Chapter.24 『抵抗勢力 リーダー エイジ・シャンドンの場合』

 人生最悪の日、と言ってもいいと思う。

 とにかく今日はついていない。エイジは今日一日だけで、すでに何度も死にそうな目に遭ってきた。ユエンにはタコ殴りにされるし、爆弾なんてものも持たされるし、銃火器で武装した警備兵には囲まれるし、と、もう散々だ。それにさっきも急にエレベータが動き出したおかげで、その屋根の上から落ちかけた。挙げ句の果てには、上昇した先の天井との間に押し潰されそうになって、もし彼女がいなければエイジは本当に死んでいたはずだ。

 今日一日のうちでいいことがあったとするなら、彼女――フレイラと出会えたことだけだ、とエイジは思う。なぜならおっぱいが、ということも勿論もちろんあるのだけれど、でもそんなことばかりを考えている訳じゃない。

 ロビーから連れ出してくれたのも彼女だったし、それに命だって救われた。エレベータと天井との間に挟まれそうになった瞬間、エイジを抱えてエレベータ内に飛び降りたのが彼女、フレイラだ。そのまま転がるように飛び出た先はどうやら屋上で、ほとんど嵐のような風雨ふううの中、それでもはっきりとした声で、

「大丈夫?」

 なんて抱かれたまま囁かれたりして、しかもそのときエイジの頬には柔らかい温もりのようなものが触れていたというかもう完全に挟まれているとしかいいようのない状態であったりして、もう本当に彼女は天使なんだ、とエイジは思った。思うしかなかった。おっぱいだからだ。

「にしても、ひどい天気ね。このままじゃ風邪引いちゃうわ」

 と、フレイラはヨレヨレのコートを脱いで、そっとエイジの肩にかける。その優しくて大人な彼女の気遣いと、そして雨ざらしのブラウスから透けて見える大人っぽいブラジャーの大胆なレースに、エイジはもう居ても立ってもいられない気持ちになる。もう一回挟んで、とかそういうことじゃない。いや挟まれたいことはもちろん挟まれたいのだけれど、しかしその反面、エイジは思う。

 ――いまの自分には、この人のおっぱいに挟まれる資格なんて、ない。

 理由なら考えるまでもない、エイジは、フレイラを騙している。彼女がこんなに優しく、親しげにエイジに接してくれるのは、きっと知らないからだ。エイジはまだ、肝心なことを言っていない。

 自分がこの会社の安全を脅かした爆弾魔であり、現に爆弾を持っていること。それにもうひとつある、エイジの気のせいかもしれないけれど、いまもっとも肝心なのは――。

 思い切ってフレイラに打ち明けようとするも、でも彼女は、

「あ、ちょっと見なさいよ! あれブラスクラム・チャンネルのヘリじゃない! こんな嵐の中でも中継だなんて、意外と根性あるわねー」

 なんて、ずっとはしゃいでばかりいるものだから、エイジはなかなか切り出せずにいた。あのすみません、とか、ちょっといいですか、とか、頑張って声をかけてはみるものの、しかしフレイラはずっと中継ヘリに夢中だ。なんか手を振ってみたりセクシーポーズを決めてみたり、一体なにを考えているのだろう。ビルの周囲を旋回するように飛ぶヘリに、

「もっと近寄って撮りなさいよ、根性なし!」

 とかなんとか、少なくともエイジにしてみれば、もうそんなことを言っている場合じゃない。意を決して、エイジは叫ぶ。

「フレイラさん! 俺、爆弾持ってるんです! ごめん!」

「そんなのどうでもいいわよ。それよりちょっと見なさい、なんかもう一機飛んできてるみたいよ。アレどこの局かしら、なんか随分大きい――」

 興奮気味にそこまで言ったところで、ぎこちなくフレイラが振り返る。

「……何、持ってるって?」

 いえですからこれです爆弾です、という、その説明を終えるよりも早く。

「なんでそんな物騒なもの持ってんのよ! さっさと捨てなさい!」

 だってどこに捨てていいかわかんないし、なんて言えば、この人はきっと「適当なところに」なんて返すのだろう。と思っていたら、「きっと燃えるゴミよ、爆弾なんだし」とか意味のわからないことを言う。どっちかといえば危険物だと思います、だとか、最早もはやそんな次元の問題ではなかった。フレイラも、それにようやく気づいたらしい。

「……なんかこれ、ずいぶん本格的ね。時限装置までついてるみたいだけど」

 エイジは頷く。カジノ爆破犯のものだって聞いたから、たぶん本物――と、それがちゃんと声になっていたかどうかは自信がない。顎が震えて、歯がガチガチと音をたてるせいだ。

