本編
ガラスの向こうの椅子に男が腰掛けている。
俺はそいつに見覚えはない。
男は黙って俺の手元に置かれた会話用の受話器を指し示す。
促されるままに受話器を手に取る。
「あー。面会時間はとっくに終わっているが?」
夜も更けた時間。
この監獄で俺と居を共にする者たちには決まった時間でのみ面会が許されている。
今の時間はそこから大きくかけ離れていた。
いつもの顧問弁護士ではない。身なりのよさから刑事とも、暗殺者とも思えなかった。
だが、こんな時間に面会の場をセットできるということが目の前にいる男の権力を臭わせる。
「すまないね。こんな時間でもないと君とふたりきりで逢える時間を作れなかったものでね」
「熱烈なラブコールってわけか。なにせ予約の入っていた看守たちとの
「それが今の君の仕事かね」
「
「いや、何度か君のカジノを訪れたことはあったが、君のテーブルについたことはないよ。ミスター・シェル」
どうやら人違いではないらしい。
もはや俺は過去の自分が犯した罪をただ粛々とこなすだけの器に成り果てている。
「で、俺はあんたをなんと呼べば?」
「私を指し示す言葉が必要なら
名前を知られては困るような相手なのだろうか。
何にせよ、そうまでして俺に面会しようとする相手に思い当たらない。
「私が君に会いに来たのは、事件について君と話がしたかったからだ」
だとすれば理解に苦しむ。こと俺がここにぶち込まれた件については俺の供述なんてものは一切必要とされてない。
子供の時に受けたA10手術の影響で記憶障害が起きるため、記憶を抽出して記録化し、頭の中を綺麗にしてきた。
外で行われている裁判で証言を行うのは、俺の脳味噌に収まっていた記憶を保存した記録媒体だ。
俺自身は事件の際の記憶というものは綺麗さっぱり失っていた、はずなのだ。
「事件については君の記憶によって実に明確な形で立証されている。行方不明となった六人の少女の殺人と一件の殺人未遂、並びにオクトーバー社の令嬢の殺害。そしてそれらが実母を事故に見せかけた殺人によって起因したトラウマであるということはね。解釈のしようはいかほどにもあるが、完璧な証拠だ。君の弁護士もそう判断し、早々に撤退を決め込んだ。君の後ろ盾であったオクトーバー社とともにね」
俺のバックボーンについてはご存じらしい。
「それ故に誰も疑おうとはしなかった。君が犯した罪の全ての証拠であると。確かに君自身が手を下して殺した少女と、それを利用した資金洗浄の手口は全てあの証拠で十分だ」
写真を取り出す。
俺がエッグノッグ・ブルーのディーラーだった頃の写真。その指のほとんどには青いダイヤの指輪が填められている。
「君が填めている指輪の宝石は、君が殺した女性たちの遺体の灰から作った宝石だと聞いている。その数は君の庇護の名の下に死んだ少女たちと同じ六個。そして君の実の母親から作ったものが七個目だ。ところが、だ。君の手元から押収されたダイヤはね、八個あったんだよ」
「それなら、俺が一番最初に死なせた女のことだろうよ」
俺が自分自身を切り離すために捨ててきた記憶は、俺をこの牢獄へとたたき込んだ少女の手によって既に戻されている。
おかげで死んだ少女たちのことはよく覚えている。
その中の最初の少女。
自分の無力さ故に、彼女が腕の中で衰え、朽ちていくていく様を見ているしかできかった。
「そう、君が最初に愛し、君の無力さ故に死なせた少女だ。殺していない。そう死なせたのであって、殺していないんだよ君は」
「何がいいたい」
「いや、この事件について私は友人に意見を求めてみたんだ。彼はいささかロマンチストでね。彼はこう言うんだ『果たして、殺していない少女の亡骸を自らの手で殺した他の者たちと共に並べるだろうか? 果たして、唯一心から愛した少女と、記憶を切り離すための儀式の供物とした者たちと共に並べるだろうか?』とね」
「で、そんな疑問をぶつけるためだけに来たわけではないだろう? 何か見つかったからこうしてここにきたんだろう? もったいつけてないで手札を晒してくれよ。こちらの手札はブタだ。まだ駆け引きが欲しいのか?」
