Chapter.31 『国際指名手配犯 怪盗紳士ランバーンの場合』

 くじ運はあまりいい方ではなかった。

 クレッセリア財閥本社ビル、最上階。逃走中のコルドナがその姿を現したことからも、『ブラスクラムの三日月』がここに隠されているであろうことは疑いようもない。ないのだがしかし、とりあえずこの階のどこかです、としかわからない以上、もう片っ端から調べて回るより他にない。そして思った通り、この最上階だけでも結構な広さがある。

 社長の別荘、という噂はあながち嘘でもないらしく、この最上階全体がまるで豪奢ごうしゃな屋敷のような、様々な設備の整えられた生活空間になっているらしい。巨大な厨房を二回見て、大食堂ダイニングには三度も踏み込み、屋内プールはこれで五度目だ。爆破されたヘリパッドの真下、小型ヘリの格納庫ハンガーでさえ三べんは見ているのだから、つまりこれはどう考えても、道に迷ったとしか思えなかった。

 口笛は最初からアップテンポだ。なにしろもう、時間がない。

 天候は明らかに回復しつつあった。特殊部隊を相手にひとりで戦うなどと、そんなの泥棒の仕事じゃない。一応、迷子のついでに簡単な〝保険〟はかけたものの、でも最後は結局、逃げるしかない。

 やっぱ諦めてもう帰ろうかな、と、脱出ルートを探しかけたそのとき。ランバーンの耳に届いたのは、なにやら遠くから響く、聴き慣れない物音。

 ――笑い声。

 高く弾むようなその声音は、おそらく女性か、あるいは子供か。


 音を頼りに進んだ先、大きな扉の向こうには、確かに人の気配がある。というか、ひっきりなしに笑い声が聞こえてくる。まさかこの階にまだ人が残っていようとは――不審に思えど、でも何かのトラップであるとも考えにくい。紳士のやることではないけれど、まずは中の様子を窺う必要がありそうだ。気配を殺し、僅かに扉を押し開く。

 ――いきなり目があったから、思わず悲鳴を上げてしまうところだった。

 ホテルの一室のような部屋の中央、ティーテーブルと二脚の椅子。どちらも豪華な装飾が施されており、相当な高級品だというのが窺い知れるがそこはどうだってよかった。問題はそのうちの一脚が、床にひっくり返っていたことだ。勿論、そこに腰掛けた人間ごとひっくり返っていたわけで、つまり丁度その後方にある部屋の扉――その隙間から室内を覗くランバーンと、ばっちり目があってしまうのは当然の帰結だ。

「……こんな夜更けに、なんのご用?」

 落ち着き払った様子で立ち上がるその人物。どうやらひっくり返るほどの馬鹿笑いを〝なかったこと〟にしたいらしいが、でも視線が泳いでいる上に頬がうっすら赤い。その人物はランバーンの見立て通り、女性で、そして子供だった。

 背は随分と低く、ランバーンの腰くらいまでしかない。見たところ八歳やっつ九歳ここのつか、少なくとも十歳とおってことはないだろう。白いガウンを身に纏い、襟の合わせ目からは薄く透けるネグリジェが覗いている。だがなによりランバーンを驚かせたのは、彼女の容姿そのものだ。

 シャンデリアの下、柔らかな光に包まれた、美女――と、そう呼ぶにはあまりに幼すぎる少女。緩やかに流れる蜜のようなブロンドヘアは、腰まで垂れ下がりほのかな煌めきを放っている。臥雲の袖から伸びる手足は小さく、その白さは高級な陶磁器を思わせる。透き通るようなその肌は、胸元や首、そして顔にしても同じこと。細いアーチを描く眉の下、大きな瞳の宝石のようなあおさ。すっと通った形のいい鼻梁に、幼さをそのまま表したかのような柔らかい頬。瑞々しく艶めく薄い唇が揺れて、そこから放たれる言葉は小鳥の歌声のごとし。彼女の姿は、まるで――。