「そうよね。それならきっと、本物よね。この嵐の中でも、ちゃ﹅﹅んと﹅﹅動い﹅﹅てる﹅﹅みたいだし」

 嵐はあんまり関係ない気もするが、しかしそれ以外は、まさしく彼女の言う通り。この時限装置はいま、どう見ても立派に、動いている。


 ――残り十分。


「なんでスイッチ入ってんのよ!」

 そんなこと、エイジにわかろうはずもない。でもたぶん、エレベータから脱出したときの衝撃で――だとか、そんな予想さえもう言葉にできない。

 時限装置が、動いている。それはエイジの目の錯覚じゃなくて、フレイラにもそう見えているらしい。つまりこの爆弾は、あと少しで爆発する。ということは、下手すれば、死ぬ。というか、下手しなくても死ぬ。明らかに死ぬ。

「ちょっと、泣いてる場合じゃないでしょ! 止め方は!」

 そんなのますますわからない。首を振る。

「じゃあ早く捨て――ようがない、じゃないの! こんな街のど真ん中じゃ、どこで爆発したってこんなの、アウトよ!」

 なるほどまったくその通り、フレイラの言い分には筋が通っている。それだけに、もう膝の震えは収まってくれそうもなかった。こういう爆弾的なものを屋上からポイ捨てなんてした日には、もう間違いなく殺人犯だ。なんでこんなことになってしまったのか、そもそもユエンが悪いんだ、俺はあいつに無理矢理やらされて――と、半ばやけくそで泣き叫ぶ。なぜこんな目に遭わなきゃいけないのか、ありったけの後悔と愚痴をわめいても、でもカウントダウンは止まらない。涙ににじむ暴風雨の屋上、すぐ目の前にいるフレイラの顔を、真っ直ぐ見ることさえもできない。

「ああそう、そりゃ災難ね。で、そのユエンってもしかして、幼なじみの女の子?」

 なんでそれを、と、顔を上げた瞬間。すぐ目の前に、フレイラの笑顔。「知りたい?」と微笑んで、細い指を爆弾に添える。

「キミのお母さんから聞いたのよ。そもそも私は、キミを捜すように頼まれて来たんだけど――でも、そんなことより」

 そこまで聞こえた、次の瞬間。

 ――左の頬が、カッと熱くなる。

 二度目の、彼女の平手。

「キミね。この状況、女の子のせいにしたでしょ。そのこと、ちゃんと本人に謝るのよ。一緒におうちに帰る前に」

 これはお姉さんが預かるから――そう言う彼女の手には、さっきまでエイジが手にしていた爆弾がある。どうする気ですか、と叫んだら、どうとでもするわよバカ、と怒鳴り返された。

「大人の女をナメないでよね。受付嬢やってりゃ、爆破予告くらいもう慣れたもんよ。だからキミは、走りなさい」

 彼女の指さす先は、屋上の出入り口。さっきエイジたちが転がり出てきた場所だ。逃げろ、ということらしい。そんなことはできない、俺だって――その先は、言えなかった。男だ、なんて、膝が震えて立てない状態で言えるわけがない。

 腰に手を当て、少し呆れたようにフレイラが微笑む。

「気持ちだけ受け取っておくわ。キミは、私が失敗したときのことを考えなさい。最悪ひどい爆発が起こったとして、このビルにどんな影響が出るかわからないでしょ。その爆発に彼女、ユエンちゃんが巻き込まれないって保証、あるわけ? もしそんなことになったりすれば」

 ゾッとしない言葉だった。そのはずなのに、なぜだろう。

 膝の震えが、ほんの少し。収まったような気がした。

「フレイラさん、わかりました。俺のせい、ということですよね」

 意を決して、立ち上がるエイジ。しかし彼女は、「わかってないわね」とかぶりを振る。

「誰のせいとか、もうどうでもいいの。ただキミは、守るべき人を守れなかったことになるのよ。つまり、いま彼女を救えるのはキミひとりだけ。だから――たぶん、待ってるわよ。キミのこと」

「そんなことはない、と思いますけど」

 そう言いながらも、でも肚はもう決まっていた。エイジはその場に振り返る。嵐の中、「やっぱりわかってない」と彼女の嘆息。だがその続きが、少年の背を強く押す。

 ――たとえいま彼女が、絶対に安全な場所にいたとしても。

「でも、待ってる。絶対に。いつだって待ってるのよ。残り八分、この大ピンチを救ってくれる騎士ナイトが、格好良くないわけ、あると思う?」

 駆け出す背に、真っ直ぐ帰るのよ、という言葉。エイジは振り返らなかった。ただ走る、ユエンの元へ。どこにいるかはわからない。でも、彼女は上階へと向かっていたはずだ。もし屋上の真下にいたら、大変なことになるかもしれない。ならもう、やるべきことはひとつだけだ。

 ――上の階から、しらみつぶしに探して回る。

 辿り着いた出入り口、そのエレベータには目もくれない。隣にある扉は、どういうわけかロックが解除されていた。これでは脇の認証装置の意味がない、つまり今、このビルには『何か』が起こっている。でも、気にしてる場合じゃない。むしろ好都合、とエイジはドアノブを捻る。

 扉の先には、下へと続く階段。エイジはそれを、転げるように駆け下りる。

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