第3話
自分の住む地域の最寄駅から歩いて数分の、マンションの一階部分を店舗としている花屋に入る。
すっかり顔馴染みとなった店主の女性が、
「あら、今週も来たのね」
「はい。あの、いつものを」
「ええ、用意できてるわ。季節の花束ね」
女店主はニッコリと微笑み店の奥へと入っていく。
二年近く毎週通い詰めて常連となった杜若は、勝手知ったるようにレジ横に置かれた可愛らしい硝子のテーブルセットの椅子に腰かけた。キルト生地のクッションが敷かれた椅子は、なかなかに座り心地がいい。
そうして十分と待たないうちに、店の奥から女店主が小振りな花束を手に戻ってきた。
ガーベラや菊、コスモスの美しい、暖色でまとめられた秋らしい花束。
「いつもありがとうございます」
「そんな、いいのよ。こちらこそ、毎週ありがとうね」
杜若は立ち上がると、レジ前で財布を開く。
「はい、今回は常連サービスで八百円ね」
「そんな、これ二千円くらいするボリュームですけど」
「うん。ぶっちゃけちゃうと千七百円くらいかな。でもいいのいいの、毎週来てくれる男子大学生の固定客なんて、貴重だもの。過剰に媚び売っちゃうわ」
そう言って笑う女店主に、杜若は困ったように眉を下げる。
その様子に、女店主も笑みをひっこめた。
「まだ、目を覚まさないの?」
「はい。もう二年になります」
「そう」
女店主は悲しそうに目を伏せると、悲し気な笑みを浮かべた。
「はやく、良くなるといいわね」
「そろそろ待ちくたびれそうです。起きたら一発、殴ってやりますよ。いつまで待たせるんだ、って」
「そうね。だって、君はこんなにも待っているんだものね」
女店主はそう言うと、花束を杜若に手渡した。
「私も祈ってるわ。会ったことはないけれど、君に聞く限り、一番の親友だったみたいだしね。常連の親友は常連も同じよ」
よくわからない理論を展開されてしまったが、その言葉だけでも嬉しい。
「あいつも喜ぶと思います。じゃあ、ありがとうございました」
「ええ、また来てね」
女店主に見送られ、杜若は花屋を後にする。
そうして向かうのは、駅から歩くこと二十分ほどの住宅街の中にある、白い壁の一軒家。周りの家も似たようなデザインで、分譲住宅だということが一目でわかる。
そのうちの一軒に迷いなく向かうと、一度時計に目を落とす。
午後三時。訪ねて失礼な時間ではないことを確認し、インターホンを鳴らした。
十秒ほど待ったろうか。インターホンからではなく、直接玄関の扉が開き、中年の女性が姿を現した。
女性は杜若に目を向けると、柔らかな表情を浮かべる。
「いらっしゃい、三河くん」
杜若――
「三河くんが来てくれたわよ」
女性の後をついて住宅の二階に上がり、一番奥の部屋へと向かう。
その部屋の扉を開きながら、女性は優しい声音でそう言った。
だが、返ってくる声は――ない。
代わりに、規則正しい呼吸がかすかに聞こえた。
その部屋は、全体的に青っぽい配色を意識した部屋だった。壁にかかるのは同年代の男子に人気の男性シンガーのポスターや、海外のロックミュージシャンのポスター。部屋の片隅にはギターが立てかけられている。本棚には漫画本や雑誌が詰め込まれ、机の片隅には携帯ゲーム機が放り出されたように置かれたまま。
そんな男子らしい部屋の主は、ベッドの上にいた。
規則正しく呼吸をしながら、眠っている。
もう、二年もの間、ずっと。
「ごめんなさいね、毎週来てくれているのに、いつも眠ったままで」
「いえ……」
「お花、いつもありがとう。替えてくるわね」
女性は――眠り続ける少年の母は、そう言うとしなびかけた花の活けられた花瓶と、剣斗の持ってきた花束を抱えて部屋を出て行った。
剣斗は部屋に入ると、机に備えられたキャスター付きの椅子を持ってきてベットの隣に置き、そこに腰かけた。
「よ、一週間振り」
ベッドで眠り続ける親友に、剣斗は努めて明るい声をかけた。
「もう十月になっちまったよ。でも、今年はそんなに寒くなくてさ。最近でも夏日がザラにあるんだぜ。暑くて嫌になっちまうよ」
剣斗は笑いながらそう言うと、ポケットから音楽プレーヤーを取り出す。
「そうそう、お前の好きな『ムズィーク・マン』の新曲出たぜ。今やってるドラマの主題歌なんだけどさ、これが全然ドラマの内容と合わねーの。少女漫画原作のコテコテの恋愛ドラマに、『ムズィーク・マン』のヴィジュアル系ロックは合わねぇよな。な、そう思わねぇ?」
そう言いながら、剣斗は音楽プレーヤーに入れていた『ムズィーク・マン』の最新曲を流す。
剣斗自身はこのバンドが特別好きなわけではなかったが、眠り続ける親友に聞かせるためにと既存曲や新曲を入れまくった音楽プレーヤーは、気付けば『ムズィーク・マン』の曲が大半を占めるようになっていた。
「俺別に『
間奏に入った新曲に耳を傾けながら、剣斗はそう言って静かに笑う。
「この前なんてライブのチケット売りつけられそうになってさ。俺はファンってわけじゃないからいらないって言っても信じてもらえねぇの。結局他の『ムジマ』ファンの知り合い紹介して何とかなったけどさ」
後奏の特徴的なギターが響く。このバンドは特にギタリストの技術の高さが評価されているらしい。以前どこかの雑誌にそんなことが書かれていたことを思い出す。
「俺、『ムジマ』のライブ行きたいかって言われてもそんなに興味ないんだけど、でももし行くなら、お前とがいいな」
部屋の扉の外に人の気配を感じた。親友の母が戻ってきたようだ。
「じゃあ、俺今日は帰るわ。バイト先から呼び出されてンだ」
剣斗はそう言って立ち上がると音楽を止めた。
「シングル発売されたら持ってくるわ。確か、町田のショップで買えばポスターの特典付きだったはずだから、それ買ってくる。楽しみにしてろよ?」
そう言ってから、部屋の外に立つ親友の母に聞こえないように声のトーンを落として親友の耳元に囁く。
「なあ、もうお前を傷つける奴はいねぇからさ、そろそろ起きろよ。お前の家族も、俺も、いつも俺が行く花屋の人も、お前のこと心配してんだからな」
もう、全部。
「お前をこうした奴ら、俺が頼んで殺してもらったんだからさ……」
それでもきっと、親友はまだ目覚めない。
心の傷が完全に癒えるまでは、目覚めることはない。
「お前見てると、アレみたいだ。童話の眠り姫。キスしたら案外あっさり起きたりしてな。ま、お前とキスなんて御免だけどさ」
あるいは、あまりの嫌悪に逆に起きてくれるだろうか。
それを実行するには、色々と捨て去らなければいけない気がするので、きっと実行されることはないのだが。
それに、グリム童話版だと王子のキスではなく、姫の眠る棺を運ぶ家来が運ぶことに苛立ち、眠り姫を殴った衝撃で喉に詰まった林檎の欠片が飛び出して息を吹き返したんだったか。
「いや、それは白雪姫か」
毒林檎は白雪姫だ。眠り姫は糸車で眠る方だった。
「ヨーロッパの童話って、眠る系多いな」
いまいちよくわかっていないが、きっと
というか、白雪姫の殴って息を吹き返す
「お前にも知ってほしいよ。とりあえず『うしみつ』の絶品珈琲は絶対に奢ってやるから。『うしみつ』の珈琲飲んだことないなんて、絶対に人生損してるからさ」
安易に
知ってほしい。今の剣斗の仲間たちを。
「切っ掛けはお前がこうなったからかもしれないけど、でもだからこそ、お前にはみんなと会ってほしいんだ」
剣斗はそう言うと、ベッドの上に置かれた親友の手を包み込むように握った。
「……またな」
帰ると言ってから、既に五分ほど経っている。
離れたくないという気持ちが大きくて、いつもこうしてぐだぐだとどうでもいいことを話し続けてしまう。
今日はバイトがあるのでこれで切り上げなければという理性が働いたが、もしバイトがなければずっとここに居続けてしまうだろう。
椅子をもとの位置に戻し、部屋を後にする。
案の定、部屋の前には剣斗の持ってきた花束を活けた花瓶を抱えた親友の母が立っていた。
「三河くん、いつもありがとう」
「いえ、毎週毎週押しかけて、すみません」
「いえ、いいのよ。毎週でもあの子に話しかけてくれるとね、脳が刺激されて、目が覚めるのが促進されるらしいの。親友だったあなたが来てくれると、刺激が強いはずよ。声は、届いているそうだから」
「来週、あいつの好きだった『ムジマ』の新譜出るんで、持ってきます。あいつ、本当に『ムジマ』が好きだったから」
「ええ、ありがとう。本当は私が買いに行きたいんだけど、そういうのはよくわからなくて」
親友の母は困ったように頬に手を当てる。
剣斗はわかっていた。彼女は詳しくないから買いに行かないのではない。
親友のそばを離れたくないから買いに行けないのだ。
親友が目覚めなくなってから、親友の母がほとんど外に出なくなってしまったのを知っている。買い物にも行かず、食品デリバリーに頼り切りなのを知っている。親友を定期的に病院に連れて行く以外で外に出ることはないと、何度か顔を合わせたことのある親友の父が言っていた。
今の時代、インターネット通販で何でも買える時代だが、『ムジマ』のCDは毎回剣斗が買っている。
それが、親友の両親が剣斗をつなぎ留めたいでということも、剣斗自身理解していた。
そんなことされなくても、彼が目覚めるまでは余程のことがない限りは毎週通い続けるのに。
剣斗はそう思いながらも、親友の家を後にした。
―†―†―†―†―
「助けろカッキー」
「開口一番どうしたんですか」
扉を開けると、珈琲の豊かな香りとカウベルのコロンカランという音が迎えてくれる『うしみつ』。
杜若が店に入った瞬間に、カウンターに突っ伏していた紫紺が顔を上げ、悲痛な声で呻いた。
紫紺の隣でノートパソコンを開いて苦笑していた牡丹が、フォローするように口を開く。
「今回の依頼人、
「相手がわからない?」
杜若は首を傾げる。そして、ああ、と思い至った。
「最近増えてるんでしたっけ、ネットストーカーとか、そういうの」
「そう。今回もそれ」
牡丹が頷く。
紫紺はカウンターの下でバタバタと足を暴れさせる。
「困るンだよ、そういうの。調べるのにどんだけ時間かかると思ってるんだよ」