 陳腐な表現だが他にない、天使のようだ、とランバーンは思った。

「でも、変ね。使用人はみな帰らせたはず――いえ、違うわ。だってここの使用人なら、いまさら私を見て驚いたりなんてしないものね。違って?」

 その言葉でようやく我に帰る。そうだった、今は見惚みとれている場合ではない。というかこんな子供に見惚れるのがおかしい。だって八歳児(たぶん)に見惚れるとか、そんなの誰がどう見たって犯罪者っていうかいや現に職業柄犯罪者であることには違いないのだけれどでもでもだって、と、もう何を考えているのかすらわからない。完全に動揺しきったランバーンをよそに、当の八歳児はテーブルの上のリモコンに手を伸ばす。

 彼女がそれを向けた先には、壁掛け式の大型テレビがあった。映っているのはどうやら報道特番、画面左上には「報道ヘリより中継中」とある。だがどうしたことか、映っているのはヘリの内部ばかりだ。というよりも、座席に座ったなんかすごい恰好の女性が大写しになって、

「ええもう、本当に怖くって。爆弾騒動なんてそんな恐ろしいこと、想像しただけで泣いちゃいそうで……私って守ってくれる人がいないと駄目なタイプっていうか、そのぶんいっぱい尽くしてどこまでもついて行く一途な性格なんですけど、でも恋には臆病っていうかあれです箱入り娘って言うんですか? 世間知らずな私をしっかりリードしてくれるようなそういう人が」

 と、何の中継なのか皆目わからないという以前に、画面下には『爆発の中からヘリに飛び乗ってきたFさん(年齢不詳)』という文字テロップまで出ている。なるほど腹を抱えて転げ回るのもむべなるかな、案の定彼女は頬をひくつかせながら、それでもどうにかテレビの電源を落とす。

「……で、あなたは一体、どこのどちら様なのかしら。ノックもしない上にお名前まで内緒だなんて、レディに対してずいぶん失礼な話だと思わなくって?」

 淑女レディというにはまだ早すぎる年齢のように思えるが、しかしそう言われては怪盗〝紳士〟の立つ瀬がない。そういえばさっきメイドに変装したまま、それを解くのを忘れていた。失礼しました、と下げた頭を、上げると同時に――ランバーンは一気に変装を解く。

 剥ぎ取られたマスクが床に転がり、メイド服がビリッと音をたてて――エプロンドレスの一部だけが宙を舞う。

 なんか、ちぎれた。

 どうも変なところに引っ掛かったらしい。というか、そもこんなの引っ張っただけで脱げるはずがない。ちょっと待っててと言い添えてモゾモゾ脱ぎにかかるも、でも普段着慣れないメイド服だ。こんなのスムーズにできる方がどうなんでしょうね紳士として――と、言い訳が繰り返されるばかりで一向に脱げない。しかもよく考えたら顔だけ変装が解けているわけで、つまりこんなのもう死んだ方がいいのでは? とランバーンはひたすら口笛を吹く。最終的には少女に手伝ってらって、どうにか普段の格好に戻ることができた。

 トレードマークの正装。タイのずれを直して咳払いをすると、少女が感心したように嘆息を漏らす。

「へえ。なかなか素敵じゃない。それにその恰好、噂はかねがねお伺いしておりましてよ。私はこんな恰好で、ちょっとお恥ずかしいけれど」

 その場にくるりと一回転。ガウンを脱ぎ捨て、ネグリジェ一枚の姿になる。裾をちょこんとつまみ上げ、そして恭しくお辞儀する。

「初めまして。怪盗紳士、ランバーン様」

 下着姿であることを除けば、それは完璧な所作だった。美しく気品に満ちた振る舞い。ランバーンは彼女の手を取り、その甲にそっと口づける。膝をついたその姿勢でやっと目線の高さが揃った。吸い込まれそうなほどのきらめきを放つ、その碧い瞳を見つめながら、ひとこと。

