Chapter.17 『抵抗勢力 リーダー エイジ・シャンドンの場合』

 犬を見た。

 そうとしか思えなかった。エイジは、自分の襟首を掴み上げる彼、どうやら社長らしい涙目のスーツ男の背後に、突如ガラスの破片がきらめくのを見た。

 例えば、給水塔のあたりでよく見るような、野犬。それが飛び込んできたんだと、エイジにはそうとしか思えなかった。

 入り口の強化ガラス製ドア、それが砕け散る音に、ロビーにいた全員が振り返る。エイジの襟首を掴んでいた男も例外ではなかった。長いロビーを突っ切って、一直線に飛んでくる野犬のようなもの。しかしそこにはためくコートの裾。あれ、もしかして人間かも、とエイジが思った瞬間。

 掴まれていた襟首を解放され、エイジはその場にへたり込む。目の前には社長男の背中がある、両手を大きく広げ、突っ込んでくる野犬人間を待ち構えるような姿勢で、一言。

「まさかこんなところで出逢えるとは、やはりこういうのを運め」

 い、と、その最後の音が裏返る。あるいは詰まったというかくぐもったというか、とにかく人間の喉から出たとは思えないような声がして、その社長はその場に立ち尽くしていた。一秒ほどの間のあと、それが音もなくくずおれる。両手で股間を押さえ、亀のようにうずくまる社長。その向こうから姿を現したのは、まるで想像だにしなかったものだった。

「――キミ、大丈夫?」

 囁くようなその声は、しかしどこから響いたのか。エイジにはもう、そんなことを考える余裕はない。目の前の人物を形容する、そのための言葉が見つからないのだ。ひとことで言うなら、野犬。それを頭に載せた女性に見える。しかしその身にまとったコートはどこまでも薄汚くヨレヨレのボロボロで、とても女性の好む服装とは思えない。しかしそんなことはいずれも些細な問題、それよりなにより、エイジの視線を捉えて離さないのは、ただひとつ。

 無造作に開かれたブラウスの胸元。そこから覗く、薄紫色のレース模様。そして、その向こうに隠された、まだ見ぬ魅惑と禁断の双丘。そう、それはまさしく――。


「おっぱい」


 思わずそう口走ってしまうほどに、白くて柔らかそうで形が良くて肌がきめ細かくてハリとツヤがあって心なしか甘い匂いさえ漂わせるふくよかで豊満たる魅惑の小宇宙。それは女体美の奇跡でありヒトという種の真理をその内に内包する儚くも美しい哲学フィロソフィそのものなのだ、とエイジは思った。というかおっぱいだ、と、もうそれしか頭になくなった。こんなの初めてだ、目の前におっぱいが、手を伸ばせば届くその位置に、人生初のライブおっぱいが――と、そう思うと、もうまともに何かを考えることもできなくなるくらい、それはおっぱいだった。

「混乱してるのね。でも大丈夫、爆弾魔はいま私が成敗して――」

 そこで言葉を切る、おっぱいのひと。理由は考えるまでもなかった、すぐ背後の入り口に、警備兵が殺到しているのだ。ロビーに這いつくばっていた他の社員が、よろよろと起き上がるようにしながら声を張り上げる。

「よくも、よくも社長の、ち――大事なところを……お前、その少年の仲間か!」

 勢いよく振り返るおっぱいのひとの、そのおっぱいが小さく揺れる。ぷるん、と、そうアテレコしてしまいたくなるくらい綺麗に揺れる。エイジの脳内に審議の赤ランプが灯り、その光景が何度もスロー再生された。ぷるん。巻き戻してもう一回、ぷるん。エンドレスリピート・オブ・ザ・ぷるん――それはまさしく至福の極地。その恍惚と、そして尽きることのない多幸感ユーフォリア。しかし愚かなるかな、人の欲望には果てがない。普段隠されているものなら、見たくなる。そして見てしまえば、次には触れたいと感じる。その欲望を充足させる、その過程がこの歴史に何を生んできたか。それこそが、人間ヒトを狂わすのだと、ついにエイジは学ぶ。

