Chapter.30 『クレッセリア財閥本社 秘書課社長付秘書 ファナミリア・エメントの場合』

 通り雨、というものがあるように、通り嵐なんてものもあるのだろうか。

 無心にキーボードを叩いているときほど、意外と周囲の雑音に敏感になるものだ。つけっぱなしの無線機や、スクリーンに映ったブラスクラム・チャンネルの緊急報道特番。しかしその中でもなによりファナが気にしたのは、全面ガラス張りの窓に打ちつける雨粒の音だ。

 急に荒れ出した空模様。それが少し、落ち着いてきているのがわかる。

 ――嫌な予感がする。

 何か大事なことを見落としているような感覚。その正体が掴めないままに、ファナは自分に許された作業に没頭していた。現場の指揮権を全てあの捜査官キースに委ねたいま、できることはせいぜいネットワーク関連の調査くらいのものだ。

 国際警察機構エスポールによる大規模なサイバー攻撃。結果として防壁を突破されてしまった、それ自体は仕方がないにしても――。

 でも、どうしてこんなにも呆気なく?

 腑に落ちない。だって、あまりにも予兆がなさすぎた。よしんば完全にこちらの目を欺いたのだとして、ならばその後の攻撃の粗雑さはなんだ? 意図が読めない。どうにもちぐはぐな感じがする。なんだか重大な思い違いをしているような座りの悪さ、それがファナを際限のないタッチタイプへと駆り立てる。

 データの無差別的な消去。はたして攻撃者の目的は、本当にそれだけだったのか――?

「……あの。差し出がましいようですけど、少しお疲れなのかもしれませんよ?」

 また呟きが漏れていたらしい。隣から労いの言葉をかけてきたのは、受付嬢のエイミーだった。あれから再三逃げろと忠告しているにも関わらず、彼女はまだこの社長室に残って、通算何杯目ともしれない紅茶を淹れ続けている。死と隣り合わせの状況はとても思えないほどの、どこか達観した感すらあるその笑顔。この芯の強さは一体どこからくるのか――いや。

 あるいは、彼女の言う通り、少し疲れているのかもしれない。

 ありがとう、とひとこと、差し出された紅茶に口をつける。脇からノートPCの画面を覗き込むようにして、「そちらのパソコンの方はどんな調子です?」とエイミー。どうやら気を使ってくれているらしい、ということくらいはファナにもわかる。悪い気はしなかった。エイミーと話すのは嫌いではなかったし、それに気持ちが切り替わればまた何か思い浮かぶこともあるかもしれない。ファナは可能な限り噛み砕いて作業の進捗を説明する。

「はかばかしくはありませんね。今は支社や子会社を含めた、グループ全体のネットワークを調べているのですが。あちこちに被害が出ているものの、しかし数が多すぎてとても調べきれない、というのが正直なところです」

 世界各地に拠点を持つばかりか、業種や業態そのものも多岐にわたる。実を言えばグループの全容を把握している社員の方が珍しいくらいで、そして受付嬢であるエイミーは――とはいえファナからすれば、「このビル全ての内膳番号を知っているほどの彼女が」という感想になるのだけれど――どうやら、珍しくない側の社員のようだった。

「そんなにいっぱいあったんですか……私、この本社か、お取引の多い会社さん以外のことはさっぱりで。単純に一番お付き合いが多いのは、やっぱりあれですね。CSS――『クレッセリア・セキュリティ・サービス』さん」

 まあそうでしょうね、とファナは相槌を打つ。

「我が社の私設警備兵ガードマンは組織上、すべてこのCSSの所属ということになりますから。本社とは特に近い関係なだけあって、相当な被害が出ているようですね。地下のコントロールルームのシステムをはじめとして、隣のカジノの警備システムなんかも――」

 そこではたと言葉が止まる。今まで漠然と感じていた、〝嫌な予感〟の正体に迫ったような感覚。CSS。隣のカジノ。なんだろう、この妙な違和感――。

 その思考が呟きとなって漏れ出るよりも早く。「カジノもですか?」と、なんだか驚いたような返事。

「あっちはあっちで、確か立てこもり事件の真っ最中でしたよね? 大丈夫かなあ、警備とか」

 爆弾魔の包囲なら州警察に引継ぎ済みのはず――と、そう答えようとして、口をつぐむ。

 爆弾魔。立てこもり事件。現場であるカジノの警備システムに宛てて、再度確認の命令コマンドを送信する。

 反応なし。完全なサービス停止状態。おそらく、データを消去された状態――だが、業務サーバではない、警備システム本体を? 本社こちらの地下コントロールルームは、乗っ取った状態で生かしておいたのに?