「お目にかかれまして光栄です。美しき天使エンジェル

 さすがは紳士ね、と少女が笑う。

「どうぞおかけになって。ずいぶん急なお客様だけれど、でも立ち話も無粋ですものね。それに丁度よかったわ、今日はお休みで暇だったし――あとね、とっておきのシャンパンがあるの」

 弾むような声で言い切るなり、少女は戸棚サイドボードへと小走りに駆ける。おそらくは高級アンティークであろう、繊細な装飾の施されたその中から、これまた年代物と思しきシャンパンを引っ張り出す。微笑む彼女に、しかしランバーンはかぶりを振った。

「折角ですが、長居をしている暇もない身でしてね」

「あら、つれないかたね。それならせめて理由くらい、教えてくれるんでしょ?」

「実はまだ、三日月を探している最中でして」

 それは困ったわ、とシャンパンのコルクを抜く少女。グラスにそれを注ぐと、細い指で小さく天井を指す。大きな天窓、その向こうにはいまだ止まない嵐の闇夜。降り出す前までは、三日月のかかっていた夜空だ。

「三日月も、今日はお休みの日、みたいよ。もっともこの雨も、ちょっと収まってきてるみたいだけど。それとも、あなたが探しているのって、もしかして」

 ふたつのグラスを手に、ランバーンへと歩み寄る少女。差し出されたそれを受け取ると、少女は背伸びをして、自分のグラスにそれを重ねる。

「――こちらの﹅﹅﹅﹅三日月﹅﹅﹅、かしら?」

 きぃん、と、グラスの鳴る音。こちらってどちら、とランバーンは思わずグラスを見つめる。これの何がどう三日月なのか、と首をひねったところに、少女の残念そうな嘆息が響く。

「……もしかして、ご存じなかったかしら」

 視線を戻せば、そこには不満げな表情の彼女。眉をひそめ、腰に手を当て流ようにして――でも再び笑顔に戻る。空いた片手でネグリジェの裾を摘む、さっきも見せたお辞儀の所作。だが聞こえてきたその挨拶は、まるで思いもしないものだった。


「改めて、初めまして。この館の主、クレセアと申します。またの﹅﹅﹅名を﹅﹅ブラス﹅﹅﹅クラム﹅﹅﹅の三日月﹅﹅﹅﹅、とも」


 ――は?


 と、思わず声が出た。唖然とするランバーンに、彼女――クレセアは、こともなげな様子で言葉を続ける。

「だから、私が『三日月』なの。まさか『ブラスクラムの三日月』まで知らないなんて言わないわよね?」

 いやそれは知っている、知っているのだけれど、でも――。

 少し時間をください、とランバーンは椅子に腰掛ける。ずいぶん上質な素材を使っているのか、びっくりするくらい座り心地が良い。老後もし腰を痛めて引退したらこれ買おう、なんて、余計な考えばかりが頭を巡る。

 確かに、もともと噂を確かめに来ただけのつもりだったから、お宝に対する下調べは不十分だった。でもまさか、いくらなんでも、そんな馬鹿な。

 ――とはいえ。

 認めないわけにもいかない。こうして、直接目の当たりにしてしまった以上は。

「なるほどね。確かに噂の通り、〝世界で一番美しい宝〟だ」

 お褒めに預かり光栄ですわ、と恭しく礼を返してみせるクレセア。なんだかいやにご機嫌なようだが、でもランバーンにとってはもうどうでもよかった。グラスを置いて席を立ち、「さて」とひとこと。

「それじゃ僕、帰りますね。お疲れ様でした」

 えっ? という声を背に受けて、そのままそれを受け流す。扉の近くまで歩いたところで、「ちょっとなんでそうなるのよ」と腕を引っ張られた。ランバーンは小さくため息をつく。

「僕は泥棒ですから。盗みはしても、誘拐は専門外でしてね」

 そう説明する間に、結局元の椅子まで引き戻された。「そこをなんとか」と妙に食い下がるクレセア。頼まれごとで仕事ぬすみはしない主義なんだ、なんて、その程度ではまったく聞き分けてくれない。ランバーンは適当に理由を並べ立てる。