「ふむ、夜は長いといえど、それもそうだね。ここから先が本題だ」
男が手紙や書類をやりとりするための穴から差し出したのは一枚のチップ。
ありふれた百ドルチップ。色合いからエッグノッグ・ブルーのものだとわかる。しかし、卵が二つに割れ中からチップあふれ出している通常の刻印とは違い、そのチップにはオクトーバー社の社章が刻まれていた。
「探し出すのには苦労したよ。何せ君のカジノの百ドルチップの内の一枚だ。何千、何万枚と作られている。下手をしたら客が記念に持って帰っていてもおかしくない。百万ドルのチップを四枚手にするよりも地味で手の掛かる仕事だったよ。チップを製造した医療器具メーカーが合わせて五枚作ったという調べがなければ、こんなものが存在しているだなんて思いもしなかった」
「バカバカしい。あのチップを隠したのは俺だ。俺が隠した金の卵がいくつあったか忘れているとでも?」
「君が自分自身の記憶について自信をもって覚えているというのはいささかキックの効いたジョークだね。まぁ確かに証拠として提出された他の四枚と違い、このチップは君にとってオクトーバーとの取引のための金の卵などではないみたいだったからね」
「中を見たのか……?」
自分ですら知らない記憶を目の前の男が知っているという事実に嫌悪感がわき上がる。
「これが君の記憶であることを確認する必要があったからね」
「……そいつを使って俺に何をさせたい?」
「何も」
「何も? ただこいつを見つけたから俺のもとに届けたとでもいうのか?」
「これはもともと君の物だ。無条件に君に返すよ。が、強いていうならば君はこの記憶を自分で確認すべきだとは思うがね。そして、君がその上で私に取引を望むというのであればそれに答えるための準備はあるがね。だが、あいにく時間はそれほどない。私がこうして君の前に非公式に現れるのは今夜限りだ」
差し出されたチップを手に取り矯めつ眇めつ。
「シェル・セプティノス。君が失った物を私が全て与え直そう」
既に俺がこのチップに収まった記憶を取り戻すだろうと決めつけるかのいいぶり。
過去の時間が人生の残りの時間全てに影響を与える。
記憶を棄てて、その時間の呪縛から逃れたきたおかげで俺は塀の外では上り詰めることができた。
目の前の男のいう言葉が真実なのかどうかも定かではない。
しかし、それでも。
今まで棄ててきた過去。それを覗き見たいという好奇心が沸き上がる。
一度捨てた過去を取り戻させられた性か。
俺が今まで殺してきた少女たちは皆、俺に与えられた身分を疑い、確かめたことが引き金となり殺された。ありもしない過去を振り返りたいという好奇心のせいで。
好奇心。いつだってそれが人を死なせる。
何もさせるつもりがない? これを見たらどうせ取引を応じさせるつもりだろう?
上等だ。
手にしたチップからつきだした端子をこめかみのプラグに当てる。
ガラスに薄く反射した自分は、銃をこめかみに押し当て自殺を図る男の姿に見えた。
フラッシュバック。
「クソッタレ! 拾ってやった恩義も忘れて奪うのか! 俺から! このカジノを!」
喧しいほどのコインが散らばる音と共に唐突に浮かび上がるビジョン。
目の前で真っ青な顔をしている男。頑丈だと思いこんでいた卵の殻をたたき壊されて
レオン・トマポンタ。ついさっきまでカジノ「エッグノッグ・ブルー」のオーナーであった男。
「奪う……?」
違う。
そんなことをしてもしょうがないじゃないか。
自然と唇が引き吊るのが分かる。
「いいや。俺は奪わない。俺は与える側の人間だ。ディーラーはお客様に享楽の時間を与えるのが仕事だ。だから与えてやるんだよ。まずはあんたの
思い出す。これは俺がエッグノッグ・ブルーのオーナーになった瞬間の記憶。
周囲のどよめきと喝采の中。
瞬間に振り返りたいという欲求。
誰かが俺の背後に立っているという気配。
右後ろを振り返る。
途端に先ほどまでの喧噪が掻き消え、煌びやかなネオンは薄暗い照明に成り代わる。
