Chapter.32 『抵抗勢力 リーダー エイジ・シャンドンの場合』
気づいたときには、致命的なほどに状況がわからなくなっていた。
狭く薄暗い、延々と続く螺旋階段。それが上下に、どこまでも続いているのが見える。その途中、踊り場というほど小ぶりではないけれど、しかし階層というには狭すぎる、そんなコンクリートの床の上に、壁に身をもたれるようにしてエイジは座っていた。目を覚ましたときにはすでにそんな状況で、つまりもう、何が何だかさっぱりわからない。ただひとつだけ確かなのは、いまエイジの目の前に、このクレッセリア財閥の社長がいる、ということだけだ。
とりあえず思い出したのは、エイジ自身の当初の目的だ。エイジはそもそも
この社長、確か名前をコルドナとかいうこの男は、エイジが目を覚ましたことにはまったく気づいていない様子だった。それどころか心ここにあらず、といった様子で、膝をついて頭を抱え込んだ姿勢のまま、ときおり小刻みに震えている上にしかもなんか声を押し殺して泣いていたりして、もう本当に状況がわからないから困ってしまう。いくら不意打ちを仕掛けるにしても、流石にこんな姿を見せつけられては心が痛む。しばらく煩悶した末に、エイジはそっと彼の元へと近寄った。
「大丈夫ですか。元気出してください」
そう声をかけ、背中をさすってやったのは、同情から――というよりも、なんだか義務のような気持ちから出た行動だった。コルドナの泣きっぷりがあまりに見事すぎて、エイジにしてみればどこか共感さえ覚えるほどの、凄まじい
コートを脱いで彼の肩にかけてやると、
「うう、すまん。お前、イイヤツだな」
とかなんとか涙声で言いながら、コートの裾で思いっきり鼻をかんだりする。エイジの経験上、こういう状態に陥った人間は、下手に優しい言葉をかけても余計に傷つくだけだった。すすり泣きの声が聞こえたあと、しばらくの静寂が訪れる。
先に口を開いたのは、彼――コルドナの方だった。
「そういえばお前、
一応はその通りなので、とりあえずエイジは頷く。
「そうか。じゃあ、やっぱり、今日は俺の命でも狙いに来たのか」
たぶんそのはずなので、とりあえず頷こうとして――そしてエイジは、少し迷った。
よくよく考えてもみれば、自分は一体、なんのためにここまで来たのだろうか。
確かに
「……別に命とか、そういうつもりはなかった、と思う」
いろいろ考えた末の結論に、コルドナが少し不思議そうな声を上げる。
「じゃあ何しに来たんだ。俺やこの会社に対して、いろんな恨みつらみがあるんじゃないのか」
その言葉にエイジは考えこむ。恨みは――ないわけではない、のかもしれない。華やかな都市部に比べて、スラムの生活はみすぼらしく悲惨なことには間違いない。そしてその経済格差の元凶が、このクレッセリア財閥なのだ、とエイジは聞いていた。しかし、それは本当にそうなのだろうか?