「紫紺、騒がしくするなら店から摘み出しますよ」
ガタガタと音を立てて足を騒がせていた紫紺は、黒橡の穏やかで圧のある一言に、ピタリと足を止める。
そうして恨めしそうに黒橡を見上げると、口を尖らせた。
「だーって、最近そういうの多くてよ。ホント困る」
「だからって暴れないでください」
ピシャリと言われた紫紺は、再びカウンターに突っ伏す。
「だから助けろ、カッキー」
「あの、とりあえず今回の依頼の内容を教えてもらえませんか」
杜若は困ったように眉を下げながら、そう口にするので精一杯だった。
「依頼主は
「そんな人が、どんな依頼を?」
ネット関係となると、SNSで何かあったのだろうか。
最近増えている問題と言えば、やはりSNS周りだ。ニュースでもSNSで問題が起こっているというのはよく見かける。学生でいえばイジメの温床にもなっているとよく聞くし、大人ではストーカーも目立っているらしいし、売春や薬物売買などの犯罪の取引の場にもなっているというのは有名だ。
「ま、今時よくあるSNS絡みだね」
やっぱり、と杜若は頷く。
「友人と旅行した写真に難癖をつけられたのが切っ掛けらしくてね。なんでも、SNSにアップした写真にたまたま写り込んでいた後ろを向いた女性がいたんだけど、『その女は俺の彼女だ、勝手に撮るんじゃない。写真を削除しろ!』って突然言われたらしくて」
「そんな、理不尽な。だって顔も見えてないんですよね?」
「うん。あ、これが実際の写真なんだけど」
杜若に説明をしていた牡丹は、聞き取り調書のルーズリーフの間から一枚のコピー用紙を取り出した。スマホで撮った写真をプリントアウトしたものらしい。
その写真は、三十代半ばの男性二人が京都の金閣寺をバックに自撮りをしているものだった。
確かに後ろには女性が写り込んでいるが、目立つような写り込みではない。他にも当然のように数人の人が写り込んでいるし、全員ハッキリと顔が見えているわけでもない。
「これに難癖つけてくるって、無理ありません?」
そう、杜若は口にした。
「うん、だよね。普通そうだよね」
杜若の疑問に、牡丹も頷く。
「ま、普通ならそれで終わり。無視して
牡丹は他のカラーコピーの写真を取り出す。
そこには、頭が痛くなるほどの罵詈雑言が連ねられたSNSの画面のコピーがあった。
陳腐な罵倒から、目を塞ぎたくなるような酷いものまで。
思わず顔をしかめるその量に、杜若は目をそむけた。
「こういうタイプの人間が相手だった」
「とりあえず誰でもいいから貶して傷つけたいタイプの、救いようのない残念な人ですね」
「そう。まぁ、その中でもさらに悪質な、歯止めが利かずに犯罪にまで手を染めちゃうタイプのヤバイ人だったってわけ」
牡丹がホチキス留めされたカラーコピーの束を何枚かめくると、SNSの画面にどこかの屋内の写真が並ぶようになった。
屋内の写真と思われるものは、一般家庭の室内のようだ。生活感のある一軒家の庭や玄関、リビングなどが写っている。
さらにめくると、書斎のような部屋や洗面所、風呂場、トイレ、寝室なども出てくる。
「あの、これって?」
何のコメントもなしに、ただ画像だけの投稿が連なるSNS画面。投稿者は罵詈雑言を並べ立てていた今回の調査対象のものだ。
これまで目を覆いたくなるような罵詈雑言を並べていたのに、突然何もコメントを載せなくなり、代わりに画像を
「この写真、全部高津さんの家の中らしいわ」
牡丹の一言で、杜若の全身に悪寒が走った。
「見ればわかると思うけど、高津さんは独り身じゃなくて、所帯持ちなの。それも、子供もまだ小さくて、娘さんの歳は小学二年生の女の子らしいわ」
投稿された写真の中には、確かに可愛らしい子供部屋の画像も数枚存在した。
そのことに、さらに戦慄する。
「つまり――
「そう。いくら何でもやりすぎよね。警察に被害届は出したそうなんだけど、相手はむしろ過激化。奥さんのパート先には悪戯電話がひっきりなしに掛かってくるらしくて、さらには小学二年生の娘まで盗撮されて、ネットで『父親が不倫をしている』なんてコメント付きの画像に編集されて出回ってる始末」
それはもう、犯罪だ。名誉棄損、肖像権の侵害。他のも合わせれば、確実に刑務所行き。
これでも警察が動かないというのか?
そんなはずはないだろう。
「うん。警察も動いた。ってより、現在進行形で動いてるらしいんだけど、これまた相手が本当に質が悪くて、なかなか尻尾を掴ませないらしいの」
「でも、今の警察の技術なら、追えないんですかね」
「うーん、相手が
世の中って理不尽なもんよね。牡丹はそう溜息と共に呟くと、調書を閉じて杜若に渡した。
「で、君の仕事はこの正体不明の最悪人間を特定して調査すること。期限はなるべく短めに。今回のは被害も被害だし、ほぼ
牡丹から調書を受け取った杜若は、力強く頷く。
「子どもも被害にあってるって聞いたら、さすがに許せないですから。早急に調べてきます」
誰が相手であろうと、こんな犯罪を許すわけにはいかない。
だが、被害者には子供も含まれている。これから先、希望に満ちた未来を持っているはずの子供が。
この件を放置してしまえば、必然その子供の未来に徐々に払いきれない暗雲がたちこめてしまう。
それだけは、許せなかった。
誰かを虐め貶める行為を、杜若は心の底から憎んでいるのだから。
「お、カッキー今から行く気か?」
杜若が牡丹から説明を受けている間、ずっとカウンターに突っ伏していた紫紺が、顔を上げる。
「はい。まだ四時ですし、今からでも少しは調べられます」
「そっか。じゃ、ちょっと待ってろ」
紫紺は立ち上がると、店の奥の従業員口に姿を消した。
二分ほどだろうか。『うしみつ』に戻ってきた紫紺の手には、紙袋がぶら下がっていた。
「これ、ついでに届けてきてくれ」
「ついで、って……よく俺の行先、予想できましたね」
「サイバー関係でカッキーの手に負えなさそうなものだとすると、行先は一つしかねぇだろ」
杜若は何も言い返せず、苦笑する。
自分の手に負えないのなら、手に負える人に依頼すればいいだけなのだ。
そして、『呪殺委託執行社』がサイバー関係で困ったときに頼る相手は決まっていた。
「これ、何ですか?」
「借りてたゲーム」
「紫紺さん、ゲームなんてするんですか……」
紙袋の中を覗き込むと、最新家庭用ゲーム機のゲームソフトのパッケージが入っていた。半年ほど前に話題になったアクションゲームのタイトルが確認できた。
「あ、これ俺も気になって結局できてないやつだ」
「話題になったよな。結構面白かったぞ」
紫紺はそう言うと、ニッと笑った。
「頼めば貸してくれるんじゃねぇか?」
「うーん、今学祭準備で大学も忙しいんですよねぇ。やる時間ないかも」
でもやりたい。ゲーム雑誌やネットでの評価も高かったし、中古でもまだ新品と大差ない値段で売っているので、かなり面白いゲームなのだろう。
「好きなだけ悩んでいいから、とりあえず行ってこい。あ、行く前に生存確認と食料買って行ってやれよ」
「はい」
生存を心配される生活をまだ続けているのか、と心配になるが、何を言っても生活態度は改善されないのは今までの経験で分かっているので、杜若は苦笑することで心配することを諦める。
「じゃあ、行ってきます」
「依頼料は『
紫紺がそう言って、手を振る。
「お願いね、杜若。あたしからもよろしく言ってたって言っといてね」
「お気をつけて行ってらっしゃい」
牡丹と黒橡の言葉にも頷いて、杜若は『うしみつ』を出た。
―†―†―†―†―
JR横浜線を、町田から横浜方面に一駅。
そこに、成瀬という駅がある。住所はギリギリ東京都。もう一つ先に駅まで行けば神奈川県に入る。
といっても、町田から八王子方面に行っても、すぐに神奈川県に入るのだが。
そんな、飛び地のような町田市の端に位置する成瀬駅は、東京都にあるJRの駅では最南端に位置するというどうでもいい称号を持つらしいが、そこそこ何もない駅だ。駅前のロータリーに面するスーパーと、いまいち何があるのかよくわからない商業施設群、空きテナントばかりの雑居ビル。何故かロータリーに面して二つもある別チェーンのカフェ。
駅から少し歩いた範囲にはそこそこ飲食店があるので、それなりに栄えているのかもしれない。コンビニも色々な店がちょうどいい距離感で競い合っている。
そんな駅を北口から出ると、ロータリーに面したスーパーに入る。まずは三階に上がり、スマホを確認しながら、そこで指示された雑誌や漫画を買い込む。
十冊ほど買い込むと、次は本屋とエスカレーターを挟んだ向かい側に位置する百円均一ショップでプラスチック製のコンテナやボールペン、電池などを買い、二階へ。
ドラッグストアでシャンプーやボディーソープ、衣類洗剤や食器用洗剤、室内消臭剤などを買い込むと、やっと一階へ。
ここまでで既に大荷物だ。だが、さらにスーパーで炭酸飲料の大きなペットボトル数本とインスタント食品、お菓子や調味料を買い込む。
そろそろ肩が外れそうだ。
レジを通ってビニール袋に買ったものをまとめていると、スマホが振動しメッセージの着信を告げた。
嫌な予感が首をもたげる。恐る恐るメッセージを確認すると、やはり予想通りの相手からのメッセージ。
――ついでにレンタルビデオショップの一階ゲーム売り場で新品のゲームコントローラー買ってきて。
指示されたのは、最新ゲーム機種のコントローラー。そこそこの値段がするものだ。
「また、壊したのか……」
杜若は唸るように呟く。これで同じものを買ってくるよう頼まれたのは、三回目になる。
全部で十キロを超えそうな荷物を持ち上げると、杜若はスーパーを出た。そして駅構内に入ると、今度はエスカレーターを使って南口に上がる。
そこから左に道なりに進み、交差点に出ると、道を渡り右折。
道なりに数十メートル進んだところにあるレンタルビデオショップに入店すると、所望されたゲームコントローラーを探す。最新機種といっても、発売されてから数年経っている機種なので、コントローラーの在庫は心配する必要もなく、ベーシックな黒のコントローラーを購入する。
