Chapter.19 『ブラスクラム 西地区スラム住人 ユエン・マキシマの場合』

 ――人の気配がある。

 扉を破る前からそれはわかっていた。しかし予想に反して、室内は暗い。だがユエンが暗闇に目をらすよりも早く、その不可解な音が鼓膜に響く。

「あーあーあーあーあーあーあー」

 女性の声。聞こえた方に目を向けると、ソファの上にスーツ姿らしい女性の影が見えた。コーヒーカップを載せたテーブルを前に、なにやら耳を押さえ目を閉じてしきりにあーあー唸っている。部屋の明かりまで消して一体なんの儀式だろう、と思うユエンの背筋に、しかしその瞬間、冷たいものが走る。

 ――口笛の音。

 いやに呑気なそのメロディが、扉の下から――より正確には扉の破片の下から聞こえてくる。咄嗟とっさに警戒した瞬間、今度は奥のデスクの電話が鳴った。あちこちからてんでバラバラに音がする。うるさい、とは思えどしかし状況が状況、そんなことを言っている場合ではない。そうこうするうちに扉の瓦礫がれきが動いて、その下から姿を現す、ひとりの男。

 仕立ての良いスーツに真紅のアスコットタイ。上等な身なりに加えて、埃を手で払うその動作にもどこか気品を感じさせるものがある。それに整った目鼻立ち、上品なその顔つきに、ユエンはすぐさま確信した。顔までは知らないけれど、でも状況からして、もう間違いない。

「クレッセリア財閥総帥、コルドナ・ファッテンブルグ! その場を動かないで!」

 突きつけた銃口は、しかしあまり効果があったようには思えない。男は口笛を止めると、すぐにユエンに向き直った。その顔には、余裕さえ含んだ、微笑。

「おや、これは。可憐な淑女レディが、なんとおふたりもお迎えに来てくださるだなんて。光栄ですね、これに勝る喜びなどないというもの」

 ふざけないで、本当に撃つから――という威嚇にさえ、この男はまるでひるまない。電話の呼び出し音やあーあーという呪文さえも意に介さず、ただ楽しそうに笑うその男。

「それがお望みとあらば仕方ありません。ですが、おふざけが過ぎるのはどうやら貴女のようだ。貴女のその美しい指には、そんな無骨なアクセサリーは似合わない。たとえそれが――玩具おもちゃの銀玉鉄砲であろうとも、ね」

 あーあーという声がうるさくて聞こえづらかったものの、でも見抜かれた、ということはユエンにも理解できた。

「どうして、銃が偽物だって……」

 なんですか、と首を傾げるその男。電話とあーあーのせいでよく聞こえなかったらしい。もう一度大きな声で言い直す。

「な・ん・で! に・せ・も・の・だ・っ・て、わ・か・っ・た・の!」

「簡単なことです。銃があるなら、扉の鍵を解除するのにわざわざ粉々に爆破する必要は」

「え? き・こ・え・な・い! も・っ・と、お・お・ご・え・で!」

「で・す・か・ら! じゅ・う・が・あ・る・な・ら・で・す・ね!」

 大声で言い合うユエンの隣を、無言のまま通り過ぎる人影。エイミーだ、と思ったそのときには、すでに彼女は奥のデスクの前にいた。なにをする気、なんて聞くよりも早く。

 彼女は電話機を持ち上げて、そのモジュラージャックを力任せに引っこ抜く。そのまま電話機を壁に叩きつけ、すぐさま振り返り、今度は応接テーブルへ。出されたままのコーヒーカップを拾い上げた、その次の瞬間。

「あ」「あ」

 ユエンと、男の声が重なる。

 あーあーという声が止んだのは、その声の主が、冷めたコーヒーを頭から浴びせられたからだ。唖然とするその秘書らしき女性に向かって、エイミーは無表情のまま、しかしはっきりとした重い声色で、ひとこと。

「うるさい」

 その言葉に逆らえるものなんて、もう誰もいない。ただとりあえず、ひとつだけはっきりとわかったことは――。

 普段おとなしい子ほど、怒るとどうなるかわからない。

「はい。続きをどうぞ」

 だなんて、腕を組んで仁王立ちのままそんなこと言われても困る。「えっと、その」と、なんかどうも調子が出ない。目の前のこの男もそれは同じなのだろう、一瞬口笛を吹くようなそぶりを見せたあと、

「あの。とりあえず、照明でも点けませんか。こんな暗いところで立ち話もなんですし」

 と、まるでエイミーに許可を求めるようにそう呟く。彼女が「そうですね」と頷いたので、とりあえず部屋の入り口に一番近い、ユエンが壁のスイッチに手を伸ばす。

 あれ、と思わずそう呟く。部屋に響いたのは、かちゃかちゃという音だけだ。

「点かない、みたいだけど」

 そう言って振り返る、ユエンが目にしたのは。ソファから立ち上がり、首を傾げながらデスクへと向かう、例の秘書らしき女性の姿。

「停電ですね」

 確かにその通りかもしれない。でも、腑に落ちないことがひとつだけある。窓の外から見える景色、そこに輝くネオンは、普段のそれと変わらない。どうして、と言いかける、ユエンの言葉を、例の男が遮る。

「急いだ方がいいかもしれない。自慢じゃないが、よく当たるんだ――僕のイヤな予感は」

 その言葉に反論するものは、誰もいない。おそらく全員が同じ予感を覚えていたのだろう。

 結果。全員でデスクの側へと集まり、まず最初に行ったことは、情報の整理。すなわち――。

「えっと、ユエン・マキシマ、十五歳です。西地区スラムの外れに住んでいて、今日は抵抗勢力レジスタンスのお手伝いというか、その場の流れで――」

 自己紹介、だった。

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