Chapter.29 『国際警察機構 捜査官 キース・クーパーの場合』
「確か、予告状の一部、だと言っておったな」
妙な話だった。いまキースの手にあるのは、手紙の
「全て彼女の嘘、ということは」
「ないと思うがな。嘘をついてこんなものを用意する、その理由があの受付嬢にはない」
だとすれば、ますますわからない話だ。手紙に封をするのは構わない。しかし問題はその手紙がランバーンの予告状であったということと、そしてもうひとつ。
キースとバードマンには、この封蝋にまるで見覚えがなかったことだ。
「妙ですね。確かにランバーンはいつも予告状を出します。しかしそれに使われるのは、決まって適当な文房具屋で手に入れたと思しきファンシーなレターセットのはずですが」
「ひよこの便箋に、うさぎのバースデイカード、それにカビパラの書かれたノートの切れ端だったか……そういえば一度、チラシの裏に書いて
キースは頷く。確かバードマンは「なめとるのか」と憤慨し、恐らく心ないもののイタズラだろう、という線で落ち着いたのだが――それで実際にランバーンが現れたときには、さしものキースも少し心配になった。便箋すら用意する金もないだなんて、ちゃんと食事は摂れているのだろうか。
「バードマン主任。こんな高級な封蝋はランバーンの趣味ではないと思うのですが。それにわたくしには、彼にはとても――」
「こんな高級品を用意する生活力はない、と。そう言いたいのだろう。わしもそう思う」
ゆっくりと頷き、腕を組んで考え込む様子のバードマン。珍しく威厳に満ちた態度ではあるのだが、しかしどうせならいい加減、その受付嬢の制服は脱いだ方がいいのでは、とキースは思う。とはいえ、余計なことを言ってもし上司の機嫌を損ねたりなどしたら
いや、このさい余計なことは考えまい――と、キースは口を開く。
「つまり、今回の予告状は、ランバーンの手によるものではない、と?」
「心ないもののイタズラ。あり得ん話ではないな。三日月の正体がなんであれ、『世界一美しい宝』という噂だけならこの街の誰もが知っておる。腹立たしいがあのコソ泥、ランバーンの存在についても同様だ。誰にでもできるイタズラであることは間違いない。だが」
キースの手から、例の封蝋を取り上げるバードマン。
「この刻印、三日月の文様があるのは見えるな? 盗み出す対象との符合もあるが、とりあえず細かいことは置いておくとしてだ。この刻印、似ておると思わんか? この財閥の社章に」
「まさか、内部からのイタズラだと?」
そうだ、と頷くバードマン。キースにも、その言い分がわからないわけではない。しかし少し、考え方が強引すぎやしないだろうか。確かに財閥内部にも、その財閥自体を
また予測できたとするなら、それはこの財閥においても一握りの人間だけだ。だがそんな立場にある人間に、このような騒動を起こして得られる、そんな利益はまず存在しないだろう。ただ自分で自分の首を絞めるだけ、すなわち、イタズラをする動機それ自体が存在し得ないことになる。
そして、さらに言うのであれば。いま、なにより重要なこととして――。
「少々強引、と言いますか、結論が短絡的に過ぎるのでは? 刻印と社章が似ているとして、それだけでは何の証拠にもなり得ません。またイタズラが内部の人間の仕業であったとして、それがいま現在の状況に対してどういう意味を持つのか、わたくしにはわかりかねます」
相変わらず頭が固いな、と、いつも仏頂面のバードマンが、珍しく笑う。
「まあ、なんということはない。ただの刑事の勘だな」
それはあまりにナンセンスでは、というのは流石に言い過ぎだろう。キースにしてみれば、ここで上司と討論する
「バードマン殿、ご命令の通り、確保して参りました。こちらで間違いございませんか」
「おう、こいつだこいつ、間違いない。ご苦労だったな」
は、という返事と共に、警備兵が去っていく。彼はお役ご免で満足かもしれないが、しかし大変なのは残されたキースだ。警備兵の連れてきたそれは、どこからどう見ても、ただの野良犬だった。それが突然バードマンと取っ組み合いの大騒ぎを始めるのだから、ロビーはすぐに騒然となる。
「おいキース、早く押さえんか! この犬畜生、わしの言うこと聞かんのだ! おい!」
じゃれ合って遊んでいるのかと思いきや、どうやら襲われていたらしい。慌てて野良犬を引き剥がすと、バードマンはよろよろと身を起こす。大変な目にあったわい、とかなんとか、そう呟く割にはまるで懲りていない。嫌がる犬の鼻先に無理矢理押しつけるのは、例の封蝋だ。
「おいキース。偽の予告状を出した人間を
どうでしょうか、とキースは首を捻る。
「それにしても、しかしこの封蝋だけでは。不確定要素が多すぎます」
「そうだろうな。わしもそう思う。ただ、どうも臭うもんでな。この封蝋が高級品だということくらいは、わしにもわかる。だとすれば、予告状を出したのは相当な身分の人間じゃないか? なおかつそれが、この財閥内部の人間だとするなら、どうだ」
随分と勿体つけた言い回しだが、しかしキースは察した。
「なんとなくわかりました。別に捜査のつもりはない、ということですか?」
いまのところはな、とバードマンが肩をすくめる。
「
そこまで呟いて、封をポケットにしまい込むバードマン。憶えたか、とか、返事をせんか、とか、犬に向かって真剣に話しかけることにはまあ、目を
「しかし主任、こんな野良犬に警察犬の真似事ができるとは思えませんが」
「なあに、何事もやってみなければわからんもんさ。なんなら、そうだな」
これでどうだ、と人差し指を突き立てるバードマン。意味がわからないというか、一体なんのサインだろう。なんですか、と訊ねると、彼は不満げに眉を曲げる。
「キース。お前、この街での捜査を楽しみにしとったろうが。まあわしらの仕事に娯楽など無縁だがな、だが折角だし、事のついでだ。結局お前、まだカジノにも行っとらんだろうが」
「爆破されてはもう行きようもありませんが。わかりました、ならこれで
キースは人差し指と中指、その二本を突き立てる。大きく出たな、という言葉に、微笑みを返して。
「
「
ホルスターから銃を引き抜き、
「……んん? どうした、キース」
「いえ。それが、すっかり失念していたのですけれど。どうも上階で接触した人間がいる模様で、どうしたものかと思いまして……その、ランバーンのことなのですが」
しばらくの間があって、ようやくバードマンの返事が聞こえる。
「まあ仕方あるまい、予告状の真贋が疑わしい以上、本当にここにいるかどうかも怪しいもんだ。それにいまはそれどころではない、警察官として、何より重要な仕事があるわけだからな」
警察官として何より重要な仕事。ずっとランバーン一筋でやって来た、この石頭の上司にしては意外な発言だった。正義でしょうか、というキースの言葉に、もっと重いもんだ、とバードマンが首を振る。
「人命尊重。市民の安全は、
放たれた犬が、真っ直ぐに駆ける。ロビーの外へと一直線、それを追う、受付嬢のベストを着た背中。目を逸らすように
志願者のみ、数名の警備兵を引き連れ、エレベータへ。
扉の閉まる瞬間、入り口の向こうへと消える、上司の背中。敬礼とともに、キースは呟く。今度は社交辞令ではない、本心からのその言葉。
「――ごもっともです。流石は、主任」
閉まる扉。エレベータは、動き出す。
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