これでやっと目的地へ向かえる。そう思った矢先、再びメッセージの着信を告げる振動がスマホを震わせた。
まさか。塞がった両手で四苦八苦しながらスマホを取りだし、なんとかメッセージを確認する。
――あと、コンビニの期間限定カップラーメンをあるだけ買ってきて。
杜若は情けない悲鳴をあげた。
成瀬の駅から、歩いて五分ほどの住宅街の中。
その中に、ぽつりと不自然な雰囲気をまとった建物がある。昏い色のレンガの壁の、ヨーロッパの小さな村のごみごみした一角に建つちんまりとした洋館のような、そんな佇まいの一軒屋。まるで、ヨーロッパの小さな村からその建物だけを切り取って、無理矢理日本の普通の住宅街に張り付けたかのような、そんな不自然さを感じる造り。
そこが、杜若の目的地だった。
既に陽は傾き、時計の針は五時を指そうとしている。
杜若は荷物を持ち直すと、その一軒家の扉を何の断りもなく開けた。
すると出迎えてくれたのは、天井まで
そう。この建物の一階は、雑貨屋だった。
というよりも、雑貨屋ということになっている。
そもそも、この店には入店することはできても、奥までは行けないのだ。
杜若を出迎えた雑貨の数々は、入り口から奥のスペースを塞ぎ隠すように、まるでパズルのように複雑に一分の隙もなく積み上げられている。古い木製の棚に、古い木製の鏡台が積まれ、さらに天井からは黒く錆びた何も入っていない鳥籠が揺れている。
得体の知れないホルマリン漬けの容器の詰め込まれた薬品棚に、片腕のない西洋人形がこちらをまじまじとみつめてくる。
不気味で異様な空間で、杜若は目の前に並ぶ触れれば崩れてしまいそうなほど古い革の洋書の並ぶ中から、紅い革表紙の一冊を少し押し込んだ。
すると、何処かでリリンと澄んだ鈴の音が響いた。
どれくらい待っただろうか。
しばらくすると、雑貨で埋め尽くされて何も見えない建物の奥から、足音が響いてきた。
足音は雑貨の壁を隔てたところで止まると、次の瞬間、雑貨の壁の一部が奥に向かって開いた。
人が一人通れるくらいの幅の穴が壁にでき、そこからひょこりと一人の人が顔をだし、杜若の姿を見ると、ニヨニヨと笑った。
「や、お久しぶりっス、カッキー」
杜若は色々と溜まりにたまった文句を言おうとしたが、開いた口から漏れたのは、盛大な溜め息だけだった。
雑貨でできた扉を潜ると、その扉を閉める。堆く積み上げられた雑貨で重そうな見た目に反し、片手で閉められるほどに軽く扉は閉まった。
この店は一見さんお断りで、誰かの紹介がなければあの空間より先には進めないようになっている。
だがもちろん、ここが雑貨屋であるということは、嘘ではない。
今杜若の歩いているここも店内で、薄暗い通路の両脇には、用途不明な不思議なオカルトグッズや、不気味な人形、動物の剥製などが、所狭しと並んでいる。
絵の入っていないくすんだ金の額縁、蜘蛛の巣のはった
そんな西洋のオカルト雑貨ばかりかと思えば、首があらぬ方向を向いた日本人形や、百鬼夜行を象ったと思われる木彫りの彫刻なども、雑多におかれている。
雑然とした店内に統一感もなにもあったものではないし、まるで物を売る気を感じさせない空間だった。これではまるで物置の中だ。
だがよく見ると、古い木製の棚から雑に積まれた革表紙の本に至るまで、全てに手書きの値札が付いている。ここにあるもの全てが、商品なのだ。
杜若の前を歩く人は、店の奥まで行くと、磨りガラスのはまった洋風な玄関扉を開けた。
その扉を潜った先は、拍子抜けするほど普通の玄関だった。何度かここに来たことのある杜若も、店内の異様な空間と扉ひとつ隔ててここまで普通の空間に出ると、肩透かしをくらった気分になる。
玄関の目の前には、階段がある。靴を脱ぎ、荷物を持ち、杜若は目の前の人の背中を追って階段を上った。
「なぁ、っていうか」
普通の家のそこそこ片付けられたリビングに出て、杜若はやっと荷物を置き、額に青筋を浮かべた。
「なんで、ここまで全部俺が運んでるんだよ! お前も一言『手伝おうか?』くらい言えよ! そもそも全部、お前の注文したものだろ!」
杜若が怒鳴ると、その人は杜若に目を向け、ニヨっと笑った。
「今気付いたんスか、遅いっスねぇ。そんなの、言われなきゃ手伝わないっスよ」
そうだそうだ、こいつはこういう奴だった。
杜若は頭を抱えてしゃがみこむ。
「それに、俺に用があって来たんスよね? これくらいしてくれなきゃ、割引なんて出来ないっスよ」
杜若は唸る。そうだ、杜若は用事があってここを訪ねた。
そして、今からこの人に頼もうとしていることは、通常であれば法外な値段を吹っ掛けられることなのだ。『呪殺委託執行社』が贔屓にしていて、さらに信頼関係の上で、破格の値段で依頼を引き受けてくれる代わりに、こうして使い走りのようなことをするのを受け入れたのは、紫紺だった。
その関係を、従業員だからという理由で『呪殺委託執行社』名義で使わせていただいている身である杜若は、強く言える立場にはないのだ。
情けなく呻くことしかできない杜若に、その人はニヨニヨと笑うだけ。
悔しいが、杜若は顔をあげると、本題に入った。
「あの、お察しの通り、頼みたいことがあって来たんだけど」
「わーかってるっスよ。皆まで言うなっス」
その人はそう言うと、ドンと自分の胸を叩いた。
「この、
それ、言いたいだけなんだろうな。杜若は声には出さず、心の中だけでそう呟いた。
臙脂はこの怪しげな雑貨屋を経営し、それを隠れ蓑に情報屋をしているハッカーだ。住宅の一階部分を雑貨屋の店舗として使い、実際の主な仕事場は地下のガレージ。
杜若は臙脂と共に地下へと降りると、空調のきいたガレージに足を踏み入れる。
そこは、広い空間だった。大きなコンピューター本体が数台並べられ、モニターは五つ並んでる。
だが、それはガレージの一角に収められ、他のスペースは開放的なリビングのようになっている。
巨大なテレビに、高級そうなスピーカー、頼まれていたコントローラーを使う最新機種のゲーム機に、最新のブルーレイプレーヤー。
畳一畳半ほどの大きさの作業台もあり、その上には半分解体された機械だったものらしい物体が乗っていた。
「また、何か解体してたんだ」
「改修って言って欲しいっス。ネットで売ってた、壊れたレコードプレーヤーを使えるように直してるんスから」
杜若は「へぇ」と作業台のバラバラになったレコードプレーヤーだったものに目を向ける。
原型がまったくわからないほどバラバラに解体されていて、どんな形をしていたのか全く予想がつかない。
臙脂の趣味というか、特技のひとつだ。機械でもなんでも、解体したり直したりするのが得意で、市販のものを改造してさらにいいものにしてしまうこともある。
ちなみに、ガレージに置いてあるテレビやスピーカーも、元は安価に仕入れた中古の物を、色々なパーツをネットオークションなどでかき集め、改造してグレードアップさせたものだと自慢されたことがある。
「で、今回はどんなの調べればいいんスか?」
臙脂はパソコンの前のレーサーチェアに腰を預けると、杜若を見上げた。
杜若は牡丹に渡されていた調書を取り出すと、臙脂に渡した。
「これ、相手のアカウントの身元を調べてほしくて」
臙脂は調書の束を受けとると、パラパラとめくるように眺めた。
「あー、なるほど」
臙脂は内容を確認し、頷く。
表情をあまり大きく動かさなかったのは、ネットでこれくらい酷い人間を見慣れているからだろうか。持ち込まれた内容に動じもせず、淡々と目を通していく。
「これは……うん、そこそこのハッカーの仕業っスね。でもこの程度の
フフン、と得意気に胸を張ると、臙脂はパソコンのモニターに向かい合った。
「えーっと、十分くらい時間が欲しいっス。それまでその辺で適当に時間潰しててくれっス」
「おう、わかった」
臙脂の言葉に杜若は頷くと、モニターと睨み合って無言でキーボードを叩き出した臙脂から離れると、ガレージの中にあるロフトにあがった。臙脂の趣味が高じて作ったというそこは、ちょうどパソコンの設置されたデスクの真上に位置していて、廃材を組み合わせて作られた鉄製の階段を上りきると、これまた廃材を組み合わせて作られた五畳ほどの空間が広がる。奥の壁一面は本棚で漫画がぎっしりと詰められ、冷たい鉄材の床の上にはふかふかとしたカーペットが敷かれ、天井からハンギングチェアが下がり、ハンモックが揺れ、人をダメにするクッションが置いてある。
まさに、くつろぐためだけの空間。お洒落な漫画喫茶のロビーのような、お洒落なカフェのような、そんな空間だ。
杜若は有名な少年漫画の一冊目を棚から抜き出すと、ハンギングチェアに体を預け、漫画を開いた。
おそらく、この一冊を読み終える頃には、臙脂は頼んだアカウントの特定を完了させているはずだ。
それまではお言葉に甘え、休ませていただこう。
杜若は、静かに読書を開始した。
臙脂は、杜若が『呪殺委託執行』にアルバイトとして入る以前から、紫紺が懇意にしている情報屋だった。その情報の幅は広く深く、表社会から裏社会に至るまで、知らないことは無く調べられない物も無い。
そんな優秀な情報屋は同時に凄腕のハッカーで、サイバー対策チームから何度も声をかけられているとぼやいていたこともあった。
さらに株にも手を出していて、臙脂の主な収入源は株取引だ。雑貨屋は見た目通りほとんど稼ぎはないらしく、情報屋の仕事も基本的には法外な料金設定のため、滅多に客は来ない。
となると別の収入源が必要なわけで、臙脂にはそれが株取引なのだ。
他にもゲームの大会にひょこり顔を出しては優勝して賞金をがっぽり稼ぐゲーマーの顔も持っており、臙脂は案外お金持ちだったりする。
そんな臙脂は、謎多き人物でもある。
いつも臙脂色のツナギの上半身部分を腰で縛り、ラフな暗色のシャツに、黒いパーカーを着ていて、長い黒髪は高い位置で結わって背中に流している。黒い縁の太い眼鏡を愛用していて、前髪は長く、右目は完全に前髪で隠してしまっていて、つりがちの目は左側しか見えていない。
そして、季節問わず屋内でも必ずネックウォーマーを外さないのだ。
