呪殺委託執行社

潮音

第1話

 東京都町田市。JR町田駅北口から、南東方向に徒歩三分。裏路地にひっそりと佇む古風な欧州風カフェに、その噂はある。


 誰かを呪いたいのなら、町田の裏路地にひっそりと佇む古風なカフェを訪れるといい。

 店に入って、マスターに一言。

 店の奥の小さな扉に案内されたら、きっと君の望みは叶えられる。

 ただし、一つ覚悟を決めなければいけない。

 人を呪わば穴二つ。

 人を呪う代償は、地獄への片道切符。


 今日も今日とて客は来る。

 扉のカウベルがコロンカランと音を立て、客の入店を知らせる。

 穏やかなジャズが流れる店内。コーヒーの香る柔らかな空間で、バリスタにそっと、十三番を頼むといい。

 奥から出てきたオーナーが、そっと微笑みこう告げる。


「ようこそ、呪殺委託執行社へ」





 ―†―†―†―†―




 JR町田駅北口を出てペデストリアンデッキを渡り、右手の階段を降りる。しばらく道なりに歩いて、左手に見えてくる煉瓦造りの二階建て雑貨書店の脇道に入って、およそ十メートル先の左手側。

 そこに、モスグリーンの木目が目立つ、二階建ての古風な欧州風のカフェ『うしみつ』はある。

 店内は、普通のカフェと変わらない。ただ、裏道にあるからか、客は少ない。静かに談笑する老婦人たち。英字新聞を眺めるサラリーマン。パソコンと分厚い本を広げレポートを作成する大学生に、静かに読書する老紳士。

 カウンター席とテーブル席があり、広い窓から陽はさしこんでいるが、店内はどこか心地の良いほの暗さに沈んでいた。

 レトロな蓄音機からは静かに穏やかなジャズが流れ、レコード特有の心地いいノイズを含んで店内に広がる。

 厳選された豆と、焙煎から丁寧にこだわり貫かれた珈琲のほの苦い香りが、店中に広がっている。

 店内も外観の印象に違わず、木目の優しい雰囲気だ。シーリングファンがゆっくりとまわり、童謡のような大きな柱時計が、止まることなくカッチコッチと重厚な音をたてて振り子を揺らす。

 サイフォンが静かに音をたて、時折客の静かな話し声がジャズに混ざる。

 そんなとても落ち着いた雰囲気の店内は、店の外の通りの雑然とした雰囲気とはかけ離れていた。

 通りの並びの雑貨書店の煉瓦の外壁や商店のシャッターにはスプレーで落書きがなされていて、カフェと並び立つ店も、居酒屋やパブ、クラブなど、お酒を提供する店がほとんど。その多くが夕方からの営業なので、昼間はカフェ『うしみつ』くらいしか開店していないが、それでもあまり進んで足を踏み入れたくなるような道ではないだろう。

 大和横丁という名前のついた通りではあるが、この通りの名前を知る人は、あまりいない。それくらい、人気の少ない道だった。

 そんな中にと佇む場違いなカフェ『うしみつ』は、顔馴染みの常連がちらほらと集う店だ。道の入り口に近いので、慣れてしまえば入りやすい場所でもあるのだろう。

 そんな店の入口に、緊張した面持ちの若い女性が立った。白いワンピースに、青いカーディガン。バッグは最近流行りのブランド品。

 女性はしばらく入口を見つめ、カフェにはいるのを躊躇っているようだったが、意を決したように扉に手をかけた。

 大きなガラスの嵌め込まれた扉が開く。カウベルがコロンカランと鳴る。

 入店のサインに破瓜のバリスタが顔をあげ、柔らかい表情を浮かべて「いらっしゃいませ」と静かに告げた。

 女性は、まるで誰にも見られたくないかのようにそそくさとカウンターに向かうと、カウンター席の一番端に腰かけた。

 そしてメニューを手に取り、戸惑ったように目を見開き、心ここに在らずといった風にメニューの文字の上を視線が撫でる。

 それに気づいてか気づかずか、バリスタが静かに女性に歩み寄った。

「御注文はお決まりですか?」

 バリスタの声に女性は過剰に肩を震わせると、焦点の合わない目を上げ、もう一度メニューを確認し、唇を噛み締め、再び顔をあげると、何かを覚悟したかのように両手を膝の上で握り、口を開いた。

 女性の注文をしっかりと聞き届け、バリスタは「かしこまりました」と慇懃な態度で承った。

「それでは、少々お待ちください」

 バリスタはそう一言告げると、カウンターの中程まで戻った。

 そして、カウンターの上に置いてある、小さなカウンターベルをチリンと鳴らす。

 三十秒ほどだろうか。

 カウンター横の、店の奥へと繋がる『staff only』と書かれた扉が開かれ、わずかに毛先が紫がかった長い黒髪をポニーテールにまとめた、勝ち気そうな女が現れた。

 女は客の女性の前に、何の躊躇いもなく歩み寄ると、そっと微笑み静かに告げた。


「ようこそ、呪殺委託執行社へ」





 ―†―†―†―†―




 不定期に入るバイトがある。

 決まった勤務日はないが、連絡があれば赴く、そんなバイト。週に一回あればいい方だが、一度入れば数日がかりのバイトだ。

 給料は日払い。それも、一日につきかなり高額なバイト代が支払われるので、趣味にも生活にも困ることはない。

 大学の午前の講義を終え、スマホのランプが緑色に点滅していることに気づく。

 メッセージアプリを開くと、バイト先のグループメッセージ欄に一言、『依頼者有り』と記されていた。

 久しぶりのバイトだ。今日はもう、受講する講義はない。サークルや同好会にも参加していないし、今日は友達と遊びに行く予定もない。

 このまま、まっすぐバイト先に向かおう。タイミングよく電車が来てくれれば、今から四十分ほどで着けるはず。

 杜若かきつばたは、久しぶりのバイトに、行きたいとも行きたくないともなんとも言えない感情を抱きながら、講堂を後にした。


 カフェ『うしみつ』についたのは、午後一時を回った頃だった。

 昼食をとらずに来たので、時折腹の虫が存在を主張するように鳴る。後でバックヤードで買ってある昼食を食べようと思いつつ、杜若はカフェの扉を開いた。

「いらっしゃいませ。ああ、杜若くん。おはようございます」

「おはようございます、マスター」

「その呼び方はやめてくださいよ」

 カフェの店主マスターをそう呼ぶも、苦笑して一蹴された。バリスタであることに対する誇りは人一倍だが、店主であると言われることは苦手らしい。それでも、杜若は彼のことをマスターと呼んでしまう。

 雰囲気が、そう呼ばせるのだ。

「私のことは黒橡くろつるばみと呼んでくれて構わないと、いつも言ってるではありませんか」

「すみません、つい」

 杜若は、バリスタの男――黒橡の言葉に、頭を掻く。

紫紺しこんなら裏にいますよ」

「はい。あの、ちなみに依頼人の方は?」

「つい先程、お帰りになられました」

 入れ違いになったようだ。とはいっても、依頼人と顔を合わせようが合わせまいが、杜若の職務内容にあまり影響はない。

 むしろ、顔を合わせない方がやり易いときだってある。

 杜若は『staff only』と書かれたプレートの嵌め込まれた扉を潜る。

 左手すぐに扉があり、これは倉庫だ。店舗で使う備品や、季節ごとに店内に飾り付ける飾りなどが雑多に詰め込まれている。

 その向かいにある、狭い螺旋階段をのぼる。上りきった先に、三つ扉がある。階段真正面の扉は従業員用のトイレで、その隣は従業員控え室兼事務室。

 用があるのはそのさらに奥の、一番端の部屋だ。ここが、このカフェでひっそりと営まれている、とある事業社の応接間だ。

 杜若は、迷わずその扉を開く。それと同時に、むわりと紫煙が押し寄せてきた。

 その独特の甘さの含まれた臭いに顔をしかめながら、杜若は部屋に踏み入る。

「紫紺さん、吸うなら窓開けるか換気扇回してくれって、いつも言ってるじゃないですか」

 溜め息とともにそう室内に向けて告げると、こちらに背を向けるように備え付けられたソファーに座っていた女が、背もたれに深くもたれる勢いで頭をこちらに向け、煙草をくわえたまま「よぉ」と言った。

「おはようカッキー」

「俺に杜若って名前つけたの紫紺さんなのに、紫紺さん杜若って絶対呼びませんよね」

「だって『』って、長いじゃん。言い難いし?」

「じゃあなんでつけたんですか、そんな言い難いやつ」

 杜若は深く息を吐きながら、紫紺の向かい側のソファーに腰掛け、ショルダーバッグを隣に置いた。

 バッグの中からコンビニの袋を取りだし、おにぎりをひとつ、手に取る。具はしらす高菜だ。

「お、明太子ある?」

「ありますけど、あげませんよ。俺、昼飯抜かして来ちゃったから腹減ってるんです」

「コンビニ飯なんて、安上がりなやつ。この辺、ラーメンとかファミレスとか、いっぱいあんじゃねーか。いっぱい食えよ、大学生男子」

 そう言って、紫紺はコンビニの袋に手を伸ばしてくるが、杜若はその手をピシャリと叩いて自らの昼食を守る。

 紫紺は「チッ」と舌打ちすると、短くなった煙草をテーブルの上の人骨を模した灰皿に押し付けて消した。その悪趣味かつ不気味な灰皿は、このカフェのある通りの入口の雑貨書店で安売りしていたものだ。

「紫紺さん、今回の依頼主は、どういった用件で?」

 次の煙草に火をつけた紫紺をジトリと睨み付けながら、杜若は問う。

 紫紺は肺いっぱいに煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出して、「たいしたことなかったな」と言った。

「ありきたりなやつだ。彼氏に浮気された、呪い殺してくれ――ってな」

 杜若は次の明太子おにぎりに手を伸ばしながら、なるほど、とうなずく。確かに、ここに持ち込まれる依頼としては、一位二位を争うほどありきたりな依頼動機。

「で、受けるんですか」

「うーん、話聞いたら、その彼氏ってのがとんでもねークズでな。さすがに目に余るから、調べることにしたよ」

「そんなにですか」

「そんなにだ。なんせ、常に八股かけて、付き合ってる女から有り金全部巻き上げて、金を払えなくなった女を捨てて次の女に乗り換える、とんでもヒモ野郎なんだって話だ。さすがに被害拡大する前に止めなきゃヤバイだろ」

 八股って、どうやってかけるんだろうか。杜若はそんなどうでもいいことに驚いていた。一日一人の女を相手しても、時間が足りない。そもそも同時に複数人の恋人を作ること自体、理解ができない。

「八股って聞いて、『ヤマタノオロチかよ!』って叫びそうになっちまった。ハハ、流石に口には出さなかったけどな」

 紫紺も八股には驚いたらしい。そんな風に、どこかずれた感想とともに軽く笑ってみせた。

 だが、確かにそれが本当なら、多くの女性を食い物にする最低な男だということになる。それは、確かに放ってはおけない。

「ま、依頼主の思い込みや認識違いの可能性も捨てきれないから、とりあえず調査だけは請け負ったよ。調査次第でその先は判断するしかないな」

 紫紺はそう言って、手の中のおにぎりに口をつける。

 ハッとして机の上を見ると、置いてあったはずの鮭おにぎりが消えていた。

「紫紺さん!」

「ハハッ、取られたくないなら、こっちの手の届かないところに置いとくんだな」

 紫紺は鮭おにぎりをぺろりと食べ尽くすと、そう言ってニヤリと笑った。

 全く、子供っぽいというか、なんというか。

 これで三十一歳だというのだから、信じられない。

 杜若はなんとなく満たされない腹に手をあてながら溜め息を吐くと、ごみを片付けて部屋の隅のゴミ箱へ捨て、紫紺と向かい合った。

「で、今回の俺の仕事は?」

 紫紺は灰皿に引っかけていた吸いかけの煙草をくわえなおすと、机の端に置いてあったファイルを引き寄せ、開いた。

 そこに挟まれたルーズリーフには、箇条書きで様々なことが書いてあった。

「依頼主の名前は江田えだ小百合さゆり。三十三歳。銀行員。神奈川県横浜市青葉区在住。最終学歴は大学卒。実家暮らしで、両親と同居。年の離れた姉がいるが、結婚して愛知県に住んでいるため、年に数度しか顔を合わせない。趣味は読書、映画鑑賞、ショッピング。大人しそうな人だったな」

 ルーズリーフには、コピー用紙がホチキスで留められていた。免許証のコピーだ。

 コピーは白黒で分かりにくいが、長いストレートの髪に、まっすぐな瞳が印象的な女性だった。見た目は清楚な印象を受ける。

 確かに、大人しそうな人だ。

 他にも詳しく江田小百合の情報は書いてあったが、紫紺はそこには触れず、ルーズリーフを捲り、次のページを開いた。

「で、今回カッキーに調査してほしいのはこっち。八股彼氏の住吉すみよし蓮司れんじの方」

 そのページにも、コピーされた写真が留められていた。こちらはカラーコピーだ。

 SNSの写真を印刷したのだろう。海を背に、ポーズをとる若い男性の写真だった。明るい茶に染めたウルフカットの髪に、耳には大量のピアス。首には小さな刺青をいれているようだが、写真では潰れてしまっていて形まではわからない。

 真面目な好青年には、どう頑張っても見えない。不良っぽい印象だ。歌舞伎町のホストを参考にして、不良方向に失敗したような見た目。

 あの清楚で大人しそうな女性がこの男に惹かれたというのが意外に思えたが、悪い男はモテると昔からよく言うものだ。この男も、顔だけで判断するならば、客観的に見てもイケメンの部類だ。甘い言葉を囁かれれば、コロリといってしまう女性がいてもおかしくはない。

 この江田小百合という女性は、コロリといってしまったのだろう。

「この住吉蓮司は、二十八歳で住所不定、職業は自称セレクトショップ経営。高級車ジャガーを乗り回し、腕時計も数百万する高級時計ロレックスしてたり、服もアクセも高級ブランドで塗り固めた成金風。まぁ、職業が本当なのかは疑わしいけど、女から巻き上げた金はこういうところに消えてるんだろうな」

 紫紺はそう告げ、カラーコピーの写真を指で弾いた。

 杜若もその写真と、住吉蓮司についてわかっている範囲の情報が載ったルーズリーフに目を落とす。

 そこに書いてあるほとんどは、今紫紺が口にしたものだ。今のところの情報はほぼ江田小百合からのものくらいなので、内容は薄い。

「住所不定ってのは、どういうことなんですかね」

 杜若は、自分の仕事の上で一番重要になりそうな項目を指差す。

「女の家を渡り歩いたりしてるんじゃねぇの、たぶん」

 紫紺は興味無さげに、それを調べるのもお前の仕事だろうとでも言うように、杜若に目を向けた。

 杜若の職務内容は、相談員兼調査員だ。

 相談員というのは、カフェでの依頼主との面会などだ。カフェ店内またはこの応接間で、依頼主に依頼内容を事細かに聞き出す、それが相談員の仕事だ。

 そして、調査員。調査員の仕事は、依頼主の話をもとに、実際に話を受けるかどうかを判断するための調査を執り行うことだ。その対象は依頼された対象の人物像等が主で、本当に仕事を請けるに値する人物なのかどうかを客観的な視点で判断するために重要な仕事だ。もちろん、調査対象には依頼主本人も含まれる。依頼で嘘をついた場合、その嘘の度合いを調べるためだったり、嘘をついたつもりでなくても、その依頼主自身の人間としての在り方も、仕事を請け負う上でかなり大きく関わってくるからだ。

