第2話
この学校の図書室には魔女がいる。
人を殺す、本物の魔女が。
そんな噂話を聞いたのは、高校に入学してすぐのことだった。
「魔女?」
「そう、魔女」
入学早々に、席が隣だからと仲良くなった少女は、面白そうにその噂話を口にした。
「この学校の、三年生の先輩がそう呼ばれてるらしいのよ」
なんだ、正体がわかっているんじゃないか。
怪談話でも、学校の七不思議でも、なんでもない。ただのアダ名か何かだろう。
だが、『人を殺す、本物の魔女』というフレーズはひっかかる。虐めで誰かを自殺においやったとか、そういうことなのだろうか。
そう思っていると、その少女は続けて言った。
「なんでも、その魔女に殺したい人を相談すると、本当に殺してくれるとか」
「はぁ、何それ」
顔をしかめてそう問い返す。それは魔女ではなく、ただの殺し屋なのではなかろうか。それとも、魔女のようにおっかないということなのだろうか。
噂話なだけあって、その魔女がどんな人相なのか、どんな性格なのか、そういったことは全くわからなかった。
だが、その『魔女』とやらが、とても気になった。
何故気になったのかはわからない。噂話では、『不用意に話しかけると呪われてしまうから、理由なく近づくのも危険』とさえ付け加えられているほど、その『魔女』とやらは恐れられているそうだ。
「その『魔女』の先輩って、図書室にいるんだよね」
「うん。授業以外の時間は、ほとんどいるって噂だよ。図書室の奥、本棚に囲まれた机があるんだけど、そこでいつも分厚い本を開いてるって。魔術書を開いてるんだって」
「魔術書、って」
おそらく、それは尾ひれのついたガセだろう。だが、いる場所とやらは、そこに間違いなさそうだ。
「図書室の奥、本棚に囲まれた机なんて、あったっけ」
昔から本が好きで、来週に控えている委員会決めでは図書委員に立候補しようとしているくらいなので、もう何度か図書室には足を運んでいる。もっとも、まだ図書室全体を見て回ったわけではなく、受付カウンター周辺の小説コーナーくらいしか見れていない。
公立の高校にしてはかなり広い図書室をもつこの高校は、図書室だけで普通の教室で例えると十教室分くらいの広さがある。さらに書庫を合わせると、その倍以上の広さはあるだろう。
入学して数日で全体を見て回れるほどの広さではないので、今はまだ図書室全体がどうなっているかなどは把握しきれていないのだ。
「え、まさか行く気?」
「うーん、その『魔女』だって先輩、気になるし」
「うへぇ、物好き。やめときなって、呪われて殺されちゃうよ?」
友人の少女は大袈裟に顔をしかめ、ヒラヒラと手を振る。
「嫌よ、高校入学早々に、仲良くなった友達の葬式に行くなんて」
「そんなことになるわけないでしょ。呪いだの魔女だの、そんな非現実的な。ありえないって。アダ名とか、その程度のことなんじゃないの」
「うーん、そうだろうけど」
少女は顎に手をあて唸る。
「夢がないなぁ」
「夢がなくて結構」
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく込み上げてきた笑いに身を任せ、声をあげて笑った。
それは、高校入学数日後の、ある昼休みのことだった。
「図書室の、奥……」
その日の放課後。噂をたよりに、図書室へと足を踏み入れた。
受付に座る顔馴染みになりつつある司書教諭に会釈をし、まだ行ったことのない奥の文学集などの棚のある一角を目指して歩く。天井まで届く背の高い棚には、深い色の箱入りの文学全集などがきっちりと並べられ、息苦しさを感じさせる圧迫感がある。さらに窓もなく、照明も心許ない。
棚を埋め尽くす暗い色味の本もあいまって、その一角は異様に暗く沈んでいた。
そんな中で。
ぽつりと。
自習用の六人掛けのテーブル席の端の席に、制服姿の女生徒が座っていた。
手元を照らす卓上ライトが、その女生徒をぼうと浮かび上がらせる。
思わず足を止め、そして息をするのも忘れて、その女生徒に魅入ってしまった。
これまで出会ったことのない、衝撃を受けるほどの、絶世の美女だった。
長い黒髪は後ろで束ねて蜻蛉玉の簪でまとめていて、その毛先は紫色を帯びている。伏し目がちの睫毛は長く、肌は白磁のように透き通っていた。
片肘をついて革表紙の分厚い本を捲るその姿は、まるで西洋の御伽噺の挿し絵のようにも見える。
それくらいに現実場馴れしたその光景に、思わず呑まれてしまう。
傾国の美女とまで言われた
もちろんそんな過去の偉人など実際に見たことはないが、目の前の女生徒はそんな美女たちに匹敵するか、それ以上だろうと本能が告げていた。
その女生徒を見て、『魔女』と言われているのも納得できた。
これはもう、人ではない。人という括りには収まらない。そう理解してしまった。
ふと、女生徒が顔をあげた。深い紫色の瞳が、こちらを射抜く。
すっと細められたツリ目がちの瞳が、こちらを観察してくる。
「一年生が、何の用」
凛としたメゾソプラノが、そう問うてきた。
ビクリ、と肩が震える。とても綺麗な声だった。外見も人離れした美しさなら、声まで聞き惚れるほどに美しいらしい。
無感情を貫くその美人な女生徒の眉が、怪訝そうにひそめられた。
「ねぇ、聞いてる」
はっと瞬く。思い出したように呼吸を再開すると、ひゅっと変な音が出た。
「ここ、迷いこんだの」
「あ、いえ、あの」
「それとも、誰か殺してほしいの」
肩が跳ねた。今、目の前の女生徒は何と言った?