一人称は『俺』で、話し方も男っぽいが、臙脂が男なのか女なのかを知る者もいないという謎深さ。実際性別を感じさせる言動は少なく、誰も臙脂の性別を知らないのだ。
ちなみに『臙脂』という名前も紫紺がつけたもので、杜若や牡丹同様、本名を隠すために名乗っているものだ。『呪殺委託執行社』に関わる人間には片っ端から偽名を与えるようにしている、と紫紺は言っていた。だから杜若は臙脂の本名を知らないので、名前から性別を予想することすらできない。
もっとも、きっと臙脂には杜若の素性を全て知られているのだろうが、それはもう仕方がないと諦めている。どんなデータベースにでさえアクセスしてしまえる臙脂が、自分と関わる人間の情報を入手していないわけがない。
そして、杜若の情報でさえ、臙脂は相応の金を積まれれば躊躇い無くに売るだろう。
臙脂にとって情報は平等に商品であり、人権とかそういったものは二の次らしい。でなければ、情報屋などやっていけないだろうし、こうして人の情報を調べ売るように頼む時点で、臙脂曰く「人の情報を求めるなら、自分の情報もまた、誰かに売られる可能性を承諾したってことっスから」ということらしい。
その理論は、理解できる。
以前、杜若は好奇心とおふざけと、微々たる本気を含んで、「臙脂の情報も売ってくれって言ったら、売ってくれんの?」と聞いたことがある。
そうしたら、いつものようにニヨニヨと笑いながら、「そりゃモチロンっス」と返ってきた。
「ただし、それ相応の料金はもらうっスけど」
そう言って示された金額は、国家予算並みの額だった。そんなもの、誰も払えるわけがない。
情報料を決めるのは臙脂なので、臙脂に言われてしまえば、それが相応の料金なのだろう。
それくらい隠したいということなのか、それとも冗談だったのか。
杜若はぼんやりと、そんなことを考えていた。ロフト部分のそこかしこに飾られた鮮やかな水中の写真を眺め、途中で読むことに飽きた漫画を持ったまま。
「その写真、よく撮れてるっスよね」
突然背後から声をかけられ、杜若は「うわぁ!」と声をあげ驚く。
振り返ると、臙脂がニヨっと笑った。
「終わったっスよ、特定」
「あ、そうなんだ、ありがと」
「どういたしましてっス。ま、そんなに難しくなかったし、どうってことないっスけど」
臙脂は本当にどうということは無さそうに告げると、先にロフトを降りていく。杜若もその後を追った。
「前々から気になってたんだけどさ、ここって色んなところに水中の写真が飾ってあるよな」
このガレージや臙脂の居住空間、雑貨屋のレジ付近にもあったはずだ。特に居住空間の居間には壁一面写真が飾られているし、このガレージにもまるで水族館の大きな水槽を切り取ったのではと錯覚するほど大きな写真が飾られている。
ガレージの巨大写真は、色鮮やかな珊瑚礁をバックに極彩色の魚が沢山泳いでいて、海亀がゆったりと端の方で体を休め、中央には親子のイルカが身を寄せあって悠々と泳いでいる。
その写真は今にも動き出しそうで、そしてこの構図はまるで、かの有名なラッセンの絵を思わせる。
ラッセンの絵を写真にしたらこうなるのでは――そう思わせる写真作品だ。
そして、その感覚は正しかったらしい。
「『写真家のラッセン』とまで言われる、その道じゃ有名なプロの水中専門写真家の作品っスからね。普通に買おうとしたら、作品ひとつで数十万円はするっスよ。たぶん、その一番大きいので最低でも五千万円くらいの値はつくっスよ」
「え、これ全部同じ人の作品?」
「そうっス。俺は特殊なルートを持ってるから、簡単に手に入るんスよ」
臙脂の言葉に、杜若はガレージの壁を覆い尽くさんばかりの大きさの写真に再び目を向ける。
美しい作品だ。絵画だと言われても納得してしまいそうなくらいに。
「特殊なルート、ね。お前なら色々後ろ暗いルートも持ってそうだよな」
「失礼っスね。これは正真正銘、色んな意味で正規ルートで入手したものっスよ。――
「数十万だの数千万だのする作品を
「ほんとに失礼っスね。アカウント特定の請求額増やすっスよ」
「それは勘弁。俺が紫紺さんに殺されかねない」
杜若はひらひらと手を振ると、臙脂の向かい合うモニターを覗きこんだ。
五つあるモニターの中央のものにはSNSの画面が表示され、特定を頼んだアカウントが表示されている。
その右隣のモニターには住民票のような書式の画面になっていて、そのさらに右隣には運転免許証らしきもののコピーが。
中央モニターの左隣のモニターにはどこかの地図が表示され、中央には赤いピンが立てられていて、様々な濃度の赤で複数の円形が地図の上に乗っている。
一番左のモニターは、黒い背景の中を絶えず緑の文字の羅列が流れ続けていた。
「このアカウント――『
臙脂はモニターの中の画面をスクロールして確認しながら読み上げる。
だが、杜若は「待った」と声をあげ、モニターを食い入るように見つめた。
「お、女? 女だったのか、今回の調査対象」
「あれ、気づいてなかったんスか?」
臙脂は意外そうに目を瞬く。
「俺はSNSのコメントの文面から気づいてたっスよ、女だって」
「え、だって『俺の彼女』とか言ってたし――いや、まぁあれは嘘だろうけど、でも一人称とか、男っぽかったじゃん!」
「そう見せかけようとしたんスよ。でも、文脈には違和感しかなかったっスね。俺って一人称を使いすぎっス」
一人称を使いすぎ、というのがあまりピンとこない。
杜若が首を傾げていると、臙脂が「例えば」とfunisというアカウントのコメントを遡って、いくつか示した。
「このコメント、よく見てくれっス」
「えーっと、『俺の職場からこいつの家近いかも。帰りに行ってやるよ。俺の会社がこの立地だったのは俺にとってはマジ幸運(笑)』か。どっか変なところあるか?」
表示されたコメントを杜若が読み上げると、臙脂はニヨっと笑った。
「ないっスよ」
「は?」
「だから、変なところはないっス。でも、違和感はあるっス」
「違和感、って言ってもな」
変なところはない。だが、違和感はある。
よくわからず、杜若はもう一度そのコメントを見直すが、やはり臙脂の言いたいことは理解できない。
「そっかー、カッキーは違和感覚えないんすね」
「ああ。全く」
「俺なんて、違和感で鳥肌っスよ。ほら、もうニワトリになっちゃいそうっス」
鶏の羽のつもりなのか、臙脂はふざけたように体の横で手をパタパタと動かす。
「……悪かったな、俺はその違和感とやらに気付けなくて」
「別に責めてはいないっスよ。俺はビンカンなだけっスから」
臙脂はニヨっと笑うと、少し考えるそぶりをしてから杜若に目を向ける。
「例えばっスけど、カッキーって今、大学生だったっスよね」
「ああ、そうだけど」
「時期的に、そろそろ学祭じゃないんスか?」
「まぁな。ゼミの教授が出し物したいって言いだしたから、俺たちも強制的に準備だの買い出しだのに駆り出されて忙しくなってきてる」
「その学祭、いつやるんスか?」
「えーっと、ウチの大学は十月最後の土日に――」
「はい、そこっス!」
臙脂が突然声を上げ、杜若の鼻先に指を突き付ける。
思わず仰け反りながら、杜若は驚いて目を瞬く。
「カッキー、今自分が何て言ったかわかるっスか?」
「え? だから、十月最後の土日に」
「その直前っス」
「その直前……確か、ウチの大学は――」
「そう、それっス」
臙脂はグイっと人差し指をさらに杜若に近づけてくる。杜若の背はもう海老反りだ。
「カッキーの一人称は『俺』っスよね。でも、大抵の人は、砕けた口調が許させる場だと特に、自分の所属に関しては『ウチ』という言葉を使うことが多いんスよ。これには男も女も関係ないっス。もちろん『ウチ』という言葉を使わない人も多くいるっスから、一概には言えないんスけどね」
臙脂に指摘され、やっと杜若は理解した。確かに、無意識に『ウチの大学』と口にしていた。
「俺だって、雑貨屋のことは『俺の店』じゃなくて『ウチの店』って言うし、『俺の家族』より『ウチの家族』って表現の方が使うっス。もちろん文脈によってっスけど、カッキーにも思い当たることはあるんじゃないスか?」
杜若はコクコクと頷く。確かに、他の大学に通う友人ともお互いの学校の相違点を話すときなどは『ウチの大学は』ということがほとんどだし、一人称を自然に使い分けている。
まず、何度も何度も同じ一人称を続けたりすることが少ないような気がする。
「で、さっきのコメントをもう一度見てほしいっス。これ、俺がさっき言ったように、同じ一人称を使いすぎの重ねすぎなんスよ」
『俺の職場からこいつの家近いかも。帰りに行ってやるよ。俺の会社がこの立地だったのは俺にとってはマジ幸運(笑)』
もう一度読み直して、やっと理解した。
最後の一文が特に、『俺』という一人称を重ねていて、くどいのだ。
「昔習わなかったスか? 英語の授業とかで、同じ一人称が続くようなら省略してもいいとか。日本語も同じなんスよ。一人称を重ねすぎるのは好まれない表現なんス。だから、重なりそうなときは省略するか、別の表現にする。で、こういった場合によく使われるのが『ウチ』って表現なんスよ」
今回使われたSNSは、匿名性の高いコミュニケーションツールだ。自分のコメントを目にする画面の向こうの誰かが男なのか女なのか、年上なのか年下なのか、そんなことは全くわからない。
だから、SNSは砕けた口調でコメントすることが多い。そうすると、この文脈では『ウチの会社』と言った方が違和感は少ないのだ。
「このアカウント、とにかく俺って一人称を乱用してるんスよ。使いまくりの重ねまくりで違和感ばっかり。だから判ったんスよ。これは、性別を偽ろうとして一人称に気を遣りすぎた結果、逆に違和感を生んでしまってるんだろうなって。いやぁ、ハッカーとしてはそこそこの腕を持ってるみたいっすけど、それ以外の部分の詰めが甘いっスねぇ」
臙脂は勝ち誇ったようにそう言って、フフンと得意げに笑う。
「臙脂が言うと、説得力が違うよな」