「で、今回もお前にこれ渡しとくな」

 紫紺はポケットを漁ると、薄汚れた木札を手渡してきた。形は卒塔婆に似ていて、大きさは五センチほど。木札には梵字が書かれていて、その上から何枚もの御札が貼り付けられている。その御札一枚一枚は、木札の古さに比べると、いやに目立つほど真新しい。

 それもそのはず、木札の上から貼ってある御札は、紫紺が施したものだからだ。

「住吉蓮司と、あと一応、江田小百合のにも通じるから。いつも通り、に話を聞きたいときに使えよ」

 杜若はその札を受け取りながら、「わかりました」と頷く。杜若自身、木札の梵字が何を意味しているのか、また、御札に描かれた紋様と文字や梵字の意味も、全く理解できない。

 杜若はそれをしっかりとポケットに仕舞う。これをなくしてしまっては、業務が大変になってしまうかもしれないからだ。

「とりあえず、その住吉蓮司って男の動向を調べてみます。SNSのアカウントから特定してみます」

「おう、頼んだ。毎度言ってるが、領収書はきっちりもらってこいよ。じゃなきゃ、経費として落とさねぇからな」

 紫紺はそう言って、前もって用意していたのであろう、江田小百合と住吉蓮司についての書類のコピーを杜若に渡す。

 杜若はそれを受け取りつつ、鞄を持って立ち上がる。

「じゃあ、今日はこれで。何かわかったら連絡します」

「ああ、頼むな、カッキー」

 紫紺は短くなった煙草を指の間にはさんだまま、その手を振った。

 杜若は一度頭を下げ、応接間をあとにした。

 応接間の扉を閉めると、そこにかかっていたシンプルな装飾の札が揺れて扉を叩いた。


 ――呪殺委託執行社――





 ―†―†―†―†―




 呪殺委託執行社というのは、その名の通り、誰かを呪い殺したいという望みを代わりに執行するサービスを提供する会社だ。

 従業員は、杜若のようなアルバイトを含めても数人程度の小さな会社で、認知度も低い。だが、ネットの裏掲示板や、都市伝説のようにひっそりと、その存在は知られている。

 社の代表は紫紺。なんでも、紫紺の家は古くから続く呪術師の家系らしく、親族もその界隈では有名人が多いらしい。

 そして、紫紺というのは、偽名だ。杜若も、黒橡も、本名ではない。これらはすべて、紫紺がビジネスネームとして命名したものだ。呪殺委託執行社に深く関わる者たちに、紫紺はビジネスネームという名目の偽名を与える。

 紫紺いわく、呪術をかけるには、名前というものが深く関わるのだという。呪術をかける際にはかける相手の名前がわからなければかけられず、そのため、自分が呪いをかけられるような可能性がある場合も、相手に名前を知られてしまえば自分の身が危険にさらされる。だからこそ、本名を知られないために、偽名を使うのだ。

 だから、杜若は紫紺の本名を知らない。黒橡の本名も知らない。

 杜若の本名は紫紺に知られているが、それはもともと、杜若が依頼主としてこの呪殺委託執行社の扉を叩いたからだ。

 そう。杜若は、元はこの呪殺委託執行社へ依頼に来た客の立場だった。だが、気付けば流れ流れてこの場所でアルバイトをしている。

 アルバイトをはじめて二年。給料は高めで、人付き合いさえ不得手でなければ、この仕事はかなりの好条件なバイトだ。

 社交的とは決して言えないが、ある程度の人付き合いは苦手としていない杜若は、ここで仕事を始めてすぐに調査員にされた。なんでも、男性の調査員がほしかったらしい。

 調査員の仕事は、探偵のようなものだ。素行や素性の調査、尾行、観察。時には接触したり、一日中尾行したり。大変な職務内容だが、必要経費はほとんど出してくれるので、わりと自由に動き回れる。

 そんな調査員として住吉蓮司の調査を任された杜若は、『うしみつ』から歩いて数分の位置にあるネットカフェに来ていた。

 そして、個室のひとつにはいると、紫紺に渡された書類の住吉蓮司のページを広げる。

 まずネットで探したのは、住吉蓮司のSNS。調査用に作られたアカウントで複数のSNSにログインし、住吉蓮司を探す。これは、江田小百合がいくつかのアカウントを知っていたので、そのアカウントのアドレスを入力するだけでよかった。

 だが、ここからが大変だ。大抵こういった男は、裏アカウントを持っている。非公開にされていると調べるのも面倒だが、こういったタイプの男は、名前を変えただけで非公開にはしていないのではないかと予想する。

 フォロー欄やフォロワー欄を探して、住吉蓮司の物と思われる別アカウントをひとつひとつつまみ上げていく。

 予想通り、いくつかのアカウントを使い回しているようだった。その数、ひとつのSNSにつき、最低でも五つ。多いものだと十はアカウントを登録しているようだ。

 おそらく、交際している女性一人につきひとつずつ、プライベート用にひとつからふたつほど持っているのだろう。

 女相手に使っていると思われるアカウントは、当たり障りのないことや、デートの報告など、呆れるくらいありきたりな内容ばかりが投稿されている。今日は暑い。深夜にやっていた映画が面白かった。あのバラエティに出ていた芸人の他のネタも見てみた。昨日のドラマの展開マジで感動した。今日は彼女とショッピング。等々。

 一方、完全にプライベートのものと思われるアカウントには、愚痴などが連なっていた。今日はあのブスに会いに行かねぇと。あの女ウザい。調子に乗るなよ。どうせ金蔓なのにな。等々。

「裏表激しいな」

 杜若は思わず声に出して呟く。人間の本性を見るのが自分の仕事だが、これにはなかなか慣れない。うわっつらだけいい顔して、本性は腹黒い。それを堂々と吐き出す。

 自分の顔がいいことを自覚し利用して、女性を食い物に金を巻き上げる。SNSから見えてきたのは、江田小百合の証言がほぼ真実であるということだ。

 杜若は段々と気分が悪くなりせり上がってきた、なんとも言えない嘔吐感を、ドリンクバーから持ってきていたジンジャーエールで流し込んだ。しばらく手をつけていなかったジンジャーエールは氷が溶け出して薄くなり、炭酸もほとんど抜けていたが、なんとも言えない嘔吐感を飲み込むには充分だった。

「嫌だな、こういうタイプ」

 杜若は肘をついて手に顔をのせながら、そうぼやく。絶対に相容れないタイプだ。杜若の友人にだって聞くたびに彼女の変わっているやつもいるが、それだって別れてすぐに次の彼女と付き合って、またすぐに別れて次の彼女へ、と長く続かないだけで、多くても二股浮気までしか聞いたことがない。それですら杜若には理解が及ばないが、その友人は気のいいやつで、分け隔てなく誰とでも仲良くするので、彼女ができやすいのだろう。そいつの欠点と言えば、惚れっぽいところだろう。そのせいで彼女がころころと代わるのだ。

 だが、その友人には、彼なりの誠意がある。惚れっぽいので彼女はよくかわるし、浮気だってたまにはあるが、付き合っている間は彼女をこれでもかというほど大切にしているのは、友人皆が知っている。だからこそ、その友人は嫌われていないし、彼女も常に途切れないのだ。

 だが、この住吉蓮司という男は違う。

 この男には、誠意がない。女を財布としか思っていないし、金蔓として側においているだけ。平気で八股して、巻き上げるだけ金を巻き上げたら捨てる。それを悪いと思っていない。最低な人間だ。

 だから、嫌なのだ。というか、こういうタイプの人間と仲良くできる人など、そうそういないだろう。

 杜若はSNSに載せられた写真や投稿から、住吉蓮司の行動範囲を特定する。住所不定の理由は、紫紺の予想通り女の家を渡り歩いているかららしい。それでも、行動範囲はある程度絞れた。

 そして、仕事もわかった。セレクトショップ経営など真っ赤な嘘で、実際は会員制クラブの従業員だ。その会員制クラブのサイトを調べてみるが、怪しい臭いがする写真ばかりが載せられていた。

 SNSやネット掲示板でその会員制クラブの情報を探してみると、案の定、違法なことがまかり通っているようだ。カジノギャンブル、麻薬、リンチ、レイプ、詐欺、脱税――自慢のように書き連ねてあるので、恐らくこの書き込みは従業員の一人がしているのだろう。これまで警察のサイバー犯罪対策室などに摘発されていないのが驚きだ。それくらい、包み隠さずあらゆる犯罪を自慢気に誇示していた。

「クラブの場所は――近いな、森野一丁目か」

『うしみつ』から見ると、小田急の線路を越えたすぐ先だ。歩いて五分とかからない。

「ってか、こっちって黒橡マスターの家の方?」

 黒橡は、市役所付近の森野某所の屋敷に住んでいると聞いている。紫紺と黒橡は姪と叔父の関係なのだが、黒橡の住む家は一族の所有する屋敷のひとつであるらしい。

 一族というのも、もちろん杜若は紫紺と黒橡の本名はもちろん苗字すら知らないが、紫紺たちはこういった呪術やオカルト界隈ではかなり有名な呪術師一族で、以前「親戚にはテレビに出てる占い師タレントなんかもいる」と紫紺が言っていたので、それを聞いたときには、その占い師はおそらく本物なのだろう、と思ったほどだ。

 ちなみに紫紺は『うしみつ』近くの3LDKのマンションを借りて住んでいる。実際の建物と立地を見て絶対に家賃が高いと確信し、下世話にも家賃を聞いたことがあるのだが、紫紺はどうでもよさそうに「安いよ、事故物件だから」と言ってのけた。

 なんでも、前住人が過労によるストレスから奥さんを道連れに首吊り心中――ならまだなんとなく事故物件として理解できるかもしれないが、その奥さんは浮気までしていて、奥さんの愛人もその場で過労ストレス夫によって惨殺されていたらしく、まぁとにかく、とんでも事故物件なわけで。三人も亡くなった部屋で、さらにその部屋で殺人まで起きてしまっていたともなれば、納得の事故物件価格だったらしい。

 紫紺いわく、「町田駅まで徒歩三十分の築五年バストイレ付き六畳のワンルームと同じくらいの家賃」らしい。なんともわかりにくいような例えをされたが、それだけ聞けば町田駅徒歩五分圏内3LDKとしては格安だろうと言うことだけはわかった。

 閑話休題。

 そんなわけで、とりあえず調査対象の職場はわかった。地図で見ても、黒橡の住む家とその会員制クラブは、地図上ではかなり近い。

 といっても、通りの関係で歩けばそこそこに時間はかかりそうだし、杜若も町田周辺はある程度詳しいが、黒橡の住む家とクラブの間に通る道は、この一本を挟んで雰囲気ががらりとかわる通りだ。

 黒橡は静かな住宅地の一角に住んでいるが、クラブがあるのは少し雑然とした印象を受ける一角のようだ。陽が暮れてからはあまり立ち入りたくないエリアではある。怪しい会員制クラブがあると言われても、なんとなく納得できる場所だった。

 さて、と杜若は腕を組んで唸る。会員制クラブとなると、その中に入り込むのは至難の技だ。というか、個人的には関わりたくもない。中に入るなんてもっての他だ。

 杜若はポケットに手をいれ、紫紺から渡された木札を取り出した。気が進まないが、これを使うのが一番手っ取り早いだろう。

 そうと決まれば、住吉蓮司を見つけ出さなければ。これは、住吉蓮司の半径二メートル以内で使わなければ、効力をもたないただの木片にすぎない。

「あんまり得意じゃないんだよなぁ」

 杜若はそうぼやくと、バイトになにかと必要なので常に持ち歩いているボイスレコーダーの残りの容量を確認し、充分に録音できるだけのメモリー残量を確かめて、ネットカフェを後にした。




 ―†―†―†―†―




 森野一丁目を歩く。小田急線の線路を越え、すぐの町だ。住宅街はもちろん、飲食店などもちらほらと目につく町だ。バス通りならまだしも、一本入ってしまえば、ほとんど地元の人間しか知らないような店ばかりが立ち並ぶ。そんななかにはSNSで話題になった飲食店の支店や、有名自転車メーカーの直営店などもあるのだが、調べなければまず知ることはできないだろうというくらい複雑な町だった。

 そんな複雑な通りの交錯した町の一角に、会員制クラブ『サティスファクション』はあった。

 何が満足サティスファクションなのだろう。醜い欲望を満たすという意味の暗示だろうか。杜若はクラブの入り口の目の前の通りを何気なく横切りながらその看板に目を向け、息を吐く。

 雑居ビルから地下に続く急な階段には、黒を基調に、それでいて派手な装飾が施されていた。アメリカンカフェにベガスのカジノの派手さ、そこにアウトロー感の漂うウエスタンな要素をいれてぐちゃぐちゃに融合させたかのような、歪な印象を与える入り口だ。イキったアウトロー擬きが、ちょいワルなアメリカってこんな感じだろう、と偏った知識と認識をそのまま詰め込んだような、そんな外観。少なくとも、この先に素敵なクラブがあるとは思えない。犯罪と汚い金の臭いがここまで漂ってくるようだ。実際に、酒と煙草とよくわからない甘い臭いが混ざった、混沌とした臭気が鼻につく。

 頭のなかで警鐘が鳴り響く。これは、入ったら最後、壊れるまで出てくることは不可能だ。あわよくばアルバイトとして潜り込もうかとも考えていたが、これはさすがに無理だ。アルバイトとして入るのも危険すぎる。

 さて。

 杜若はクラブの入った雑居ビルが視界に入るように意識しながら、二十メートルほど離れた電柱に背を預けて腕を組み、ポケットからスマホを取り出すと、スマホに目を落とす格好でさりげなくクラブの入り口を見張る。傍から見れば、道をチェックしているように見えるだろう。

 まずは、ここで住吉蓮司が来るのを待つしかない。住吉蓮司の行動範囲を絞り込めたとはいっても、確実に表れるという確証があるのは、この店だけなのだ。

 杜若は電柱に身を隠すように、それでいてしっかりと、クラブの入り口に目を向け続けた。



 午後五時。クラブの開店時間は午後六時なので、そろそろ従業員が入り始めるのではないかと睨んでいたが、予想通り、派手な見た目の男達が雑居ビルの地下にまばらながらも入っていく。

 今のところ、クラブに入っていったのは五人。従業員らしき男が四人、数分おきに入っていき、そのあとで酒や食材を取り扱う業者の青年がコンテナを手に降りて行った。

 食材などの搬入を終えたらしき業者の青年が、トラックに乗り込み去っていく。杜若はそれを何となく見送り、再びクラブの入り口に目を向けた。

 そして、息を止める。

 

 杜若から見ると、駅の方面から欠伸を噛み殺すように気怠そうにこちらに歩いてくる男は、SNSで確認した姿そのもの。ジャラジャラと派手なアクセサリーを身に着け、首には刺青を入れている。

 杜若は電柱から背を浮かす。

 スマホを片手に、道を確認するふりをして、住吉蓮司とすれ違う。さりげなく容姿を確認しながら。

 ラフな白色のシャツにネイビーのジャケット。ダメージジーンズと、有名なブランドの革靴。ポケットに財布などはすべて入れているようで、手ぶらだった。腕には、確かに高級時計ロレックス

