Chapter.33 『国際警察機構 捜査官 キース・クーパーの場合』

 思ったよりも早かった。

 最上階は、すでに侵入されていた。いやそれどころか、戦闘の形跡さえ残っている。しかしMCATエムキャットらしき人影がまるで見当たらないのは、はたして幸運だったのか、それとも。

「予定通り三班に別れて行動。目標コルドナが単独で行動しているときのみ確保、それ以外は一切手を出すな。また職員及びその他の人員は発見次第保護し退避させろ。相手は本物の特殊部隊だ、正面からやり合っても勝ち目はない。交戦は可能な限り避けろ。絶えず通信を行いながら移動する、各自警戒を怠るな。以上。行くぞ!」

 了解、という返事と共に、駆け出す数名の警備兵。MCATエムキャットの侵入よりも早くコルドナを取り押さえたかったが、こうなればもうやむを得ない。両者が接触しないことを祈るばかり――廊下を進むキースの背に、緊張が走る。本来はデスクワークが本職だったキースにとって、部隊と正面からの撃ち合いなど、初めてのことだった。

 最上階の内部は、明らかにオフィスビルのそれではない。いわば生活空間、あるいは別荘とでもいうべき造りになっているらしい。ずいぶんと豪華なプライベートルームであったに違いない、と過去形になるのは、その内部が一部、無惨に荒らされていたからだ。

 巨大な家具の転がる廊下。破裂した照明のガラス片。何らかの爆発のあったらしい個室さえある。戦場と化したそれらの場所でさえ、しかしあらゆる痕跡をつい探してしまうのは、やはり刑事の癖か。床に転がる透明の強化ワイヤーには、もう嫌というほど見覚えがある。何が起こったかなど、もはや考えるまでもない。

 このやり口は、間違いなくあの男。

 追っ手を撒くための〝保険〟には、キース自身何度も痛い目に遭わされてきた過去がある。まして様々な家具や生活用品だらけのこの最上階のこと、奴にとってはもはや武器庫も同然だ。ただの民間企業のビルと思い、大挙して踏み込んだ特殊部隊。電光石火の強襲を得意とする彼らが、そこでどんな目に遭ったか――想像にかたくない。

 とはいえ、所詮は逃亡用の簡易なトラップ。出鼻をくじく役には立ったかもしれないが、しかしMCATエムキャットとて有象無象の集まりではない。すぐに体勢を立て直し攻勢に転じるだろうし、そしてそうなれば――恐らく、万に一つも勝ち目はない。本物の特殊部隊ともなれば、一民間企業の警備兵とは訓練の量も武装も違う。もし有利な面があるとすれば、相手が輸送ヘリ一機分、およそ一個小隊程度しか人員を投入できないのに対し、こちらは物量に勝っている。志願者のみとはいえ、それでも相手の二倍から三倍程度の人員はあるだろう。無線を介して、エレベータから第二陣が到着したとのしらせが聞こえる。また、エレベータとは異なる別経路からの第三陣も到着した。つまり、まだ屋上と最上階以外への侵入は許していないことになる。これで先回りしてバリケードを築けるのと、なにより精神的な面での心強さがあるのが重要だった。強大な戦力を持つ未知の相手を前にしたときは、単純な数の多さからくる士気の影響は大きいだろう。

 加えてもう一点、物量以外にも優位な面があった。それはこの戦いが、ただ防御と撤退を繰り返すだけの負け戦ではないということ――。

「指揮官クーパーより各員へ。予定通り徹底した防御の体制を敷き、相手の攻撃を防ぐことに尽力せよ。階段は発見次第封鎖、また中央四番エレベータは全力で死守、敵の別階層への移動は絶対に許すな。いいか、恐らくはこの十五分、あるいは二十分か――ここを無事にしのぎきること、それが我々の勝利条件だ!」

 エレベータで上階に移動するまでの間、社長室のファナから飛び込んできたひとつの推論。それはある意味では、確かにゾッとしない内容ではあった。彼女は開口一番、出し抜けにとんでもないことを告げたのだ。

MCATエムキャットはおそらく、このビルの上階層全てを爆破するつもりです』

 まさか、とは思ったが、しかし否定できる要素は見あたらなかった。表のカジノの爆弾魔騒動、それ自体が仕組まれたものであるとするならば。単純に本社の警備を攪乱する、という目的も考えられるが、それなら何も爆破などという派手な方法である必要はなかった。考えられる可能性はひとつだけ、その後もっと大きな爆発を起こし、その責任を爆弾魔の仕業として有耶無耶うやむやにしてしまうためだろう。つまり、これまでの騒動は全て、これから起こる事件への伏線に過ぎなかったのだ。