杜若はそう呟く。性別が謎に包まれている臙脂は、きっと些細な日常会話すら毎度気にかけて言葉を選び、話しているのだろう。言葉の端々に素の性格が見えることもないほど徹底した無性別を貫く臙脂の今の言葉には、妙な説得力があったのは確かだ。
「で、ものすごーく脱線したから、そろそろ話し戻してもいいっスか」
「あ、ごめん」
そうだ。まだ話は終わっていないどころか、始めたばかりだった。
杜若は慌てて先を促すように頷く。
それを確認すると、臙脂は運転免許証の表示された画面を指さした。
「これがその綱島瑠璃っス。ブルー免許なのは、何度か小さい違反を繰り返してるからっスね。スピード違反とか、信号無視、駐禁、ベルト未装着、免許不携帯――ちまちました違反が多いなぁ、これ。いつかそこそこ大きな事故やらかすやつっスね」
モニターに表示された運転免許証の写真には、明るい茶色に染められたセミロングの髪を編みこんだ髪型の女性が写っていた。三十歳前後と言われたら、まぁ納得できるような容姿をしている。
情報技術者には見えない。どちらかというと、デザイナーや美容師だと言われた方がしっくりとくる見た目。やや派手な外見や強気そうな目は、杜若が苦手としているカースト至上主義のその上位に君臨することが当然だと確信している思想が手に取るようにわかるもの。
「職場だと、お局様になるか嫌われるかの二択だな」
「そーっすね、俺もこういうタイプは苦手っス。んで、カッキーが感じ取ったように、高校時代はスクールカーストの頂点に君臨してた女王様の一人だったみたいっス。これがその時の卒業アルバム」
「この短時間でどうやって手にいれたんだよ」
「情報屋には情報屋のツテってやつがあるんスよ」
免許証を映していたモニターに、今度は卒業アルバムのページが広がる。スキャンされたものらしきそれは、表紙から卒業文集に至るまで、全て漏らさず画像データ化されているようだ。
各クラス毎に、一人ずつ写った写真と集合写真。そして、そのあとに各クラス見開き一
その自由なページが、一番スクールカーストが色濃く出る。
「確かにこの綱島瑠璃って人のいる集団が、一番写真多いし大きいし目立ってるな」
「たぶん、このページ作る担当になったのも、このスクールカースト上位組だったんだと思うっス。ほら、人によって扱いの差が激しいっスから」
確かに、地味そうな少年少女たちは見切れたりブレたりした小さな写真を貼られているものの、それも派手なグループの派手で大きく目立つ写真に埋もれてしまっている状態。
あからさまな悪意が滲み出ていた。
「俺の高校、こういう自由ページにはクラス全員の子供の頃の写真と高校時代の写真並べるやつってコンセプトがあってほんと良かった。公開処刑だったけど、こういうスクールカーストが酷く出るようなのにはなり得なかったし」
「でも定番のテーマっスね。似たようなことやってる高校、何校も知ってるっスよ。ちなみにカッキー、今いくつっスか?」
「え、二十一歳だけど……って、おい俺の高校の卒業アルバムも探す気か?」
「カッキーの卒業校は特定済みっスからねぇ。今度見させてもらうっス」
「マジでやめろ、恥ずかしすぎて死ぬ」
杜若は頭を抱え、臙脂は声をあげて笑う。
「と、まぁ、それより見てほしいのはここなんスけど」
臙脂は笑みを引っ込め、画面をスクロールして三年間の学校行事の写真を順に並べたページを映す。
一学年の頃の入学式に始まり、林間学校や球技大会、体育祭、学園祭、修学旅行などが、学年と行事を行った順に並べられている。
臙脂が映していたのは一学年の頃の体育祭の写真だった。メインで写っているのは上半身裸の男子生徒たちで、頭や腕などにハチマキを巻いているので、それが組分けなのだろう。
そして、見るからに学年が入り乱れていた。一学年だと思われるまだ僅かに幼さの残る体格の男子から、大人の入り口に片足を突っ込んだような男らしさの滲み始めた男子まで、明らかに一学年から三学年までの男子が一緒になっていた。
「棒倒し、かな」
「このご時世、危険だからってこの競技を止める学校も増えてきたっスよねぇ」
「あー、俺の高校も棒倒しは無かったな。中学の頃も俺らが三年生になった年に無くなって、それまで中三男子だけの競技だったからみんな悔しがったなぁ」
「見た目が華やかだから、男子の憧れ種目の定番っスよねぇ……じゃなくて」
臙脂はまた脱線しそうな話を元に戻すと、写真の上半身裸の男子たちのうち、三年生っぽい男子の一人を指差す。
細身だがほどよく筋肉がついた体で、髪は男子にしては少し長め。色白で背は高く、男である杜若が客観的に抱いた印象は、そこそこモテそうな好青年。
その男子生徒は、どことなく見覚えがあった。
「あれ、これ、
「そっス」
杜若も直接依頼主とは顔を合わせておらず、写真で見ただけだ。それでも、面影があってすぐにわかった。
「たまたま同じ高校の卒業生ってこと?」
「いやぁ、それがそうでもなさそうっス」
臙脂は再びSNSの画面を開くが、今度は別のタイプのSNSだ。先程までのが主に短い文章をメインで投稿するSNSだったのに対し、今度は写真や画像の投稿がメインとなる、主に若い女性の間で爆発的に流行っていて社会現象にまでなっているSNSだ。
「この『Ruri』ってのが、こっちのSNSでの綱島瑠璃のアカウントっス。投稿内容のほとんどは、このSNS使ってる若い女性に多いタイプの、ランチがお洒落だとか、夜景が綺麗だとか、
確かに、アングルをこだわったであろうお洒落なワンプレートランチの写真や、毒々しい色のクレープの写真など、俗に『
「でも、ちょいちょい混ざる写真があるんスよ。ほら、これ」
臙脂はずらりと並べられた写真の中から、いくつかの写真を指差す。
それらは全て、アングルは違えど全く同じものが写っていた。
「これは……リストバンド、かな」
「そうっス。日本の有名スポーツメーカーが二十年くらい前に出した、当時の中高生男子の間で大流行したリストバンドで、値段もリーズナブルだったから誰もが腕に着けてたってくらい流行りまくって、当時の社会現象にまでなったやつっスね」
「詳しいな」
「ウィキに載ってたっス」
臙脂はさらりとネット百科辞典の名前を出し、杜若は苦笑した。確かに、色々と詳しく載っている。ただ、書き込みが自由なので嘘が混ざっていることも多々あるのが欠点だが。
「で、このリストバンドの投稿のコメントには、全部共通した人に対する気持ちや想いが載せられてるんスよ」
ほら、と臙脂がリストバンドの投稿の一つを画面に呼び出す。
そこには、片想いの相手に対する感情が寄せられていた。
「若い女性のポエムっぽい投稿だけど、もしかして、他のも全部こんな感じか?」
「はいっス。『あの人は今、何をやっているんだろう』が最初の投稿なんスけど、だんだんと相手のことを的確に言うようになってきて」
『あの人は〇〇家具に勤めてるって。大企業なのね!』
『広報部にいるって聞いたから、あの人の作った社内誌入手しちゃった。入手ルートは企業秘密(笑)』
『なんと、広報部の部長に昇格したらしいの。やっぱりあの人はすごいわ!』
『次の週末に有休をとって男友達とゴルフに行くらしいんだけど、私は有休申請通らなかったから応援に行けない。残念(泣)』
内容が、社外秘情報を含んできた。
「いや、怖いわこれ」
「ハハハ、まだまだ序の口っスよ」
既にストーカーじみているが、投稿はまだまだ続いている。
『有休でちょっと早めのシルバーウィークをとって京都旅行ですって。またいつもの大学時代の親友さんと。男同士の友情って感じで羨ましい!』
『私も有休とっちゃった。京都に行ってきます! あの人と会えたらいいな。そうしたら運命だと思ってくれたりして!』
「ここまで
「みたいっスね。だってほら、こっちに……」
『金閣寺で出会えたの。でも、彼は私に気付かない。遠かったし、私も大人の女性になったからかしら。高校時代とは違って大人の女性になりました(笑)』
『近くに言って声をかけようとしたの。そうしたら信じられない。彼の左手の薬指に指輪があったの。ねぇ、どういうこと?』
『高校時代からずっと想っていたのに。貴女にふさわしいのは私だけ。』
『いつも私を見ていてくれたのに。彼を返してよ。』
『彼を盗った尻軽女を調べたら、大学時代のゼミ仲間。私の方がずっと前から彼のこと知ってるし想っているのよ!』
『
『小学生の子供までいるの? は? どうせ彼を脅して無理矢理身篭ったに違いないわ。子供で彼を脅して結婚したのよ。絶対にそうだわ。許さない!』
『女狐の娘も
『彼からプロポーズしたってSNSで言ってるの。そんなの嘘に決まってる! そう書けと強要されたに違いないわ!』
『許さない』
『許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない』
『殺してやる』
あまりの執念に、杜若は吐き気を覚えた。
この執念と執着は、もはやホラーの粋だ。
「吐くならガレージ出て右手にトイレあるっスよ」
「いや、いい。飲み込んだから大丈夫」
「ここで吐いたら、俺がカッキー殺すっスからね」
臙脂はそう言うと、杜若が渡した資料の中から、例の金閣寺の写真を引っ張り出した。
「難癖付けられた女性いたじゃないスか。これが、この綱島瑠璃っスよ」
「え、そうなの?」
杜若は写真をまじまじと見つめる。後姿なので判り難いが、そう言われてみれば綱島瑠璃に見えなくもない。
だが、本当に見えなくもない程度だ。別人だと言われればそうも見える。これだけで断定するのは難しかった。
「なんでわかるのさ」
「逆のアングルでスマホ向けてる人がいるのわかるっスか、ここ」
臙脂が写真の奥の方を指す。そこには確かに、金閣寺と逆方向を撮ろうとしている外国人観光客がいた。
「……いるな」
「この観光客のSNSのアカウント特定して、その時の写真を投稿してないか確認したら、あげてたんスよ。で、これがその写真」
今度はモニターに写真が映る。大勢の国内外の観光客を撮った写真だ。おそらく人でごった返す様子が興味深くうつり、写真を撮ったのだろう。
