Chapter.25 『クレッセリア財閥本社ビル 受付嬢 エイミー・ヒューレルの場合』

 この暴風雨の中、頑張るなあ、とエイミーは思う。

 上空を舞うのは、この街で何度か見かけたことのあるヘリ。地元のローカルTV局がそんなものを持っているなんて、田舎育ちのエイミーには信じられないことだった。というよりも、その姿がはっきり見えるほどの高さを、ヘリや飛行機が飛んでいること自体があり得ない。たぶんそのおかげだろう、エイミーはいまだに、空を何かが飛んでいるとつい見上げてしまう。

 窓から見えるのは、ブラスクラム・チャンネルの報道ヘリ。最近になってようやく、その姿には慣れてきた。したがって、エイミーがずっと窓の向こうを見つめているのは、別のものに注目しているせいだった。

 なんだろう、と。思わずそう呟いてしまったのは、隣の秘書の癖がうつったのかもしれない。

「どうかしましたか」

 その秘書、ファナがそう訊ねる。別にたいしたことじゃ、と返答したときには、すでにファナの目は窓に向けられていた。「何も見えない」なんてぼそりと呟くのは、きっと考え事を口に出してしまう彼女の癖なのだ――と、それはわかっている。でもだからって、それに返事をしないでいるのも気が引けた。エイミーは窓の外を指で示す。

「あれです。えっと、たぶんヘリだと思うんですけど。あんなの見たことないっていうか、なんか随分大きいから、なんだろうって」

 その言葉に、ファナがしきりに眼鏡のずれを直す。エイミーは視力には自信があった。ということは、眼鏡を必要とするこのファナに、そのヘリが見えないのは当然のことかもしれない。だいたい雨の打ち付けるガラスの向こうだ、普通は見えなくて当たり前だと思う。でも椅子から身を乗り出すファナを見ていると、いい加減なところで話を切り上げるのも申し訳ない。なにより彼女が、どこか悲しげに「もう全然わかんない」なんて呟いたりするから、もうそれを放っておくのは忍びなかった。

「あそこです、あの放送塔の右脇あたり。真っ黒だから見えづらいんですけど、おっきな羽が前後にふたつもついてて、あとなんていうか、ちょっと寸胴な感じの」

 そこまで口にしたところで、エイミーは違和感を覚え、隣を振り返った。ファナはもう、窓の外を見ていない。ただ愕然とした表情で、エイミーの顔を見つめている。しかもそのまま、しきりに小声で呟きながら。

「――輸送ヘリ。民間機ではあり得ない、真っ黒でマーキングもないとなれば……この嵐の中、一体、何を。まさか、どこかの部隊? でも目的地は」

 なにやら恐ろしげなその呟きに、ノイズ混じりの声が割って入る。机の上に急遽設置されたのは、さっきファナとふたりで運んできた、警備局詰め所にあったバッテリー式の無線機だ。何度か落としたりしまいには転がしたりもしたけれど、でもどうやら無事に動いているらしいのでエイミーはホッとした。天候のせいか音質はひどいものの、でもその声はエイミーにも、はっきりと聞き取れた。

『こちら本社前警備部隊。カジノ包囲中の州警察が、なにやら揉めている模様。もちろん交戦しているわけではありませんが、しかし警備を妨害されている……というよりも、なにやら横取りされているような様子。周囲には明らかにまともとは思えないコンテナ型の車両が数台。そしてその中から現れたとみられる、重武装の、どうも部隊のような人影が』

『こちらロビー本部、クーパーです。その部隊の規模と、あと装備は確認できますか?』

『風雨ではっきりとは見えませんが、大変な量です。下手したら一個中隊クラスですね。格好はみんなお揃いです。全身黒ずくめ、防弾防刃仕様とおぼしき分厚いジャケットに、赤いゴーグルの防毒面ガスマスク。手には――なんてこった、ありゃ自動小銃アサルトライフルか? しかし軍にはあんな連中は』

 一体なにを言っているのか、エイミーにはさっぱりわからない。田舎には防弾ジャケットもなければ、アサルトライフルなんてものもなかった。ただ少なくとも、空気が不穏だということだけははっきりとわかった。何かを考え込む様子のファナは、相変わらず呟きっぱなしだ。

「間違いない。MCATエムキャット国際警察機構エスポールご自慢の虎の子。対テロ用の特殊部隊だから、カジノを包囲するのはいいとしても。でも気に入らない、いやに手回しが良すぎる――というか」

 別段なにかを見ているわけじゃない、ということくらいエイミーにはわかる。わかるのだけれど、でもファナはずっとエイミーのほうを向きながら呟いているのだ。まるで喋りかけられているような気がするから、返事をしないのも居心地が悪い。エイミーは少し考えて、とりあえず適当に相槌を打つ。