 ある意味では、これほど絶望的な状況もない。本職の特殊部隊が、爆破工作のために侵入してきているのだから。だがそれでもこの情報の意義は大きかった。相手の目的を把握できさえすれば、それに沿って作戦を練ることができる。いままで全て後手後手に回ってきた対応が、ここで初めて先手に転じたのだ。反撃の転機は、恐らくここをおいて他にない。

 もうひとつ、この情報には重要な意味があった。荒れ模様だった天候が落ち着いたことは、敵の侵入を許すきっかけにもなったがしかしまた違った意味もある。なにしろこれだけの騒動だ、もうしばらくすれば別の報道機関のヘリも駆けつけてくるだろう。そうなれば泣きを見るのはMCATエムキャット自身だ、彼らはあくまでも隠密部隊で、派手な工作活動を旨としたものではない。いま上空を飛んでいる一機、ブラスクラム・チャンネルの報道はすでに買収済みだろうが、しかし他の報道機関ともなればそう簡単にはいかない。特に国際的なものともなれば、懐柔はまず不可能と言えるだろう。いままで国際警察機構エスポールに対して辛辣な報道を行い、追及の手を緩めなかった報道機関はいくらでもある。現にキース自身がいままで煮え湯を飲まされ続けてきているのだ。その相手がいまは唯一の味方か、などと、そんな運命の皮肉をキースは自嘲した。


 刻一刻と変化する戦況、それを伝える無線の応酬。


 芳しい状況、とは言い難いものの、それでもよくやっている方だとキースは思った。現在の交戦箇所は最上階東側、どうやら屋上に繋がるらしい階段のある、吹き抜けになったロビーのような部分。それと西側、爆破されて大きく穴の開いた、元々は収納式ヘリパッドのあったらしい場所の二箇所だ。屋上からの侵入経路は、どうやらこのふたつを除いて存在しないようだった。ここで侵入を防ぎきればよし、もしそれが不可能でも、少なくとも敵よりも早くコルドナを保護し、そして爆弾を設置する時間を与えなければいいのだ。

 なにより重要なのは、最上階よりも下の階層への侵入を許さないこと。防衛線は最上階以外に敷いている余裕がなく、一度突破されたらあとはザル同然だろう。もし下の階層にコルドナがすでに退避しているのであればそれもよし、ここでMCATエムキャットを足止めしている限りは、コルドナも自力で脱出できるはずだ。警戒しながら探索を行い、下の階層と行き来できるような経路がほとんどないのはすでに確認済みだ。そしてその数少ない階段には、警備兵によるバリケードが敷いてある。このままの戦況で数十分凌ぎきることができれば、奴らは自ずから退避ぜざるを得なくなる。それまで、はたして持ちこたえることができるか。

 睨み合いにも似た攻防の応酬――その均衡を破ったのは、無線による突然の一報だった。

『こちら最上層南端、緊急事態! 敵により下層階へ侵入されました!』

 ――いきなりか。

 考えられない事態だった。下への経路は全て押さえていたはず。状況を説明しろ、と怒鳴りつけた無線から、返ってきたのは思いもしなかった内容。

『か、壁の一部が開いて、階段が……隠し扉です!』

 その言葉に、キースは壁に拳を叩きつける。

 隠し扉。確かにカラクリの多いこの建物のこと、そんな仕掛けがあっても不思議ではない。その可能性に思い当たることができず、あと一歩のところで詰めを誤った――その時点で、すでに勝敗は決していたのだ。

 下層階への侵入を許せば、状況は圧倒的に不利になる。広すぎるこのビルのこと、ワンフロアの通路に敵を固めておくことができなければ、あとは一方的な蹂躙を許すだけのことだろう。一度破られた穴はそれをつくろうより、押し広げる方が遙かに有利だ。膠着こうちゃくは破られ、結果は敗北に終わったも同然、だった。