誰かを殺す?
「こ、殺すって……」
「違うの」
「えっと」
紫の瞳がすうっと細められる。
「違うなら、いい」
「え?」
「今の発言、忘れて」
「あ――」
気づくと、紫色の目は、再び分厚い本へと落ちていた。
立ち尽くすことしかできず、ただただ間抜けに口をぽっかりと開き、女生徒を見つめ続ける。
しばらく、動くこともできずにそうしていた。
女生徒も、こちらへは全く意識を向けない。先程の一度で、もう興味も何もかも失せたようだ。本を読むという行為を再開してからは、まるでこちらの存在自体を意識から排除したかのように、それとも道端の小石程度と認識したかのように、自然体で読書を続けていた。
「あ、あの!」
気付けば声をあげていた。自分が女生徒の意識の外に追いやられていることにはもちろん気付いていたが、それでも声をかけていた。
だが、この場のどこか異質な空気に呑まれ、声は裏返る。
裏返った声がやけに響いた気がして、一気に羞恥が込み上げてくる。きっと、今自分の顔は真っ赤になっているだろう。
女生徒が顔をあげた。無表情ながら、「まだ居たのか」とでも言いたげな目をこちらに向けてくる。
「あの」
今度は、裏返らずにちゃんと言葉を口にできた。その事に安堵しながら、気になっていたことを問う。
「なんで、『魔女』なんですか?」
口にして、あまりにも捻りのない間抜けな問いに、内心頭を抱えた。ストレートに聞きすぎた。考えなしで問うべきじゃなかった。
「――『魔女』と他の人が勝手に呼んでるだけ」
「あ、そ、そうなんですね」
「『魔女』という表現は、正しくない」
「え?」
「まぁ、普通の人からしたら、同じかもしれないけど」
「あの」
「『魔法』を扱った覚えも、使って見せたこともない」
まるでその言い方は、他のものなら扱ったことがあるし使って見せたことがあるというように聞こえた。
追及しようかと口を開いたが、結局なにも言葉が浮かばずに口を閉じた。これ以上聞いたら戻れなくなると本能が告げていた。
なのに、それなのに。
――それでもいいのかもしれない。
そう思ってしまっている自分が、確かに存在した。
不思議な『魔女』との邂逅は、そうして果たされたのだった。
―†―†―†―†―
コロンカランと扉のカウベルが音をたてて入店を告げるカフェ『うしみつ』。
この音とともに入店すると出迎えてくれるのは、壁にまで染み付いた珈琲の芳香と、静かなジャズの音色。
バイトが入っていなくてもついつい足を伸ばしてしまうのは、この空気に包まれたくなってしまうからだ。
そして。
「いらっしゃい。ああ、杜若くん。おはようございます」
「
杜若の挨拶に苦笑するこの
今日は大学終わりに『うしみつ』へと足を向けた。提出期限の迫った課題を終わらせようと、ノートパソコンも持ち込んでいる。
課題をやるときは、窓際の大きな窓に面した席に陣取るのが常なのだが、今日は久しぶりに見る後ろ姿をカウンターの端に見つけ、目を見開く。
「
杜若がその名を口に出すと、カウンター席に座っていた黒髪ショートカットの女性が振り向いた。
「久しぶり、杜若」
片手をあげてこちらに向かってそう口にした女性は、『呪殺委託執行社』のもう一人のアルバイトだ。
某国立大学の院に在籍する学生で、民俗学を専攻している。シルバーフレームの知的な印象の眼鏡をしていて、見た目通り根っからの文系の二十四歳。
杜若は足で情報を集める調査員だが、牡丹は主に相談員兼事務職だ。牡丹がいるときは、依頼主へ渡す調査結果書類などは基本的に牡丹が作成する。
そして、『呪殺委託執行社』でのアルバイトとしても、牡丹は杜若よりも先輩だ。
「牡丹くん、久しぶりにご来店されたんですよ」
黒橡が口元をゆるめてそう告げる。
「学会関係のことは終わったらしくて」
「あー、黒橡さん、思い出させないでくださいよ。本当にしんどかったんですから」
牡丹が顔をしかめる。杜若も苦笑した。学会関係で教授と意見が合わないと愚痴られたのは、確か牡丹がここに来れなくなる直前くらいだったはずだ。
「牡丹さん、なんでも物怖じせずに言っちゃいますから」
「いいの、それくらい言わなきゃ、自分の意見なんて絶対に通らないもんなんだから。押し通したもん勝ちよ」
知的でおしとやかな見た目とは裏腹に、牡丹は案外強気な女性だ。
教授とは顔をあわせるたびに口論になると、牡丹から直接よく愚痴られている杜若は知っている。終いには同じ研究室の全員が仲裁に入っても収まらないほど、熱く激しい論争になるそうだ。
文庫本を片手に静かに珈琲を嗜む姿を知っているからこそ、牡丹のそんな姿は簡単には思い浮かばない。絵に描いたような文系美女がそこまで熱くなるという教授とは、どれほど気が合わないのだろうか。
「そうだ。ところでさ、杜若」
「あ、はい、なんですか?」
立ったままというのもなんだ、と牡丹のとなりに腰掛け、黒橡に珈琲を頼みながら、話しかけてきた牡丹に目を向ける。
シルバーフレームの眼鏡の奥の目が、真っ直ぐ杜若を捉えていた。その目に思わず仰け反りながら、杜若はもう一度「な、なんですか?」と口にする。