「先程も言ったはずです、長居できる身じゃないってね。僕は泥棒、招かれざる客です。むさ苦しい刑事のお出迎えが来る前に、ここを去らなきゃいけない」

 あら、と小首を傾げる彼女。続けて曰く、「お招きならしたはずよ」――まさか。

「招待状、受け取ってもらえたものかと思っていたわ。一応、ギリギリ記名はしたはずよね? ブラスクラムの三日月、って」

 何のことかはすぐに分かった。この場所に、ランバーンを呼び出すための手紙――。

 例の、偽の予告状。それを差し出したのが、まさか盗まれるべきお宝本人だったとは。

 ランバーンは頭を抱えた。つまりは自作自演の狂言泥棒、それ自体はこのさい構わないとしても。でもそれに人を使うのはどうなんですかね、と、その言葉をランバーンはグッと飲み込む。要は子供の悪戯いたずらだ、これ以上付き合う義理はない。

「ねえ怪盗さん。ならせめて、話し相手にくらいはなってくれるわよね?」

 残念だけど、と首を振る。淑女レディのお誘いとあらば見過ごせないが、子守はあまり得意ではないのだ。きっぱりと断り、その場を辞すべく立ちかけて、そして中腰のまま固まった。というのも、きっぱり言いすぎたせいだろうか、

「――そんな、ひど、い……」

 と、真っ赤な顔で瞳いっぱいに涙を溜めるのだから、こんなものもう固まる以外にない。冗談じゃなかった。「そんなひどい」は一体どっちのことか、こんなところまで人を呼びつけて――と、そう言ってやれたらどんなに楽か。だって泣く。絶対泣く。そうなればもはや手のつけようがなくて、だから苦手って言ったのにとランバーンは思った。

「……どうしろというのかな」

 両手を挙げて、そのままストン、と腰を下ろす。事実上の降参宣言に、「やったーラッキー」とすっかり笑顔のクレセア。こうなればもう仕方がない、ランバーンはクレセアの言葉に耳を傾ける。

「そうね。ただお話だけ、っていうのもつまらないわよね。じゃあダンスはいかが? こう見えて私、自信あるの。それとも、この『雲の上』じゃ、あなたもそれだけじゃご不満かしら?」

「雲の上?」

 そう聞き返すと、この部屋のことよ、とクレセア。

「地上八十階、超高層の上の宮殿よ。この町で一番高いところで、そして最も月に近い場所。私の生活する家でもあるし、それに仕事場でもあるわ」

「それはそれは。君のような幼子おさなごが仕事とは、殊勝なことだね」

 シャンパングラスを弄びながらランバーンは答える。クレセアもまた自分のグラスを手に、「そうなの。だから」と立ち上がった。部屋を横切り、辿り着いたのは隣室への扉。中は暗くてよく見えないが、どうやら寝室と思われた。

「怪盗さん。あなたも〝仕事そちら〟をお望みかしら?」

 そう言って彼女がしな﹅﹅を作る。はてな、と小首を傾げるばかりのランバーンの耳に、ややあって響いたのは不満げな声。

「……まさか、本当に何も知らないわけ?」

 何のことです、とシャンパンを口に含む。その軽率な行動を、ランバーンはすぐに後悔した。


「ここ、娼館よ」


 ――噴き出した。

 というか、鼻から出た。恥も外聞もなく咳き込むランバーンに、しかし思い当たるふしがまったくないわけでもない。

 ここブラスクラムは、酒とカジノと女の街。そのうちの『女』というのは、すなわち娼婦や娼館のことだ。とはいえ、まさかこんな超高層の最上階に――というよりも、こんな子供が。

あっきれた……本当に何も知らなかったのね……でもまあ、無理もないことかしら」

 各国VIP御用達、徹底した秘密主義の、雲の上の楽園。それがこの館なの、というのがクレセアの言だ。まあそれ自体は分からなくもない。なるほどこの場所は世界で最も、秘密を隠すには便利な場所だ。とはいえ、まさか、いくらなんでも――。

