Chapter.21 『クレッセリア財閥本社ビル 受付嬢 フレイラ・アントワイズの場合』

「でもそいつ、撃ってきたんじゃん」

 そう言われては、もう返答のしようがない。なにか事情があるのよ、だなんて、まったく筋が通っていないことくらい、フレイラ自身にもわかる。

 急に停止したエレベータ、非常灯の薄明かりの中に、見知らぬ少年とふたりきり。彼が急にそわそわし始めるのも、まあこれくらいの歳なら仕方のないことだ。男は密室に弱い、というのは『フレイラ・アントワイズ人生訓 男をモノにする小悪魔の十戒』の一であって、昔はそれこそそのシチュエーションの罠に誘い込み、憧れのあの人とかその人とかを人生の蟻地獄に叩き込んだりしたものだった。

 そんな経験のあるフレイラにとっては、こういう状況での対処もまた容易たやすいものだった。密室というものは閉ざされているからこその密室なのであって、その事実にくさびを打ち込んでしまえば、あっという間に魔法は解ける。天井に非常用の脱出口らしきものを認めると、フレイラは少年を肩車し、彼にそこを開けるように命じた。その最中、彼に余計なことを考えさせないために、とにかくひっきりなしに話しかけることも忘れない。話題によっては逆効果にもなりかねないが、フレイラの選んだ話の題材は、このビルへの突入の寸前に果たした、運命の出逢いについてだった。

「目が合ったのよ。それもね、すんごい美形イケメンなの。見ただけでついニヤけちゃうくらいでさ。それも彼の、『止まれ!』だなんて叫んで、銃を構える姿の格好いいことといったら、そりゃもう、ね」

 男の前で他の男の話をしない、これもまた例の十戒の一。つまりその逆を突けばいい――思惑通り、みるみる不機嫌になる少年。私もまだまだ捨てたもんじゃないかも、と少し気分がよくなる。とはいえ、この状況下の思春期男子は侮れない、というのもまた真理だ。現に、不自然にもたついた様子のその少年は、

「俺だったら、フレイラさんに向けて銃なんか構えたりしないけどなあ。うん、絶対に」

 と、ちらちら下をうかがっている様子なのが手に取るようにわかる。これは渡りに船、と、彼には悟られない程度にフレイラはほくそ笑んだ。

「でも銃とかの取り扱いって、女の目からするとちょっと尊敬しちゃうっていうか……危険なのは嫌だけど、でもそういうのを扱うなんて、絶対にできないもの。例えばこのエレベータだって、私ひとりだったら脱出なんて無理じゃない? 天井の蓋を開けるだけにしたって、女の腕だと上手くいかなかったりするんだもん。だからそういうのをササッとこなされちゃうと、すごいなーっていうか、やっぱり男の人って違うなぁ、なんて、憧れるっていうのかな」

 そこまで言ったところで蓋が開く。いままで一体なにをもたついていたのかと、無論そんなことはおくびにも出さずただ「すごぉい」と褒める。満更でもない様子の少年は、フレイラが思う以上にわかりやすい性格らしい。ここまで来ればあとは押しの一手だ、とにかく滅茶苦茶に褒め倒して、その勢いでエレベータの天井の上へと出てもらう。

「どう? なんか見える? 脱出とか、できそう?」

 たぶん、少し言い渋るような様子を見せたあと、無理そう、だなんて言うんだろう――そのフレイラの予想は、半分だけ当たっていた。

「うーん、なんかよく見えないし、これはちょっと……あれ?」

 突如調子の変わったその語尾に、どうしたの、と声をかける。

「フレイラさん。このエレベータって、どのあたりで止まったんだっけ」

 確か四十三階と四十四階の間くらいだったはず、と答えると、「おかしいなあ」と返事が聞こえた。ちょっと見てくれないかな、なんて言葉に少し警戒したものの、でも少年がなにかを企んでいるようには感じられない。引っ張り上げられるようにして天井の上に出ると、彼の言いたいことが一目でわかった。

「フレイラさん。このエレベータ、確か四十五階までだったよね」

 それは間違いない。しかし見上げると、エレベータのワイヤーは遙か上まで続いている。すぐ隣の同型エレベータは、ちょうど四十五階のあたりで打ち止めになっているにも関わらず、だ。

「四十五階よりも上へ行くには、別の専用エレベータを乗り継ぐって聞いていたけど」

 思わず呟いたその言葉に、少年が「なにか緊急用なんじゃないかな」と答える。確かにあり得ない話じゃない。でもひとつ不思議なのは、四十五階より上のフロア、その出入り口に当たる部分に、ドアらしきものが見あたらないことだ。

「……ね。どこまで行くのかしらね、これ」

 そう言って少年の方を見つめるも、彼は肩をすくめて首を振るばかりだ。見上げてもどこまで続いているのかわからない、そんな高さを、ワイヤーを伝って登るなんてのは無茶な話だろう。でもなぜだろう、気になって仕方がない。思えば昔からそうだった、フレイラはこういう不可思議なものを見ると、どうしても首を突っ込みたくなってしまう性分だった。どこまで続くかしれない暗闇を、ただうずうずと見上げるうちに、隣から妙な声がする。

「あ」

 少年の嘆息。声の方を振り返ると、ガラスの向こうに広がる夜景が見える。私には珍しくもないけれど、と思ううちに、ガラスの表面の『それ』に気が付いた。

「雨、かしら」

 ガラスを伝う、一筋のしずく。それが二筋、三筋と、幾重にも増える。雨粒はあっという間にガラスを覆い、その向こうに見える、ネオンの輝きをぼやけさせた。

 なんか、と、まるで溜息のように少年が呟く。なによ、とその先を促すも、少年はガラスの向こうを見つめるばかり。心ここにあらず、といった風情で、ほとんど独り言のように、やっと呟く。

「夜景。ぼやけてる方が、綺麗な気がする」

 ――十戒の一、相手の言葉には必ず同意し、こまめに相槌を打つこと。

 思わず、その通りに行動してしまうところだった。

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