エイジには、経済や社会の難しい話はわからない。クレッセリア財閥が格差社会の一因である、というのも、まあ恐らくは事実なのだろう。しかしだからといって、どうして財閥の営業妨害を行うのか。まして爆破予告だなどという、過激かつ野蛮な
さしあたり、
「貧乏人の逆恨みだと思う」
その言葉に、コルドナが自嘲的な笑みをこぼす。「ずいぶんとお優しいんだな」――その感想はしかし、エイジにしてみれば的が外れていた。そうじゃなくて、と言いかけるのを、コルドナが遮る。
「まあせっかくだ、敵対する組織の代表同士、俺の話も少しは聞け。言い訳にしかならんが、俺はスラムを作ろうと思って作ったわけじゃない。だがな、俺は財閥のトップだ。確かに富や財に目が眩んだことを否定するわけじゃないが――でも守らなければいけないものが山ほどあった。目に見える範囲のものを守るだけで精一杯で、他はもう、切り捨てるしかなかったんだ」
エイジにはそんな経験はないが、しかし言っていることはよくわかった。先を促す。
「だがな、守るために組織を巨大にすればするほど、守るべきものは増えていった。そして同時に、敵もどんどん巨大になっていった。やれるだけのことはしてきたつもりだ、叩き潰したり取り入ったり、それこそ、法に触れるようなことだって色々とな。それでもやっぱり、切り捨てざるを得ないものは増えていったんだ。そして俺の勝手で切り捨てられた者たちには、俺を恨む権利も理由もあるはずだ」
その代表がお前だ、と壁に身をもたれるコルドナ。立場の違いすぎる彼の言葉は、エイジにしてみればわからないことの方が多かった。しかしそれでも、まったくわからないというわけでもない。ある意味では彼もまた、エイジと同じ人間なのだ。
恨む理由は、やはり思いつかない。コルドナは誤解しているようだけれど、エイジにとってスラムの暮らしは、そう悪いことばかりでもなかった。スラムに生まれ育った身にしてみれば、その生活が当たり前のことで、そしてエイジはそれなりにその環境に充足していた。隣の他人の世界を勝手に想像し、「自分よりも恵まれた暮らしをしているに違いない」などと嫉妬することには、何の意味もない。本当にそれを羨むのであれば、まずは自らの行動や選択でそれに取って代わるべく挑むだけのことだ。結果としてそれが不可能であるから、という抗議ならまだわかる。でも、そうですらないのだ。ただ一方的に不満を並べ立て、理不尽な破壊工作に及ぶという
結局は、一方的な思い込みにすぎないのかもしれない。「自分より恵まれているに違いない」という嫉妬も、あるいは逆に「きっと悲惨な思いをしているに違いない」という憐憫も。相手を知らないままに、勝手にわかりやすいレッテルを貼っているだけのこと。そしてもっとも重要なのは、その貼られたレッテルに対して、まさしくその通りに行動してしまう、人の弱さそのものだとエイジは思った。
スラムに育てば、都市部に反感を抱かなければならない。都市部に暮らしているならば、スラムを毛嫌いするかあるいは同情的な考えを持つ必要がある――いつの間にか出来上がっていたその見えないルールに、縛られ踊らされる人間のいかに多いことか。スラムに
本来、人が集まって出来上がるはずの『街』。その街に、人それ自身が呑まれ動かされてゆく。考えてみれば、それは奇妙なことだった。
「社長さん。やっぱり俺には、少なくとも今の俺個人には、あなたを恨む理由がありません。あなたは守るべきものを守った、それだけじゃないですか」
「だがそのために、踏み台にしてきたものが多すぎた。一般に『悪』と呼ばれるような行為にさえ、平気で手を染めた。それに――結局は守れなかった。俺の手ではなにひとつ。実の娘でさえも」
なんだか長い思い出話が始まりそうだな、と思ったら、どうやら実際にその通りになった。自分の愛しい娘の可愛らしさや、その成長の思い出についてさめざめと語るコルドナ。こういう親バカ話は、話している本人は楽しいのだろうけれど、しかし聞かされる側としてはこれほど退屈なものもない。さっさと終わらないかなあ、と適当に聞き流すエイジの耳に、しかし最後の締めのひとことだけが、まるで突き刺さるようにして響いた。
「やっぱり、俺はどうしようもないダメ人間だ。あいつの、
――ユエン?