 身長は杜若と同じくらいなので、177センチ前後くらいだろうか。着痩せして見えるが、ラフなシャツの下の肉体は程よく筋肉がついてることがうかがえる。何か本格的にスポーツをやっているようには見えないので、スポーツジムで鍛えたもののようだ。

 そして、首の刺青。至近距離で確認する。

 刺青の形は、トランプのスペードのマークだった。サイズも小さく、三センチ程度。だが、そのスペードのマークを、骸骨と思われる手が剣のように掴んでいる。

 ――何を意味しているんだろう。

 すれ違った一瞬でそこまで観察し終えると、歩調を乱さないまま杜若はその場を去る。内カメラに設定したスマホの位置を調節し、それで背後をうかがうと、ちょうど住吉蓮司がビルの地下にていくところだった。

 カメラを終了し、画面上部に表示された時間を確認する。

 十七時二十七分。

 これが、住吉蓮司の出勤時間だろう。念のため、少なくともあと三日ほどかけて出勤時間を確認し、もう少し行動を絞り込みたい。

 だが、今日はここまでだろう。

 杜若はスマホをポケットにしまうと、腰に手を当てて空を仰いだ。

 なかなかに骨が折れそうだ。




 ―†―†―†―†―




「あー、スペードはたぶん、剣のつもりだな」

「剣?」

「そう、剣。スペードの意味だよ。有名だけど、知らないか?」

 紫紺に言われ、杜若は首を横に振る。

 翌日。開店前の『うしみつ』のカウンター席で、杜若と紫紺は向かい合っていた。黒橡はカウンター内で開店準備や珈琲豆の準備に勤しんでいる。

 杜若は、住吉蓮司の首にはいっていた刺青を簡易的な絵に描き、紫紺に見せていた。

 テーブルに備え付けられたナプキンにボールペンで描かれた、スペードとそれを掴む骸骨の手。

 紫紺はスペードを指さすと、解説を続ける。

「トランプとかに使われるスート――スペードとかのマークのことな。このスートにはそれぞれ、意味があるんだ」

 紫紺はそう言って立ち上がると、「ちょっと待ってろ」と言って従業員用の扉をくぐり姿を消した。

 一分ほどで戻ってきた紫紺の手には、手のひらに収まるサイズの紙の箱があった。手品などで使われるタイプのトランプだ。

 紫紺はトランプを箱から取り出すと、スペード、ハート、ダイヤ、クラブのエースを、カウンターに並べる。

「スートには力関係がある。スペードが一番強く、次にハート、その次にダイヤ、一番弱いのがクラブ。ほら、ポーカーで一番強いのもロイヤルストレートフラッシュで、スペードの役だろう?」

 確かに、と杜若は頷く。友人とお菓子やジュースを誰が奢るかを賭けて何度かポーカーをやったことはあるので、ルールはある程度理解している。

「これは地域性があるかもしれないけど、大富豪でジョーカーに唯一勝るのがスペードのトレイってルールがある場合も多いしな」

 そのルールは知っている。

「俺の小学校、大富豪はそのルールでしたね」

「わりと多いよな、スペさんルール」

 スペードの三で、スペ三。略語として杜若も友人にその言葉は通じる。

「で、スートの意味に戻るとな、これ、日本で言うところの士農工商みたいな意味があるんだよ」

 順序は違うけどな、と紫紺は付け加え、クラブのエースをめくり、杜若に見せる。

「クラブの意味は、一般的に農民だ。農民の持つ棍棒、その先に飾ったとされるクローバーの葉。勇気、仕事、努力。季節は秋。あとは、火の星座である牡羊座、獅子座、射手座。そんなもんを意味してると言われている」

 紫紺はクラブのエースをテーブルに戻すと、次にダイヤのエースを同じようにめくりあげた。

「次に、ダイヤ。意味は商人だ。貨幣、経済力。季節は夏。地の星座とされる牡牛座、乙女座、山羊座」

 次に、ハートのエースを。

「ハートのスート。僧侶の意。僧侶の教える魂、聖杯、愛、感情。季節は春。水の星座の、蟹座、蠍座、魚座」

 そして最後に、スペードのエースを。

「で、最後にスペードのスート。これは、騎士や貴族を意味する。剣。季節は冬。風の星座とされる、双子座、天秤座、水瓶座なんかだな」

 まぁ、とスペードのエースをテーブルに戻しながら、紫紺は続ける。

「これは一説だけどな。メジャーな解釈だ。他にはアーサー王伝説に関わりがあるんじゃないかって説もある。例えば、スペードは剣だから聖剣エクスカリバーを、ハートは聖杯の意味を持つから聖杯伝説の聖杯グラールを、ダイヤは円卓の騎士の円卓、あるいはそこに描かれた五芒星を、クラブは聖槍ロンギヌスの槍を。そんな感じの解釈をする説だな。こっちはあんまり有名じゃないかもしれないが」

「そんな解釈があるんですね」

 杜若は初めて聞くその解釈に、感心する。

「あとは、赤と黒は昼と夜を示したりな。あぁ、それぞれ四つのジャック、クイーン、キングも、描かれているモデルは全て別人だ。合計十二人が描かれている。これも諸説あったりするが、例えばスペードのジャックはカール大帝の騎士であったオジェ・ル・ダノワ、クイーンはギリシャ神話の知恵と芸術と戦略の女神パラス・アテーナー、キングは古代イスラエル国王ダビデ王、なんて具合にな」

 手際よく、紫紺はスペード、ハート、ダイヤ、クラブそれぞれのジャック、クイーン、キングを並べる。確かに、よく見るとそれぞれのデザインは少しずつ違う。

「脱線しちまったから、戻すぞ。お前が見た住吉蓮司の刺青はスペード。それを骸骨の手が掴んでいたとなると、スペードのスートはそのまま剣の意味でいいだろう。あとは骸骨の手だが、これは――」

 紫紺がふと、言葉を切る。杜若が気になって紫紺を見ると、紫紺は額に手をあてて口のなかでなにかを呟いていた。

 すると、どこかからくすりと笑う声が漏れた。

 黒橡だった。口に手をあて、クスクスと笑っている。

「やはり、こういった知識はまだまだですね、紫紺」

 黒橡は柔らかな口調でそう言うと、「サービスです」と言って杜若と紫紺に珈琲を出す。杜若は「ありがとうございます」と礼を言うと、カップに口をつけた。

 ほろ苦いなかにほのかな甘さが香る。黒橡の淹れる珈琲は本当に美味しく、思わずほっと息を吐いた。これ以上に美味しい珈琲を、杜若は飲んだことはない。

 紫紺はぶすっと拗ねたように唇を尖らせると、頬杖をついて黒橡を上目に睨んだ。

「クロさんは知識の鬼だからさぁ。こういう知識専門じゃん」

「私には呪術の素養がありませんから。知識は素養など関係ありませんしね」

 黒橡はにっこりと微笑む。

 そう。黒橡は紫紺の叔父で、もちろん同じ一族に属している。なんでも、紫紺の父親の兄弟だそうなのだが、黒橡には呪術師としての素養が一切無い。一般人と全く同じなのだ。黒橡はこうして微笑んでいるが、紫紺が「呪術師としての素養がないとさ、一族の中では片身狭いんだよ。偏見もひどいしな」とぼやいていたのを杜若は知っている。おそらく、黒橡自身思うこともあるのだろうが、黒橡はそれを表には出さない。

 だからこそなのか、黒橡の呪術やオカルトに関する知識は底が知れないほど深い。

 黒橡はナプキンに描かれたイラストを見て、「ふむ」と顎に手をあてた。

「そうですね、スペードの解釈は一旦、置いておきましょう。骸骨の手、ですか。頭蓋骨スカルならわかりやすいのですが、そのぶん意味も多いですしね――手、手ですか」

 黒橡はそう呟くと、柔らかく微笑んだ。

「おそらく、捻って考える必要はありませんね。この骸骨の手が意味するのは『永遠』でいいでしょう」

「永遠? 骸骨って、死の印象が強いですけど」

 杜若は驚いて目を見開く。

「えぇ、死を連想するのは自然でしょう。ですが、キリスト教ではスカルを永遠の象徴とします。スカルの刺青は多いですが、これは肉体を失っても魂は生き続けるということ、聖書に従うことで死後天国へ召されることを思い出させてくれる意味があると言われています。あとは、イエスが磔にされ処刑されたとされる『ゴルゴダの丘』の『ゴルゴダ』は、ヘブライ語で『髑髏』を意味するそうです」

 それを聞くと、永遠とされるのも納得だ。杜若は相槌をうちながら、黒橡の言葉に聞き入る。

「ですが、手というのは少々難問ですね。それもスペードを持つとなると。クラブならわかるのですが」

 黒橡は眉を潜める。

 すると、紫紺が「あぁ」と頷いた。

「鎌か槍ならってことか」

「えぇ」

 黒橡は頷く。

 さっぱり意味がわからない杜若は、説明を求めるように紫紺と黒橡を交互に見る。

 口を開いたのは、黒橡だった。

「スカルは永遠と言いましたが、つまり死の象徴でもあります」

「永遠なのに、死?」

「あくまで永遠なのは魂で、肉体は滅ぶものです。ですから、例えば象徴学では生は死を表すともされています」

 永遠なのは魂だけ。肉体は死ぬ。だから、生は死を表す。

 なるほど、よくわからない。

「死の象徴に欠かせないのが、死神の存在です。西洋の絵画などで死の象徴としてもっとも代表的なものは死神で、骸骨か、あるいは腐乱し蛆のわいた状態でマントなどを身に付け、生を刈り取る鎌や、死の産物である砂時計を持っています。ペストが流行った頃は、当時ペストは矢で感染するとされていたので、矢を引く姿であらわされたこともありました」

 黒橡はすらすらと続ける。

「槍というのは、イエスの受難具のひとつです。死の擬人像の持ち物とされているので、それを踏まえてクラブならわかると言ったのですが」

 黒橡も難しそうに眉を潜める。

「『骸骨の手』ですか。ふむ、『骸骨の手』は住吉蓮司さんを示しているのかもしれません」

 しばらくして、黒橡はそう呟くように言った。

「住吉蓮司を? まだ死んでませんよ?」

「えぇ、彼は『永遠』のつもりで骸骨の手を入れたのでしょう。そして、その手がつかむのはスペードのスート。これは、騎士ではなく貴族を意味していると見ましょう。掴んでいるというより、これは捕まえているといったところでしょうか。つまり住吉蓮司は、使となるのではないかと、私は思います。そして、その行き着く先は永遠です。他人の金で永遠に楽がしたい、といったところかと」

 黒橡はにこりと微笑む。

 杜若は、背筋が冷たくなるのを感じた。

 おそらく、住吉蓮司に死の使者であるという自覚はないだろう。だが、他人から搾取しつくしてしまうというのは、こじつけの極論で言えば殺人と同意ともいえる。

 実際、江田小百合は苦しんでいる。人間、金がなければ生きていけない。その金を全て搾取されてしまえば、生きることも叶わなくなる。

「だけど、富ならダイヤのスートの方がそれっぽいんじゃねぇの? 経済力とか、貨幣とかの意味あるだろ?」

 紫紺がカウンターに頬杖をついて、黒橡を見上げてそう問う。

 黒橡は「確かにそうですね」と微笑んだ。

「金や財産だけなら、そうでしょう。ですが、住吉蓮司さんは人を食い物にしています。物体だけではなく、人間というをです。金を持つものから貴族を指しているのでしょう。貴族は、商人よりも金を持っているイメージが強いでしょう?」

「イメージ、ですか」

 杜若はその言葉を反芻する。黒橡は頷いた。

「えぇ、イメージです。象徴学というものは、突き詰めればそこに行き着くと私は思っていますから。何事も、イメージや連想が重要ですよ」

 なるほど。確かに、象徴とはそういうものかもしれない。黒橡の解釈はすんなりと納得できた。

 結局は、何を連想させるかなのだ。

「じゃあ、クロさんの言う『貪欲に他人の富を我が物にしようとする死の使者』が住吉蓮司の刺青の意味ってことで、解決でいいか」

 紫紺は気怠げにそう言う。紫紺にとって、黒橡の知識量に敵わないことは認めてはいても、面白くはないらしい。

「紫紺、私と貴女は生きている時間が違うのですから、年老いた私が知識に勝るのは必然です。私は貴女の倍の時間、同じ系統の知識を詰め込んでいるのですから。私には、呪術の素養は全くありませんし、そのぶん知識に貪欲になっただけですよ」

 黒橡は紫紺の感情を鋭く読み取り、そうフォローした。

 紫紺は「わかってるよ」と唇を尖らせる。

 杜若は、紫紺と黒橡の互いの嫉妬を感じ取っていた。紫紺は、黒橡の深い知識に。黒橡は、紫紺の呪術師としての力に。

 だが、互いにその嫉妬には気づいているし、認めあっているのだろう。特殊な関係だな、と杜若は思ったが、それを口には出さなかった。

 とにかく、刺青の意味はわかった。些細なことなのかもしれないが、今後どこかで必要になる情報かもしれないので、知っておくに越したことはなかった。

 店内のアンティークな柱時計が、ボーンと低く響く音を鳴らした。午前十時。『うしみつ』の開店時間だ。杜若もそろそろ大学に向かおうと、珈琲をあおり飲み干すと、鞄をつかんで立ち上がる。

「おや、大学ですか?」

 黒橡が空のカップを片付けながら、杜若に目を向ける。

「はい、紫紺さん、マスター、また」

 杜若は頷くと、軽く頭を下げた。

 紫紺はカップを傾けながら、ひらりと手を振る。

「おう、いってこい」

「だから、マスターでは……まぁいいです。いってらっしゃい、杜若くん。店を出るときに、扉の札をひっくり返していってもらえますか?」

「はい」

 黒橡は困ったように微笑んでそう言う。杜若は頷き、扉を開けながらそこにかかった木札をひっくり返した。

『close』から『open』になった木札を揺らし、扉についたカウベルがコロンカランと鳴る。

「じゃあ、行ってきます」

 杜若はそう告げて、『うしみつ』をあとにした。




 ―†―†―†―†―




 午後五時半前後に、住吉蓮司は出勤する。

 休みは月曜日と木曜日、あとはクラブの定休日の火曜日。

 結局、一週間半張り込んだ結果、それがわかった。

「で、大学休みの日にもうちょい尾行したんですけど、土日は朝からクラブにこもりっぱなしで、中での様子はわかりませんでした。クラブ出勤前や住吉蓮司の休みの日は、ほとんど女性とデートしてるか、買い物してるくらいでしたね。あ、火曜は新宿のクラブに行ってました。そこも、あんまりいい噂は聞かないクラブでしたけど」

「ふーん、そうか」

 杜若は溜まりにたまった領収書の山を築きながら、そう告げた。

 あれから十日経った。『うしみつ』の二階の応接間では、その後の報告が行われていた。

「こっちも江田小百合について調べたよ。驚くほどに品行方正な、根っからの優等生委員長タイプ。中学高校と生徒会に所属、大学では経済学を専攻、日本文化愛好サークルってな団体に所属してたらしい。まぁ、中学高校と部活は茶道部一筋で、大学で入ってた日本文化愛好サークルってのも、茶道や華道、俳句に和歌、社寺めぐりなんかをする、本当に日本文化を愛でるサークルだったらしい。あー、ダメダメ、こんな優等生委員長タイプなんて、絶対に相容れない」

 紫紺は顔をしかめる。紫紺は真面目で素直な優等生委員長タイプの人間が苦手だ。理由を聞いても教えてはくれないが、おそらくそういったタイプの人と相容れなかったことがあるのだろう。