そのなかにバッチリと写り込んでいた。二人で自撮りをする中年男性たちと、その後ろで二人に背を向けて立つ女性。このアングルだと自撮りする男性たちは背中しか写っていないが、女性はハッキリと顔が確認できた。
確かに、綱島瑠璃だった。
「ほんとだ」
この短時間でここまで調べあげる臙脂に脱帽する。
十分で、と宣言した通りに、本当にたった十分でここまで密に調べられるとは。
超魔法使い級ハッカーを自称するのも、あながち過剰表現でもないのだ。
「既婚者で、さらに一児の父。そこまで調べあげた綱島瑠璃は激昂。最初は奥さんの方に怒りを向けたけど、ここで一旦、高津槿さんを試してみたんスね」
「試す?」
「そっス。高津さんの撮った写真に写りこんだ自分を、誰かの彼女ということにして、高津さんの投稿にコメントした。そうして、綱島瑠璃は高津さんがどう反応するか、見ようとしたんスよ」
「どう反応するかって、そんなの気味悪がって
「……カッキー、束縛系の彼女作らない方がいいっスよ。いつか背後からその彼女に刺されるタイプっス」
「な、なんだよそれ!」
臙脂の呆れた目に杜若は赤くなって言い返すが、臙脂は短く乾いた笑い声をあげ、モニターに目を戻した。
「じゃあそんな鈍感童貞のカッキーにもわかりやすいように解説するっス」
「やかましいわ」
「いいから聞くっス。まず前提条件として、もう薄々察しているかも――ああ、鈍感カッキーは察せてないかもしれないっスけど、まずこの綱島瑠璃は、自分が高津槿の彼女であると思い込んでいるっス。あるいは、学生時代に付き合っていたと一方的に錯覚していたのかもしれないっスけど。どっちにしろ、自分は高津さんの女だと思い込んでいるんスよ」
「それは……いや、なんでそんなのわかるんだよ」
「この執着見て察せないっスかねぇ、普通……」
臙脂は心底呆れた目を杜若に向ける。
「ま、いいっス。じゃあこれ見たら納得するっスか」
そう言ってモニターに出したのは、また別のSNSのアカウントだった。こちらは、個人同士でメッセージのやり取りを行うのに使われる、おそらくスマートフォンを持っている日本人のほぼ全員が入れているアプリの画面だ。
「おい、これどうやって!」
「そこは、ほら、企業秘密ってやつっス」
秘匿性は高いはずのそのアプリのメッセージのやり取りの画面を大きくモニターに表示させた臙脂は、そのうちのある相手とのメッセージ画面を表示させた。
相手には、愛称と思われる『みーちゃん』という名前が表示されている。
『そろそろルリの彼氏に会わせてよ~』
『遠距離だって言ってるじゃん 仕事も忙しいみたいだし、無理だよ』
『え~、せめて写真だけでも!』
『ダメ~ みーちゃんが私の彼に惚れたら困るもん』
『あんたの惚気聞いてたら横取りなんてできないに決まってんじゃん! 高校の頃の先輩なんでしょ? いいなぁ青春の甘酸っぱい恋愛って感じで 幸せそう』
『羨ましいでしょ めっちゃ幸せだよ~ん』
「と、こんな感じのメッセージのやり取りが記録されてるっス」
「これは……ちなみに、これっていつ頃のやりとり?」
「二年くらい前っすね。でも、もちろん高津さんはもう結婚してるし、子供もいる頃っスよ」
これは確実に高津槿が彼氏だと妄信している。
妄想も行き着く果ては恐ろしいものだ。
「でも、ここまで言ってるってことは、この頃もネットストーキングはしてたわけだろ? それでマジで、なんで結婚してることに気付かなかったんだよ。そもそも、高津さんの結婚相手が大学時代からの友人だってなら、大学時代に彼女自慢とかネットに書き込むものなんじゃねぇの?」
「……カッキーって、イマドキの若者っスよねぇ」
臙脂はそう言うと、大きく息を吐く。
「な、なんだよそれ」
「いやぁ、なんつーか、カッキーってたまに、ちょっと考えればわかることも解ってないことがあるっていうか、なんていうか……っス」
「お前はその人を馬鹿にしたようなこと口にしなければいいやつなんだけどな」
「これは俺の性分っス。諦めるっスね」
冷たく言い放ち、臙脂はとあるサイトを開く。
それは、短文メッセージを投稿できるSNSの公式サイトだった。今回、
「このSNSがサービスを開始したのは、今から約十年とちょっと前っス。その頃、高津さんは大学を卒業するかどうかって頃っスね。つまり、大学在学中は、まだこのSNSはサービス開始してないんスよ」
「え、そうだっけ? このSNS、まだそんなに歴史浅かった?」
「スマホだってまだ一般に普及して十数年の浅い歴史っスよ」
「そういや、そうか」
杜若がスマホを持ち始めたのは高校入学と同時だ。確かに、その頃はまだ高校生もスマホを持ち始めた頃で、友人の半数近くはまだガラケーを使っていたような気がする。
スマホの歴史と切っても切り離せないこのSNSの歴史は、確かにスマホとほぼ同じくらいの年月しか経ていないはずなのだ。
そして、今現在三十四歳だという高津槿は、スマホが普及しだした頃に大学を卒業する年なのだ。
その当時にSNSが今ほど普及していないのは、当然のこと。
「調べてみたっスけど、高津さんはブログとかもやってた形跡はないっス。SNSにも、家族について触れた投稿は一つも見つからないっスね。たぶん、高津さんは自分のことをSNSに書き込むことには抵抗なくても、家族の写真はもちろん、家族についてのコメントも控えてるみたいなんス。今時、家族写真一つ上げてもそれをどこで勝手に使われるかわからないっスからねぇ」
「自分に関する危機管理は薄いんだな」
「そういう人はわりと多いっスよ。ちなみにイノちゃんもその傾向にあるっス」
「イノちゃん……あ、牡丹さんのことか」
牡丹だから猪で、イノちゃん。こう呼ぶのは臙脂くらいなので、一瞬誰のことを話しているのかわからなかった。
「イノちゃんのアカウント、場所の特定がしやすい投稿多いんスよ。イノちゃん美人さんだから、変な人に目を付けられなきゃいいスけどね」
それは今関係ないスけど。と臙脂は話を元に戻す。
「カッキーが鈍感童貞なせいで全然話が進まないっス」
「お前ほんとそろそろド突くぞ」
「それは勘弁っス」
ホントのことなのに、と口を尖らせながらも、臙脂は続けた。
「『試した』ってのがどういうことなのかってとこまで戻るっスよ」
「そういやそんな話してたんだったな」
「ホントっスよ。どれだけ戻らせるつもりスか」
臙脂は画面をすべて最初に表示していた画面にまで戻す。
「で、試したって話っスけど、これは『自分は高津槿に愛されている彼女である』という綱島瑠璃の暴走した妄想から、彼女にとっては
そこでようやく、杜若も合点がいった。
「なるほど。でも、高津さんはわからなかった」
「そういうことっス。高校時代の後輩女子が十五年くらい経ってどんな風になってるかなんて、最低でも一年から二年に一度くらいの頻度で会ってなきゃ、わかるわけないっスからね」
高校生と三十代では、外見もかなり変わってしまうのは必然。特に女性なら、化粧の仕方一つで大きく印象も変わってしまう。
何年も会っていなければ、それこそわかるわけがないのだ。
「でもさ、この綱島瑠璃って女、
「カッキー、世の中を騒がせるニュースに関心ないんスか。会ったことないどころか、相手から個人として認識されていなくても、それでも彼氏面・彼女面するストーカーがこの世に何人いると思ってるっスか。アイドルタレントがそういう輩にストーカーされて、被害訴えて接近禁止令が出された、とかよくニュースになってるじゃないっスか」
「いや、それは相手有名人だし」
「たまたま被害を受けたのが有名人だからそうやって大きいニュースになるってだけで、有名人じゃなくても被害にあってる人は今この瞬間も存在してるっスよ」
呆れたようにそう言いながらも、「まぁ」と臙脂は続ける。
「この件に関しては、カッキーの言う通り、そう妄信してしまっても仕方のない原因はあったみたいっすけど」
「あるんじゃん」
「たまたまっスよ」
臙脂は、あの写真投稿に特化したSNSを再び開く。
そうして開いたのは、
共通して写るのは、有名スポーツメーカーのリストバンド。
「このリストバンドが原因っスね。このリストバンドが写った投稿を遡って一番最初のを探したんスけど、そこにバッチシ書いてあったっス」
『高校時代、私より二年早く卒業するサッカー部の先輩にもらった、大切なリストバンド。私たちの愛のいっぱい詰まった、一生の宝物。次は指輪をくれるって、そう約束してくれた彼を、私はずっと待ち続けます。』
「えーっと、これは……」
「これだけ見れば高津さんが無責任な約束したみたいに見えるっスけど、これ違うっスよ。高津さんはこんな約束してないっス。つか、そもそもこのリストバンド、たぶん高津さんのものじゃないっス」
「……は?」
わけが分からない。
「まず、高津さんが高校時代に所属していたのはサッカー部じゃないっス。いや、正確には、元サッカー部員、っスね。高津さんが二年生の夏に靱帯損傷して、その時にサッカー部はやめてるんスよ。ンで、その後は美術部と生徒会役員を掛け持ちしてるっス。つまり、綱島瑠璃が高校に入学した時点で、高津槿はサッカー部員ですらなかったはずなんスよ」
「え、じゃあなんで」
「うーん、綱島瑠璃がサッカー部のマネージャーだったのは確かみたいなんで、たぶん記憶が混合してるんスね。綱島瑠璃が高津槿に想いを寄せていたのは、まぁたぶん本当なんだと思うっス。でも、彼女が入学したころにはもう、高津さんはサッカー部じゃなかった。でもまだ、高津さんがサッカーをする姿を見る機会はあったと思うんス」
そんな機会あるだろうか。
杜若は首を傾げる。
「カッキー、毎年やる高校時代の行事の思い出って言われたら、何思い浮かべるっスか」
臙脂がそう言って、杜若に目を向ける。
杜若は少し考えると、思いついたものを順にあげていった。
「定期試験、体育祭、文化祭、遠足、修学旅行……は毎年行かないか。あとは、球技大会――」
「それっス」
臙脂が杜若の鼻先に人差し指を突き付ける。
思わず仰け反ると、さらに指をぐいっと押し込まれ、後ろに倒れそうになるほど身を反らす。
「球技大会っスよ。ほとんどの高校は、球技大会の種目にはサッカーが定番っス」