振り返った先には二人の人間が壁に背中を預けるように佇んでいた。
一人は少女。ピンクのTシャツに、座らなくても尻がはみ出しそうなミニスカート。少女の顔は、自分が殺した女、死なせた女、殺そうとした女、その中の誰とも一致しない。
もう一人は大柄の男。その大きな体をゆったりと覆うサイズの派手な柄のシャツを着ていたがその上からでもかなり鍛えた体であるとわかる。気さくな表情でごつい顔に似合わないウィンクをとばしてくる。
俺がそちらを振り返ることをあらかじめ知っていたかのように少女のほうが何も言わずに俺の正面を指さす。
振り返った首を正面に向けるとそこには既にレオンの姿はなく、ノイズの嵐を映し出すモニターが置かれている。いつの間にかそのモニターと向かい合うように置かれた椅子に腰掛けていた。
再び振り返り少女に話しかけようとした矢先に、目の前のモニターが映像を映し出す。
「おはよう、シェル・セプティノス」
椅子に座った自分自身が今まさに同じ格好で見つめる俺に話しかける。
鏡もないその部屋でモニターに映った男が何故か自分自身であると確信できた。
そうだ。
かつて俺は、記憶を失った俺が生きていけるよう、次の俺に向けてビデオメッセージを残していた。
画面の中のかつての俺が話す。
俺が今置かれた状況、なぜ記憶がないのか、その上でどうやって生きていくのか。
記憶が無くても生きていかなければならない。
上へと。スラム街で生まれた俺は階段を駆け上がり。上へと行く。
そう、思い出せない誰かと約束した。
約束の内容は忘却の彼方に消え去ったが、その抜け殻として上昇思考だけは残されていた。
「“疑わないことそれがルール”だ。俺たちが向かう階段の先には俺やおまえだけでは辿り着くのは難しい。その為の仲間がいる。目覚めた時、無意識に振り返ったはずだな? その先にいるのがおまえの協力者だ。仲間は常におまえの後ろに控えている。そいつらは俺たちが棄ててきた過去だ。俺たちは過去を棄てることはできるがそいつらは違う。そいつらは俺たちを唯一過去とつなぎ止める鎖だ。いいか、迷っても疑うな。それだけ守ればいい」
再び俺は振り返る。
背後から二人の姿は消え、代わりに広がるのは煌びやかな世界。
「シェル、あんた本気でこのカジノに尻尾を振ろうってのかい?」
いつの間にか右隣に座る少女。
「悪い話じゃあるまい。俺たちの三ヶ月分の売り上げを一日で稼げる場所だ」
左隣には大男。
カジノの一画に設けられたバー。
二人に挟まれ、俺はグラスに注がれたジンカクテルを傾ける。
記憶媒体のできは良く、監獄では味わえない酒の味を明確に蘇らせる。
酒が喉を流れていくのと同時に空白の期間を埋めるように記憶が流れ込む。
少女の名はマリーナ、大男の名はDB。俺の仲間たち。
彼らとはスラムで出会ったらしい。“らしい”というのは彼らが俺と出会ったのが俺が記憶を消し去る前の出来事であったからだ。
親から捨てられた少女、施設から逃げ出した大男。そして性的虐待を受けていた母親を殺し天涯孤独の身となった俺。
俺にそんな彼らとの出会いの実感はなく、その情報は彼らの言い分でしかなかったが、“疑わないこと”そのルールに則って俺は彼らと共に行動をしていた。
それに彼らの献身に対しては、疑念を挟む必要もなかった。
記憶を綺麗さっぱり消し去った俺だったが、幸いなことに積み重ねてきた
システムとしては実に明確な役割分担だ。
DBが情報を集め、マリーナが客引き兼金貸し、それを俺がギャンブルで巻き上げる。
目に見える金をかき集めればいつか俺たちが望む地点にたどり着けると。
それ以外の道を俺たちは知らなかった。
そんな俺たちに訪れたきっかけ。カジノのステージにあがる機会。
端的に言えば俺たちは稼ぎ過ぎた。
賭博をするためにそこを縄張りとしている連中に上納金を支払って
連中は俺たちのように賢く稼げない馬鹿ではあったが、より多く金を稼ぎたいことにはかわりはない。