 なんとなく、わかる気がする。なにせ、紫紺はこんな性格だ。上品とはほど遠い言動に、感情的な行動も多い。友達は多いだろうが、集団行動では浮くタイプ。つまり、同世代や年下からは広く好かれても、真面目な優等生や年の離れた上の世代からは嫌われるタイプ。学生時代は、さぞ反抗的と言われたのだろう。

 実際、紫紺は年上相手だと顔をしかめることが多い。黒橡のような例外はもちろんいるが、『うしみつ』の店内では紫紺よりも明らかに年上の世代の人とあからさまに距離をおく。依頼主相手だと表面上取り繕うが、それでもかなり疲れるらしく、疲れた顔をしているのをよく見かける。

 調査対象がよっぽど年上だった場合は、杜若らスタッフに丸投げすることも少なくない。

 真面目優等生委員長タイプにも同じように距離をとることは多いが、今回だけはそういうわけにもいかないと認めたのだろう。さすがに住吉蓮司の調査に女である自分が乗り出すべきではないと思ったらしく、杜若に任せた。ならば、消去法で江田小百合を調べるのは紫紺になる。

 そういえば、と杜若はふと領収書を整理する手を止めた。

「俺しかつかまらなかったんですか、今回」

「ん? あぁ、そうだ。牡丹ぼたんは課題の提出期限が迫ってて、研究室に缶詰めらしくてな。さすがに学生は学業優先だし、無理強いはできねぇだろ」

 紫紺はタバコに火をつけながら、そう言った。

 牡丹というのは、もう一人のアルバイト従業員だ。杜若の先輩にあたる女性で、バイト歴も年齢も杜若より上だ。ちなみに、現在は大学院生で、某国立大学の大学院で民俗学を専攻している。

 同僚としてもかなり頼りになる人なのだが、提出課題に追われているのであれば、今回の仕事には関われないだろう。

「そうか、牡丹さんは無理なんですね」

「あいつ、最近荒れてるからな。しばらくは休ませるさ」

 紫紺は紫煙を燻らせながらそう呟くように言い、苦笑した。

 荒れているというのは、杜若も把握していた。なんでも、教授と次の研究会での発表内容の意見の不一致で衝突しているらしい。面と向かって愚痴られたのが一ヶ月前なのだが、まだ続いているらしい。

「今回の提出課題も、教授からの嫌がらせ半分らしい。相当荒んでたから、しばらくはこっちに入れられねぇよ」

 杜若は「はぁ」と頷いた。とにかく、今回の仕事は紫紺と二人でこなすしかないようだ。

「ところで」

 紫紺が突然、杜若の顔を覗き込む。杜若は驚いて、反り返るように離れた。

「な、何ですか」

「いやぁ、使ってないんだなと思ってな」

「使ってない?」

「渡しただろ、アレ」

 あぁ、と合点がいく。

「苦手なんですよね」

「そうも言ってられないだろ、今回とかは特に」

 紫紺に呆れたように言われ、杜若は深く息を吐く。

「『同名どうめい同生どうしょう通符つうふ』なんて貴重なもん、使わなきゃ損だぞ」

 そうは言われても、苦手なものは苦手なのだ。まだボイスレコーダーは使っていないので、容量は充分たりていると思うのだが、ボイスレコーダーでどうにかしても、途中で聞いていないと思われればひどく長い時間拘束されて説教される。それが嫌なのだ。

「つべこべ言わず、きちっと使って情報集めて来い。住吉蓮司の情報条件はもうちょっとで満たされるから」

 紫紺に机の対面から額を小突かれ、杜若は机に突っ伏した。

 仕方がない、やるしかない。

 深く重い息を吐くと、再び紫紺に小突かれた。




 午後五時。クラブ『サティスファクション』近くの道でパーカーのフードを深くかぶり、キャップで顔を隠しながら、杜若は立っていた。両手はパーカーのポケットの中で、その右手には初日に紫紺に渡された薄汚れた木札――『同名同生通符』が握られている。

 次々に出勤する従業員に漏れなく目をやりながら、住吉蓮司を待つ。

 五時半頃に出勤するのはわかっている。それでも、背中をひんやりと冷たいものが伝う。

 まだかまだかと、待つことにこんなにも緊張したのは、この張り込みをはじめてからは初めてだ。『同名同生通符』を握る手は、じっとりと嫌な汗に濡れている。

 何度も時計が気になって腕時計に目をおとしたくなったが、なんとかこらえる。どうせたいした時間は進んでいないし、何度も何度も確認するのは不自然だ。それでも、三分に一回ほどの頻度で、時計に目をおとしてしまっていた。

 いやにゆっくりと時間が流れる。乾いた喉でわずかな唾を呑みこみながら、永遠にも感じる時間をひたすら待つ。

 どれだけ待っただろう。せいぜい二十分くらいなのはわかっている。

 午後五時二十三分。

 ――来た。

 欠伸を噛み殺すように、住吉蓮司が歩いてくる。

 その姿を確認し、杜若はひとつ深呼吸をすると、右手の『同名同生通符』を握り直した。

 そして、背を預けていた民家の塀から起き上がると、ゆっくりと歩き出す。

 まるで張り込みを始めた初日のように、住吉蓮司とすれ違う。

 一歩一歩近づくたび、鼓動がうるさくなる。心臓が口から出そうだ。最初にすれ違った時はそんなことなかったのに、今は上手くいくか不安でしかたがない。

 あと三歩ですれ違う。あと二歩、あと一歩。

 今だ。すれ違う瞬間、杜若は『同名同生通符』を握り締め、念じた。

「――御応えください、倶生神くしょうじん

 口の中で、声に出さずに呟く。

 そのまま住吉蓮司とすれ違い、杜若は足を止めずに歩き続け、頑なに振り返ることなく一本目の脇道に入った。

 そこで、無意識に止めていた呼吸を再開した。

 途端、どっと汗が噴き出す。

 ただ、これで終わりではない。ここからが本番だ。

 杜若は右手の『同名同生通符』を握りしめたままポケットから出し、左手でポケットの中のボイスレコーダーの電源を入れた。

 そして、そこでやっと回れ右して振り返る。

 そこには、若い男女の二人組が立っていた。

 杜若の喉が、乾いた息を呑み込んだ。




 若い男女の二人組は、揃って杜若をまっすぐ見つめていた。派手な格好の男女だ。男はピアスだらけの耳に、明るい髪色のツーブロック、ダメージの目立つライダース風の服装。女は派手な赤色のメッシュに染めたアシンメトリーな髪に、ホットパンツとチューブトップにパーカーを羽織っている。

 一言でまとめると、ストリート系だろうか。住吉蓮司のファッションに近いものがあった。

「君か、俺たちに語りかけたのは」

 男の方が口を開く。

「そうなんじゃない、同名どうめい。彼、『同名同生通符』を持ってるわ。驚いた、それってかなり希少なものよ。一介の人間が持てるようなものじゃない」

 女がそう言い、訝しげに杜若を覗きこむ。

「アナタ、何者?」

 杜若は『同名同生通符』を握りしめたまま、カラカラに乾いた口を開いてなんとか声を出す。

「俺は、『呪殺委託執行社』の従業員、杜若と言います。『同名同生通符』はオーナーである紫紺さんから借り受けました」

「『呪殺委託執行社』……? 同生どうしょう、知ってるか?」

 同名と呼ばれた男の方が、女へ問う。

 同生と呼ばれた女は、考え込むように顎に手をあてた。

「上に照会するわ。ちょっと待って」

 そう言って、同生は目を瞑る。

 そして、ふとその姿が消えた。

 それは唐突に、忽然と、瞬きの間に、煙のように。

 何度見ても慣れない。嫌な汗がシャツを濡らしていく。

 しばらくして、今度は唐突に、瞬時に、瞬きの間に、同生の姿が、まるでそこにあるのが当然とでもいうように、平然と立っていた。

「……照会したわ。『呪殺委託執行社』。えぇ、こちらでも把握している組織よ。営業許可証は発行されてるわ。『同名同生通符』もいくつか所持申請されてる」

 そして、同生は事務的にそう口を開いて告げた。

 杜若はそっと息を吐き出す。第一関門突破だ。

「それにしても、人間は面白いものを生業にするのね。それをこちらも許可してるってことは、との繋がりもあるってことでしょう?」

「お、俺はただの従業員なので、そういう繋がりはオーナーが全部取り付けてるんだと思います」

 杜若はそう言う。

 同名と同生は顔を見合わせると、「それもそうか」と頷く。

「それで、『同名同生通符それ』を使ったってことは、俺たちに聞きたいことがあったんだろう?」

「私たちのについて、何か?」

 同名と同生は、そう問うてくる。

 杜若は頷く。

「『呪殺委託執行社』の調査で、住吉蓮司の素行を調べています。どんな人となりなのかを」

 杜若がそう告げると、同名と同生は顔を見合わせて苦笑した。

 そして、二人同時にそれぞれ見た目とは不釣り合いな古風な糸綴じの冊子を取り出した。その分厚さは全く違う。

 同名の冊子は少し分厚い単行本程度だ。

 だが、同生の冊子は六法全書や広辞苑以上に分厚い。もはや鈍器だ。

「これで答えになるだろうが、ちなみに俺のは一冊目、同生のは十七冊目だ」

 つまり、同生はこれより分厚いものをまだ所持しているということだ。

「ただの記録係で裁く権限のない私たちが言うべきではないけど、今後の人生を改めたとして、挽回は無理ね」

 同生はさらりとそう言うと、人差し指を口の前で立て、「ここだけの話にしてね」と告げた。

 同名も苦笑している。同意見なのだろう。

 だが、杜若は驚いていた。

 彼らが、が、自らの記録対象にそこまで言うことは、まずあり得ない。

 彼らは記録対象がこの世に生をうけると同時に生まれ、死ぬまで常に記録対象の肩に乗り、対象を記録し続ける。そういう存在なのだ。

 左肩には男神の同名を。右肩には女神の同生を。

 同名は対象の善行を記録し、同生は対象の悪行を記録する。

 そして、対象の死後に閻魔大王へすべての記録を報告し、人間の死後の裁判で重要な判断材料とされるのだ。

 倶生神という二柱の神々は、人間の人生を記録し続ける神々。もちろん、誰にでも憑いている。

 だが、彼らに許されているのは記録するという行為のみだ。そんな倶生神彼らは、誰よりも記録対象を深く知るからこそ、倶生神の言うことは絶対に正しく、また必ず真実だ。憑かれている人間の知らないことすら知っているのが、倶生神なのだ。

 だからこそ、この仕事ではとんでもなく頼りになる。相手を調べるとして、その相手の倶生神に話を聞くだけで、知りたいことは全てわかるからだ。

 だが、一介の人間が話せるような相手ではない。だからこそ、『同名同生通符』という特殊な手形が必要となるのだ。

 そして、『同名同生通符』を使うにもかなり制限がある。

 まず、所有者が使いたい対象の名前を書いた符で通符を加工しなければいけない。それにもかなりややこしい手順を踏まなければいけない上に、紫紺のような呪術の素養も必要になるらしい。

 そして、所有者自身の倶生神や、実際に使用する人間の倶生神に使ってはいけず、必ず第三者相手に使用しなければいけないらしい。つまりは、悪用してはいけないということだ。

 さらに面倒な手間が幾重にも重なっているとは紫紺に聞いたことはあるが、杜若は紫紺の説明の言葉の半分も理解できなかった。

 だが、要約すると『とても貴重で面倒でその代わりにとてつもなく便利』ということだけは理解できた。

 そんな倶生神の、同名と同生の今の言葉を聞く限り、呪殺するに値するということは明確だった。

 だが、これだけでは

「あの、具体的にどれくらい住吉蓮司に罪が重なっているのかお聞きしてもいいですか? 確実に地獄行きに相当するものだけでいいので」

 杜若の言葉に、同名と同生は顔を見会わせる。そして、同名がひとつ頷くことで、同生に発言を促した。

「わかったわ。とりあえず、同名は戻って。あとは私に任せて」

「ああ、わかったよ同生。じゃあな、人間。あとは同生から聞けよ」

 そう言うと、同名は瞬きの間に消え失せていた。まるで、最初からそこにいなかったかのように、気配すら残さず、忽然と。

 残った同生は、まっすぐ杜若に向き直る。杜若も息をのみ、まっすぐその視線を受け止めた。

「じゃあ、とりあえずざっと並べるわ」

 そうして、同生の口からは絶えることなく淡々と数多の罪状が列挙されていった。

 杜若は必死に意識を保ちながら、お経のようなその言葉の羅列を眠気を堪えて聞き続けていた。




 カフェ『うしみつ』の閉店時間は、午後八時。このあたりでは閉店には早い時間だが、これより遅くまで店を開けていると、酔っぱらった客が入ってくることが多くなるらしい。

 飲み屋が多く軒を連ねる通りなのでそれは避けられないことのようで、以前遅くまで営業していたところ、泥酔した客が閉店時間を過ぎても頑として帰らず、挙げ句店内に吐かれて大変だったと黒橡が困ったように話していた。

 そうなると次の日の営業にも大きな影響が出てしまうため、店は午後八時に閉めるようになったという。

 黒橡のこのカフェにかける情熱は、とても深く熱い。美味しい珈琲を提供する、静かでどこか懐かしく居心地のいい空間を作り、守っている。

 実際、このカフェに来る客層は、静かな空間を好む客が多い。

 静かといっても、話してはいけないわけではない。空間を楽しめる人、寛容な心を持っている人がゆったりと寛げる空間を提供したいのだと、黒橡はいつも言う。

 たとえばぐずる赤ちゃんがいても、周囲がそれを微笑ましく見守れる空間。小さな子供が楽しそうに話しているのを、背景音楽として受け入れられる空間。静かな世間話の声がわずかに響くのを、店内で響く音楽で優しく包み込む空間。静かに読書ができる空間。勉強に没頭できる空間。

 そうした意味での静かな空間だ。心の広い、寛容で柔らかい空間。

 だからこそ、飲み潰れて騒ぐ客や、走り回る子供を注意しない親、回りを気遣うことなく大声で下世話な話をする客などを、黒橡は容赦なく追い出す。それでクレームが来ても、一切気にしない。

 黒橡は、「この店に来る全員でなくていいんです。この店を愛してくれるお客様達がいらっしゃれば、それだけで十分なんですよ。私はそんなお客様と、お客様が好きになってくれたこの空間を守ります。この店の雰囲気と空気を守ることが、この店を愛してくれるお客様を守ることになりますからね」と言って、微笑んでいた。

 今のご時世でそこまで言ってのけた黒橡に驚き、杜若は開いた口が塞がらなかったものだ。

 そんな早々に閉店する『うしみつ』に杜若が滑り込んだのは、黒橡が閉店を示す看板を店の扉にかけているときだった。

「おや、おかえりなさい杜若くん」

 げっそりと疲れた顔で店の扉をくぐった杜若を見て、黒橡は目を大きく見開いてパチパチと瞬く。

「どうしました? とてもお疲れのようですが」

「ああ……はい、まぁ。あの、紫紺さんは二階に?」

「えぇ、まだいますよ。は紫紺の気分次第の閉店ですから」

 黒橡はそう言うと、腰に手をあて天井を仰いだ。

 黒橡は『呪殺委託執行社』のことを『』と呼ぶ。ちなみに、カフェのことは『』と呼んでいる。実際、一階はカフェ、二階はほとんど呪殺委託執行社なので、階数で呼ぶ方が呼びやすいのだろう。それに、『うしみつ』店内で堂々と『呪殺委託執行社』などと大きな声では言えないからという理由もある。