そういえば、と思い出す。確かに杜若の出身高校も、球技大会にはサッカーが定番だった。次に定番なのがバスケットボールとバレーボールだ。学校によっては他にソフトボールや卓球もあるらしいが、それでもやはり、一番道具の少ないサッカーは定番だ。大抵の学校にサッカーゴールはあるものだし、あとはサッカーボールさえあればできてしまう競技だからだろう。
「なるほど、故障しても球技大会程度だったら出てたってことか」
「そういうことっス。だから、綱島瑠璃は高津槿がサッカーをする姿を見たことがあっても、不思議ではないんス。むしろ、その時に惚れた可能性すらあるっスね。故障してるとはいえ、普通の生徒よりもサッカーが上手いのは必然っスし」
確かにそうかもしれない。それに、綱島瑠璃と高津槿の年の差は二年。高津が卒業してから、記憶が少し間違ってしまうことも考えられる。
サッカーの上手いカッコいい先輩、ということは、サッカー部員だったのでは、と思い込んでもおかしいことではないのかもしれない。在学期間がかぶっていたのはたったの一年だったともなれば、なおさら。
「そうして、綱島瑠璃は在学中に間違ったことを真実だと思い込んでしまったんス。まぁ、記憶違いとしちゃ、先輩の所属する部活間違えて覚えた程度で済むっス。でも、そこにいろんな要素が混ざってしまったんス」
臙脂は右手の人差し指をたてる。
「まず、綱島瑠璃は高津槿に恋をしてしまった。青春の甘酸っぱい思い出を、高津槿に傾けたんスよ」
次に、と親指を立てる。
「彼女には激しい妄想癖があった。それは今の妄信や執着からの推測っスけど、おそらく確かだと思われるっス」
杜若は頷きながら臙脂の推理を聞く。
更に中指をたて、三つ目の要素を口にする。
「そして客観的に見てっスけど、綱島瑠璃はそこそこモテていたと思われるっス。で、これもおそらくタイミング的には最悪な――SNSの投稿から推測するに、たぶん高津槿の卒業式の時っスね。綱島瑠璃はその年の卒業生に告白されたんスよ」
「こ、告白!」
杜若は声を裏返して思わず叫ぶ。
「カッキー、
「う、うるせぇな」
真っ赤な顔でそう言うが、臙脂から見ればその反応全てが、臙脂の言葉を肯定しているようにしか見えなかった。
「臙脂って言葉選びのセンスねぇよな」
「うるせぇっス」
杜若が言い返してやれば、臙脂もムッとしてそうぶっきらぼうに言い返す。
「ほーら、カッキーはすぐに脱線させるんスから。続けるっスよ、四つ目の要素っス」
薬指をたて、言葉を続ける。
「その時に綱島瑠璃に告白した男子生徒――高津槿じゃなくて、全くの別人だったと思われるっス――は、自分の身に着けていたリストバンドを、綱島瑠璃にプレゼントしたんス。制服の第二ボタン的なノリだったんだと思うっスけど、それがたまたま高津槿の身に着けていたものと全く同じだったんスよ。当時大流行したリストバンドで、デザインも限られてるっスから、同じものを他人が持っていても不思議はないっスけど、これがトドメになってしまったんスね」
臙脂は最後に小指も立てると、手のひらを杜若に見せる。
「全部が合わさった結果、推測っスけど、綱島瑠璃の中ではこんな記憶になってしまったんス。『憧れで想いを寄せる先輩が、卒業式の日に私に告白してくれた。そしてこの
「つまり……盛大な記憶違いと勘違いってことか?」
「はいっス。それが、高津槿が卒業してから思い込みが加速して、綱島瑠璃の中で真実に昇格してしまったんス。もしかしたら、高津槿は綱島瑠璃を一切認識していない可能性すらあるっスね」
一方的な想いが一方的なすれ違いを生み、そして大きな歪みになってしまった。
「うーん、それだけだと足りないと思うんだけど」
「うん、まぁ、不法侵入に名誉棄損、やってる事はえげつないスけど、確かにそちらさんの対象になるかって言うと、弱いんスよねぇ。普通の裁判と同じで、精神状態も見るっスよね、そちらさんの調査って。で、この妄想癖は、さすがに考慮する対象になるっスよね?」
「最終的な判断を下すのは紫紺さんだけど、たぶんそうなるだろうな」
呪殺するには、全ての要素を差し引いた総合値というものを出すらしい。その基準を知っているのは紫紺と、牡丹だけのようだ。
杜若は知らされていないし、おそらく今後も知らされることは無いだろう。おそらく、『呪殺委託執行社』にとって、最重要機密の一つだからだ。
「じゃあ、もし呪うとしても、呪い返しの危険が大きいことを前提で呪殺するか、あるいは殺さない程度の呪いをかけるか、そのどっちかってことスかね」
「そうなるんじゃねぇかな。余程相手が望めば、危険を説明したうえで執行はするけど――ま、今回は呪殺の成功と失敗確率五分ってとこになりそうだな」
二年も働けば、なんなく成功率がどれくらいなのかわかる。今回の要素だけでは、呪殺に必要な要素は薄い。
かといって放置もできない。おそらく、命を奪わない程度の呪いをかけるという判断に落ち着くだろう。
「個人的には、この話聞いたところで許しきれないんだけどな……」
杜若はぼそりと呟く。
臙脂はチラリと横目で杜若を見ると、モニターに目を戻し、しばらくの後口を開いた。
「……
臙脂は紫紺のことを『姐さん』と呼ぶ。こう呼ぶのは臙脂だけなので、こちらも一瞬誰のことを指して言ったのかわからなかったが、文脈からして紫紺しか当てはまらなそうだったので、杜若は首を縦に振った。
「え? ああ、そうだな」
「依頼者に対する悪意や罪だけじゃなくて、他の人に向けたものも含まれたはずっスよね」
「だから、そうだって言ってるだろ」
臙脂は「なら」とキーボードをたたき始めた。
「おい」
「それなら、これもついでに報告しておくといいっスよ」
タンとエンターキーが叩かれ、五つの画面いっぱいに様々なSNSが表示される。
写真メインのもの、ブログ形式のもの、短文投稿のもの、特定相手へのメッセージを送りあうもの――。
『職場のあの若作りビッチ女、マジでムカツク。死ねばいいのに。』
『あのハゲ上司、なんであんな美人の奥さんがいるのよ。わけわかんない。』
『この前の取引先、後輩のブスばっかり贔屓するんですけど。私の方が断然可愛いのに。あんなブスのどこがいいのよ。』
短文SNSには、そんな愚痴が多い。これはまだ、わかる。杜若もSNSでよく見かける愚痴や陰口の、ちょっと過激な程度のもの。
だが。
『ビッチ女が調子乗っててウザい。
『あのハゲ上司の不倫の証拠ゲット。どうやって拡散しようかな。』
『ブス後輩の弱み動画ゲット。これは使えるわ。』
だんだんと混ざり始める、不穏な単語の数々。
「で、乗っ取ってやったってアカウントが、これ」
臙脂がモニターの一角を指さす。
短文投稿を主体としたSNSの『エニ』と名乗るアカウントには、友人との旅行の感想や、彼氏とのデートの楽し気な報告、最近読んだ本の感想や、可愛らしい動物動画のサイト引用などが並んでいた。いたって普通のユーザーだ。
そこに、不自然なところは見受けられない。
「なんかおかしいところ、あるか?」
「もう消されてるっスからね。でも、消される前の投稿の
それがこれ、と画像を開き、モニターに表示させる。
『【急募!】平日はほぼ毎日、◇◇線◯◯駅上り午後十九時三十二分発△△行、三号車の前から二番目の扉から乗ってます。最近刺激が足りないので、誰か遊んでください。明るいセミロングの髪に、ダークグレーのミニスカスーツです。どんな人でも遊んでくれるだけで嬉しいです。過激なプレイ希望のMです。』
「で、実際この『エニ』さん――本名は
「それって、つまり」
「はいっス。この投稿をしたのは綱島瑠璃で、このアカウントの本来の主に気付かれる前に乗っ取り、この投稿をし、実際に被害が出た直後に投稿を消した。おそらく、被害者はこの投稿のことすら知らず、被害にあった翌日にもいつもと同じ電車を使ってしまい、被害にあった」
次に、と臙脂は別のモニターを指す。
「これは匿名性の高いネット掲示板っスね。綱島瑠璃は、ここにある
それがこれっス、と示されたものは、『美人妻を持ちながら、夜ごと女を弄ぶ中年オヤジ』というタイトルで、画像の添付された記事。それも、夫婦どちらも、加工がされているとはいえ写真が載せられてしまっていて、見る人が見ればその写真が誰を写したものなのかわかってしまうようなものだ。
「これは、ハゲ上司って言ってた人の不倫の証拠写真っスね。しかも、これ奥さんに向けてメールでサイトURLを直接送り付けたみたいで、離婚にまで追い込んだみたいっス。ま、半分はこの上司さんの自業自得みたいなもんスけど、この記事の内容はあることないこと根拠のないデマも多くてっスね。奥さんの方も何も悪くないのにかなり散々書かれてるんスよ」
「それって、具体的には?」
「初心なピュアピュア純粋童貞チェリーボーイのカッキーには刺激が強すぎて教えられないっス」
「お前いつか背後から刺すぞ」
怖い怖いと呟きながら、臙脂はサイトのURLをコピーしていた。
「ま、カッキーには刺激強すぎて見せられないっスけど、姐さんには見せなきゃなんで、とりあえずこの辺のスクリーンショットとかサイトとか、全部外部メモリに保存したっスから、これを直接姐さんに渡してくれればいいっスよ」
そう言いながら、臙脂はまた別のモニターに目を向ける。
「で、最後の後輩さんなんスけど。これまた酷い仕打ち受けてるっスね」
「酷いって?」
「一人目は痴漢被害、二人目は離婚、三人目のこの後輩は性的暴行を受けて今も病院から出られてないっス」
杜若は、自分の息が詰まったように感じた。
「この三人目は、先の二人の被害を合わせた感じっスね。アカウント乗っ取られて普段の行動を細かく曝されたうえ、以前付き合ったDV彼氏に撮られたいかがわしい写真をクラウド経由で綱島瑠璃に入手されて、ネット掲示板にも曝されてしまった。そんで、それ見た変質者共に襲われてしまったんスね。結構な事件になったみたいっス。アカウント乗っ取られた形跡までは警察も突き止めたみたいっスけど、乗っ取った犯人の特定までは至らず迷宮入りで幕引きっス」