放逐する代わりの条件として出されたのが連中が運営するカジノのひとつ「エッグノッグ・ブルー」での仕事だった。
「カジノのステージに立つってのは悪い話じゃない。今みたいにチマチマ稼ぐより、あんたにはそういうほうが似合っちゃいるが……ここはよくない。いつ来ても陰気な場所だよ」
普段は黙って俺の後に付いてくるマリーナが意見をすることは珍しいことだった。
「マリーナ嬢のひねくれ返りっぷりはいつにもましてキレてるな。これだけやかましいカジノを捕まえて陰気ときたか」
そんな険悪な雰囲気を感じ取って、DBが冗談めかして混ぜっ返す。
「客の問題だよ。客から金をむしり取ることしか考えちゃいないんだ、ここは。だから野良犬みたいな目つきの客が集まっちまう」
「カジノってはそういうもんだろう?」
「そうやって思考をとめるからさ。あたしならまずは……テーマパークをつくるね」
「テーマパークだぁ? キャンディを吐き出すスロットマシンでも作るか? 家族揃ってギャンブル三昧でもさせる気かよ」
「まさにそれよ。ファミリー向け娯楽施設。ホテルにショッピングセンター。観光にきた浮かれた家族客に一日中遊ばせてやるのよ」
グラスを片手に立ち上がったマリーナは独楽のように回りながらここをこうしてとアイデアを塗りたくっていく。
親に捨てられた子供の妄想。
そう冷めた視線で見つめる反面で、脳裏には実際にそのビジョンが鮮明に浮かぶ。
ホテルに続く廊下も広い。
地上の子供向けテーマパークに向かうエレベーターも長大。
屋内ショッピングセンターの壁にはいくつもテレビ画面が設置されボクシングやマジックショーの様子を映している。
そしてそれらが何故か懐かしい。
「ふむ。なら俺たちがここを手に入れた暁にはマリーナに経営をまかせるとしよう」
まだステージにすら立っていない俺の大言壮語に二人は顔を見合わせる。
「吹くねぇ」
「なるほどね。いいじゃない。当面の目標が決まった。やりがいも生まれるってものよ」
「そうだ。ここでの活躍は通過点。俺たちならまだまだ上をめざせる。そうだろう?」
言葉通り、俺たちは上を目指した。
やることはスラムでの賭場と変わらない。
ただ前よりも少し小綺麗な格好をして、前よりも少し小綺麗なカモからむしり取る。
だがカジノという狩り場は大手を振ってイカサマを仕込むことはできなかった。
もしそれがばれれば俺はディーラーとしての信頼を失い、客を失う。
俺たちはより慎重な仕事を求められた。
役割分担も今までのような簡単な物ではなくより複雑で状況に応じて変更がくわえられた。
その中で俺たち三人の関係性は少しずつ変わっていった。
直接顔を合わせる機会は少なくなり、代わりに携帯端末でのメッセージのやりとりが増えた。
それでも俺たちをチームたらしめたのはルールのおかげだった。
“疑わないこと”前の俺から託された、ただそれだけのルールで俺たちは互いの信頼を裏切ることなく上り詰めることができた。
そう、疑わない。
ただ、それだけできれば俺たちはどこへだって行けたのだ。
振り返れば俺を支える存在が必ずいたから。
今度は座り心地のいい革張りのソファーに座っていた。
対面にはテーブルを挟んで男が一人。脂の乗った体躯に、嫌らしい笑顔、全体的に“ギラついた”という表現が相応しい男。その中でも特別目立つギラギラと輝く指輪を見せびらかすように手を組む。
男の名はレオン・トマポンタ。エッグノッグ・ブルーのオーナー。
俺をカジノのステージに上げ、そして俺たちを次のステージへと引き上げた男。
彼が持ちかけた提案。
VIPテーブルでのショーを任せるというもの。
“若くて腕のいい奴”をご所望の上客相手のギャンブル。
「おまえの腕前の大したものだ、仕込みは並だが、おまえは何よりエンターテイメントってやつを他の誰よりも理解していると俺は評価している。そういう奴に頼みたいんだよ」
この先のことを考えればタニマチは俺たちにだって必要だった。
そしてそれ以上の大当たりを当てる絶好の機会でもある。
断る理由はない。
