Chapter.26 『国際指名手配犯 怪盗紳士ランバーンの場合』

 科学の力テクノロジーを過信するな、とは祖父の言葉だ。

 最後に頼りになるのは自分の技術テクニックだけだ――そう呟く祖父の、その真剣な眼差しに憧れた少年時代。その彼から引き継いだいくつかの商売道具は、しかし見事に工学技術テクノロジーの塊そのものだったのだからこれでがっかりするなという方が無理な話だ。

 例えばこの無線盗聴機――要は受信機レシーバーなのだが、商売柄か聴器と呼んでいる――にしたって、初めから胸ポケットに収まるサイズだったのだからもう驚く以外にない。しかしいま、なにより問題なのは、イヤホン越しに聞こえるその通話内容だ。

 いつものしつこい二人組の刑事だけじゃなくて、なんか特殊部隊がどうとか言っている。そんなひとたちが来たら撃たれたりしてあと死んだりするかもしれないな、と、ランバーンは口笛を吹く。一刻も早く逃げないといけない気がしたものの、しかしそんな真似ができたなら苦労はない。

 目の前には一台のPC。いま、ランバーンが涙目でいるのは、その操作法がわからないせいだった。

「本当は、依頼された盗みは引き受けない主義なんですけどね」

 と、いまさら言い訳してみたところでもう遅い。

「いいから早くしてってば」

 隣でそうランバーンをかすのは、なぜかついてきたユエンという名の少女だった。ちなみに大変な怪力で、身体能力は申し分ない。社長室の分厚い扉を突き破ったその拳は、考えようによっては特殊部隊以上の脅威と言える。でも「探し物は僕の専門分野です」なんて大見得を切ってしまった以上、いまさら「あっだめです機械とか聞いてない無理無理」とも言えない。たぶん殴られると思う、そしてそうなれば死ぬと思う――と、もう止まらない口笛に、隣の少女が眉をひそめた。

「あの、手伝ってもらっておいて言いづらいんだけど……もうちょっと、こう、パパッとできない?」

 まあ落ち着きたまえ、と余裕の返事をしてみるものの、でもその気持ちはランバーンにもよくわかった。人差し指一本のスローモーなキータッチは、当人であるランバーン自身でさえ苛立ちを覚えるほどだ。なおかつ照明さえ落とした怪しげな研究所の中では、手元がよく見えずにタイプミスを繰り返すのも仕方ない――と、そう言い訳してみたのだけれど、しかしユエンは容赦ない。

「……使えない大怪盗」

 だなんて、自分自身がPCを操作できないことを棚に上げてものすごい言い草だ。パンチが怖くて言い返せないのをいいことに、彼女は、

「だいたい、この上階に簡単に入り込めたのだって、ファナっていう秘書のひとがセキュリティを解除してくれたおかげじゃない」

 とかなんとか、そのファナに無理矢理そうしろと詰め寄った張本人のいう言葉ではないな、とランバーンは思う。思うのだけれど、でも怖いから「ですよねーえへへ」と笑うしかない。そうしておとなしくキーボードをぽちぽちやるうちに、ようやく目的のものは表示された。

「ほら! ほうら見なさい出たましたよ! どうですか、僕だってPCくらいできるって言うかむしろ本当は得意中の得意なんですけどでも能ある鷹は爪を隠すっていうかそうですいろいろな深い考えがあってわざと」

「いいから結果は」

 とても怖い顔で詰め寄るユエンに、ランバーンは画面をスクロールさせる。

「ええと、検索結果、一件。被験体十三号。性別、F。被験時の年齢、三歳。被験時の状況、自動車との接触による重体・危篤、骨折六箇所、打撲十箇所強、無数の内出血に加え臓器の損傷が見られ、呼吸停止および昏睡状態……なんです、これ」

 ランバーンにはさっぱり理解不能な内容ではあったが、しかしそれでもおおよその察しはつく。少なくとも、何らかの研究の報告書レポートには違いない。さらに画面をスクロールすると、そこには怪しげな単語がいくつも並んでいた。与えた処置、および投与した薬剤、投与後の経過、その他特筆すべき事項、そしてそれに関する論考。動物実験のレポート、と、そう読めなくもない文献だ。しかし一箇所、明らかにそれを否定する記載がある。

「備考、被験体の生物学上の母親はかつて当研究所製薬局B班研究主任であったイリザ・マキシマ。詳しくは参考文献D-209967を参照」

 マキシマ、などという姓はそうあるものではない。横目に隣をうかがうと、そこには食い入るようにモニターを見つめる、ユエンの姿。

「参考文献、出して」

 言われた通りに、再び検索する。表示されたそのデータは、研究主任イリザ・マキシマという人物に関する詳細なレポートだった。とはいえ、情報の量それ自体はあまり多くない。記載されているのは彼女の入社から退社までのことで、そしてイリザは、もう十年も前に退社している。

「現在に関する情報は、ないの」

 そのようですね、と返事をする。うなだれたユエンの表情は、その長い髪に隠されて窺うことができない。不意に振り上げられたその細い腕が、PCのキーボードを叩き割る。専用のデスクは、拳の形にへこんでいた。

