに王に仕える身分となった。とはいえ、王に気に入られている側室の一人であり、このように男子をも儲けたのだが――彼女自身は口にすることはないとはいえ、他の側室から嫌がらせや陰口、圧迫を受けてきたことは度々あった。

 また、世子と桂舜以外の男子を持たぬ王であるから、李氏は息子を撫育するにあたって、とにかく周囲に気を遣って万事控えめに、そして慎重に過ごしてきたのである。


 それなのに、息子は長じてより剣術に熱中するあまり怪我が絶えず、物おじしない性格で後宮の欺瞞ぎまんを指摘しては批判を浴び、あまつさえ都城に忍び歩きを欠かさない。良くも悪くも彼の言動は目立ってしまい、外朝でも後宮でも話題の的となることが多いのだ。

 病弱な世子に代わってこの桂舜公子が新たに世継ぎに立てられるのではないか、主上は内心、世子よりも桂舜公子に意があって、いまだ郡公ぐんこうともせず賜婚しこんもせず宮中にとどめ置いているのではないか……そんな噂に息子が取り巻かれていることに、李氏も神経をとがらせている様子である。


「母上には正直に申し上げます。本日また都城に行きましたが、還宮いたしましたところ、父上に呼ばれて叱責を受けました」

 李氏の心中を察したのか、さすがに暴れん坊の息子も神妙な顔つきになり、母の前で一揖した。


「そう。……桂舜や、そなた今の暮らしに何か不満でも? もしくは苛立ちでも? なぜ都城にたびたび足を運ぶのですか?」

「不満、ですか。不満と言うよりは、外の世界を見たいという好奇心で……」

 だがその声は小さくなり、語尾は宙に浮いた。母親は溜息をつく。

「まあいいでしょう。外で夕餉を済ませた顔つきですね、その様子だと。今夜は早々にお休みあるように」

「ご心配をおかけしました。母上こそ、よくお休みくだされたく」

 李氏が席を立ち、桂舜は軽く拝跪して就寝の挨拶にかえた。

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