 ――まさか。

「……エイミーさん。あなたの記憶力を見込んで、ひとつ無茶な質問をさせてください」

 ファナが指さしたのは、巨大スクリーン。そこには「情報収集の一助になれば」と――より正確には「エイミーが手持ち無沙汰だろうから」と、ずっとつけっぱなしにしていた報道特番が映っている。ブラスクラム、チャンネル。数年前に傘下に加わった子会社。

「この番組、カジノ爆破・立てこもり事件の犯人について、どんな情報を報道していました? 個人情報や特徴など、憶えている限り全部挙げてください」

 宣言通りの無茶な要求に、エイミーは案の定「いやいやいやいや」と首をぶんぶん振って、

「無理ですよ! 内戦番号を覚えたのは仕事だからで、さすがにそんなの憶えてな」

「正解十個でクリアとします。制限時間は三十秒。はいスタート」

「えっと、確か爆弾魔で、ヒゲの形が変で、国際指名手配中のテロリストで、今もまだカジノに立てこもったままで、変なヒゲで、中の様子は依然不明――あっ違うこれは事件の概要」

「残り十秒。九、八」

「無理ですよお! だいたい犯人の情報って、かなり早い段階でほとんど出揃ってましたよ? そんなのいちいち憶えて」

「――そう。〝かなり早い段階で〟、ですね。助かりました、その言葉が聞けて」

 報道特番が開始されて早々、もう犯人が特定されていた。中の様子は以前不明、脱出した人質がいるという報道もないのに、だ。他に手段があるとすれば、カジノの防犯カメラ映像からの同定だが――そのデータは、今やどこにも残っていない。ハッキングにより消去されているのだから。

 あるとすればせいぜい、立てこもり前に運よく逃げ出せた客の、その曖昧な目撃証言程度。たったそれだけの情報で、どうして犯人を断定できたのか?

 考えられる可能性のうち、すべての辻褄が合うものは――。


 ブラスクラム・チャンネルの裏切り。おそらくは、そう見て間違いない。


「早すぎる犯人特定は、いわゆる勇み足というものでしょうね。最初から犯人を知っていただけに、却ってスクープを焦りすぎた。もっともそれくらいの旨味がなければ、彼らとてこんな茶番には乗らないでしょうけれど」

 種が割れてしまえば簡単なこと、道理であっさり侵入されたわけだ。そも彼らはセキュリティを突破する必要すらなかった、だって最初から内部にいたのだから。無造作にデータを消して回ったのも、本当の目標を偽装カモフラージュするため。彼らにとって、本当に消す必要があったのは、ただひとつ。

「カジノの防犯カメラ、その映像データが本命です。正確には、そこに映っている立てこもり犯の顔でしょうか。ただつけヒゲで変装しただけの別人だとわかってしまいますから」

「えっと、その……どういうことでしょう?」

「国際指名手配の爆弾魔はおそらく今、このブラスクラムにはいないはずです。おそらく、秘密裏に逮捕済みなのでしょう。彼は体よく利用された、いわゆる当て馬にすぎない、ということです」

 ではなぜ、わざわざ狂言の爆破事件を起こす必要があったのか?

 いくら勇み足といっても、自らこんな大掛かりな事件を起こすほど、あのブラスクラム・チャンネルが愚かだとは考えづらい。おそらくは、元々そうする必要のあった『誰か』がいて、そしてブラスクラム・チャンネルはその尻馬に乗ったのだ。

 では、この街に爆弾魔の登場が必要だったのは誰か? なにより、国際指名手配犯を内密に捕縛して、あまつさえそれを利用できるものは?

 ――考えるまでもない。

 国際警察機構エスポール

「ここまでの一連の事件は全て、〝決着〟のためのお膳立てに過ぎません。彼らは今回の騒動を全て、この場に居もしない爆弾魔の責任としてなすりつけるつもりなのでしょう」

「責任、といいますと……ええと、何の、でしょうか」

これから﹅﹅﹅﹅彼らの﹅﹅﹅起こそうと﹅﹅﹅﹅﹅している﹅﹅﹅﹅重大な﹅﹅﹅事件の﹅﹅﹅責任﹅﹅、です」

 もちろん、なんとしても阻止しなければなりませんが――そう告げながら、ファナは卓上の無線機に向き直る。勝算は、ほとんどゼロに等しい。それでもまだ、敗北が決まったわけではない。これほどの大規模な作戦を実行するということは、つまり相手にとっても厳しい状況であるということ。その隙をうまく突いたならば、まだどうにかできる余地はあるはず。

 どう告げるか、それを迷いながら無線機に手を伸ばした、その瞬間。

「……あの、ファナさん。じゃあ、もしかして、このヘリからの中継も……?」

 その言葉に、ファナはスクリーンに向き直る。はたして画面に映っていたのは、確かにヘリからの中継だった。ただしそれは地上の光景ではない、ヘリから、ヘリ内部を撮影した光景――。

「……ちょうどいい。エイミーさん、あなたはブラスクラム・チャンネルに苦情クレームの電話を入れてください。我が社は飼い主の手を噛むような駄犬には容赦しないと――それと、もうひとつ。この緊急時に公共の電波を、個人のパートナー探しに利用するな、とも」

 社長室に設置された巨大スクリーン。そこに映し出されていたのは、ファナにとっても見覚えのある顔。画面下のテロップの表現を借りるなら、まったく意味不明ではあるけれども、しかし事実には違いない例の彼女――。

『爆発の中からヘリに飛び乗ってきたFさん(年齢不詳)』、だった。

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