臙脂は忌々しげにモニターの電源を全部落とすと、杜若に目を向け吐き捨てるように言った。
「俺もネットでそこそこ胸糞悪い連中見てきたっスけど、ここまでのは初めてっスよ。救いようのない性悪っス。いくら妄想癖が激しいからって、モラルと常識の欠如は別問題っスよ」
「そうだな」
杜若は絞り出すように掠れた声で同意する。
臙脂は何もついてないモニターに向かい合うと、杜若に目を向けずに口を開いた。
「二階のリビングの奥に、完全防音のトレーニングルームがあるっス。俺の運動用のサンドバックもあるっスから、勝手に使っていいっスよ」
「……サンキュ、そこ二十分くらい借りる」
「どうぞ、ごゆっくりっス」
おそらく、臙脂は知っている。杜若がどうして『呪殺委託執行社』でアルバイトをしているのか。どんな経緯で『呪殺委託執行社』と関わりあったのか。そのきっかけを。
だからこそ、この件について杜若が我を忘れるくらい怒り狂うということも、わかっていた。
「臙脂って、やっぱ恐ろしいヤツだな」
口が悪く、性格もいいわけではない。むしろ、そこそこ酷いヤツであると、そう思っている。
だが、頭はいいし気もよく回るヤツだということも知っている。根がとてもいいヤツなのは確かなのだ。
それをあまり感じさせない、そんなところが恐ろしい。
ガレージを一歩出てそう呟くと、杜若は臙脂に勧められた通り、二階のトレーニングルームへと足を向けた。
―†―†―†―†―
「なるほど、話聞く限りでも、結構なもんだな」
翌日。午後三時を回った頃、大学帰りのその足で『うしみつ』に向かった杜若は、臙脂にもらった情報をすべて紫紺に提出した。
「うーん、昨日の夜にお前から呪殺対象の情報もらったから、午前の中にその綱島瑠璃って女の職場に行ってきて、『同名同生通符』使ってきたんだよ」
「さすが、紫紺さん仕事早いっすね」
「今回は悪質だからな。で、綱島瑠璃の倶生神に話聞いてきたんだよ。そうしたら、出るわ出るわ悪行の数々。しかも質が悪いのが、それ全部綱島瑠璃本人が悪いことだと思ってないみたいなんだよな」
アイスコーヒーのグラスに挿されたストローで氷を突いて弄びながら、紫紺は疲れたように言う。
「は? それ、悪意がないってことですか?」
「いや、悪意はある。悪意はあるんだが、それが悪いことだと思ってないんだ。法に触れるとか、そういう意味での悪いことにはならないと思ってるんだよ」
「はぁ?」
「自己中心も行き着く先は恐ろしいよなぁ。自分を中心に世界が回っていると思っている奴が本当に存在しているとは、と思ったよ。たぶん、今のうちに手を打たないとヤバイことになる」
紫紺はストローを深く突き刺す。ガシャ、と氷が悲鳴を上げた。
杜若は息を呑んだ。紫紺から冷気が漏れ出しているのではと錯覚するほど、空気が張り詰める。
ピンと張り詰めた凍える朝の湖面のような緊張した空気は、息をすることすら躊躇うほどに冷え切っていて重い。
「心配すんな、今回は確実に成功するさ。っつか、今夜依頼主を呼び出さなきゃヤバイかもな。もう時間に余裕なさそうだったし」
「余裕がないって、それは倶生神に話を聞いてそう思ったんですか?」
「そういうこと。悪いがカッキー、お前、もう今日は帰れ」
紫紺はアイスコーヒーを一息に飲み干すと、そう言って立ち上がった。杜若が提出した資料とデータメモリを持つと、「じゃあな」とだけ言って店の奥に足早に姿を消してしまった。
杜若はその後姿を見送ると、張り詰めていた息をやっと吐いた。
「すみません、杜若君。紫紺があんなに焦るのは珍しいですね。怖かったでしょう」
突然優しい声を掛けられ、杜若はビクリと肩を跳ねさせる。
黒橡だった。穏やかな笑みを湛え、杜若の前に新しい珈琲を置く。
「あ……ありがとうございます」
紫紺に報告と説明をしているうちに冷め切ってしまった珈琲を淹れなおしてくれたようだ。
温かな珈琲に口をつけ、杜若は大きく息を吐く。
張り詰めていた緊張がゆっくりとほぐれていくのを感じた。
やはり黒橡の珈琲はすごい。この一杯、この一口で、こんなにも安心できる。
「すぐに帰る必要もありませんよ。紫紺は、二階で一人で作業したいのでしょう。そっとしておいてあげてください」
「作業、ですか」
「ええ。杜若君の持ってきた情報にも目を通さなければいけませんし、執行するにしても方法は星の数ほどありますからね。執行方法も考えなければいけませんし、方法によっては準備する物もあります。紫紺が今夜にもと言ったということは、もう時間がありませんから、集中したいのでしょう」
そうだ。紫紺は今から、情報のすべてに目を通し、精査し、依頼主への説明証の書類を作成し、呪殺方法を考え、その方法如何では器具や用具の準備もしなければいけないのだ。
それなのに杜若に「帰れ」と告げたということは、これ以上杜若にできることは何一つ無いということだろう。
「俺って無力っすね」
ぼんやりと珈琲に映る自分を見つめながら、そう呟く。
ここから先は、もう杜若がどんなに望もうと手伝うことすらできない領域なのだ。只人であることを痛感させられるし、無力さに虚しくなる。
「そんなことはありませんよ」
しかし、黒橡は穏やかな表情でカップに布巾をかけながら、杜若に優しく語り掛ける。
「私は、以前この仕事をすべて一人で背負っていた紫紺を知っています。一人で依頼を聞き、一人で調べ、一人で情報を精査し、一人で依頼主に説明をし、一人で執行する、そんな紫紺を見守っていました。私には、書類仕事を手伝うくらいしかできませんでしたから。紫紺の仕事量は、今とは比べ物にならない物でした。いつも目の下に濃い隈を拵えて、それでも折れることなく黙々と仕事を遂行する彼女に、いつか倒れてしまうのではと心配することしかできなかった」
黒橡の言葉の節々から、歯痒さが伝わってくる。
杜若以上に、黒橡は無力さを感じているのだ。同じ一族に生まれながら、黒橡には力がない。杜若以上に紫紺の大変さを把握しているのに、その力になることができない。
もどかしく、歯痒く、無力に苦しんでいるのは、杜若よりも黒橡なのだろう。
「ですが、牡丹君が入って、そして杜若君も加わって、ここは賑やかになりました。そして、紫紺の作業負担も大きく減って、隈もなくなりました。きっと彼女も、感謝していると思いますよ」
「
「だから、私はマスターではないですよ」
困ったように微笑む黒橡に、杜若は静かに笑う。
黒橡がそう言うのなら、きっとそれは紫紺が思っていることなのだろう。
人の感情の機微にことさら敏感な黒橡の言葉なら、信用できたし納得できた。
「俺、役に立ててンだ」
「ええ。ですから、そんなに落ち込まないでください」
「そんなに落ち込んでるように見えました?」
「ええ。漫画みたいに、どよーんとした線が見えました」
「漫画みたいって、なんだそれ……」
杜若と黒橡は、静かに笑いあった。
店内の柱時計が、午後四時を告げる音を響かせた。
―†―†―†―†―
翌日、朝一番のニュースに速報が流れた。
ワイドショーに近いスタイルの、人気タレントや若手アナウンサーがニュースや特集を語り合う番組の最中、突然報道スタジオに画面が切り替わった画面の中で、切羽詰まった表情のアナウンサーが原稿に目を落とし、早口にそれを読み上げる。
『本日未明、神奈川県横浜市内にて、遺体が発見されました。女性の悲鳴が聞こえるという通報で警察が駆け付けたところ、通報のあったアパートの一室で、その部屋に住む女性のものと思われる遺体が見つかったということです。また、この遺体は体の一部が激しく損傷しているということで、警察は殺人事件とみて、捜査を進めているということです。』
新たな情報が入り次第――と早口に告げるアナウンサーを眺めながら、杜若は自分のスマホ画面に目を落とす。
紫紺から送られてきたメッセージには、昨日の呪殺の執行と成功の報告。
そして、珍しくその呪殺内容が具体的に記載されていた。
使った媒体は虚像。
紫紺があまり得意としていない分野の呪いだ。
形代を使った呪いを得意とする紫紺は、他の呪い全般があまり得意ではないらしい。かといって、それで呪いをかけられないというわけではなく、効力が微妙に落ちるというだけらしい。それでも効力は十分以上らしいし、執行することに何ら支障はないという。
だが確実に執行するとなると、使うのはもっぱら形代の呪いのはず。それでも虚像を使ったということは、そこに大きな意味があったのだろう。
姿を隠して誰かを傷つける綱島瑠璃は、鏡面に飲み込まれてしまったという。鏡面、と言っても、鏡面になり得るものを指してすべてそう呼んでいるので、実際はパソコンの画面だったそうだ。
他人を傷つけることに使っていた道具に喰われて命を落とす。どんな風に呪われたのか、それは杜若にはわからない。
だが、状況については、ニュースに流れない内容までがメッセージに書かれていた。
思わず吐き気を覚えるその内容に、反射的に目をそらす。
きっと、ニュースになることは無い。ニュースになどできるはずがない。
首から上がパソコンの画面に呑まれて頭部が欠損した遺体など、報道できるはずがないのだ。
そして、常識的にもあり得ない遺体に、警察は匙を投げるのだろう。
杜若はテレビを消し、スマホの画面も消す。
また、一人亡くなった。
紫紺が
この『呪殺委託執行社』で二年も働いているのに、未だに誰かが
だが、きっと慣れてはいけないのだろう。
慣れてしまえば、もう普通の生活に二度と戻れなくなる。
それでも。
「もう、普通になんて戻れる気がしねぇや」
そう呟いてしまうほどに、杜若は深くにまで踏み込んでしまっているのだろう。
紫紺たちの住む、異様な世界に。
杜若は一つ大きく息を吐くと、朝食を摂るために部屋を出た。
杜若が部屋を出た瞬間。
誰もいなくなった部屋の、扉が閉まるほんの一瞬早く。
机の端に置かれた小さな鏡に亀裂が入って、その奥で異様な形をした影が蠢いた。
呪殺委託執行社 潮音 @Shion_Mitomo
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