「先週、一件仕事入ったんだって?」
先週の仕事と言われ、杜若は「ああ」と頷く。
「はい、ありましたよ」
「それ、どんなだった?」
ずい、と牡丹が身を乗り出す。その目はどこか輝いていて、ワクワクという擬音が聞こえてくるように錯覚してしまう。
「いえ、あの、そう言われると思って、とりあえずレポートみたいな感じでまとめたんですけど……」
「仕事が早いわね。それ、ちょうだい」
「は、はい。これです」
杜若は自分のバッグから透明なクリアファイルに入れたコピー用紙の束をファイルごと牡丹に渡す。
牡丹はそれを奪い取るようにして杜若から受けとると、早速目を通し始めた。
そして、所々で「ここはどうだったんだ」「ここはどう感じた」「このときの印象はどうだった」と事細かに杜若の口で説明させ、レポートの余白に赤ペンで杜若の説明を漏れなく書き込んでいく。
「熱心ですね、牡丹さん」
「まあね。後々、研究に活かせるかもしれないし」
しばらくして杜若はようやく解放された。数回しか口をつける余裕もなかった珈琲は、すっかり冷めきってしまっている。
「相変わらず牡丹くんは熱心ですね。二人とも、珈琲を淹れ直しましょうか」
黒橡は微笑ましく杜若と牡丹に目を向ける。
「あ、俺は大丈夫です。マスターの珈琲は、冷めても旨いですから」
杜若は首を横に振り、冷めてしまった珈琲を口に運んだ。それでもやはり美味しい。
「私も大丈夫ですよ、黒橡さん。ほんと、久しぶりに黒橡さんの珈琲飲むと『帰ってきた』って気分になります」
「おやおや、お世辞でも嬉しいことを言ってくれますね、二人とも」
「もう、黒橡さんたら、お世辞じゃなくて本心なのに」
牡丹はそう口を尖らせ、そして静かに笑う。
杜若も力強く頷き、牡丹に同意した。
本当に黒橡の淹れる珈琲は世界一美味しいと本心から思っている。
「ところで、
そういえば、といった様子で、姿の見えない紫紺を目で探す牡丹。いつもなら『呪殺委託執行社』の誰かが『うしみつ』に来店すると、降りてくることが多いからだ。
「寝ているのではないでしょうか。確か、昨日は夜遅くまで報告させられていたと言っていましたから」
「報告?」
「『
黒橡が困ったように眉を下げる。
「報告義務、ですか」
「えぇ、『呪殺委託執行社』については、職務内容の報告は義務付けられていないのですよ。紫紺は『
「ジュケ?」
黒橡の口から出た、聞きなれない言葉。杜若が首を傾げると、黒橡は「しまった」というように眉を寄せた。
一方で牡丹は「あれ」と首を傾げた。
「杜若、知らなかったんだ」
「牡丹さんは何のことか知ってるんですか?」
「そりゃあ、ね」
牡丹は頷く。そして、黒橡に「話してもいいか」と確認するように目を向けた。
「……口を滑らせてしまったのは私です。我々のこと話しても構わないでしょう。杜若くんは口も堅いですし」
降参とでも言うように両の手を肩の高さまで挙げ、黒橡がそう告げる。
それを聞いて、牡丹は隣に座る杜若に向き直った。
「それじゃあ、黒橡さんの許可も出たから話すね。紫紺さんや黒橡さんの一族が、かなり大きな一族だってことは、杜若も知ってると思うけど――」
「はい。それは、黒橡さんに聞いたり、紫紺さんに聞いたりしてますから」
杜若は頷く。
「うん、じゃあそこは省くね。で、黒橡さんたちの一族の『宗家』――これは本家筋のことね――は、京都の鞍馬の山奥に屋敷を構えてるのよ。それで、紫紺さんたちのような分家は、それぞれ『宗家』からの指示で、大昔に日本全国に散らばったの。紫紺さんたちの一家は多摩・相模地区の担当でね、数代に渡って、この辺りの地域の担当呪術師を担ってる」
「地域の担当呪術師、ですか」
「要は、オカルト監視員のようなものね。紫紺さんたちの一族は、呪術を
古い商業ビルの一角にぽつんと存在する占い屋を思い浮かべた。なるほど、そういったオカルト関係の職に就いたり力を持ったりする人間が暴走しないように見張るということだろうか。
そう牡丹に問うと、牡丹は頷いた。
「まあ、そんな感じかな。ほら、カルト宗教って、そういうのが発端になることもあるから。あるいは、そういう疑惑のある講習会とかセミナーの監視ね。そういったあくどいコトに力や知識を使おうとする人を見張ったり、牽制したり、よっぽど酷い時には拘束して『宗家』の方に連行したり……と、まあ、そんな感じのお役目のために、一族の人たちは日本全国各所に据えられて、担当としてその地域を監視しているの。と、ここまでが紫紺さんたちの一族の在り方のまず一つの前提ね」
牡丹は一区切りつかせると、珈琲を口に運ぶ。そのすきに、杜若も珈琲を一口飲む。
牡丹はカップをソーサーに戻すと「続けるね」と口を開いた。
「で、『十家』のこと。紫紺さんたちの一族は、力の大きさに応じて大きく三つに分けられるのよ。一番強い力を持つ家筋や一家を『十家』って言ってね、表向きは十の家って書いてじゅけと読ませてるけど、これは当て字。本来は『
牡丹はカウンターの隅の紙ナプキンを広げ、そこに『
「で、一族の他大半は『
牡丹は、『