「なんか、映画みたいなことになってますね。派手っていうか」

 どうせ聞いていない、と思ったのに。

「それ!」

 と、突然指をさされたから驚いた。なんかもう、ものすごく心臓に悪い。

「派手すぎる。つまり陽動、目くらまし」

 ひっきりなしに呟きながら、ファナが机に向き直る。無線機を取り上げて、早口に。

「こちら社長室、エメントです。ロビー本部応答願います」

『こちらロビー、クーパー』

「社長室の窓から確認しましたが、北西から所属﹅﹅不明﹅﹅真っ黒な輸送ヘリが一機接近中。おそらくこのビルを目指しているものと思われます。ご指示を」

 あれっ確認したの私じゃないっけ、なんてことは、たぶんどうでもよさそうな雰囲気だった。

 目の前のファナの声はもちろんのこと。エイミーには、無線を行き交う全ての声が、まるで悲鳴のように聞こえる。

『屋上に着陸可能な場所は』

「破壊工作対策のため、基本的に普段は着陸できない構造になっておりますが、ただ西側に一箇所だけ、収納作動式のヘリパッドが」

『ロビー本部よりコントロールルームへ。ヘリパッドを収納状態にできますか』

『コントロールルーム。不可能ですネガティブ、管理システム停止中では操作不能』

「こちら社長室、緊急時用の手動操作が可能なはずです。すぐに人員を屋上へ」

『そこまでの経路を、データで転送――は無理でしたか。口頭で、今すぐ』

「通常の経路では間に合いません。他に極秘の経路がいくつかあるようですが、私が知っているのはロビー四番エレベータだけです。ただ、それには社長のIDがなければ」

『こちら巡回部隊、コルドナ社長、いまだ発見できません!』

 なにが起こっているのか、エイミーにはさっぱりわからない。混乱する無線通信、その内容はほとんどちんぷんかんぷんだ。ただひとつ、エイミーにもはっきりとわかったことは――。

 向き直るファナの言葉が、間違いなく自分に向けられたものであることだけだ。

「エイミー・ヒューレルさん。あなたは逃げなさい」

 どうして、なんて、なぜそんなことを聞こうと思ったのか。真剣な表情で、手短にファナが答える。

「特殊部隊が『何らかの証拠』を消しに来ます。明確な目標まではまだわかりませんが、あれだけのハッキングを仕掛けてきた以上、もう手段は選ばないはずです。そしてもし、そんな部隊と接触したならば――命はありません」

 言葉を返すことができなかった。

 命がない。それはつまり、死ぬということ。言い換えれば、殺される、ということ。

 実感がない、なんて言えば嘘になる。現についさっき、ロビーに抵抗勢力レジスタンスが乱入した際に味わったばかりの感覚だ。恐ろしさに涙がぼろんぼろんこぼれて、足腰が立たなくなったのを憶えている。そしてようやくそれを脱したと、そう思った矢先に、また来た。

 一日に何回も死にかけすぎだ、と。

 さすがにもう、そんな感想しか出てこない。


 黙って立ちつくすエイミーに、ファナがなにかを言いかけた瞬間。

『おい社長室、返答しろ。こちらロビー本部、バードマンだ。おい聞いとるのか貴様』

 振り返り返答するファナ。誰ですか、という問いに、怒声が返る。

『なんだと貴様、わしは――いや、そんなことはどうでも構わん。貴様さっき、四番エレベータと言ったか? それが屋上に通じておるのは間違いないのだな?』

「正式には聞かされておりませんが、そのはずです。地上一階から四十五階の通常動作以外に、緊急用に最上層である八十階と、その上の屋上までの稼働が可能になっているはずかと」

『ふむ。その四番エレベータというのは、例のアレだろう。抵抗勢力レジスタンスの小僧が立てもって、さっき階数表示の消えた。いま表示が復帰して一階に戻ってきたが、中は空っぽだったぞ。ということは、もしかして』

『――ふたりは屋上か!』

 最後の言葉は、確か警備の指揮を取っているキースという男の声だ。しばらくPCのキーを叩くような音が聞こえて、そして『発信器の反応がある、間違いない!』という声がする。なんでそんなものがあるんだろう、そしてどうしてそれを早く使わなかったんだろう――なんてことは、きっといまはどうでもいいことなのかな、とエイミーは思った。エイミーですらそう思ったのに、でも無線機の向こうで揉め始めるふたり。しばらく罵声が行き交ったあと、別の警備兵の声が聞こえた。