だが、なぜだか頭の奥底で行くなと誰かが叫んでいるような感覚。
だが体はそれを無視して歩を進めた。
そこから先はおもしろいように階段を上りつめた。
まるで転がり落ちるかのような速度で。
騙して奪い取る必要もない。与える側だ。
腐るほど汚い金を持った連中の金を笑顔で綺麗な金に変えてやるだけ。
マリーナだけはそれに反対していた。
だが、この道が俺たちの目的地への最短のルートであることを理解もしていた。
DBには上客の情報の収集を頼んでいたが、いつ眠っているのかわからないほどの仕事ぶりによって、予期せぬ金の卵を続々と掘り当てていった。
政治家たちのスキャンダル、押収した麻薬の横流しで肥え太った警察署長、クリーンを訴える企業家たちの醜悪な性癖。
汚い金の出所は金の臭いを少し嗅げば直ぐに出てきた。
そしてそのなかでもとびきりデカい金の卵が二つ。
レオン・トマポンタの不正な会計。資金洗浄した金を横流ししているという証拠。
そしてもう一つ。一人娘の存在。娘の名はマリーナ・トマポンタ。
その災厄級の特ダネを前に俺たちは選択を迫られた。
俺たちにはルールがある。
彼女がそれを自分の口からそれを出さないというのならば、彼女が俺たちのスパイかもしれないという疑いを持つ必要はない。
だが、俺たちが今いるステージはレオンの監視下にマリーナを置いておこうという意思の下に仕組まれたイカサマであることは明白だった。
俺はマリーナを信じ、共に逃げることを選んだ。
今まで上ったステージを捨てる。俺たち三人が揃っていればまた別のステージで駆け上がれると信じて。
次なる記憶の着地点。
薄暗い部屋で俺は椅子に座っていた。
その手でマリーナを抱きしめて。
その胸に銃口を突き当てて。
着の身着のまま逃げ出してきた先ほどまでの隠れ家は俺しか知らないはずの場所だった。正確には俺ですら知らない、かつての俺が用意していたセーフハウスだ。
そこを息をつく間もなく襲撃された。
別行動をとっているDBにはそこに向かったことすら伝えてはいない。
だとすれば残った選択肢は多くはない。
「マリーナ……おまえが裏切ったのか?」
その言葉が彼女にとってなにを意味するのか考えることもなかった。
“疑わないことがルール”
最初にルールを破ったのは俺だった。間違いなく。
銃口を向けられてもマリーナは全く動じることはなかった。
「私を殺す? できないわ。貴方には」
そうなってもなお、彼女は俺に一切の疑いを持っていないのがわかった。
彼女はただ寂しげに微笑むだけ。
「だって貴方は私を愛してはいないもの」
まるで俺が、愛した女しか殺さないようないい振り。
いや、実際そうだ。そうやって俺は何人殺してきた?
違う。この時の俺はまだ誰も殺してはいないはずだ。この時点での俺にその記憶はない。
「貴方は本当は愛されたいの、でもどんなに
だが、彼女は俺の本質を見抜いていた。
「バイバイ、シェル」
彼女は俺の唇に唇を重ねると、俺の手に握られていた銃の引き金を俺の指の上から引いた。
自身の胸に押し当てたまま。
それからどれだけの時間がたったのか。
腕に抱いたマリーナの亡骸はすっかり熱を失っていた。
光もなく漆黒に沈んだ俺の目の前に影が落ちる、より深い漆黒の大男の影。
今の俺にはその男が誰だかわかる。今の俺が知っているこの男は、三人で行動していた時のような表情を決して浮かべることはなかったために今まで気がつかなかった。
以前にも俺を裏切っていたのか。
「裏切っていたのはおまえだ、シェル・セプティノス。レオンが覗いたのはおまえの記憶だ。そして俺にこの場所を教えたのはかつてのおまえだ」
仮面の下に隠した虚無がむき出しになる。
「おまえは俺たちの一人だ」
俺はただ呆然とその瞳と目を合わせる。
「元々おまえには俺たちの端末として、オクトーバーの役員たちの弱みを握るために上へと上ってもらうつもりだったが、こうなったからにはおまえにこれ以上の役割は望めないというのが俺たちの判断だ」