そして、ピタリと手を止め、口を閉じる。
「牡丹さん?」
あとひとつ、あったはずだ。杜若は、突然口を閉ざした牡丹を怪訝そうに見つめる。
牡丹は、黒橡の顔をうかがっていた。
「あの、ここで話して大丈夫ですか?」
申し訳なさそうに、牡丹が黒橡に問う。
黒橡は穏やかな微笑を浮かべ、頷いた。
「ええ、事実ですから」
その表情は、穏やかながらどこか暗い。
牡丹は杜若に向き直ると、さらに『
「――最後に、『
そこで、杜若も理解した。
黒橡はその古家なのだと。
以前、そんなことを黒橡自身が語っていた。
だから、牡丹は口にするのを躊躇ったのだ。
黒橡は暗く曖昧な微笑を崩さない。
牡丹は一度目を伏せると、わざと明るい声を出して続けた。
「で、その『十家』、『千家』、『古家』のすべての頂点に立つのが、『宗家』と呼ばれる御本家筋なの」
『
それが、紫紺たち一族のあり方なのだろう。
「一応、一族内での権力というか、発言力というか、そういうのもあってね。『宗家』が一番強くて、『宗家』の言うことは絶対なの。次に『十家』がきて、『千家』、『古家』と続く。力の大きさによる発言力の差ね。で、『十家』や『千家』っていうのは、二年に一度、鞍馬の本家で親戚一同が会して決めるそうよ。ちなみに、紫紺さんたちは子供の頃から『十家』らしいわ」
それは納得できた。紫紺の力を目の当たりにしたことがあるからだ。
杜若も、最初はこの場所に依頼主として訪れたのだから。
それは牡丹も同じらしい。もっとも、牡丹は杜若とは違い、『
「で、さっき言ってた報告云々ってのは、そもそも一族の者は、基本的に呪いを実行した場合は宗家への報告義務があるの。
「その報告義務が、十家にはないんですね?」
「そう。そもそも十家の数は、その名の通り十前後――少ないときは十もないのよ。そして、二年に一度の十家の選定には、力の乱用をしないことをまず前提に協議されるの。呪術の才が高く、その力を私利私欲のために乱用しない家をね。紫紺さんたちは、その基準を満たしているのよ。『
業態については詳しく聞くまでもない。杜若は、客としても従業員としても関わっているのだ。今この場所で調査に一番関わっているのは杜若だし、その調査がどれだけ入念に行われているか、どれだけ詳細に調べているのかを一番知っているのも杜若だ。
「私立の学校で例えれば、理事や学長が宗家、教師陣が十家、生徒が千家って感じかな」
「あ、一気にわかりやすくなりました」
どこかもやもやとしていた組織の全容が、頭の中で少しまともに形づいた。牡丹はあえて口にはしなかったが、古家はその更に下に位置しているということだろう。
「それで、紫紺さんには報告義務はないって言ってたんですね」
杜若はやっと納得した。
「まあ、なら紫紺さんが来ないのも納得というか」
「紫紺さんって、宗家の人と会うといつも疲れた顔して不機嫌になるもんね」
杜若が呟き、牡丹はクスクスと笑う。
黒橡も柔らかな笑みを浮かべ、杜若と牡丹の背後を見遣った。
二人の背後に、誰かが立つ。
「悪かったな。短気なもんで、嫌いなものに会ったら不機嫌になっちまうんだよ」
いつもよりも幾分か低い声が降ってきた。
油の切れた
「し、紫紺さん……おはようございます」
「おう、おはようカッキー、元気そうだな」
ぎこちなく挨拶をすると、満面の笑みで紫紺がそう返してきた。
「牡丹もしばらくぶりだな」
「紫紺さん、あの、これはですね?」
牡丹も
「人のいないところで噂話とは、さぞ楽しかっただろうな?」
「いや、あの、そうじゃなくて、杜若に紫紺さんたちの一族のことを教えていただけなんです。ね、杜若?」
「えっ、あ、はい、そうなんです」
「へぇ?」
紫紺の冷ややかな目が杜若と牡丹に突き刺さる。黒橡は穏やかな笑みを湛えたまま、布巾を手にカップを拭っていた。この状況を微笑ましく思っているということが伝わってくる。
噂話とも言えることをしていたのは事実なので、二人は真っ青な顔で紫紺を見上げる。
暫らく二人と紫紺は睨み合っていたが、牡丹と杜若が自分たちの心臓が止まるんじゃないかと思い始めた頃、紫紺が突然俯いて肩を震わせ始めた。
「クッ、クク、フフフッ、アッハハハハハハハ!」
肩を震わせるだけでは我慢できなかったらしく、紫紺は腹を抱えて大声で笑い出した。牡丹と杜若は、揃って間抜けな顔で紫紺を見上げる。
「そんなこと気にするようなタマに見えるか? 気にしちゃいねぇよ。……っにしても、その顔――ククッ、笑える、マジで」
紫紺は笑いながら牡丹の隣に腰かける。すかさず、いつの間に用意したのか黒橡が珈琲を紫紺の目の前に置いた。
「お、サンキューな、クロさん。で、そういやカッキーには一族のこと、ここまで詳しく話してなかったんだっけか」
珈琲を口に運びながら、紫紺が思い出したように呟く。
「まあ、その、話されないのなら、俺には関係のないことなんだなと思ってましたから」
「そうだな、深く知らない方がいい。お前も戻れなくなっちまう」
紫紺はそう言って、珈琲に映る自分を見つめながら「もっとも」と低い声で呟いた。