 胸に去来するこの思いは、屈辱か――それとも、後悔か。

 判別がつかないままに、強く親指の爪を噛む。副官として置いていたかたわらの警備兵が、不安げにキースの顔を覗き込んでくる。

「指揮官殿、ご指示を」

 指揮官だなどと、そんな名で呼ばれる資格はもはや、ない。全兵力を最上階に結集する、自らの打ち立てたその作戦はいま、完全に裏目に出ているのだ。

 警備兵がワンフロアに殺到したこの状況、撤退もまた容易ではない。もたつくうちに爆破などされれば、一体どれほどの死傷者が出るか。現場の経験が足りなかった、などと、そんな言葉で済まされる状況ではない。多くの警備兵の安全が、瀕死の窮地きゅうちに立たされている――自らが指揮を取った、その作戦のせいで。

「――総員、撤退だ。君が指示を出し、全員を無事に退避させろ」

 傍らの警備兵に呟きながら、自らの愛銃を握り締める。覚悟は、決まった。

「では指揮官殿、無線でご指示を」

 キースは首を横に振る。怪訝な目を向ける副官に、指揮官の役割を放棄したわけではありません、と前置きして。

「それが指揮官たるわたくしの役目、というのは承知の上。だがそれでも、その指示だけは出せません。軍人であれば問題ないのでしょうが、しかしわたくしはこれでも一警察官。悪を目の前に撤退などと、そんな権限は持ち合わせていない。犯罪に対して降伏することは許されない、そういう身の上。だから、全権を君に委ねます。現場に犯罪者がいて、そしてそこにまだ民間人あなたがたがいる以上――総員撤退の『総員』に、警察官が含まれることはない」

 命に代えても、せめてコルドナだけは無事に逃がす。可能性として一番大きいのは、例の隠し階段だ。特殊部隊を相手に拳銃一丁、どこまでやれるかは考えるまでもないが――それでも、任務は果たす。それが警察官だと、何度もそう教わってきたはずだ。

 指揮官殿、と副官の悲痛な声。あとは頼みます、と駆け出そうとした、その瞬間。


 無線機から響き渡ったのは――奇妙な悲鳴。


『なんだありゃ! 考えられない! 人が、まるでゴミのように……くそったれ、化け物だ!』

 戸惑う副官を押しのけるように、すぐに無線機を手に取り、そして叫ぶ。

「どうした! 速やかに状況を報告しろ!」

『敵が、下層階に踏み込んだはずの敵が多数、隠し扉から紙吹雪みたいに――なんなんだ畜生、まるで、まるで間欠泉だ!』

 まったく要領を得ない返答。わかることはせいぜいひとつ、この無線越しの警備兵が、相当な恐慌状態にあるということだけだ。状況を説明しろ、と繰り返し訊ねる、その返事が返ってきたのは、しばらくの間をおいてからのこと。

『……あー、あー。ねえちょっと、通話ってこれ、こうでいいの? え、もう声が聞こえてる? えーうそお。ねえちょっともしもーし、誰か聞いてますかあー?』

 さっきまでの緊迫した無線と一転、まったく気の抜けた、それもこの場にいるはずのない、まだ幼い少女とおぼしきその声。しかし一体なにが起こったのか、そもそもこいつは誰なのか。一体なにをどこから突っ込めばいいのか、判断に迷ううちに言葉が続く。

『えーっと、聞こえてるのかな? こっちはですね、たぶんあらかた片付きました。いま警備兵の人が武器を取り上げたり拘束したりしてるけど、こちらは全部お任せしちゃっていいですか? 適当にその辺うろうろして、黒ずくめの方をボコボコにすればいいんだよね?』

 状況がまったく読めないが、しかし無線の向こうから銃声は聞こえない。よくわからないが、もしかしたら制圧に成功したのだろうか。何をどう聞くべきか煩悶するうちに、無線に割り込む声があった。

『失礼します。こちら社長室、エメントです。いまの声、マキシマさんですか? 最上階にいるのですね』

『あ、秘書さん。さっきはどうも。助かりました』

『礼には及びません。それより、探し物は見つかりましたか?』

『おかげさまで。それで、用も済んだし脱出しようかなあ、って思ったんですけど。えへへ、戻って来ちゃいました。なんかあの、いろいろ迷惑かけちゃったっぽいし、借りは返せるうちに返しとこっかなって』

『随分と大胆ですね。確かにあなたの力なら、特殊部隊にも対抗できるかもしれない、とは思っていましたが』

 この非常時になんの世間話だ、とも思ったが、しかしわかったことがひとつだけある。どうやら彼女は敵ではないらしく、そして本当に隠し階段付近を制圧したらしかった。この意味するところは、恐らく彼女自身が考えているよりも遙かに大きい。