 杜若は黒橡にもう一言二言言葉をかけ、奥の扉をくぐって二階へ向かう。

 階段をのぼりきり、一番奥の扉へ。電気が落とされ暗い廊下のなかで、ぽつんと扉の下から光の漏れる扉の前に立つ。

「ただいま戻りました」

 ノックと同時にそう言って扉を開け、中の状況が目に入った瞬間、バァンと大きな音をたてて扉を勢いよく閉めた。

 ぶわりと背中を冷たいものが覆う。それとは対照的に、顔はどんどん茹であがっていく。

「紫紺さん!」

 そして、扉の向こうにいるその人に向け、杜若は怒鳴るように叫んだ。

 階下から黒橡の「どうかしましたか」という声が聞こえてきたので、「なんでもないです」と慌てて答える。

 すると、ギィと扉が開かれた。

「お前なぁ、扉が壊れたらどうしてくれるつもりなんだよ」

「だったら応接間の方でそんなことしないでください!」

 真っ赤な顔で俯きながら怒鳴ると、紫紺が唇を尖らせたのがわかった。

「だって、移動めんどいし」

「僕の身にもなってくださいよ……」

 恐る恐る視線を上げ、紫紺の姿が目に入り――また勢いよく顔を伏せた。

「だからっ!」

「別にいいじゃんか。カッキーだって、こんなババアに興奮もしねぇだろ」

 紫紺はケラケラと笑いながら、応接間に入っていく。

 下着だけというはしたない姿で堂々と応接間を歩き回る紫紺に眩暈がする。隣に従業員控え室兼事務所という扱いのロッカールームがあるにも関わらず、紫紺は「面倒だから」という理由だけで応接間で着替えることが多い。

 それに、紫紺自身が「こんなババア」なんて自分を卑下しているが、紫紺はまだ三十一歳だ。杜若から見れば、三十路はババアではなくお姉さんと呼べる年齢差。

 それに、紫紺は言動がなところはあるが、客観的に見て美人に分類される外見をしている。体型も着やせしているから普段はあまり目立たないが、ほどよく豊かな胸に健康的な肉付きの体。高い身長に、白磁のようなしなやかな四肢。

 それが下着姿で強調されているとなると、年頃の青年である杜若には刺激が強すぎるのだ。

 条件反射のように真っ赤に茹で上がる顔をしかめ、杜若は呻いた。

 同性同士ならこんなことにはならないのだろうが、さすがに異性の、しかも年上の、素敵な体格の女性の下着姿は目に毒だ。

 紫紺は渋々といった様子で、ソファーに置いてあったのであろう服に手をつける。

 紫紺が身に付けたのは和服だった。淀みなく慣れた手付きで、萩重はぎかさねの着物を着付けていく。表は紫、裏は二藍の生地の着物だ。

 最後に帯を締め、まるで男性の着流しのように着付けると、これでいいだろうとでも言うように腰に手をあて杜若に目を向けた。

 髪はいつものように無造作にひとつまとめただけだが、それでもとても栄えていた。花街の遊び人のような雰囲気が出ているが、なのに女だと強く納得させる雰囲気も同時に持ち合わせている。

「今日、なんかあるんですか」

「御上の方々との会合がな。ま、それなりに上手くやって来るよ。どうせ、こっちに来て飲み食いしたいってだけの付き合いに引っ張り出されてるだけだから」

 どこか疲れたように息を吐きながら苦笑した紫紺は、やれやれと首を横に振った。

 紫紺のいうとやらは、どうやら親戚の目上の方々のことらしい。

「場所はどこで?」

「新宿だとよ。ま、今夜は帰れないだろうなぁ」

 どこか憂鬱そうにそう呟き、紫紺はボンサックを肩にかけた。ボンサックと和服は、意外にもマッチしていた。

 おそらくそのボンサックには、最低限の着替えなどが入っているのだろう。

「っと、その前に。カッキー、なにか用があったんじゃないのか?」

「え、あ、そうでした」

 杜若はポケットから札を取り出す。『同名同生通符』だ。

「お、使ったか」

「二時間、拘束されました……」

 杜若はつい数十分前までのことを思い出し、深い息を吐く。覚悟はしていたが、覚悟を決めていた以上に住吉蓮司の悪行は数多く、淡々と並べ立てられた罪科を聞きながら、眠気と格闘するのがとんでもなく苦痛に満ちていた。

「二時間か。そりゃまた珍しい。いつもは精々、一時間くらいだろ?」

「……聞いてるだけで吐き気するくらいの極悪人ですよ、この男。俺でもわかります。準備と条件が整い次第、執行しても大丈夫だと思います」

「ま、そうかもしれねぇけど、一応報告書はまとめておいてくれ。明日の夕方以降にはここに来るようにするから、それより後に出してくれればいいよ。もしそれより早く出来たりしたら、クロさんに預けてもらっても構わない」

 紫紺はそう言うと、ちらりと壁にかかる時計を見上げた。

「っと、もうこんな時間か、間に合わなくなるな」

 午後八時半になろうとする時計を見上げ、紫紺は呟く。

 今から新宿に行くとなると、小田急線の快速急行を使ったとしても、確実に九時は過ぎる。

「スタート、遅いんですね」

 杜若は純粋に疑問に思ったことを口にする。九時過ぎてから飲み会となると、帰れなくなるという紫紺の言葉にも納得できた。

「半分お見合い合コンだからな」

 しかしその紫紺の返しは予想外で、杜若は「はぁ?」と素っ頓狂な声をあげた。

「お、おお、お見合いっ!」

「お見合いのような、合コンのような、だよ」

「紫紺さん、彼氏作るんですか!」

 紫紺は彼氏など作らない主義だ。これは自分でよく言っている。面倒くさがりがここまで極まるのかと思うくらい、「一々変に気を使ったり気を使われたり出掛けたりデートしたり計算高く行動するとかそういうのが面倒くさいから彼氏なんて作らねぇよ」と切り捨てていた。

 そんな紫紺が。

「うっせ、自分の意思でなわけないだろ。御上がうるさいんだよ、『いい年なんだから結婚してくれないと困ります』ぅ~ってな。古くから続く大きい一族ってのはな、それだけで面倒ごとをごまんと抱え込んでるもんだし、ちょっと特殊な事情と屑みたいな内情もあるしな」

 紫紺は心底嫌そうに顔をしかめ、そう言った。

 だがそれでもその会合に顔を出すのも、その一族の面倒な人付きあいのために仕方なくなんだろう。面倒ごとを嫌う紫紺でさえ避けられないとなると、その強制力のほどがうかがえた。

「紫紺、いますか。あぁ、よかった、まだ行ってなかったんですね」

 すると、杜若の背後から落ち着いた声が響いた。黒橡だ。

 応接間の鍵つきの戸棚に『同名同生通符』をしっかりと片付けていた紫紺は、首だけ回して黒橡に目を向ける。

「お、どうしたクロさん」

「危うく渡し損ねるところでした。これ、服にでも仕込んでおいてください」

 黒橡は、ベストのポケットからカプセル錠の入った小瓶を取り出す。毒々しい赤色と白の、一見花粉症や風邪の時にでも飲む薬に見えなくもない。

 だが、紫紺は目を見開き、飛び付くようにその小瓶を受け取った。

「危なっ! ありがとう、クロさん。これ忘れてったら流石にヤバかった」

 紫紺は真顔でそう言うと、その場で一錠口に含み、水無しで飲み込むと、残りの入った小瓶を懐に滑り込ませた。

「あの、それは?」

 杜若が首をかしげると、黒橡が胸に手をあて、困ったように微笑みながら「解毒薬ですよ」と告げた。

「げ、解毒薬?」

「はい。紫紺は一族のなかでもとても微妙な立場でして。命はもちろん、体も狙われているんですよ」

「体を、狙う……?」

 命を狙われているというのは、まだ何となくわかる気がする。大きな一族では遺産相続をめぐって殺人事件に発展するものは、よくサスペンスドラマで目にする設定だ。まさかそれが現実で起こるなんて思わないが、紫紺を見ていたらあながちあり得なくもない気になってくる。

 だが、体とはなんだろうか。

「クーロさん。さすがに刺激が強いって、チェリーボーイには」

 紫紺がニシシと悪戯っぽく笑う。

 その一言で理解した杜若は、真っ赤になって「紫紺さん!」と声をあげる。

「ハッハハハ。ま、そういうこった。じゃあ行ってくるな、クロさん、カッキー。また明日な」

 紫紺はそのまま急ぎ足で応接間を出ていった。

 応接間の窓から大和横丁を見下ろすと、着流し姿の紫紺の後ろ姿が駅方面に消えていくのが見えた。

「大変なんですね、その、紫紺さんや黒橡さんの一族って」

 杜若は呟く。その言葉に、黒橡はゆっくりと頷いた。

「古い体質の一族ですからね。それと、一族の者は日本全国各地に散っているんですよ。関東の多摩たま相模さがみ地区担当が、紫紺の一家でした。私は甲斐かい地区担当の家族だったんですが、如何せん、私に呪術師としての素養がとんとありませんから、外されてしまいましてね。私は仲の良かった兄を頼り、こちらに移り住んだんですよ」

 黒橡が、杜若に並んで窓の外を見下ろしながら、口を開く。

 黒橡が自分のことや、彼らの一族のことを進んで口にするのは珍しかった。

「昔からあの子たちはいい子でして。差別や偏見を強く嫌っていたんです。我々の一族は、力が全て。力の強い者は権力や発言力を持ち、力の弱い者は下人しもびと扱い。力を持てなかった私など、クズ以下の扱いでしたよ。それが一族内では当然でした。でも、あの子たちは違った。兄が私を匿ってくれていたのも差別や偏見を嫌うようになった理由のひとつかもしれませんが、あの子たちは一般人に近い感覚を有しています。まぁ、兄も一族の古い体質を嫌っていましたから、わざとあの子たちを普通の学校に通わせ、普通に友達を作らせ、外の世界を見せていたのも、大きな影響を与えたのでしょう」

「普通の学校……?」

「ええ」

 黒橡は頷く。

「我々一族は、義務教育を受けさせる専門の教育機関を持っています。表向きは私立の小中一貫校として。その学校の生徒には、一族の子供たちしかいませんがね。そうして呪術の力などに磨きをかけさせ、切磋琢磨させ、外の世界を見せないように、宗家に従うように教育せんのうさせます」

「宗家?」

「はい。わかりやすく言えば、本家です。我々にとって、宗家の言うことは絶対。宗家が白と言えば、黒いものでも白くなる。そういう家なのです」

 まあしかし、と黒橡は続ける。

「ここ数年は、宗家の在り方に疑問を持つ者も増えました。私の兄も、そしてこの家族である紫紺たちもそうです。昔なら通じても、今のこの情報社会では、あのような古い考えは通じなくなってきています。おそらく、もうそろそろ宗家も解体されるか、上層部が一新されるでしょう」

 若い芽の力は素晴らしい。黒橡は感慨深くそう呟くと、ふと杜若に目を向けた。

 杜若は目を見開き、立ち尽くしている。

「ああ、すみません。我々一族の薄汚くつまらない話をしてしまって」

「あ、いえ。その、大変なんですね」

 杜若は、自分で言うのもなんだが、一般的な家庭に生まれ育ったと思っている。父の実家も母の実家も、大きな一族というわけではない。おそらく、遺産争いなどが起こるほど大きいわけではないだろう。以前母方の祖父が亡くなった時に母が土地を相続したと聞いたが、管理が面倒だからという理由で、祖母や叔母と共にまとめて全て手放したと聞いている。

 母方は土地持ちだったとはいえそこまで大きな家柄でもなく、そもそも祖父は長男ではなかった。父の実家は土地など持っていないはずだし、母の時のように土地を継ぐような遺産相続もないだろう。母の時よりも、遺産云々でごたごたすることはないはずだ。

 そんな一般家庭で育った杜若にとって、黒橡の語る話には、どこか現実味を感じられなかった。まるでドラマや映画のように、作り物のように感じてしまう。

 だが、『呪殺委託執行社』などという現実離れした場所で、現実離れしたモノを相手にすることの増えた杜若には、それが真実だということは理解できた。『呪殺委託執行社』の業務内容に比べれば、黒橡の語る彼ら一族の方が、現実味のある話であるはずなのだ。

「申し訳ありません、こんな話に付き合わせてしまって。ここでの会話の内容は、どうぞご内密に。本来は、一族の内情など門外不出のものですので。とは言っても、牡丹さんにも話してしまっているのですがね」

 黒橡は苦笑する。牡丹に話したというのは、どこか納得できた。

 今ここにいない牡丹という杜若の先輩は、民俗学を専門とする大学院生だ。そして、古くから続く家系に特に興味を持っている。紫紺や黒橡の一族のことなど、特に興味があるらしく、よく訊ねている姿を見かける。

 そういえば、今回は課題で忙しかったという牡丹だが、彼女はこの仕事にできる限り関わりたがる。今回は外されてしまったと聞いたら、さぞ機嫌を損ねるだろう。

「牡丹さん向けの報告書も、作っておいたほうがいいですよね」

 そうぽつりと呟くと、黒橡が静かに笑った。

「そうですね。彼女は見た目からは想像できないくらい子どもっぽいところがありますから」

「マスター、それ牡丹さんに言ったら怒られますよ」

「ですから杜若君、私はマスターではないと何度も言っているじゃないですか」

 杜若と黒橡は、顔を見合わせどちらからともなく笑う。

「そろそろ私たちも帰りましょうか。杜若君、二階の戸締りの確認をお願いしてもいいですか?」

「はい、わかりました」

 一階のカフェの柱時計のたてるボーンという低い音が、二階にまで届いた。

 気付けば、午後九時を迎えていた。

 窓の外の通りは、俄かに活気づきはじめていた。



 ―†―†―†―†―




 大学の図書館は、居心地がいい。

 快適な湿度と温度に保たれた空調に、静かな空間。

 杜若のお気に入りは、地上三階地下四階建ての図書館の二階奥にある自習スペースの、電子機器の持ち込みの許可されたエリアにある、狭い二階建て風の机の連なるエリアだった。下の段は完全にかまくらのようになっており、上の段は開放的な机になっている。

 下段は暗さと引き換えに、完全な個室のようになっているので、勉強に没頭する者に好まれるのはもちろん、いつもは見回りの警備員に容赦なく起こされる居眠りもここなら覗かれることが少ないのでバレることもあまりなく、知る人ぞ知る穴場スポットとして人気の一角でもあった。

 そんな人気穴場スポットの自習机を運よく獲得できた杜若は、持ち込んだ私物のタブレットにキーボードを装着し、充電器を机備え付きのコンセントに繋ぐと、「よし」と声を出すことで気合を入れた。

 この二段自習机の上段や普通の自習机なら後方の机から覗かれる可能性あるが、下段ならば左側に出入用の入り口があるだけで、前後と右側は壁で囲われ、机の両脇も壁に覆われており、椅子の両脇も同様だ。

 そして奥行きは一メートル半ほどはあり、椅子も同じサイズの堅いソファータイプになっているので、居眠りするには足を曲げれば横にもなれるサイズということもあり、居眠り常習犯にも重宝されているのだ。