「もう、手遅れなのかもしれないがな」
―†―†―†―†―
「ねぇ、また魔女のところ行く気なの?」
「魔女、って」
授業後の
入学してから三ヶ月経っていた。夏休みも目前の、七月半ば。窓の外では、蝉の鳴き声が苛烈を極めていた。空に張り付く積乱雲も、夏の暑さをさらに助長させる。
節約と言いながら教職員室だけは快適な、そんなどこの学校とも同じ理不尽な立場を享受するしかない生徒たちにとって、真夏の教室など一秒でも長く居たくないのは誰もが同じだ。部活がある者は外の真夏日の暑さに辟易としながらも部活に向かい、帰宅部はそそくさと帰路につくか、近場のゲームセンターやファミリーレストランなどに涼みに行く。
あるいは、勉強熱心な一部の生徒は、唯一生徒が自由に出入りのできる冷房の利いた
もっとも、図書館は魔女の棲家だ。勉強のためにと図書館に足を運ぶ者も、部屋の奥までは魔女を恐れて踏み込むことはない。
そんな図書館の奥の魔女の棲家へと進んで入っていくのは、魔女の存在を知らない者か、ただ迷い込んだ者か、誰かを殺してほしい者か――酔狂な
少なくとも、こうして好き好んでこの場所に足繁く通い詰める自分は、酔狂な
図書館の奥深くに向かう。暗色の背表紙の文学集が棚を覆いつくす、昼間でも暗く光の乏しいその場所に、卓上ライトに照らし出された絶世の美女がぽつんと座っていた。
この女生徒は、きっとどこにいたとしても、彼女の周りだけは切り取ったかのように空間が神々しく輝くのだろう。
神々しくという例え方が、妙にすんなりと納得できた。美しすぎるからこそ魔女と誰もが畏れ、それでも魔女に近づこうという者は魔女に傾倒する。
まさに、宗教の起こりに他ならない。こうして宗教は大きくなるのか、と実感している自分がいた。自分は信奉者で、御神体は魔女の女生徒だ。気付いてしまえば抜け出せなくなる。その冷たいカリスマという名の底なし沼に、もがいてももがかなくても、はまって抜け出せなくなってしまう。
そして、直感していた。こうしてこの
「また来たの」
分厚い革表紙の本を捲りながら、抑揚の乏しい声が響いた。その声に、ハッと顔を上げる。
女生徒は顔すら上げていなかった。本の文面を視線でなぞりながら、それでもそこに他人が立っていることを確信した口調で声を向ける。
「あ、はい、あの――」
「見ていたいなら、好きにしていればいい」
女生徒と出会ってしまってから、時間の許す限りこの場所に通い、ただ女生徒を眺めていた。崇めていた、と言ってもいい。崇拝とは、こういうことなのだろう。特定の宗教を信仰したことのない自分には、とても新鮮な感覚だった。
女生徒の対角の席の椅子を引く。ここが自分の定位置となっていた。そうして、ひたすらに女生徒を眺め、崇め続ける。
どれくらい経ったろうか。学校の外の、街のスピーカーから流れるパンザマストがうっすらと届く。蜩の合唱がかすかに聞こえてくる、そんな時間。
机の上に置いてある女生徒の携帯電話が短く震えた。メールの着信を告げるバイブレーションのようだ。
女生徒は本を閉じると、携帯電話を開き、メールを確認する。そして、革表紙の本を学生鞄にしまうと、席を立った。
どうやら帰るようだ。だが、これまで女生徒が携帯電話を使うところなど見たことがなかったので、一瞬女生徒の俗っぽい雰囲気に唖然としてしまった自分がいた。
「
「持ってないと、連絡も満足に取れない」
心の中で呟いただけのつもりが、どうやら声に出てしまっていたらしい。言葉が返ってきて、心臓が止まるのではないかというくらい驚く。
こちらを見やる女生徒の視線には、何の熱もこもっていなかった。だが、この女生徒は人間相手であろうと物に対してであろうと、何に対してであろうと熱のこもらないこの視線を向けるのを知っている。すべてに無関心で、無感動。
女生徒は何の前触れもなく視線をはずすと、そのまま図書室を出て行ってしまった。
「あ……」
慌てて学生鞄をつかんで、後を追う。後を追って何がしたいというわけでもない。何を話すというわけでもない。それでも、正門に向かっているであろうあの女生徒の背中を追いかけてしまっていた。
これでは、ただのストーカーだ。そう頭の片隅で思いながらも、足は止まらない。
正門が見えるあたりで、やっと女生徒の背中が見える位置まで追い付いた。
だが、それでどうというわけでもない。話すこともなければ、声をかける勇気もない。ただただ見送るしかできない。
だが、意外な光景に目を見張ることになるというのは想定外だった。
「お、来たな」
「連絡してきたから」
「ま、そうだけどさ。ほら、乗れ。逃げるぞ」
「無駄な気もするけど」
ライダースの似合う、
親しげに話しかけられても、女生徒は口調も何もかも、いつも通りに無感動だ。
だが、それでもあそこまで誰かときちんと会話をしているのを見るのははじめてだった。
女性に投げ渡されたフルフェイスのヘルメットを受けとると、女生徒は素直にそれを被る。
学生鞄をまるでリュックのように――ちょっと不真面目な生徒がよくそうするように――背負うと、バイクに跨がる女性の後ろに乗る女生徒。