 そのときのランバーンは、よほど愕然とした顔をしていたのだろう。少し困った表情のクレセアは、改めて自分の体を眺める。

「まあ、そうね。富も名声もあらかた手に入れ尽くした偉い人って、もう普通の女なんか飽きちゃってるのかしらね。下の階には男の子もいるわよ。あとほら、犬とか」

 ――世も末だ。

 他に感想がない。なんということだ。まさか、犬って。いや犬はこのさい置いておくにしても、しかし。

「なるほど後ろ暗いわけだ。まさか君のような幼い子供に、そんな真似を」

 思わず怒りをあらわにするも、しかしどういうわけだろう。当の幼い子供が見せたのは、いかにも不満げなふくれっ面。

「気持ちはわからなくもないけどね。聞いていればさっきから、ずいぶん人のことを子供扱いしてくれるじゃない」

 だって子供じゃん実際、とついこぼしたおかげで「子供じゃないわよ」と逆ギレされる。そのさまがまさに子供そのまんまだ、と言ってやると、今度は腕組みして「ハッ、これだから田舎者は」と鼻で笑ってきた。なるほど人を小馬鹿にした感じは大人っぽいかもしれない。ましてそれを子供がやっているのだから、もう輪をかけて腹が立つ。

「あのね怪盗さん。この財閥が薬で大きくなったっていうのは、もちろん知ってるわよね」

 頷くランバーン。それはたまたま、あのなんでも喋ってしまう秘書さんに教えてもらった。ポケットから取り出した赤いラベルの注射剤アンプルは、さっきの研究所でくすねてきたものだ。ユエンに投与されたものと同じ薬。別段欲しくもなかったのだけれど、でもなんとなく盗んだ。とれるものは全部きっちりっておく、それは子供の頃からの癖だった。

 私のと違うわね、とクレセア。テーブルの上の小箱から取り出したのは、青色の注射剤アンプル。ラベルには、三日月のマークが刻印されていた。

「製薬。この『雲の上』もね、あくまでその副産物なの。私がこれを投与されるようになって――そうね、もう十五年くらいになるかしら」

 ちょっと待て、と思わず割って入る。十五年。どう考えても理屈に合わない。目の前の彼女はどう見ても、十歳までは行っていないはずだ。少なくとも、見た目に限っては。

 ――まさか。

 そう呟くランバーンに、さすがは噂の怪盗さんね、と微笑む少女――いや、

「この薬には、年齢の進行を妨げる作用があるらしいの。五つの頃からずっと投与されているから、これでも私、二十歳のレディなのよ。といっても、この雲の上からは外出すら許されない、世間知らずの箱入り娘、だけど」

 その言葉を疑う理由は、もはや存在しなかった。まさかと思わされるような薬が実在することは、すでにユエンの存在が証明している。それにこのクレセアの、幼い外見にそぐわない聡明さ。大人びた見識に、ときに妖艶さすら感じさせるその物腰。彼女のまとう雰囲気は、子供のそれとは明らかに異なる。

 が、しかし。

 そうなると、今度は――。

 ますます、彼女を放っておくわけには、いかない。


 ランバーンの思惑をよそに、クレセアの独白は続く。

「財閥にとっては都合の良い薬よね。商品の価値が長持ちするだけでなく、世界でここにしかない薬だもの。この仕事に商売敵ライバルなんていないわけ。まして世間の目の届かない、この雲の上での出来事でしょう? この狭い楽園は、地上と永遠に切り離された密室、ってところかしら」

 グラスを弄ぶクレセア。その無邪気で純粋な天使の笑顔は、しかしいつの間にか微かな陰りを帯び始めていた。ランバーンは考える。商品、という彼女の言葉。こんな幼い子供が――いや、うら若き淑女レディが、自らを指して使う言葉として、これほど相応ふさわしくないものはない。