この男が何を言っているのか、何を意味しているのか頭が理解を拒むかのように、まるで入ってこなかった。
だが俺を、俺たちを利用していたことは理解した。
亡骸を抱きしめる腕に力がこもる。
「ならあんたは欲しくないのか? この先俺が手に入れるものを」
「何?」
「俺たちがこのステージを降りようとしたのは、マリーナをレオンの下から逃がすためだ。もはやその必要はない」
俺は抱きしめていたマリーナの亡骸を放る。残酷に見えるようにぞんざいに。
「まだ、階段を下りきってはいないだろう? 俺たちは手に入れる目的があっただろう?」
こいつが覗いたのは俺の記憶だと言った。ならば今の俺の考えを読みとることはできないはずだ。
だから、今は演じろ。愛する女を殺して狂った自分を。
目の前のこの男に与えるんだ。俺は有用であると、この男に都合のよいエンターテイメントを与える存在であると。
俺の狂気をのぞき込むようにDBが俺を見下す。
「いいだろう」
唇をつり上げ笑う。今までの軽薄な笑顔とは違う。笑顔とすら呼ぶのもおこがましい、俺の狂気すらも飲み込むほどの虚無。
「俺の目的は、俺たちの総意とは少し違う。だから今ここでおまえの命は奪わない。これからは俺のために役割を果たしてもらう」
DBは目を瞑る。
「五秒待て」
微動だにせず、永遠にも思えるきっかり五秒。
「許可が下りた。おまえの処分は保留となった」
「これで共犯か? おまえは何を望む?」
「おまえが知る必要はない。だが、おまえのその歪みが生み出す混沌は、犠牲を見過ごせない煮え切らないあいつにとって格好の敵となりうるだろう」
「つまり今度の俺の
ゆっくりと立ち上がり、いつもように俺は背後を振り返る。
これから行動を共にする仲間を確認する為に。
「なら餌は高いところに吊しておかなければ意味がない。そうだろう? 一際目立つところで一際派手にやろうじゃないか」
どんな形でもかまわない。
俺たちは上へと行こう。
やることは変わらない
DB、おまえが情報を集める。
そしてそれを俺がむしり取る。
マリーナ、おまえが紡いだ俺の命を賭けて。
手に握りしめた百ドルのチップ。
余計なことを知りすぎた今の俺の記憶は廃棄されるだろう。
だが、その前に隠す必要がある。
この記憶は決して見つかってはならない。だが、捨ててもならない。
いつかの俺につなげるために。
気がついた時、俺は再び椅子に座っていた。
記憶を辿る前の場所。監獄の面会室。
体のどこも痛まないのに、痛みでのたうち回りそうだった。
俺が何を失っていたのかを初めて知る。
疼く体を押さえつけ俺は目の前の男を見据える。
「俺がこの記憶を手に入れた時、取引を望むのなら応えると言ったな」
風見鶏がうなずく。
「もしも、この記憶媒体が裁判で証拠として提出されれば一つの可能性が生まれる。君が行った行為の数々が“ある特定の勢力”によって仕組まれたかもしれないということだ」
「あんたたちの狙いは俺の事件を踏み台にオクトーバー社の不正に切り込むことじゃなかったのか?」
「この一件によって覆るのは君が犯した罪についてだけだ。君の記憶にあった不正の数々は、君自身の運命によって狂わされたかどうかに関わらず、ただその不正の数々を目撃してきたに過ぎない」
長い時間過去をさかのぼったように感じたがまだ夜は明けていない。
朝日に場所を譲るために、沈もうとする月明かりが窓から風見鶏を照らす。
「シェル・セプティノス。君の記憶などではなく、全てを取り戻した今の君自身が罪と向き合う番だ」
振り返りたいという欲求はもうない。
振り返ったところで誰もいない。
振り返るべき過去は全て取り戻した。
端から見ればもはや俺はただの壊れた殻だろう。
だが、もしも、空だったはずの殻に中身が戻っていたのならば。
雛は殻を破って外に出たことになる。
なら、もう一度。上ろう。
俺の階段を。
Break the Shell 上田 裕介 @kamiday
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