唖然としてコルドナを見つめるエイジ。その様子に気づいたのか、コルドナは小さく首を傾げる。しばらくの間の後、ああ、と得心した様子で呟いて、
「そういやお前、気絶してて
と、いやに呑気な様子で前置きして、そしてそれから現状の説明が始まった。
――開いた口が塞がらない、という状況を、エイジは初めて体験する。
コルドナが、ユエンの父親であったこと。屋上から特殊部隊が強襲してくる危険性。そこからの逃亡中であるこの現状。そして最上階の使用人が実はエスパーで、挙げ句の果てに噂の大怪盗であったこと――。
最後についてはさっぱり意味不明だが、しかしそれを除いても、やっぱり別の意味で意味不明だから処置に困る。いったい何の面白漫画ですか、というくらいに現実味のないその内容。もはやどこから突っ込んでいいのかさえわからないが、しかしそれを語るコルドナ本人の表情はあくまで真剣そのものなのだから手の施しようがない。
しかしそれよりなにより、エイジが一番気にしたのは――。
「で、その一緒に逃げているはずのユエンがいないんですけど」
「あの子な、なんか事情を話したら、上に戻るって聞かなくて」
上、って。それ、特殊部隊の迫ってくる方じゃ――。
「なんで止めなかったんですか!」
「止めたさ、それこそ力ずくで! でも、止まらなかった! 俺が五、六回ほど壁に叩きつけられただけで終わったよ! あんなん、どうやって止めろっていうんだ!」
そう言われてはもう、追及のしようもなかった。一度言い出したら絶対に聞かないのがユエンの性格で、そも止めようがないのも昔からのことだ。壁に五、六回叩きつけられるのはいつもエイジの役目で、それだけにコルドナの気持ちはよく理解できる。
でも、まあ、仕方がない。彼女はいつも好奇心だけで、自ら危険に首を突っ込みたがるのだから――と、自分の不甲斐なさを嘆いて泣きじゃくるコルドナを慰めようとして、はたと気づく。
それなら、彼女は最初から最上階に残っていたはず。
つまり――今のは少し、好奇心とは違っているような気がする。
「社長さん、さっき『事情を話したら』って言いましたっけ。一体、なにを」
「……上の階に残してきた宝、『ブラスクラムの三日月』についてだ」
コルドナは、あまり詳しく話そうとしなかった。それでもかいつまんで、要点だけを簡潔に呟く。
「『三日月』はな、あの子は、ずっと最上階に住んでるんだ。幽閉といってもいいかもしれない。彼女は、外の世界すら見たことがないんだ。まあ存在そのものが機密の塊である以上、どのみち外に連れ出すことはできないんだが。とにかく、このまま放っておくわけには――いや、最大の証拠物件である以上はこちらの最後の切り札になるわけだから、連れて逃げようと思ったんだ。だが、まさかユエンがあんなところにいるとは思わなくてな。それさえなければ、そうしていた」
はっきりとした事情は飲み込めないまでも、それでもなんとなくはエイジにもわかる。疑問に思うのは、たったひとつだ。
「だったら、どうして、幽閉なんて」
「言い訳にしかならないが、どうにもできなかったんだ。あの最上階は、俺の持ち物ということになっているがでも実質は違う。俺は体よく管理を任されているだけのことで、
決心をつけられないままに、流されてきたんだ――という、力ない独白。
エイジにはわからない世界だった。巨大な権力を持つ者の、それ故に生じる、別の枷。その重さと深さがどの程度のものか、そんなことは理解できようはずもない。エイジにもどうにかわかるのは、恐らくは彼が、何かを守ろうとしていたこと――そしてそれが、妨害されていたということ。
「それはつまり、誰かに脅されていたとか?」
力なく
「それはさすがに、あまりに都合のよすぎる言い回しだ。客観的に見たなら、お互いに弱みを握りあった――たぶん、共犯関係のような感じだろうな。仮に脅されていたと捉えるにしても、傍観していたことに変わりはないんだ」
「それでも社長さんは、守ろうとしたんじゃ」
「それも結局、最後はあの怪盗に委ねてしまったがな。そして守ろうとした娘さえ、やはり俺を見限って行ってしまった。守りたかったものは、なにひとつ守れなかった。俺は最低な父親だ、嫌われて当然の、ゴミカス同然のクソ虫のダメ人間だ」