 現に、杜若が獲得したこの席以外にも複数あるほかの席は、現在進行でそのほとんどが居眠りのために使われていた。

 杜若も疲れた時にはこの場所を居眠りのために使うので、彼ら彼女らを強く言うことはできないのだが。

 ともかく、タブレットを覗き込まれない安全な場所を確保したところで、報告書の作成に取り掛かる。

 流石に『呪殺委託執行社』の報告書を、覗かれる危険のある場所では作成できない。だからこそ、この場所を選んだ。

 もしここが開いていなければ、三階のミーティングルームを借りるつもりだったが、こちらは借りるために手続きが必要なうえ、使用目的まで明記しなければいけないので面倒なのだ。この机が開いていて本当に幸運だった。

 報告書と言っても、昨日同名に二時間みっちり並べ連ねられた罪状の中から大きな罪をピックアップし箇条書きにまとめ、他にも自分で調べて判明した住吉蓮司の呪殺に相当するだけの根拠をまとめるだけだ。

 大した手間ではない。書式にも縛りはないし、枚数に制限もない。

 昨日同名の挙げた罪状を録音した音声をもう一度聞きなおしながら重要そうなものをつまみ上げていく作業は気が遠くなるほどの眠気との格闘になるが、何とかなるだろう。

 集中すること、三時間。

 二時間ほどの録音を聞きながら同時に重要そうなものをつまみ上げて入力、その後それを見直しながらさらに修正をしたり選り分けたりという作業を行い、なんとか報告書は完成した。

 最初につまみ上げただけで六十枚余の報告書が出来上がり、さすがに多すぎると削除していっても、極限まで減りに減らして二十と数枚。いくらなんでも多すぎる。ここまで報告書が多くなったことは滅多にない。

「そりゃ地獄行きも当然って漏らすよな」

 杜若は同生と同名が口にした言葉に、今更ながら強く同意した。

 ここまで悪行にまみれた人間を、未だかつて見たことがない。

 女性に八股もかけていたことは、ここまでともなれば些細な問題だ。それに、八股それ自体は犯罪だということでもない。住吉蓮司のモラルが問われるだけだ。

 だが、住吉蓮司の倶生神が開示してくれた情報の中には、モラルの一言で片付けることのできないほどの悪行にまみれていた。

 詐欺、強盗、誘拐、恐喝、暴行、強姦、etcエトセトラ……。

 刑法に照らし合わせても懲役何年になるのだろうか。叩けば叩くほど、出るわ出るわ悪行を通り越した犯罪の数々。

 よくこれまで警察の目を掻い潜ってきたな、と恐怖や嫌悪を押しのけて感心してしまうほどの罪の数だ。殺人までは手を出していないようだが、それでも質が悪い。

 杜若は報告書を見直すとその原稿を保存し、タブレットの電源を落とす。

 さすがに大学で報告書を印刷するわけにもいかないので、印刷するのはいつも『うしみつ』の二階、従業員控え室兼事務室となっている部屋に設置されたコピー機でだ。

 コピー機にログが残っても困るし、もし報告書をどこかに忘れようものなら、大変なことになるからだ。特に、今回のような案件ならなおさら。

 捉え方によっては、犯罪を把握したまま野放しにしているようなものなのだから。

 荷物をまとめ立ち上がる。

 報告書は完成した。印刷は『うしみつ』の二階で行うので、もう大学図書館でやることもない。

 あとは、このまま『うしみつ』に向かうだけ。

 時計に目を落とす。午後四時過ぎを示す時計を確認し、脳内で町田まで行くのにかかる時間をざっと計算する。『うしみつ』につくのは、五時半頃になりそうだ。この時間は、まだ電車の本数が限られている時間帯だ。運良く快速電車に乗れればいいが、そう都合よく快速電車には乗れないだろう。

 今日は紫紺も夕方過ぎにしか出てこられないと言っていた。今からのんびり向かえば、ちょうど紫紺が顔を出したころには着けるだろう。

 そう算段をつけると、杜若はひとつ伸びをして大学の図書館を後にした。




 町田に着いたのは、予想通り五時半少し前だった。

『うしみつ』に向かって歩いていると、見覚えのある後姿を見つけた。

 ボンサックを肩に引っ掛けて歩くその人の足取りは、どこか体を引きずっているかのように重い。

 杜若はその人に駆け寄ると、声をかけた。

「おはようございます、紫紺さん」

 その人――紫紺は杜若に目を向けると、いつもよりも幾分低い声で「ああ」と言った。

「おはよ、カッキー」

 その声にも疲れがにじみ、怠そうに沈んでいる。

「あの、もしかして、今新宿から帰ってきたんですか?」

 紫紺の様子を見て、まさかと思いながらも、杜若は問う。

 昨日の着物ではなく、今の紫紺の格好はいつものようにラフなジーンズにライダース姿だ。性別を意識させない格好は、紫紺が好むものだった。

 だが、紫紺は深い溜息とともに頷く。

「なかなか帰してもらえなくて、結局徹夜で飲み会が続いてな。解放されたのは朝の八時過ぎだったよ。町田まで帰る気にもなれなくて、結局新宿の漫画喫茶でシャワー浴びて仮眠とって、やっと帰ってこれた」

 まったく面倒くさい、と紫紺は吐き捨てるように言った。

「宗家の人間まで来るってなると断れないのが本当に質が悪い。適当にいなしても、懲りずに睡眠薬やら何やら盛ってきて既成事実を作ろうとするし。解毒薬くれたクロさんに感謝だよ、もう」

 宗家。昨日、黒橡に聞いたワードだ。

 そして、体を狙われるというのも思っていた以上に露骨な上にえげつない。

「一服盛って既成事実作るって、それって犯罪じゃ……」

「そういうこと平気でやってくるんだよ、宗家の連中は。あいつら、自分たちに逆らえる存在なんてこの世のどこにも存在してないって本気で思ってるからな」

 つい今まで住吉蓮司に関する報告書をまとめていたからか、やっていることが住吉蓮司と同じではないかと思ってしまうが、それが組織ぐるみとなるとまた違ったがあった。

 やっぱり、紫紺は生きている世界が違うのだと実感させられる。その関係者と言える立場の杜若も片足を突っ込んでいるのかもしれないが、杜若は紫紺の一族の人間に多く知り合いがいるわけではない。

 紫紺、黒橡の他には数人程度。たまに紫紺を訪ねてくる数人を知っているくらいだ。

 そして、『呪殺委託執行社』まで直々に訪ねてくるような紫紺の親族は、杜若の目から見てな人が多い。紫紺や黒橡の言うような歪んだ考えの人々ではないような気がする。

 もちろん、杜若は紫紺たちの親族と親しく話したわけではない。挨拶程度しか交わしたことがないので、深くは知らない。本当は隠しているだけで、歪んで狂った感覚の人が、本当はいたのかもしれない。そんなこと、今ではわからないのだが。

「あ、カッキーさ、これ二階のロッカーにでも突っ込んでおいてくれない?」

 紫紺が思い出したように、ボンサックを杜若に押し付けるように渡してきた。

 その勢いに負けるようにボンサックを受けとる。中身はさほど入っていないのか、見た目に反してかなり軽かった。

「いいですけど、紫紺さんはどうするんですか」

「一旦帰る。シャワーだけ軽く浴びただけだし、風呂に入りたい。あと、たぶん着物が届くから」

 なるほど、着物はボンサックに詰めて帰らず、コンビニかどこかから送ったようだ。確かに、その方が皺になったりはしないだろう。

 だからこのボンサックは軽かったのか。おそらく、今は必要最低限のものしか入れていないのだろう。

「報告書、出来たんだろ。印刷して待っててくれ。一時間くらいしたら『うしみつ』に顔出すから、それまでクロさんの珈琲でも飲んでろよ」

「はい、そうさせてもらいます」

『うしみつ』のある大和横丁の入り口だった。紫紺の住むマンションは、ここよりも少し先にある。

 じゃあな、と言って紫紺は去っていった。その背中を見送り、杜若も『うしみつ』に足を向ける。

 柔らかい木目の扉を開く。コロンカランとカウベルが心地よい音をたてる。

「いらっしゃい。ああ、杜若くん、おはようございます」

「はい、おはようございます、マスター」

「ですから……はぁ、もう何度目ですか」

 黒橡は困ったように笑う。

 店内に、客はほとんどいなかった。テーブル席でパソコンに向かう中年の男性が一人、いるだけだ。

「報告書の印刷ですか?」

 黒橡が問う。杜若は頷いた。

「はい。あ、さっき紫紺さんに会いました。一度帰ってから、ここに来るそうです。一時間くらいで来るって言ってたんで、その間、『うしみつこっち』で待たせてもらっていいですか?」

「ええ、構いませんよ。では紫紺が来るまで、珈琲を淹れましょうか。先に、印刷だけ済ませてきてしまってください。戻ってくる頃にお出しできるようにしますので」

「それ、頼むつもりでした。ありがとうございます。じゃ、先に印刷してきます」

 杜若はそう言うと、カウンターの横の従業員用の扉を潜る。慣れた足取りで狭い螺旋階段をのぼり、二番目の扉を開ける。

 カフェ『うしみつ』の売上管理や『呪殺委託執行社』の業務管理などを行っているデスクトップのパソコンが一台と業務用コピー機が鎮座し、壁一面にはロッカーが並んでいる。ホワイトボードがかけられた壁には隣の応接間に通じる扉があり、そこは用がなければ鍵はかけずに閉めたままだ。

 売上金などを保管する金庫が、『うしみつ』と『呪殺委託執行社』のために二つ置いてあるのは、なんとなくこの部屋に圧迫感を与えていた。

 それも、『うしみつ』用の金庫は近代的なよく見かけるタイプのものだが、『呪殺委託執行社』用の金庫は古めかしい黒いものだ。古めかしいその金庫は、ダイヤルには数字ではなくが片仮名で彫られており、よくバラエティ番組で開かずの金庫として紹介されるそれと同じような歴史ある存在感と重圧を放っている。

 中央には長机とパイプ椅子が数脚置かれているが、この部屋の何となく感じる圧迫感から、この部屋に好んで居座る人はあまりいない。黒橡や紫紺は売上管理やら業務管理やらで籠ることはあっても、用が済めばすぐにこの部屋から出てしまう。

 だから紫紺は好んで応接間に入り浸るのだ。他の皆も、壁に並ぶロッカーに荷物を置きに来る以外でほとんどこの部屋に居座ることはない。杜若もロッカーをひとつもらっているが、荷物を預けて鍵をかければ、いつもすぐにこの部屋を出ていく。

 今日はそうも言っていられないので、タブレットを起動してコピー機に向かい合った。杜若が『呪殺委託執行社ここ』でバイトをはじめてすぐにコピー機が壊れるというトラブルが起こり、その時に買い換えた業務用コピー機は、アプリさえタブレットやスマホに入れておけば、そこからデータを飛ばして印刷できる優れものだ。

 今回もタブレットからデータをコピー機に飛ばし、報告書を印刷する。今も昔も変わらずコピー機というものはうるさく駆動音を響かせ、紙を吐き出す。

 二十枚を越える報告書を全て印刷し終え、事務室の長机の上に置いてある文房具入れからホチキスを取り上げると、報告書を留めてなんとか報告書は準備できた。

 さて、もうここに用はない、と杜若は紫紺から預かったボンサックをいつも鍵をかけていない紫紺のロッカーに入れ、杜若自身の荷物は自分に与えられたロッカーに仕舞ってきちんと鍵をかけ、報告書を片手に事務室を出る。

 一階におりて、『うしみつ』店内に出る。

 客は相変わらず、先ほどの男性一人だ。増えても減ってもいなかった。

「ちょうどいいタイミングですね。珈琲、たった今淹れたところですよ」

 扉の開く音に気づいた黒橡が杜若に目を向け、そう微笑む。

「ありがとうございます、マスター」

「まったく、それはわざとなのか、素なのか、もうわからなくなってしまいますよ」

 カウンター席につきながら珈琲を受けとる杜若に、黒橡はやれやれと息を吐く。

 杜若にとっては、冗談半分、本気半分だ。

「だって、どうしても黒橡さんにはって呼びたくなる雰囲気がありますから」

「そんな柄では、ないんですけどねぇ」

 黒橡は苦笑する。

 杜若も静かに笑うと、黒橡の淹れてくれた珈琲を傾けた。

 砂糖もミルクも入れていないブラックの珈琲は、心地よい苦味とほんのりとした甘さを香らせ、とても優しい味がした。




『うしみつ』の入り口の扉に取り付けられたカウベルがコロンカランと音をたてて紫紺の入店を告げたのは、紫紺の告げた時間通り一時間後の午後六時半過ぎだった。

 先ほど会ったときよりは顔色がよくなっている。足どりも確かだし、疲れは少しばかりとれたように見えた。

 店内に客はいなくなっていた。そもそも、この店が一番盛況するのは午前十一時から午後四時頃まで。その後はぽつぽつと仕事帰りや学校帰りの人が訪れて一服したり勉強したりするくらいで、午後七時頃からはめっきり客足が途絶えることも珍しくない。

 今日はいつもより早くに客足が途絶えたと思ってもいいだろう。天気や状況によっては、この時間でも店を閉めることは珍しくない。

 もちろん閉店の判断は黒橡がする。今日はまだ閉める気配はないので、もう少し客が来るのを待つのだろう。

 だが、紫紺は『呪殺委託執行社二階』に行く気はないのか、杜若の腰かけるカウンター席の隣の席にすとんと収まった。

「クロさーん、珈琲お願い」

「はいはい、わかりました」

 紫紺はそれだけ頼むと、はぁっと深く息を吐いて項垂れた。疲れがとれたようには見えたが、完全にとれたわけではなさそうだ。

 そんな疲労をにじませる紫紺に報告書を渡すのは躊躇われたが、今渡さなければいつ渡すのだと自分に言い聞かせ、杜若はカウンターの上に置いていた報告書を紫紺の前に滑らせた。

「これ、住吉蓮司に関する報告書です」

 紫紺は目だけ報告書に向けると、「ああ」と力なく頷いた。

「そこ、置いといて。後で読むから」

 今すぐ読んでほしいわけでもない。この報告書を提出してしまえば、杜若のバイトは終了なのだ。ここから先は紫紺の領域で、紫紺の業務だ。次のステップは手伝えても、その先は何も手伝えなくなる。

「あの、無理そうなら依頼人への説明、俺が代わります?」

「うーん、そうしてくれると嬉しいけど、カッキー今回の依頼人と会ってねぇじゃん? 初対面だからって警戒されたら、説明も上手くいかないからさぁ」

 その通りだ。こればっかりはどうしようもない。

 最初から相談員として立ち会っていればこの先も手伝えたのだが、今回杜若は調査員としてしか動いていない。

 杜若は、相談員として動くことも時々だがある。依頼主から依頼内容を聞く仕事だが、これは依頼主と顔を合わせることで、まず真っ先に『呪殺委託執行社』で依頼主から信頼を置かれる立場となる。当然だ、こんなオカルトじみた不思議な場所にすがるほど困っている人たちは、例外はあれど総じて精神がギリギリの状態にまで追い詰められていることが多い。同時に複数人を信用することは難しいし、かといって対応がその都度別の人間だと不安を覚える。