 MCATエムキャットにしてみれば、ようやくこじ開けた突破口を潰されたも同然の上に、ひとチームまるまるやられたのだ。それに現時点で、敵の突入からすでに二十分程度が経過している。恐らくは、そろそろ時間切れタイムアップのはず――その予想は、割り込んだ無線によって裏付けられた。

『こちら西側ヘリパッド防衛隊、敵の攻撃が緩くなってきている模様。同時に、ヘリのローター音がひときわ大きく――』

『こちら東側階段付近防衛隊、敵はどうやら撤退を始めた模様! 畜生、守りきってやったぞ!』

 流石は本物の特殊部隊、その判断は迅速で、そして行動に迷いがない。どうにか凌ぎきったか、と安堵しかけたその瞬間。無線越しの喚声に、キースの背筋に悪寒が走る。多少の訓練を積んでいるとはいえ、しかし彼らは民間の警備兵。戦闘の経験が不足しているのは、その浮き足立った様子からも明らかだ。

 予感というには、あまりに確信的すぎるその直感。無線を手に取り、ありったけの声で指令を出す。

「浮かれるな、総員下がれ! まだ『置きみやげ』がある! 奴らの目標は、このビル上層階の爆破――」

 言い終えることは叶わなかった。


 ――爆音。


 ほとんど時間差のないその衝撃が、巨大な揺れとなってフロア全体を襲う。

 立っているのがやっと、というほどの凄まじい振動。もはや疑う余地もなかった。このビルに仕掛ける予定だったであろう爆薬を、脱出の置きみやげに放り込んできたのだ。無線の通話機を握り直し、キースは怒鳴る。

「各部隊、状況を!」

『こちら南端部隊、揺れはありましたが異常なし、特に被害はありません!』

『西端部隊より報告、敵の爆弾により、半壊だったヘリ格納庫が全壊した模様。ただ奇跡的に、隊員への被害は少ない模様、現在確認中』

『こちら東端後方部隊、フロアの一部が倒壊、ただいま被害を確認して――くそっ、なんて粉塵だ』

 各部隊は混乱の極みにある様子で、明確な被害状況を確認するにはもう少し時間がかかった。幸いだったのは西端の部隊で、もともと屋上ヘリパッドが爆破されており、天井に大穴が開いていたおかげだろうか。爆風が上へと逃げたのか、思ったほどの被害はないようだった。負傷者は何名かいるものの、それも奇跡的に軽傷で済んでいる。

 問題は、東側。

『くそったれ、まるで様子が見えない! おい生きてるか、返事をしろ!』

『――生き、てる――なんとか――いまの、ところは』

 予想通り、一番の被害を被ったのがこの東端部隊、それも恐らく前線の兵だろう。ただし爆破直前の「下がれ」の指示が功を奏したか、あるいは即席のバリケードが爆風を防ぐ盾になったか――ともかく、結構な数の人員が生存しているらしい、というのが不幸中の幸いか。とはいえ、やはり負傷の度合いはひどい様子だった。すぐさま無線で呼びかける。

「東端部隊、被害状況の確認を急げ。現在屋内の経路から救護班を向かわせている、負傷者は安全なところに退避させて集めて――」

 しばらく無線にノイズが走る。その向こうから、かすかに聞こえてきたのは。

 ほとんど悲鳴に近い、警備兵の声。

『指揮本部へ、こちら東端! 爆発のあった地点からすぐ側、瓦礫の中に一名、致命傷を負ったとおぼしき兵が――』

 やはり、とキースは唇を噛む。

 あれだけの爆発、また完全には対応しきれなかった状況でのこと。逃げ遅れた兵がいるのは当然のことだった。致命傷――その言葉に改めて戦慄を覚える。彼らは民間の警備兵、何があろうと、最悪の結果だけは避けなくてはならない。

「こちら指揮本部、クーパー。負傷の具合は」

『酷い火傷で、何が何だか……それに、瓦礫の破片でそこら中がズタズタで――くそっ、馬鹿野郎! カイルお前、なんで、なんで指示通り下がらなかった!』

『悪い、爆弾をなんとかしようとして、しくじった……おいトム、あいつに、伝えてくれ。俺は最後まで、君を愛しながら死んでいったと』

『ふざけるな、お前もうすぐ式だって言ってただろう! そんなこと、自分で言え! おい、聞いてるのか! 目を開けろよ!』

 予想以上の大愁嘆場。結婚を目前に控え、なおかつ戦場に出て、その挙げ句の負傷――どう好意的に解釈しても、それは明らかな致命傷死亡フラグだった。そしてそんな人間を前線に放り込むなどと、これはどう考えても指揮官であるキース自身の手落ちだ。無線の通話機を握り直し、事態を収拾する策を練る。