女性も小脇に抱えていたフルフェイスのヘルメットを被ると、バイクのエンジンを噴かせた。
放課後の中途半端な時間とはいえ、遠巻きにバイクを眺めていた帰宅途中の男子生徒が「かっこいいなぁ」と呟く声が聞こえる。
バイクはエンジンの調子を確かめるように何度か音をたて、校門前の大きな音に注意しようと鬼の形相で校舎から出てきた教師を見てか、それとも偶然か、まるで教師を嘲笑うかのように一際大きな音をたてると、そのまま走り去って行った。
「……誰なんだろう、あれ」
走り去る魔女を乗せたバイクを見送りながら、そうポツリと呟くことしかできなかった。
―†―†―†―†―
「紫紺さん、ちょっと嬉しそうですね」
ふと、牡丹が珈琲を傾けながら隣に座る紫紺に目を向けて口を開いた。
「そうか?」
「はい。なんか、こう、いつもよりもちょっと雰囲気が明るいというか、柔らかいというか」
牡丹の言葉に、言われた張本人である紫紺は首を傾げる。
杜若も紫紺に目を向けた。言われてみれば、いつもよりも雰囲気が柔軟な印象を受けるような気もする。気のせいと言われてしまえばそうなのかもしれないと思ってしまうほどに、本当に僅かな変化だった。
紫紺はしばらく思い当たる節を探すように視線を泳がせる。
いつもの紫紺なら、宗家と少しでもか変わった直後は大抵は不機嫌にしていることが多い。今回も報告をさせられていたというのなら、不機嫌になっていてもおかしくないのだ。
それなのに、いつもよりも雰囲気が柔らかく、どこか明るい。気づいてしまえば、不思議に思えてくるのは必然だった。
どれくらい経っただろうか。思い当たる節を見つけたようで、紫紺は「ああ」と手を叩いた。
「そうだ。たぶん、今朝久しぶりに電話したからだ」
「電話?」
仲の良い友人とでも話したのだろうか。杜若が首を傾げていると、牡丹が「もしかして」と目を輝かせた。
その目を見て、杜若は驚いた。
まるで『呪殺委託執行社』の仕事が入ったときのような、否、それよりも輝いた目で、牡丹は紫紺を見つめる。
「紫苑さんからですか?」
聞き覚えのない名前に、杜若は再び首を傾げた。
「あぁ。大掛かりな
「お元気そうでしたか?」
「元気もなにも、あいつ話すときはいつもあの調子だからなぁ。電話じゃ分かりにくいんだよ」
紫紺は遠くを見つめながら、そう呟く。呆れたような口調で、だが語調は明るい。
「ですが、紫紺のその言い方、元気そうだと感じたということですね?」
「あー、まぁな。クロさんにもよろしくって言ってたよ」
「それはそれは」
黒橡も柔らかな笑顔を浮かべる。
穏やかな空気のなかで、杜若は居心地悪く「あの」と手を挙げた。
「俺だけ、ついていけないんすけど」
紫紺、黒橡、牡丹の視線が、杜若に突き刺さる。
居心地の悪さが増したような感覚に、杜若はモゾモゾと座り直した。
「そういえば、カッキーは会ったことないんだったっけ。最後にあいつがここに顔出したの、いつだ?」
紫紺が首をかしげる。
「さぁ、私もかれこれ三年近く会っていないように思うので、それくらいでしょうか。少なくとも、紫紺は一昨年、鞍馬で会ってるはずですよね」
黒橡は記憶をたどるように視線を泳がせ、そう言う。
「あ、でも、私がここで働き始めるときには来てくれたんで、二年半くらい前にはここに顔出してるはずですよ」
牡丹がそう言って、身を乗り出す。
「じゃあ、その時が最後だとして、カッキーには会ってないってことだな。そういや、カッキーはここで働きはじめてまだ二年くらいか」
紫紺が納得したとでもいうように頷き、杜若に目を向けた。
「紫苑ってのは、妹だ」
いもうと。
杜若はぽかんと紫紺を見つめた。
「妹って、紫紺さんのですか?」
「ああ」
「紫紺さん、兄弟いたんですか?」
「なんだ、一人っ子だと思ってたか?」
杜若は頷く。兄弟がいる人というのは、何となく、漠然とわかるものだ。
だが、紫紺にはそんな気配を全く感じることがなかった。だから、勝手に一人っ子なのだと思い込んでいた。
「おやおや、知っていると思っていました。私が『紫紺たち』と言っても、特に疑問を持つことはなさそうでしたので」
黒橡は意外そうにそう言った。
そういえば確かに、黒橡はいつも紫紺の家族の話をするときは『紫紺たち』と言っていたような気がする。一族の人たちという意味で使っているのだと勝手に解釈していたが、あれは紫紺
「あの、その紫苑……さんって、『呪殺委託執行社』の社員なんですか?」
先程の紫紺の発言は、そうとれるものだった。
杜若の問いに、紫紺は頷く。
「あいつも『
そういえばそうだ。ずっと紫紺独りで切り盛りしていると思っていたが、実際はもう一人いたとは。
「その方は、どこにいるんですか? ここにはいないってことですよね」
「ああ、あいつは謂わば、『呪殺委託執行社・出張サービス』みたいなもんだからな。日本全国、時には海外にも行ってもらってるんだよ」
紫紺はさらりと言ってのけたが、杜若は驚きで開いた口がふさがらない。
そんな業態も展開していたのか?
全く知らないぞ?