 だから、基本的に一番最初に依頼を聞いた人間が、その後の説明責任を全て負うように心掛けていた。

 たとえ、今回のように紫紺にとっては相手が苦手なタイプだと自覚していてもだ。

「うーん、でも同席してもらえるのはかなりありがたいなぁ。ほら、住吉蓮司については、カッキーが直接調べたわけだしさ」

「俺、警戒されませんか?」

「されるだろうなぁ。つか、めっちゃ警戒するタイプだな」

 そうだろうな、と思う。紫紺から話で聞く限りだが、江田小百合という人間はかなり追い詰められているように感じた。人間性という意味でも、進んで友人を作りに行くタイプではなく、声をかけられることで友人を作っていくタイプ。優等生を突き通してきたようなので、自然と一定の人間に慕われ、一定の人間に嫌われることを理解している。だからこそ、初対面の相手は自分を受け入れてくれるか拒絶されるか、見極めようとして口数が減るだろう。

 そして、おそらく江田小百合は紫紺に苦手意識を持たれたことを察しているはずだ。そして、杜若も優等生タイプは得意ではない。だが、特別苦手なわけでもない。友達になるかと言われたら戸惑うが、嫌いになることはまずない。

 だが、それを江田小百合が一発で見抜いてくれるかとなると、難しいだろう。追い詰められて視野が狭くなっているということは、いつもなら見えるものが見えなくなるということだ。

 相性でいえば、紫紺よりも杜若の方がいい。だが杜若とは初対面となると、結局同席したところで何も変わりはしないし、むしろより警戒させてしまう可能性もある。

 だからこそ、紫紺は「警戒するだろう」と迷わず口にした。

「でも、カッキーがいてもいなくても、相手の態度はそう変わらないって。だから、いてくれると助かる。住吉蓮司についての詳細説明、全部押し付け――任せられるから」

「今、押し付けられるって言いかけましたよね。つか、ほぼ言いましたよね。それが本音か」

 紫紺はペロッと舌を出し、肩を竦める。

 杜若は額に手を当て、やれやれと息を吐いた。

「呼ぶのは、明日ですか?」

「うん、そうなるかな。報告書これ読まなきゃいけないし、先方は仕事もあるだろうし。『うしみつ』の閉店時間くらいか、それ以降に呼ぶことになるかもな。あ、クロさん、だからそれまで店借りるけど、大丈夫?」

「ええ、構いませんよ」

 黒橡は頷いた。

「『うしみつ一階』は閉店の看板さえ表に出しておいてもらえれば、店内を使っても構いませんし。それに、この店のオーナーは紫紺なのですから、私に許可をとる必要もないでしょう」

「名義上、仕方なく『うしみつ』のオーナーやってるだけだよ。この土地買うのに一族の力借りたから、その条件にされちゃ断れねぇだろ。『うしみつ』はクロさんのものだよ。『呪殺委託執行社二階』の社長オーナーについちゃ、名義でもなんでもなくその通りだけどさ」

 黒橡の一族内での冷遇を聞いていれば、その仕組みは理解できた。この建物の所有者は、名義上は紫紺のものとなっている。書類上では『うしみつ』の最高責任者も紫紺で、黒橡は店の管理を任されているという形になっているらしい。

 黒橡が紫紺よりも上に立つことを許さないという、紫紺たち一族の意向でそうなっているようだ。

 だが、紫紺は『うしみつ』については一切合切を黒橡に任せている。だから、名ばかりの最高責任者オーナーだというのは、あながち間違いではない。

 それでも紫紺は黒橡に許可を求めた。紫紺にとって『うしみつ』は黒橡のものだからなのだろう。それは、杜若も感じていたし、『うしみつ』は黒橡のものといって差し支えないと認識していた。

 だからこそ、杜若は黒橡のことをと呼ぶのだ。杜若にとって、『うしみつ』の店主マスターは黒橡だから。

「ま、クロさんの許可もとれたし、江田小百合には連絡しとくよ。カッキーも、明日大丈夫なんだよな?」

「予定ないですし、大丈夫ですよ」

「じゃあ、時間が決まったら連絡するよ。今日はもう帰ってもいいぞ」

 杜若は「はい」と立ち上がる。

「じゃあ、先にあがらせていただきます。あ、マスター、珈琲ありがとうございました」

「だから……はぁ、もういいです。珈琲はサービスですよ。だから、お代は要りません」

 ポケットから財布を取り出そうとしていると、黒橡がそう言って杜若を制した。

「でも」

「『呪殺委託執行社二階』は『うしみつ』とは切っても切れない関係ですし、ほぼ身内ですからね。身内に休憩がてら珈琲を淹れるのは、サービスです。異論は認めませんよ」

 黒橡はピシャリとそう告げると、じっと杜若を見つめてきた。

 その有無を言わせぬ圧力に、杜若は頷く以外の選択肢はなかった。

「あの、じゃあ、ごちそうさまです」

 そう言って頭を下げると、黒橡は満面の笑みで頷いた。黒橡はたまにこうして頑なに譲らないことがある。いつもの柔和な雰囲気からは想像できないが、そうなった黒橡は梃子でも動かない。

 杜若は二階の事務室のロッカーから自分の荷物を取り出すと、もう一度一階の紫紺と黒橡の二人に挨拶をして、その日は『うしみつ』を後にした。




 ―†―†―†―†―




 立派な柱時計が、カッチコッチと音をたてる。

 レトロな蓄音機からは、心地よいノイズを含んだ静かなジャズが流れている。

 それ以外に、『うしみつ』店内に音はなかった。

 そんな空間に居心地の悪さを感じて座り直すと、カウンターのスツールがギシリと音をたてた。いつもなら全く気にならないはずのその音がやけに大きく響いた気がして、杜若は肩を跳ねさせる。それでまたギシリとスツールが鳴るのだから、悪循環だ。

 夜の九時なら都合がつくという江田小百合からの返事に頷き、この場を設けたのは紫紺だ。杜若も同席に頷いた。

 昨日報告書を提出して、今日何もかもが決まる。

 何度かこの場に同席したり、自分がこの役目を担ったこともあるが、何度経験してもこの空気には慣れない。

 江田小百合を警戒させてはいけないからと、杜若はカウンターに落ち着いていた。紫紺と江田小百合は、カウンターに程近いテーブル席で向かい合っている。小さな丸テーブルとそれを囲む木目の椅子に腰かけた二人は、かれこれ十数分、黙ったままだ。

 黒橡は珈琲を三人分淹れると、バックヤードに引っ込んでしまった。おそらく、今頃は二階の事務室で閉店作業や事務作業を片付けているのだろう。これまで手が回らなくなっていた事務仕事まで片付けてしまっているのかもしれない。

 そわそわと落ち着きなく柱時計を確認すると、時刻は九時半。江田小百合が来店したのは、約束の時間ぴったりの午後九時だった。そこから黒橡が珈琲を淹れ、杜若のことを「調査員の一人だ」と軽く紹介し、挨拶を交わして、なんやかやとしているうちに本題に入るに至ったが、いざ本題に至った途端、紫紺は突然黙りこんだ。

 江田小百合も困惑したまま黙りこんでしまったので、そうして沈黙に支配されたこの空間が続いてしまっているのだ。

 早くこの沈黙をどうにかしてくれと思ったところで、杜若に何かできることもない。今はただ、待つしかない。

 カッチ、コッチ、カッチ、コッチ。

 低く響く時計の振り子。

 蓄音機から流れる、味のあるノイズを含んだ静かなジャズピアノの音色。

 それらの音と重苦しい沈黙が混ざりあった空間は、いつもの『うしみつ』と違って、暗く重い空気に支配されている。

 ブラインドカーテンは閉めきられ、間接照明だけが照す店内は、橙色に暗く沈んでいる。

 レトロな店内に味を添えるこの暖かな色味は素敵だったが、今の店内の雰囲気にはさらに暗さを添えるだけだった。

 どれくらい経っただろうか。

 ギシ、と椅子が軋む音がした。杜若のスツールではない。江田小百合も大袈裟なのではというくらい驚いた表情を浮かべている。

 紫紺だった。組んでいた足を組み替えたのだ。

 それが合図になった。

 紫紺は口を開く。

「結論から言わせていただきます」

 これまでの沈黙を破るように、ハッキリとした声で紫紺が告げる。

 江田小百合は顔をあげ、ごくりと息を飲み込んだ。

「江田さん。依頼はお請けすることが可能だと、こちらの調査の結果結論付けられました」

 そう言って、紫紺は茶封筒をテーブルの上に置いた。

 封筒の口を綴じていた紐をくるくると解き、中からA4サイズの用紙を取り出し、小さなテーブルに乗るように並べる。

「これは、住吉蓮司に関する調査の結果をまとめたものです。赤字になっているものは、こちらが請けるに値すると結論付けた決定的なものとなっています」

 杜若は声に出さずに「うわ……」と漏らした。

 江田小百合は温室栽培のお嬢様だ。それは、紫紺による調査の結果でわかっている。

 そんなお嬢様には、この調査結果は刺激が強すぎる。住吉蓮司は犯罪に手を染めていることを、付き合っている女性たち――という表向きで、実際は金蔓にしていた人たち――には徹底的に隠していた。

 江田小百合は、住吉蓮司がここまで堕ちた人間だということを全く知らないのだ。

 杜若にとっても、想定以上のクズ人間だったのだから。

 案の定、江田小百合は血の気のひいた真っ青な顔で唇を震わせていた。資料を手に取り、震える指でそれらを捲って文字をなぞっている。

 その表情からわかるのは、「酷い人だと予想はしていたが、想定の範囲を許容できないほど大きく外れた人間性に思考が追い付かない」という心境だろうか。

 そうだろうな、と杜若は江田小百合に同情の目を向けた。今のこの場に同席している紫紺と杜若では、杜若の方が感性も感覚も一般に近い。必然的に、江田小百合の今の心情をより深く共感できるのは、杜若だった。

 紫紺は普段はそう感じなくとも、やはりどこか普通ではない感性を持っている。

 そもそもを生業としている時点で、どこか壊れているのだ。呪いを生業にする人は実際に存在する。ネットで調べても数件ヒットするし、中にはテレビで特集を組まれたことさえある。

 だが、呪殺というのはまた違う。呪殺とはつまり、なのだ。殺し屋に殺人の依頼をするのと何らかわりない。

 紫紺は、殺し屋と言ってしまえばその表現も間違いではない。大量殺人者と言っても差し支えないだろう。

 罪に問われていないのは、そもそも罪として立証することが現在の法や常識では不可能だからだ。

 だが、この場に大量殺人者がいるということに気づいているのは、紫紺自身を除けば杜若だけ。江田小百合はそのことに気づいていないし、気づけていない。

『呪殺委託執行社』は、それだけ異常な場所なのだ。そんな場所で働く杜若も、もう既に異常の一端を担っている。それでも、まだ一番一般的な感性に近いことだけは確かだった。

 江田小百合は書類を置くと、書類から目をそらすように俯いた。

 膝の上で握りしめられた手は真っ白になるほど強くきつく固められていた。

「これは、すべて本当のことなんですか」

 消え入りそうな震え声で、江田小百合がそう口にする。

 泣きそうなのを堪えて、堪えきれずに漏れた嗚咽を誤魔化すような、そんな震えた声だった。

 紫紺は「はい」と容赦なく頷いた。真実のみを告げる紫紺は、残酷とも言えるかもしれない。だが、嘘を言う意味もなかった。だから、紫紺は真実のみを告げる。

 そして、いつもの勝ち気で大雑把な間違っても上品とは呼べない口調を殺した、抑揚の乏しいのっぺりとした敬語も、紫紺の言葉をより残酷な色に染め上げていた。

 江田小百合は俯いたまま、嗚咽を漏らす。膝の上に置かれ固く固く力の込められた拳に、ぽたりぽたりと涙が落ちた。小刻みに肩が震え、長い髪に隠れた顔も真っ白になっていることが隙間からうかがえる。

「怖いな……」

 杜若は呟いた。もちろん、江田小百合依頼主に聞こえないように小声でだが。それでも、紫紺にはその呟きが届いてしまったらしい。紫紺の窘めるような視線を受け、杜若は口を噤んだ。

 紫紺は杜若から視線を外すと、対面に座る依頼主に目を戻す。江田小百合は、震え俯いたままだ。

「こちらからは以上です。何かお尋ねしたいことがありましたら、遠慮なく言ってください。なければ、今後どうしたいかというの提示をお願いします」

 江田小百合の肩が、大きく震えた。

「その、意思、というのは」

「委託をするか、しないかの二択の答えです」

 紫紺の短く端的な答えに、江田小百合は息を詰まらせ、顔を上げた。

 その顔はやはり真っ白で、目の周りだけは真っ赤になっていた。

 再び、沈黙が店内を支配する。柱時計の振り子の音がやけに大きく響き、レコード特有のノイズの混じるジャズが、場違いに沈黙の中を流れ続ける。

 どれくらい経っただろうか。


「――お願いします」


 依頼主の、江田小百合の、やけに低く澱んだ一言が沈黙を破った。

 その途端、突然レコードの音が消えた。バツン、とジャズの音色が曲の途中で不自然に途切れる。

 店内に、先とはまた違った静寂が訪れた。柱時計の振り子の音だけが、不気味に響く。

「……カッキー」

 ふと、紫紺が静かに口を開いた。あまりにも静かに名を呼ばれ、たっぷり二秒かけて自分が呼ばれたことを理解した杜若は、顔を上げる。

 紫紺はまっすぐ依頼主に顔も体も向けたまま、ちらりと杜若に一瞬だけ視線を送った。

「悪いけど、蓄音機レコード止めてくれ。そのままだと、機械とディスクが傷む」

「あ……はい」

 杜若はスツールを軋ませて立ち上がると、カウンターの隅に置かれたレトロな蓄音機に近寄る。

 蓄音機に向かい合う直前、目を閉じてそっと深呼吸して心を落ち着ける。

 そして、突然ジャズを流すことをやめてしまった蓄音機に向かい合う。

 

 蓄音機は正常に動いていた。見た目には何も異常などない。何度もディスクを入れ換えたり、メンテナンスを手伝ったりしているので、一目で異常かどうかは判断できる。

 蓄音機自体に、異常はなかった。

 ただ、何故か音だけがと途切れていたのだ。

 そのだった。あり得なかった。

 目の前で淡々と繰り広げられる怪異に、肌が粟立つ。それでも、依頼主にを見られるわけにはいかず、杜若はレコードの針をディスクから離した。そして、そのまま蓄音機の電源自体も切る。

 そして、蓄音機を操作した右手を胸の前で抱え込んだ。

 

 杜若は紫紺を見やる。紫紺はまったく杜若を見ていなかった。依頼主と向かい合ったままだ。

 このまま蓄音機の前に立ったままというわけにもいかず、杜若は自分の座っていたスツールに戻り、再び腰かけた。

 右手の震えが止まらない。

 この現象は、初めてではない。杜若も、何度かこの現象を経験していた。だが、それでもこの異常すぎる怪異には慣れることがない。

 これは、というのようなものだ。

 杜若は右手を抑えつけるようにスツールに押し付け、震えを殺す。依頼主の前で震えに気づかれるわけにはいかない。

 紫紺は、呪殺を請け負うにあたっての注意を口にしていた。

「……では、お請けするにあたり、条件があります。今夜は絶対に家から出ないでください。自分の部屋があるなら、できるだけ部屋からも出ないように。部屋に鏡がある場合は、全て鏡面を伏せるか、それが出来ない場合は何かで覆って完全に隠して下さい」