『社長室、屋上と連絡を取る手段は』

 ようやく聞こえてきたその質問に、でもファナは答える様子がない。どうしたんだろう、と思って覗き込むと、彼女が悔しげに下唇を噛んでいるのがわかった。やがて小さな、でもはっきりとした声で呟く。

「二名とおっしゃいましたが、抵抗勢力レジスタンスの少年の他に、もうひとりは」

 答えたのはさっきのバードマンだ。

『受付嬢、確か、フレイラとかいう名前だったはずだ』

 その名前に、エイミーが飛び上がるよりも早く。

「エイミーさん、あなた、彼女の連絡先は?」

 知ってます、と答えて、すぐに携帯電話スマートフォンを取り出す。通話履歴から呼び出す時間すらもどかしい。震える指で通話ボタンを押し、数回の呼び出し音のあと――声が、聞こえた。

『……もしもし』

 申し訳なさそうなその声は、聞き覚えのある――。

 というよりも、一体どういうわけか。それはさっき聞いたばかりの、バードマンの野太い声。

 すまん、という謝罪の後ろから、なんで主任が持ってらっしゃるんですか、と、敬語口調とは裏腹の罵声。そしてそれに対する揉め合いののしり合いのやりとりが聞こえて、通話が切れる。脱力して立ち尽くすエイミーの耳に、無線の要求が遠く聞こえる。『他に手段はありませんか』という悲鳴は、さっきの警備兵のものだ。

 隣を振り返ると、眼鏡を外すファナの姿。目頭をつまむようにしながら、小さな声で。

「……緊急用の、社内電話のようなものが、確か、あった、かもしれません」

 自信なさげなその声に、エイミーは思わず駆け寄った。あの、と声をかけるも、しかし手で制止される。手にした無線の通話機を伏せ、小声で繰り返すのはさっきと同じ言葉。

「逃げなさい」

 でもそれは、とエイミーが反論するよりも早く。

 番号を求める警備兵の声に、力なく答える、彼女。

「内線の番号はゆうに千を超え、それを検索するデータベースはただいま停止中です。まして普段は使われない、いえ存在するかもわからない、屋上の電話。手段は……残念ですが、ありません」

 あまりにもはっきりと、そう言い切るものだから――。

 つい、大声になる。


「ありますよ!」


 唖然とした、いや、目を白黒させた様子の美人秘書。思わず大きな声を出してしまったことが、なんだかものすごく恥ずかしい。が、しかし恥じ入っている場合でもなかった。

 机の上の電話機。その受話器を手に取って、迷うことなくボタンを押す。

 ――階層番号二桁、セクション番号二桁、内線番号四桁。

「あなた……番号、知ってるの?」

 相変わらず、目をぱちくりさせたままのファナ。そんなに驚かれても困る、と、エイミーは視線を外す。呼び出し音を聞く間に、かろうじてひとことだけ。

「すみません。でも、受付嬢ですから」

 どんな部署への来客でも、素早くお取り次ぎするのが受付の仕事。この会社に入って、一番最初に習ったことだった。そう教えてくれた先輩はちょっと変わっていて、でも厳しくて、そしてそれ以上に優しかった。全内線番号の丸暗記をこなさないと、ここでは一人前の受付嬢として認められない――そんな暗黙のルールを教えてくれたのも、また彼女だ。でもその割に当人は内線番号なんてまったく覚えている様子がなくて、そのくせ若い男性社員に限ってのみ住所氏名年齢電話番号その他諸々の個人情報をしっかり把握しているなんてのも、きっとご愛敬だ。

 それはもうイジメだ、と言われたこともある。危ないから彼女には近づくな、なんて警告もされた。それはある意味、間違った意見じゃないのかもしれない。ただそれでもエイミーにとって、それらは正しい言葉では、なかった。

 大企業に就職して、田舎からひとり、大都会へ。

 周りに知っているひとは誰もいない、仕事のやり方だって、わからない。大きな街はただ怖くて、寂しくて。それでも就職を祝ってくれた家族や友人、その期待を思えば弱音は吐けない。きっとホームシックなんて誰にでもあるから、と、そう思ってもやっぱり、家族のいない部屋は広かった。気を抜くと泣いてしまいそうになる、ひとり膝を抱えた田舎娘の、その隣に座ってくれた、彼女の。

 かけがえのない、なによりも信頼できるその声が、聞こえる。


 黙ったまま、エイミーは思う。たぶん、気づいているのは私だけ――。

 こちらからはまだ、一言も発していないのに。


「はい、こちら屋上――って、まーだ残業してたわけ? でもこんなとこの番号、よく忘れずにいられるわね、エイ﹅﹅ミー﹅﹅


 この受付嬢フレイラ・アントワイズは、決して通話相手の名前を、間違えない。

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