「この前の仕事は名古屋郊外だったらしいぜ。その前は広島、釧路、仙台、金沢、佐賀……」
指折り数えながら紫紺がそう言う。
「ほんとにバラバラなんすね」
「移動経費がバカにならねぇんだけどな」
紫紺は乾いた声で笑う。
「でも、ま、あいつはひとつの場所に留めておくわけにはいかないからな」
「……と、いうと?」
「あいつの身を守るためだ」
紫紺は珈琲の水面を見つめ、呟く。
「あいつはな、強すぎるんだ」
呪術を扱う力が、ということだろう。
杜若が一族のことを聞いたばかりだと言うことを思い出したらしく、「まぁ十家だからってのもあるが」と頷き続けた。
「それでもな、あいつは特別だ。宗家のほとんどの
紫紺のかける呪いの強さを知っている杜若からすると、それは想像の範疇を越えていた。
紫紺は、ただ思っただけで呪いをかけられる。
面倒なセールスに「帰りに躓いて転んでしまえばいいのに」と思えば、そのセールスは帰り道で小石に躓いて転んでしまう。
悪質なクレーマーに「一週間くらい喉がかれてしまえばいいのに」と思えば、本当に喉がかれて声が出なくなってしまう。
嫌いな人に「毎朝箪笥の角に小指ぶつければいいのに」と思えばそうなるし、騒がしい暴走族に「全員のバイクが壊れて走れなくなればいい」と思えば、本当にそうなってしまう。
ただ思うだけ。念じてもいないのに、そうなってしまう。
だからこそ、紫紺は何も思わないように勤めている。嫌なことがあっても、「不幸な目にあってしまえばいいのに」と思うより先に、茶化してしまうように努めている。他人との一定の距離を保ち、極力相手には踏み込まない。一見不真面目そうに見える態度を崩さないのも、相手に深入りしないため。相手に深入りさせないため。
そう。杜若や牡丹に対してさえ、紫紺は一定の距離をずっと保っている。
「ま、ちょっと思っただけで、まじないをかけちまうのは認めるさ。十家のやつらは大抵そうだ」
紫紺はそう言って少し口角をあげる。
「でも、あいつは違う。宗家の奴等ですら、大抵は思っても相手に降りかかるのは強くて占いレベルだ。だが、あいつは思っただけで、心に浮かんじまっただけで呪う。呪ってしまう」
それは、危険なのではなかろうか。
「ま、あいつはそれをわかってる。だから何もかもに対して無関心を貫いているし、実際あいつは大抵のことには動じない」
「動じないなんて、そんなの可能なんですか?」
「あいつはそう、自分自身を定めてきたからなぁ。無関心というか、無感動というか……」
それはとても――悲しいことなのではないだろうか。
「ああ、あんまり気にしなくていいぞ。一族の中でも強すぎる奴らは、たいていそうやって自分と他の身を護る傾向にあるから、あいつもそれを倣ってるだけだしな」
紫紺はさらりと告げると、「話し戻すぞ」と軌道修正する。
「で、一つの場所に留めておけないってのは、前に杜若には言ったと思うが、一族の中でも力の強い女ってのは、体を狙われるんだよ。一族の――特に宗家の男との間に子を
吐き捨てるように紫紺は言う。本当に辟易としているのだろう。
「杜若って、日本史は得意な方か?」
「え、なんです、突然」
唐突にそう問うてきた紫紺に、杜若はぎこちなく首を横に振る。
中学生になってから、歴史はあまり得意ではなくなった。
「平均以下、ですかね」
「高校では赤点スレスレとか」
「はい――って、なんで知ってるんですか!」
「いや、なんとなく」
紫紺はケラケラと笑う。
「うーん、そうか。じゃあ覚えてないか、教師によっちゃ言わない奴もいるんだが、昔の天皇家がどんな形だったか、知ってるか?」
「昔って……」
「平安とか、そんくらい昔」
「えっと……実質一夫多妻制だった、とか」
「ああ、うん、そうだな。それもある。他には?」
「他、ですか」
苦手科目の忘却の彼方に追いやってしまった記憶を無理矢理引っ張り出す。
高校時代の歴史の時間は手頃な昼寝タイムだったな、というどうでもいい記憶を思考の端へおいやり、なんとかつかみ取った記憶は――。
「……源氏物語めんどくさかったな」
「カッキー、お前どんだけ歴史苦手だったんだよ」
源氏物語は古典だ、と紫紺に呆れたように言われ、杜若は居心地悪く首を竦める。
「ま、教わってない可能性もあるんだが、昔の天皇家って、血の濃さを重要視するところもあってな。こういう表現は適切じゃないんだが、言葉を選ばずに言うと、近親相姦が珍しくなかったんだ」
その一言に、まさか、という思いが過ぎる。
そして、それが顔に出ていたのだろう。紫紺は深く頷いた。
「今お前が思ったのが、おそらく正解だ。一夫多妻に近親相姦まかり通ってドロッドロなのが、一族の実情」
もちろん行政はちゃんと誤魔化してるぜ?
