Chapter.22 『クレッセリア財閥本社 秘書課社長付秘書 ファナミリア・エメントの場合』

 荒れそうだ、と、そう思った。

「いえ、さっきはその、ついカッとなったっていうか……すみませんでした!」

 そう頭を下げる受付嬢――エイミーに、そのことじゃありません、と可能な限り優しく伝える。タオルで拭いてもまだベタベタする、それにこのコーヒー臭さはどうにもならなかった。といって、今は呑気のんきにシャワーなど浴びている場合でもない。エイミーに電話を元通りに戻させながら、ファナは社長室の椅子の上で、しばらく窓の外を眺めていた。

 雨。これが吉兆であれば良いのだけれど――しかし残念ながら、まず逆だろう。

「直りました。通話音もしているみたいですし、たぶん大丈夫だと思います」

 ありがとう、と礼を告げ、再びデスク正面に向き直る。社長用のPCをノートブックにしておいたのは正解だった。少なくともバッテリーの続く限りは操作できる、そのはずなのだが、結局のところ思ったほど役には立たなかった。受話器を上げ、ふとエイミーの瞳を見つめる。コーヒーでもお淹れします、という言葉に、紅茶にしていただけますか、と返事をする。

 内線で呼び出したその先は、もう何度も通話している地下一階の大部屋。

「はい。こちらコントロールルーム」

 聞き慣れない声――そう思い、また同時に漏れてしまったその呟きに、電話口の相手が答える。

「失礼。指揮官不在のため、僭越ながら現場を取り仕切らせていただいております。国際警察機構エスポール捜査官、キース・クーパーです」

 まさかこの男が出るとは、と思った瞬間に、やはりそれを呟いてしまったらしい。電話口の向こうから苦笑が聞こえる。余計なことは言わないようにしなくては、と覚悟を新たにすると、

「社長秘書のエメント女史、ですね。ご心配なく、こちらも余計な詮索をするつもりはございませんので。いまは御社と共同戦線を張っている、といったところでしょうかね。現在、お宅の社長に電源システムの復旧をしてもらっているところですから、そちらに電力が必要であれば……ええと、そちらは社長室、ですかね?」

 よく喋る男だが、しかし勘はなかなか鋭いらしい。あるいは洞察力か、いや単に頭の回転が早いというのが適当だろうか。「それは恐縮です」という返事を無視して、ファナは伝えるべき用件のみを口にする。

社長室こちらには電力は必要ありません。ただ、社内ネットワークの一部が停止しているようです。各支社からのアクセスもありますし、なによりこの緊急事態に対応するためにはそちらの復旧を――」

 そこまで言いかけたところで、電話の向こうでなにやら騒がしい音がした。コントロールルーム側の電話は通常の受話器ではなく、マイクとスピーカーでの通話になっている。やがて返ってきた声は、聞き覚えのある――というよりももう聞き飽きた、できればあまり聞きたくない、その声。

「俺だ。ファナ、今の言葉はどういうことだ? サーバやルータなどのネットワーク機器には、それぞれ個別に無停電電源装置UPSがあったはずだ。停電程度で壊れることはないし、それに今現在、すでに﹅﹅﹅電力は﹅﹅﹅供給﹅﹅されて﹅﹅﹅いる﹅﹅はずだが」

 ――思わず受話器を取り落としてしまうところだった。

 この脳みそ小学生男にしては珍しく、いまの言葉は、全面的に正しい。UPSがある以上、落雷や停電程度で機器が故障することは考えにくい。加えて、電源はすでに供給されているのだ。仮に停電のために一度停止シャットダウンしていたとして、再起動リブートはUPSを介して、遠隔リモートからでも可能なはず。

 慌ててPCのキーボードを叩くが、しかし案の定、反応はない。アクセス不能denied――考えられない。

「コントロールルーム、セキュリティコンソールの確認を願います。五階西側フロア、サーバルームに異常は確認できますか」

「表示はグリーン、正常のようですね。社内の警備兵からも別段報告はないようですが」

 ファナは唇に指を押し当て、そしてしばらく逡巡した。アクセス異常ではなく、完全な通信不可能状態。通信経路が遮断されているか、もしくは全てのサーバがサービス停止状態にある、それ以外に考えられない状況だ。ターミナルソフトの通信を終了させ、試しに別のサーバを呼び出してみる。地下一階、セキュリティシステムのメインサーバ。ここなら間違いなく稼働中のはず――そう思いキーを叩く。ターミナルに表示されるログインメッセージ。そのごく僅かな遅延ラグが、ファナに絶望的な予感を洞察させた。

 最初に叩いたコマンドは、アクセス履歴ログの閲覧命令。表示されたその結果は、決してあってはならないものだった。

「――不正アクセスクラック!」

 呟き、というよりも、もはや悲鳴。騒然となるコントロールルームに、ファナは我を忘れて呼びかける。

「なにをやっていたのですか! もう社内サーバは全てやられています! 踏み台はそこ﹅﹅ですよ!」

 電話口の向こうから悲鳴が上がる。操作不能、コマンド受け付けません――その言葉から、なにが起こったのかはもはや考えるまでもない。不正にシステムに侵入してきた何者かが、コントロールルームからの操作を受け付けないように設定したのだ。しかしこのタイミングの良さ、まさか――とそこまで考えかけて、慌てて受話器の通話口を手で塞ぐ。

 システム自体が乗っ取られたのだ。そのシステムを介した通話の盗聴なんて、そう難しい話じゃない。

「……もしもし、エメント女史、聞いていますか? 情報工学はわたくしの専門外です。どのように対応すればよろしいか、ご指示を」

 ファナは眼鏡を外し、指でつまむようにして眉間を押さえ込む。しかしいくら考えても、執るべき行動はひとつしかなかった。こうなればもう、やむを得ない。

「この通話が終了すると同時に、電源管理を除いたそちらの全システムを完全に停止シャットダウンさせてください。以降、無線通信および通常の内線電話による、人海戦術での警備体制に移行します。私はシステムクラックの対応をいたしますので、現場の判断は全て――社長に、お願いいたします」