「先ほどの指示を一部撤回、救護班は二班に分かれ、片方は一階ロビー前に待機。最上階の負傷者を、四番エレベータでそちらへ直行させる――そして東端部隊。いまの話、聞いていたな。そのようにする。急げ!」

 しばらく無線にノイズが走る。その向こうから、かすかに聞こえてきたのは。

 ――〝できませんネガティブ〟。

 どういうことだ、と問いかける、キースの額を汗が伝う。

『粉塵の中、爆破のあった前線近くに――敵兵、二名。こちらに銃を向けて――』

 ばかな、と拳で壁を叩く。すでにMCATエムキャットは撤退を決めたはずで、現にいま、上空に聞こえていたヘリのローター音も遠ざかっている最中だ。こんなところに残っているはずがない――そこまで考えたところに、無線から響いたその声は。


『……ごめん、なさい』


 ――誰だ。

 聞き覚えのない、女性か、いやあるいは子供らしきその声。状況が把握できずにいるうちに、続けざまに聞こえてきたのは、まさしくあり得ない声と、言葉。

『こちら東端、爆発のあった地点のど真ん中だ。おいキース、一体なにをやっとるか。貴様らしくもない、相当な被害が出とるぞ』

 聞き慣れた上司の声。しかし、おかしい。この最上階にバードマンがいるはずがない。答えはひとつしかなかった。

「おふざけは止してもらいたい。泥棒、いまは緊急事態です」

 それは失敬、と、おどけた返事。

『お久しぶりです。ああこの通話は、先ほどの警備兵さんから、少し無線機をお借りしましてね。本来でしたらそちらのご迷惑にならないよう、どさくさに紛れて脱出しようと思っていたのですが――しかし予想外の負傷者に出くわしてしまい、先ほどの連れ合いが泣き出してしまってこの有様です』

 彼女も自分の軽率な行動を反省しているようですし、大目に見てやっていただけませんか――などと、相変わらずの論旨の飛躍っぷり。間違いなくあの男、ランバーンだ、とキースは確信する。先ほどの「敵兵二名」というのは、恐らく変装したランバーンと、そして彼の言う『連れ合い』のことだろう。その連れ合いというのが誰なのかまったく想像もつかないが、しかしいまはそんなことはどうでもいい。

「それで、彼は助かるのか」

 なにぶん予想外の事態でして、と弱気な返事。

『僕もどうしていいかわかりません。一応、アテがないこともないのですが、でもどうでしょうね。五分五分です。邪魔さえ入らなければ、どうにかなるかもしれませんよ』

 言いたいことはすぐにわかった。これからランバーンが逃亡に使う、そのエレベータに細工をするな、ということだろう。考えるまでもない、一刻も早く救護班のところまで運ばなければならないのだ。その旨を告げると、意外ですね、と返事が聞こえる。

『仕事熱心な貴方のこと、また無茶をおっしゃるかと』

「おかげさまで、仕事熱心なのは相変わらずだ。彼はこのビルの警備兵、つまりは民間人。警察官は、人命尊重だ」

『結構な心がけです。仕事に一番大切なのは、やはりポリシーですからね――っと、いま、負傷した彼とともに、エレベータに乗り込みましたよ。この無線機はさっきの警備兵さんにお返しいたします。この先は少し危険ですから、僕らだけで。ここでお別れですね』

 何をする気だ、と聞くと、逃げるんですよ、と返ってくる。そうじゃない。

「アテがある、と言っていただろう。だが泥棒のお前に、何ができる」

『それはほら、企業秘密ってやつですから。まあでも、もし失敗してもなんとかなるでしょう。僕のお祖父じいさんがあっちにいますから、泣きつけばり返してくれるかもしれないですし。まあ、なんにせよ、その前に――』


 ――怪盗に、盗めないものはありませんから。


 そう言い残して、無線が途切れる。

 キースは壁に背をもたれ、ただ祈った。窓の外の雨雲が、ほのかに明るく色づいているのが見える。空には風が出ているようだった。

 あと少しで、また晴れるかもしれない。

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