 雲の上、と呼ばれる、超高層の楽園。豪勢なしつらえのこの部屋が、何故だろう――。

 まるで鳥籠とりかごのようだ、とランバーンは思う。


「……さて。私の話は、これでおしまい」

 そう締めくくり、そして微笑む、目の前の三日月。夜の空、その一番高い位置を彩る、夜空の主。この街の巨大かつ大量の電飾ネオンでさえ、その輝きには遠く及ばない。見上げる月はいつも気高く、そして美しく、また孤独だ。では地上を見下ろすその月は、一体なにを思うのだろう。

 天の中央に縛られ、自由に動くことの許されないそれが――。

 夜明けの扉を開くことは、本当にできないのだろうか。

「今日は楽しかったわ。ご招待に応じてくれて、どうもありがとう。もしよければ、いつかまた――いえ、いつでもいらしてね? 泥棒さんだから、お代なんてきっと」

 彼女がそれを言い終えるよりも早く。

 そっ、と人差し指でその言葉を遮る。変化はいつも些細なところから現れるものだ――敬愛する祖父の遺した言葉が、ランバーンの脳裏に蘇った。天窓を見上げれば案の定、すでに雨の止んだ空模様。風鳴りも僅かだが収まってきている。静寂の代わりに響くそれは、よもや聞き紛うはずもない。

 少しずつ、だが確かに近づく、大型輸送ヘリのローター音。


 ――響宴パーティの時間は、もう幕だ。

 ランバーンは立ち上がる。

「再びのお誘い、光栄の至り。ですが、遠慮させていただきます、美しい淑女レディ

 悲しげな瞳を見せるクレセア。その眼前に跪き、恭しく手を取る。

「雨は降り止んだようですが、雲はいまだ晴れません。このままでは探し物を見つける前に、夜が明けてしまいそうだ。しかし予告を違えたとあっては怪盗の名折れ、こうなっては致し方ありません。個人的な流儀には反しますが――」

 テーブルに目を向けると、そこには一枚のカード。『ようこそ、雲の上へ』――かたわらのペンを手に取り、その下に文句を書きつける。


『 ようこそ、雲の上へ。

  天の三日月に代わり、小さな三日月を拝借いたします。

  シャンパンには一錠の恋の媚薬。取り扱いには、どうかくれぐれもご用心を。

                        怪盗紳士ランバーン 』


 脇から覗き見るクレセアの、その大きな瞳がにわかに輝く。

「じゃあ、もしかして」

 弾けるようなその笑顔に、ランバーンは小さくウィンクを返す。特殊部隊の狙いは、おそらくこの彼女クレセア。生きる顧客名簿であるこの『三日月』を、彼らが放っておこうはずもない。おおかたその顧客の中に、国際警察機関エスポール上役うわやくでもいたのだろう。こうなればもう、仕方ない。

 ランバーンはペンを置き、そしてシャンパングラスの中に一枚、コインを落とす。この街のカジノでお馴染みの、三日月の刻印された金属製のものだ。お土産はこんなものでいいだろう、と頷くと、今度はクレセアを振り返る。

「エスコートさせていただきますよ。雲の上から、地上まで。ただ僕の流儀は、あくまで泥棒流のやり方ですけどね」

 飛び上がって喜ぶ小さな天使は、でもすぐに自分の姿を見つめ直す。ドレス着てくるから、と駆け出す彼女の手を、優しく掴んで引き寄せる。胸に抱いたネグリジェ姿の少女。そのきょとんとした表情に、にっこりと微笑みかける、怪盗紳士。

「ご心配なく。勿論もちろんご用意しておりますよ、淑女レディ。お気に召すかはわかりませんが、しかしこれから始まる舞踏会パーティには、これ以上の品はございません」

 扉を開く腕に、細い指が添う。

「慣れないドレスじゃ、うまく踊れる自信がないわ」

 リードさせていただきますよ、と囁くように答えて。向かうは、この雲の下。

 摩天楼の最上階、決して眠ることのない不夜城に――。


 怪盗は、三日月と踊る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る