「鏡、ですか」

「鏡です」

 江田小百合は戸惑うように瞳を揺らす。

「わかっていると思いますが、呪いというのはオカルトに属するものです」

 紫紺の言葉に、江田小百合は戸惑ったように頷く。

 『呪殺委託執行社ここ』にすがろうとした時点で、オカルトにでもなんでもすがろうとしたのだから、それくらいはわかっているはずだ。

「呪いというものは、色々なものを媒体にします。有名なものでは藁人形や紙人形などの形代を使うもの。よく耳にするもので言えば、鏡や水面を使うもの。合わせ鏡の四枚目に映る自分の死に顔や、深夜に剃刀をくわえて水面を覗くと自分の結婚相手が映る――これも、呪いの一種です」

』も『』も、漢字で書けばどちらも『』だ。

 そこに掛けられる才能の力によって、効力は大きく変わる。

 普通の人がやったところで、たいした結果は望めない。だが、紫紺のような素質を持つものが呪いを行えば、藁人形で人は死に、合わせ鏡の四枚目に死に顔が映り、水面に映った結婚相手に誤って剃刀を落とせば必ず相手の顔に傷ができる。

 つまり、そういうことなのだ。

 『のろい』も『まじない』も、紫紺にとっては平等に『呪い』。

 そして、呪いについては未だに解明が進んでいないそうだ。

 藁人形で呪った相手が、鏡を通って、水面を通って、窓に映る虚影を通って、呪い返しに来ることもあるらしい。

「『』は繋がっています。少しでも貴女への『』を防ぐためにも、鏡、水面、窓――全ての虚像を映すものを避けるようにしてください。あと、絶対に家や部屋からは出ないように。窓や扉が叩かれたり、外から声をかけられても、絶対に扉を開けず、言葉を返してもいけません」

「そ、そんなこと、本当に起こるんですか?」

呪殺のろいというものが存在していますからね」

 紫紺はピシャリと言ってのける。

 そう言われてしまえば、江田小百合も黙るしかなかった。呪いに頼った時点で、そんな非現実的なことを否定する力を失っているのだ。

「決行は今夜の深夜二時丑三つ時です。その時間までには、鏡面などを全て覆うなり伏せるなりしてください。そして、部屋からは朝まで出ないように。それだけは、必ず守ってください」

 紫紺が念を押す。江田小百合依頼主は「はい」と頷いた。

 戸惑いを隠せてはいなかったが、それでも呪殺するという依頼が受理されてもあまり動じていない。その目に宿る決意は固く、そしてどこか澱んでいた。

 その澱みには、覚えがあった。

 かつての自分を見ているようで、杜若はそっと目をそらした。




「じゃあクロさん、今夜行かせてもらうから」

「そのまま泊まりますか?」

「んー、仮眠程度はさせてもらうかな」

 江田小百合が店を出た後、黒橡が『うしみつ』に降りてきた。

 使用したカップを洗って片付けながら、そう紫紺と言葉を交わす。

「さて、どうするか。無難に『形代カタシロの呪い』でいいかね。今回は呪殺がってもあったことだし、それに今回は罪が重すぎて、どんな軽い呪いでもコロッと逝ってくれそうだし」

 楽なんだよなぁ、形代。紫紺はそう呟き、掌に収まる程度の大きさの半紙をつまみ上げた。

 つい先程、江田小百合依頼主が帰る直前に、書いてもらったものだ。

 きちんと墨を使い、筆字で呪う相手であるの名が書かれている。とても綺麗で流れるような字という印象を受けるが、同時に隠しきれない緊張で強張った印象も受ける、そんな字だった。

 これが、今回のとなる。対象を特定するためのだ。

 藁人形で人を呪う場合も、対象の体組織の一部を媒介に必要とするように伝わっているのは有名だろう。毛髪や血液を藁人形に仕込む、その代わりがこの名前の書かれた紙だった。

「というか、紫紺さん気付いてたんですね、あの予兆」

「当り前だろう? あの蓄音機、この前メンテナンスしたばっかりだぞ」

 それは知らなかった。杜若は黒橡に目を向ける。

 杜若の視線を受けた黒橡は、柔和な微笑みを浮かべて頷いた。

「ええ、ひと月ほど前に、メンテナンスを頼みました。ですから、こんな短期間で壊れるとは考えにくいのですよ」

 杜若は、カウンターの隅に置かれたレトロな蓄音機に目を向ける。あれから触っていないので、今はもう音楽を流していないし、針はレコードのディスクから離されたまま。

「まぁでも、今回は蓄音機それだけでよかったよ。時計まで止まったら、さすがに誤魔化すの大変だしな」

 そう。呪殺が必ず成功する予兆は、蓄音機が止まるだけではない。その度合いによって変わるものなのだが、一番確実に必ず成功する場合は蓄音機だけでなく時計まで不自然に止まってしまうのだ。

 レコードなら「故障だ」と言い張れるが、同時に時計まで止まると誤魔化すのが大変なのだ。そのことに依頼主が恐怖してしまうと、呪殺は成功しても、呪い返しの可能性も高まるからだ。

 それくらい、強い力が作用するという前触れなのだから。

「蓄音機止まったってことは、呪い返しの確率も上がったとはいえ、呪殺依頼は必ず成功することが決まったようなもんだし、一番楽な『形代の呪い』にするか」

 一番道具も揃ってるし。そう呟くと、紫紺はぐっと体を伸ばした。

「さーて、もう一仕事するか」

 確かに、それで今回の仕事は終わる。

「ああ、そうだ。忘れてた……」

 ふと思い出したように、紫紺がゴソゴソとポケットを漁る。

 そして、茶封筒を杜若に差し出した。達筆な字で『給与』と書かれている。

「今回分の給料。あと、いつも通り諸々の経費も一緒になってるから。明細も封筒の中だから、帰ってからでも確認してくれ」

 受け取った封筒は、それなりの厚みがある。さりげなく中を覗くと、ざっと諭吉十枚程度が入っていることがわかった。かかった経費の代引きぶんも含めると、一般のバイトよりも割高な給料だ。

 毎回大体これくらいなので、軽く確認しただけで、杜若は封筒をしっかりとしまった。

「ありがとうございます」

「いや、こっちこそ、いつもありがとな」

 紫紺はそう言うと、ひらりと手を振る。

「明日には結果を知らせるよ。依頼主への結果報告は、まぁ、メールで済ませるけどさ。今夜は確か、住吉蓮司は愛人の女の家だったよな」

「はい。相模大野の愛人の家だったはずです。SNSにも、そう書いてありましたから」

『今夜は相模大野で買い物のち、家にお邪魔予定』と書き込まれていたSNSの画面を思い出す。その文面だけ見れば友人の家に行くようにも見えるが、添付された写真にちらりと写りこんでいた女性の手には見覚えがあった。

 相模大野近隣で投稿された書き込みの添付写真に高確率で写りこむその手は、相模大野に住む愛人のものだと特定している。右手の中指にはめられた、ハート型のスワロフスキーがさりげなくあしらわれたピンクゴールドの繊細なリングは、その愛人がいつも身に付けているものだ。

 この文脈と、SNSから割り出した行動パターンから、今夜はほぼ確実にその愛人の家に身を寄せると考えていい。

「その愛人被害者にも悪いなぁ、朝起きたら隣で恋人だと思ってた男が死んでるんだから」

 紫紺はそう口にしたが、その口調は罪悪感も何も感じられないほど軽いものだった。まるで、「明日は近所の小学校で運動会なのに、雨で延期になって可哀想だなぁ」と他人事のように口にするのと同じような調子だった。関心が全くないわけではないけれど、直接自分には関係ないからいいか。そんな距離感の発言の軽さ。

 そもそも紫紺は、それくらい他人には無関心だった。仕事を請けるときは、特に。依頼主には徹底的に無関心ドライを貫いている。

 そしてそれは、従業員である杜若相手にも同様だった。飄々とした態度の紫紺は、いつもどこか一線をひいて接してきている。越えられない溝を築き、それを絶対に越えさせないために一定の距離感を保ったまま。

 傍目にはわからないかもしれない。それでも、直接面と向かって接していれば、その距離は感じられた。

 必要以上には踏み込むな。その、警告にも思えた。

「……じゃあ、俺帰りますね。お疲れ様でした」

 時計は、夜の十時半を示していた。

「おう、じゃあなカッキー。また仕事が入ったら連絡いれるよ」

 紫紺はそう言って、ひらひらと手を振る。

「お疲れ様です、杜若くん。暗いので、お帰りにはどうぞお気をつけて」

 黒橡もにこやかにそう告げ、胸に手を当てて優雅に一礼する。

「はい。じゃあ、おやすみなさい」

 杜若はそう言ってぺこりと頭を下げると、『うしみつ』を後にした。

 駅に向かって歩きながら、明るい楼閣の隙間にのぞく夜空を見上げる。

 都会の明かりで星の見えない夜空の中に、月だけが綺麗に浮かび上がっていた。




 ―†―†―†―†―




 町田市森野二丁目某所。

 そこに、紫紺の実家屋敷はある。

 今は黒橡がその家に住んでいて、管理も全て任せきりになっているが、仕事が入るたびに、最後のの実行はもっぱらこの屋敷で行うことが多かった。

 伝統ある日本家屋のお屋敷と呼ぶに相応しい外観のその家は、見た目に違わず内装もほぼ和風建築の様式美の凝らされた、まさに歴史的文化財と言っても過言ではないだろう。

 一部は改装して洋室なども設えてあるが、それも応接間などだけ。紫紺が生まれた頃に建てたという離れは、内装は洋風だが、見た目は完全に和風のお蔵だ。

 だが、今回紫紺が足を向けたのは、屋敷の庭の奥にと建っている、本当の蔵だった。

 大きな閂を開け、ギギギと扉が軋みながら開かれる。

 途端、中からはどんよりとした湿気と黴の澱んだ臭いがむっと溢れ出てきて、紫紺を包み込んだ。

 その空気に顔をしかめながら、紫紺は蔵に踏み入る。手探りで入り口横の壁に剥き出しに後付けられた電気のスイッチを入れると、心許なく明滅しながら天井から吊るされた裸電球が灯った。オレンジ色の光は緩やかに明滅しながら、蔵の内部をかろうじて照らしている。

 そろそろこの電球も換えないとな。などと思いながら、紫紺は蔵の奥へと進む。蔵の中は、これでもかと棚が押し込まれ、麻のロープやら蝋燭やら、古びた燭台やら藁の束やら、大振りな鍬やら鎌やら鉈やらが無造作に積まれている。

 まるで農家の蔵のようだが、所々に不気味な物が転がっているのも確かだった。

 首の無い日本人形や、ボロボロのふだがみっしりと貼られた黒い桐箱、黒ずんだ染みの目立つ布のようなものや、五寸釘がこれでもかと打ち込まれた木の人形。

 紫紺は藁の束から一掴み藁を取り、麻の細い紐を数本つまみあげ、真っ赤な蝋燭を二本取りだし、線香を一箱取り上げ、と奥に進むにつれ必要なものを次々手に取っていく。

 そして蔵の一番奥までたどり着くと、床を見下ろした。そこには、地下へと続く通路の鉄蓋があった。

 紫紺は無表情にその鉄蓋の一辺を蹴りあげる。すると、大きな音をたててその扉が跳ね上がるように開いた。

 そして、地下へと続く深く暗い穴へと降りていく。通路には申し訳程度の裸電球がぽつぽつと明かりを提供しているが、その間隔はかなり広く、明かりの届かない場所は深い闇に沈んでいる。

 急な坂になった通路を、何度か折り返しながら進むと、広い場所に出た。広いと言っても、四畳程度の空間だ。天井は二メートル弱と低く、紫紺の頭のすぐ真上に緩やかなカーブを描く天井の一番端の低い部分がきている。

 奥には小さな祭壇が壁を掘って作られていて、鏡が納められ、蝋燭には火が灯り、線香がゆるやかに煙をあげていた。

 そして不思議なことに、

 延々と、そこだけ時が動かない化のように、蝋燭も線香も異常な状態を保ち続けている。

 それが、この場所を異質な場所へと変質させていた。

 戦時中は屋敷に住んでいた人間の防空壕としても機能したというこの地下の空間は、実際には呪殺を行うためのだった。

 紫紺は空間の中央に置かれた、見るからに上等な真っ赤な座布団に正座する。

 そして、持ってきたものを目の前に並べた。

 懐から懐中時計を取りだし、時間を確認する。

 午前一時二十三分。

「さて、やるか」

 紫紺はそう呟き、藁人形を作るために藁を手に取った。

 小さな小さな地下の儀式場。

 祭壇の奥に納められた鏡が、紫紺の姿をじっと見守っていた。




 ―†―†―†―†―




 あるサイトを開く。

 どんなに小さな事件や事故でも、パトカーや消防車、救急車の出動に関したニュースを載せるサイトの一角に、こんな記事があった。

『【相模大野に119】恋人宅で男が突然死。死因は急性失血性ショック。死亡推定時刻は本日未明一時から四時。心臓に五ミリ程度の穴があいていたが、外傷は無し。解剖の結果、心臓に空いた穴から錆が検出された。謎の不審死に、警察もお手上げ。(記者:××××)』

 今も目を離せば数ある記事の中に埋もれてしまいそうな小さな記事。箇条書きのような、たいした内容もない記事だが、当然だろう。

 どんな小さな事件事故でも、たとえそれが騒音に対する通報でも、緊急車両が出動したのならたちまち記事にしてしまう、そんなニュースサイトだ。今も一秒に二件から五件ほどは記事が増え続けている。どの記事も、これくらい短く、内容も薄くほとんど無いに等しい。

 そんな記事の中、ここまで書かれているのは珍しかった。

 急性失血性ショック。心臓に空いた穴。

 間違いなく、住吉蓮司のことだろう。

 ニュースサイトを開いたまま、別の窓でつい先程確認したメールを表示させた画面に戻る。

 差出人は紫紺。内容は、呪殺の執行と成功。

 紫紺からのメールの内容を真実だと確かめるために、こうして杜若はニュースサイトを遡っていた。

 疑っているわけではない。ただ、やはり自分で確認しなければ、どうしても実感がわかないのだ。だからこのニュースサイトは、杜若がよく使うツールだった。人が死ねば、救急車かパトカーが出動する。それさえ確認できれば、今回の仕事が終了したのだと実感が伴うのだ。

 とはいっても、この仕事は完了などするはずがない。呪い返しの危険は常に付きまとうし、実際に呪殺を依頼したことを後悔して壊れた人間を、杜若は知っている。

 最後まで依頼主の面倒は見きれない。呪殺が完了してしまえば、そこで依頼主との関係も終わる。その後依頼主がどうなろうと、手の出しようがないのだ。

 依頼主として『呪殺委託執行社』の扉を叩いた杜若が、こうしてまだ関わりを持っている方が異例なのだ。

 杜若は、メール画面とニュースサイトを同時に閉じた。そしてそのまま、それらを確認していたスマホの電源も落とす。

 そして、脱力したように腰かけていたベッドに背中から倒れこんだ。

「終わり、か」

 そう口に出して、やっと形を伴ってきた実感に、深い息を吐く。

 今回のバイトは、これで終了。

 次はいつ呼ばれるのだろうか。正直、もう二度と依頼主が訪れてほしくないとも思ってしまう。

 だが、このご時世そうもいかないというのは、杜若が一番理解している。かつて杜若が『呪殺委託執行社』の扉を叩いたように、そんなオカルトにすがりたくなるほど追い詰められた人間というのは、いつの世も消えることはないのだ。




 たとえその代償が、己の地獄行きだったとしても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る