「誰が立ち上がっていいなんて言った? あんたは寝てろ! こっち見んな、見ると減る!」

 爆弾はまだ手元にある。である以上、この脅しに逆らえる人間などいるはずもなかった。ロビーの社員らは再び床に伏せ、入り口の警備兵が少しばかりひるむ。だが当然のこと、それだけで保つような状況では、すでに、ない。対峙する数多の警備兵の、そのうち誰かひとりでも発砲したなら、終わりだ。

 先程までの膠着は破られた。だがしかし、エイジに後悔はない。そもこれはもとより破られるべき膠着であり、もし仮にそれが永遠に続くとしても、自らがその現状に充足感を覚えそれに甘んじるとするならば、それは一種の思考停止でありつまりはありがちな没進化論的トートロジーの類型としての価値以外にその意味を成し得ず、またそれは物質的実証的に評するのであれば自我エゴ・自意識の敗北に他ならない。つまり前進なき者は〝死せるモノ〟と本質的に同義であり、それこそが人間社会の理あるいは大前提でありまたいささか早急に過ぎるこの街の倫理・価値観・ないしルールとでもいうべきその薄っぺらい『約束ルール』、つまり行き過ぎて退廃した――これは一種の自己崩壊、死=タナトスの形として見て取れる――その特異なシヴィライゼーションの無価値性を表すいわば一種の『悪徳』なのである。だがそこに突如として生じた、いや生じざるを得なかった革命的ブレイクスルー、停滞に一刃の牙を突き立てた『概念=存在』がヒトの原点にして母性の象徴たる『それ』であったことは、まさしく当然の帰結と呼ぶべき歴史の趨勢に違いなく、この事実を前にしては如何なる種類の言葉であれごく僅かにさえもその価値を持ち得ない、とエイジは思う。つまり、おっぱいだ。もうそれ以外に考えるべきことなんてなかった。そしてそれを後悔しない覚悟も、少なくともその瞬間のエイジは、必要以上に持っていた。

「ここはもう駄目だ、逃げよう!」

 手を引いて思い切り駆け出す、そんな行動は初めてのことだった。いつも手を引かれてばかりの、その状況が逆になっただけで、見える景色はまるで別物のようだった。右手に爆弾、そして左手には確かな温もり。力とおっぱい――全てを手にした、エイジはそんな錯覚すら覚えた。奥のエレベータに駆け込むと、すぐさま『閉』のボタンを叩く。どこへ向かうかなんて考えてもいなかった。ただ遠くへ、ひたすら上へ。このエレベータで向かえる最上層、四十五階のボタンを押したのは、ただそれだけのことだ。

「ちょっ、キミ、向かう方向が逆でしょ! ちゃんとおうちに帰らないと、お母さんが――」

 その抗議はもっともかもしれない。事実ついさっきまで、エイジ自身帰りたいと思っていた。しかしどのみち、あれだけ完全に封鎖された正面出入り口から出ることは不可能だ。そもそももう、無事に帰れる身の上じゃない。抵抗勢力レジスタンスのリーダーとして、これだけの騒ぎを起こしてしまったのだ。必死で説明すればわかってもらえるかも、だなんて、今はもうそんなことは考えない。あの大勢の警備兵、そしてその殺気立った視線に触れて、目が覚めた。無事では済まない、だとすればもう、答えは、ひとつだ。

オレ、さ。今夜はもう、帰る気――ないから」

 できる限りの真剣な表情で、ニヒルに決めた、そのつもりだったのに。

「――バカ! この、恩知らず! 親不孝者!」

 頬が熱いのは、もう間違いない。

 彼女の平手ビンタは、ユエンの拳と同じくらい、痛かった。

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