「……おばあちゃんから聞いたの。私のこれ﹅﹅は、ケガを治したときの後遺症なんだって」

 これ、というのは、彼女の人並み外れた身体能力のことだろう。彼女に投薬されたその薬は、人体組織の自己再生能力を一時的に強化させる、というものらしかった。そんな薬品が実在するなどとても信じられることではないが、しかし先ほど読んだ報告書にはそのように記載されていた。そして現に、その生き証人が目の前にいるのだ。

 なるほど、とランバーンは椅子に背を預ける。いまさら、余計な気遣いなど意味がない。

「それでこの会社に忍び込んで、詳しく調べようとした、というわけですか」

 うなだれたままのユエンが、小さく頷く。

「……でも、無駄だった」

 なぜですか、というランバーンの問いに、押し殺したような声が返る。

「十年も前の情報で、そのあとがわからないんじゃ……いま、お母さんがどこにいるのかなんて、とても」

 そう呟いて。あとは、声を押し殺して泣く、その音だけが響く。


 しばらくの間、言葉はなかった。


 人のいない研究室は物音ひとつない。ランバーンは目を閉じ、そして考える。

 職業柄だろうか、彼は暗闇を、そして静寂を愛していた。闇の中、神経を研ぎ澄ませて何かを待つ。逃すまいと待ち構えていれば、僥倖ぎょうこうは必ず現れるもの――それは、彼の敬愛する祖父の言葉だ。

 鼓膜に、かすかに響くものを感じる。

 壁の向こう――カンカンと甲高いこの音は、足音か。


 静寂の中、口笛は必要以上に大きく響く。

 それを考えていなかったのは失敗だった。なんかものすごい形相で振り返るユエンに、それでも落ち着いたふりをしながら、ランバーンは告げる。

「君のようなうら若い乙女に、泥棒の真似事を教授するのも無粋な話ですけれどもね。ただ、その道の先輩として助言アドバイスするのであれば――君は、三つの失敗を犯しています」

 いまにも食いかからんばかりに迫るユエン、彼女を押し退けるように突き出した、三本の指。そのうちの、まずは薬指を、ゆっくりと折る。

「レッスンワン。隠された何かを暴くのに、正面から迫っても意味がありません。真正面から見えるところには、最初から見られても構わないものしか置かれていないものです。それで欲しいものが見つかるくらいなら、泥棒ほど楽な仕事はこの世にないでしょうね」

 いぶかしげに首を傾げる少女。お構いなしに、中指を折る。

「レッスンツー。君は諦めるのが早すぎます。一度手に入れると決意したものを、そう簡単に諦めてどうする気ですか? 追い込まれたときこそ、口笛でも吹いてゆっくり考え直すんです。なにか見逃したところがあるかもしれない。無理だと思ったその先に、いつだってお宝は待っている――どうです、ロマンのある話じゃありませんか」

「……どういうこと」

 あくまで可能性の話ではありますけど、と前置きして。

「でも、まだ打つ手はあるはず、ってことです」

 どこか恨みがましかったユエンの目が、少し輝きを取り戻す。

「それってつまり、あなたがなんとかしてくれるってこと?」

 馬鹿言っちゃいけません、と、残った人差し指を左右に揺らす。

「君には人の話を聞かない癖があるようですね。頼まれごとで盗みはしないと言ったでしょう? それに、僕には僕の仕事がありますから。忘れましたか?」

 三日月を盗むんですよ、と両手を広げる。そこに突き刺さる、ユエンの冷めた視線。「結局なんにもしてくれないんじゃない」と、まったく本当に困ったものだった。我儘わがままなのは仕方がないにしても、しかし人の話は最後まで聞くべきだろう。

「人のために盗みはしませんが、でも誤解はしないでいただきたい。こう見えても、僕だって紳士の端くれですよ。麗しき乙女の願いとあらば、アドバイスくらいはまあ、してやれなくもありません。ところでどうです、僕の授業にはまだレッスンスリーが残っている。ただこちらは少しばかり骨が折れる、なんたって実践編ですからね――おっと」

 突如、PCが警告音を鳴らす。画面に表示されたメッセージは、『エラーによりデータベースサーバとの接続が――』とかなんとか。いよいよ研究所のネットワークにも、攻撃の手が伸びてきたらしい。少し無粋だがまあそれはそれ、こんな電子ビープ音であろうとも、しかし開演のブザーには違いない。電源コードを引き抜くと、ブザーは止まる。

 ――役者は揃った。ならば、あとは幕を上げるのみ。

「時は金なり、光陰はまさしく矢の如く、また兵は拙速せっそくたっとびます。命短し恋せよ乙女、そしてザ・ワールド時よ止まれ。昔の人は洒落たことを言ったものですね、僕の仕事には時間が大切だ。決断にかけられる時間はごくわずか、一瞬の判断でお宝の行方ゆくえが決まってしまう。運命の選択は、いつだって二者択一です。〝乗るか反るかトゥービー・オア・ノットトゥービー〟。さあ、君は――どうします?」

 答えるまでもない、という様子の彼女。結構、とランバーンは両手を打つ。意欲的なところは申し分ない、充分に優秀な生徒を演じてくれそうだ。アスコット・タイのずれを整えて、部屋の奥へと向き直る。最上階まで通じるエレベータ、向かう先はもう、考えるまでもない。

 踏み出したその一歩は、職業病か――文字通り、音もなく。

「では、出発しましょうか。いざ、お月見へ!」

 人知れぬ暗闇の中、怪盗紳士は、歩み出す。

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