いや何もそこまでヘコむこともないんじゃ、と思ったが、しかしそんなことを告げてやれるような雰囲気ではない。コルドナのさする頬が、赤く張れているのにエイジは気づく。きっとひっぱたかれだのだ、しかも結構な破壊力で。一体どんなやりとりがあったのか、そこまでは流石にわからないけれど、しかしユエンが最上階へと戻った、その理由くらいはどうにか想像がつく。
見限ったんじゃないと思います、という前置きは、別に気遣いから出たものじゃない。
「ユエンは、社長さんの守ろうとしたものを、代わりに守りに行ったんです。自らが正面から立ち向かうことで。彼女にとって、それはきっと大事なことなんだと思う」
幼い頃から、気が付けばずっと側にいたユエン。いつもの朗らかな笑顔と、そして真っ直ぐな態度。それゆえ彼女はそれなりに愛されていたのだけれど、でも本当にそうだったのだろうか。あるいはただの勘違いかもしれない、でもエイジにだけわかることがある。
ユエンは、やっぱり異端だった。
あの異常な身体能力は彼女だけのもので、それゆえ周囲の人間といくらかの『溝』のようなものができるのは、避けようのないことだった。いつもひとりでいることを望むエイジと親しいのも、それが関連しているのかもしれない。どうすることもできない疎外感――でもユエンは、いつも真っ直ぐに向き合ってきた。それが彼女だからだ。
自分の特性を隠そうともせず、どこまでも素直に、正直に渡り合うこと。
真っ正面。それがユエンそのものなのだ。その彼女がいま立ち向かったのは、攻め込んでくる特殊部隊に対してのことじゃない。ある意味、『三日月』も関係ないのだろう。彼女にとって、いま最も重要なのは――。
「あなたが、父親であること。きっと、それを受け入れようとしているんだと思う」
エイジは知っていた。物心ついた頃から、祖母とふたり暮らしだったユエン。彼女がどれだけ両親という存在に恋い焦がれていたか。
いつのことだったか、祖母から聞いたという自らの特異体質の秘密について、そっと告白されたその時から。そこに手がかりを求め、両親の影を追い求めるユエンの姿を、その笑顔の裏にエイジはいつも垣間見てきた。それを手伝ってやることすらできない、そんな己の無力を呪ったことも数知れない。でもいつかきっと、俺がユエンの両親を捜し出せたなら、なんてことを夢想したりもした。そしてそれは、いまこの瞬間、果たされようとしている。
エイジはその場に立ち上がり、そして天井を見上げる。遙か上、超高層の最上階に、ユエンが探し求めたもの。いま再び、立ち向かおうとしているもの。守ろう、と固く決意した、何か。それを思えば、もう迷いはない。いま取るべき行動は、たったのひとつ。
「逃げましょう。生きて無事、もう一度ユエンに会って――」
「俺に、その資格があると思うのか」
そんなことまでは、エイジには保証できない。でも、もし資格がないというのであれば、そんなものは手に入れるまでのこと。
「犯した罪は償えます。過ぎた過去も、きっと取り戻すことができる。守るべきものを見失っても、でもそれが消えてなくなったわけじゃない。ユエンは、そうして育ってきたんです。彼女は両親を諦めなかった。だったら、父親が諦めてどうするんですか」
いま
いまわかった。ユエンの望むものを、守り通すのがきっと自分の役目。ようやく見つけたこの絆を、こんなところで失うわけにはいかないのだ。エイジの差し伸べた細い手を、応えるように掴む、大きな手。本来、その手が掴むべきもの、少女の小さな手を握らせるまで――それまではせめて、真正面から挑む騎士でありたい。
いままでずっと逃げ続け、そして引かれてばかりだった、この手でも。
――きっと、何かを守ることはできるはずだ。
「……ありがとう、少年。少し安心した」
立ち上がりながらのその返事に、エイジは首を傾げる。少し目を逸らした様子で、どこか口籠りながらも、コルドナは続けた。
「あの子は、強いボーイフレンドを持ったものだな。俺とは違う。俺は、貧乏人のいじめられっ子だった」
俺もですよ、と、少し照れながらの返事。
「貧乏人のいじめられっ子です。それでもこうして、立ち上がることくらいはできました。きっといまなら、何か大切なものを守ることもできそうな気がします」
「そう願いたいな」
歩き出す、ふたりの影。
人のいない螺旋階段に、ふたつの足音だけが響く。
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