紫紺はそう言うと、珈琲を傾けた。
「まあ、一夫多妻ってのも限界あるから、どっちかっつとハーレムに近いかな。子供もちゃんと認知するし、あるいはその女に旦那がいるならその夫婦の子供ってことにしたり、そういうのは当たり前だ」
「それ、本当に世間的に問題にならないんですか?」
「なるに決まってるだろ」
紫紺は呆れたように吐く。
「だが、マスコミにも行政にも、一族の息のかかった奴や、そもそも一族の奴らが入り込んでる。公にすんのは無理だな。そもそも声上げるような度胸持ってる奴の方が圧倒的に少ない」
「紫紺さんはやりかねないですけど……」
「ゴシップ誌は信用度がそもそもないし、新聞やテレビ、ラジオは潰された。行政に言おうとしたら拘束されかけたから諦めた。ネットに書き込んでもネタだと思われるし、一族のサイバーチームに何度も記事ごと消された」
「実行済みなんですね」
カウンターに肘をつきながら指折り言う紫紺に、杜若はそれ以上何も言えなかった。
「だから、ささやかな抵抗として、そういう遣り方突っ撥ねてるんだよ」
結局はそういう抵抗しかできないのだろう。
話を聞く限りでも大変だ。というか、倫理的にそのまま放置していいものとも思えないが、一族の力はきっと杜若の想像を絶するほどに大きいのだろう。
十家という大きな力を持つ紫紺ですら敵わないとなると、一族と宗家とやらの力はそれほどに強いということだ。
そこに部外者の杜若が意見したところで、何も変わりはしないのだろうということは、安易に想像がつく。
それに、杜若がここまで思ってしまうということは、杜若よりも紫紺たちの一族に詳しい牡丹もとっくの昔に同じことを思っているはずだ。そして、牡丹なら行動に移していてもおかしくはないはずなのだが、状況が何も変わっていないということはつまりそういうことなのだろう。
部外者の声になど、何の力もない。
「だから、まぁ、あいつは用がなけりゃ『
紫紺はそう言うと、ニッと笑った。
「それに、カッキーはきっと、珍しくあいつには中てられないタイプに見えるしな」
「はぁ……?」
「紫紺さん、それじゃまるで、私は紫苑さんに中てられたみたいに聞こえます」
「だって、そうだろ。バイクのナンバーから家特定された時は、本気で通報しそうになったぞ」
「う……それは、忘れてください……やりすぎたと思って反省してるんですから」
牡丹が呻く。
紫紺は声をあげて笑い、牡丹の頭を乱暴にかき回すように撫でる。
「ま、でも、おかげで優秀な事務員を『呪殺委託執行社』で雇えたんだけどな」
そして、紫紺は杜若に目を向け「お前もな」と言った。
「ほんと、お前らが『
「ど、どうしたんですか、突然」
「いや、なんとなくな。いつも言えてないなと思って」
そう言って穏やかな表情で笑う紫紺に、杜若と牡丹も顔を見合わせ自然と頬が緩む。
本当に、ここはいい職場だ。
そして、やっぱりここの従業員はいい人ばかりだ。
おいしい珈琲が飲めて、こうして優しくて姉御肌の上司がいて、先輩も色々なことを教えてくれて。
――きっかけがなんであれ、ここに来ることができてよかったのかもしれない。
杜若は、そう心の中で呟き、口元を綻ばせる。
その時、『うしみつ』の入口についたカウベルがコロンカランと客の入店を告げた。
入ってきたのは、気弱そうなサラリーマンの青年。
青年は杜若たちから離れたカウンターの端に腰かけると、
「メニューの、十三番を」
黒橡は「かしこまりました」と告げ、紫紺に向き直るとにっこりと微笑む。
紫紺は立ち上がり、青年の前に立つと、芝居がかった大仰な所作で胸に手を当て一礼し、にっこり微笑みこう告げた。
「ようこそ、『呪殺委託執行社』へ」
―†―†―†―†―
「紫苑、この子あんたの後輩って言ってるけど」
突然訪ねた自分を門前で迎えたのは、あの時バイクに跨っていた男勝りな格好の女性だった。
走り去るバイクのナンバープレートから情報屋を雇ってまで所有者の住所を特定し、何を思ったか突撃訪問までしてしまった。
――これではただのストーカーだ。
そう頭では理解しているのだが、どうやら常識やらモラルやらを守るはずの己の理性はいつの間にか蒸発してしまったらしい。
「……家まで特定したの」
「も、申し訳ありません!」
「で、まあ確かに制服は紫苑のと一緒だけどさ。なに、一年生?」
「知らない」
「ちょっと、あんたの後輩でしょうが」
「いつも図書室まで追いかけてくる子。でも、それ以上は知らない」
「あんたって子は……」
女性は額に手をあてて深く息を吐くと、こちらに目を向けた。
「また紫苑に中てられた『
「その言い方、やめて」
「『
女性は悪びれる風もなくそう言うと、聞きなれない名で女生徒を呼び、こちらを指した。
「とりあえず、こいつは足を突っ込みすぎたな。家まで来られちゃもう戻れないだろ。紫苑、責任もって、あんたが説明してやりなよ」
「わかった」
女生徒は素直に頷くと、こちらに目を向けた。
「来て。全部説明する」
「あ、あの……」
「もう、ただで返すわけにもいかなくなった。呪うのなら、自分の不用心さを呪って」
女生徒とのやり取りを横で見ていた女性は、苦笑しながら同情の目をこちらに向けている。
状況を呑み込めない自分は、目を白黒させるしかない。押しかけておいて、通報されてしまうのではと、今さらながら心配していたというのに。
どうしていいかわからず立ち尽くしていると、そういえばと女性が口を開いた。
「聞くの忘れてた。あんた、名前は?」
この人たちに、安易に名乗ってはいけなかった。そう知ったのは、もっと後になってから。
「あ、私、
「そう、モモカ、ね」
女性はそう口の中で確認するように呟くと、にっこりと微笑んだ。
「よろしくね、モモカ。たぶん、この名で呼ぶのはこれで最初で最後だろうけど」
女性は怪しく笑うと、百花のくぐった門に手をかけた。
まるで外界とのつながりを断つかのように、その門はゆっくり、ゆっくりと閉じた。
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