「俺が? なんでだ!」

 という文句と、そして「了解」という返事。はたしてこれで良かったのか、と思い返す暇もなく。通話口の向こうから聞こえてきたのは、やはりあの男の声。

「ああエメント女史、通話を切る前に、あなたにひとつお聞きしたい。あなたはシステムクラックの対応とおっしゃいましたが、しかしそのシステム自体を停止した状態で何をしようというのです? それにあなたは先ほど、こちらの履歴ログを確認したはずだ。あなたは――不正アクセスの発信源について、すでに察しがついているのでは?」

 なぜそれを、と思ってしまった時点でもう手遅れだった。こぼれた呟きは、間違いなく向こうの部屋に伝わったはずだ。しかし彼の意図がわからない、どうしてそんなことを聞こうとするのか。それが漏れて困るのは、こちらよりも――。

 いや、もう考えまい。というよりも、この考え自体がすでに呟きとなって漏れている。意を決して、ファナは口を開く。

「確証はありませんが、このやり口は間違いなく、〝いつものところ〟です」

 返ってきたのはコルドナの怒声。いつものところって、まさか――その、まさかだ。ファナは受話器の通話口に手を添える。コルドナやオペレーターたちには通じただろう。いつものところ、といえば、ひとつしかない。この企業の暗部を暴こうと、ネットワーク上からでさえ捜査の手を伸ばしてくる、その組織は世界にひとつだけだ。

 国際警察機構エスポール

 静まりかえる電話口の向こうから、わかりました、という返事。恐らく針のむしろであろう、その彼がさらに、言葉を続ける。

「結構です、エメント女史。ただもう一点、こちらが本題なのですが。全て正直にお答えいただけますね?」

 持って回ったその言い回し。その返答に窮する間に、電話口の向こうから声が聞こえる。貴様どの面下げて、というその声は、もう間違いなくコルドナの罵声だ。

「さっきからしきりに何か聞きたがっていたようだが、まさか貴様、今更ランバーンがどうとか言い出すんじゃあるまいな!」

 ランバーン。その単語にファナは、胸を串刺しにされたような錯覚を覚えた。この男、一体どこまで気づいているのか――こぼれ出るその呟きに、冷静な答えが返る。

「いえ、その反応だけで充分です。ありがとうございました。わたくしからは以上です」

 通話を締めくくろうとするその言葉。そのすかした態度はなんだこの野郎、というコルドナの罵声が聞こえる。それを遮るように、いや、まったく無意識のうちに、ファナは叫んでいた。

「先ほどの指示を一部訂正します! 現場の警備兵はこれより全て、キース・クーパー氏の指示に従い動くこと。通信は以上、システムの停止をお忘れなく」

 なぜだ、というアホ社長の絶叫に、もう答える気力もない。余計なことを言う前に通話を切らなくては――と、電話機本体に戻しかけた受話器。そこからかすかに、でもはっきりとしたその声が、響く。

「お気遣い、感謝いたします。あなたとはいずれ、お食事でも」

 ――ありがとう。でも、先約がありますから。

 音もなく、受話器が置かれる。気づけばその隣に、すっかり冷めてしまった紅茶。見上げれば、そこにはエイミーの姿がある。

「あの。本当なんですか、システムに侵入されたって……それも、侵入元が、あの」

 不安げな顔で呟く彼女に、ファナは黙って頷く。国際警察機構エスポールによるクラッキング。それは恐らく、間違いない。しかしそのことを彼、キースは恐らく知らなかった。察しはついていたのかもしれないけれど、でも確証はなかった。あの場面で侵入元を尋ねたのは、恐らくそういう意味だ。

「でも、どうして」

 たぶん、何らかの証拠を消しに来たんでしょうね――と、ファナのその言葉はあくまで推測に過ぎない。ただ、ひとつだけ確かなことは。

「安心してください。少なくとも、彼は信用できます。たぶん」

 あの状況で国際警察機構エスポールが侵入元とわかれば、針のむしろとなるのは彼自身だ。あえてそれを望んだのは、そのあとの質問のために違いない。はたしてランバーンはこのビルの中にいるのか、いないのか。上階にいるファナたちと接触があった可能性を逃さず、こちらを誘導した彼の手腕は、さすがに国際警察機構エスポールの捜査官というより他にない。

 だがその質問の前に、あえて自分の不利となるような言動を引き出したのは、つまり。

「共同戦線、ですね」

 驚いて見上げると、そこにはエイミーの笑顔があった。デスクの上のカップに手を伸ばし、「淹れ直してきます」と踵を返す。その背中を見送りながら、先ほどお互いに自己紹介をした、あのふたりのことを思い返す。

 世紀の大怪盗と、スラムの少女。そのふたりはいま、上階の研究所へと向かっているはずだ。セキュリティは解除されたから、そう手間取ることもないだろう。でも、彼らの探すものは、はたして見つかるのだろうか。ましてこの混乱の中、無事に戻ることはできるのだろうか。

 ――いや。

 考えても仕方のないこと。今はただ、自分の仕事を果たすだけ。


 ファナは小さく溜息をつき、そして腰掛けた椅子を回転させた。全面ガラス張りの窓の外、眼下に広がるはずのその街は、最早もはやまともに見えなどしない。後ろから、エイミーの不安そうな声が響く。

「……やっぱり、荒れてきちゃいましたね」

 窓に打ち付けられる雨粒。街の上空に広がる雨雲は、三日月を完全に覆い隠していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る