Chapter.16 『国際警察機構 捜査官 キース・クーパーの場合』

 ――近い。

 それが最初の感想だった。タブレットPCに映し出された地図、そこに灯る赤い印は停止したままだ。移動はしていない。それもこのカジノのすぐ近く、財閥本社ビルの前付近にいる。

 あの男、放っておくとどこへ行くかわからない。そう思い取り付けておいた発信器が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。仕掛けるのは簡単だった、よほど気に入っているのだろう、バードマンはいつも同じコートしか着ないのだからそこに仕込めば他は必要ない。

 ヤツが今、何をしているのかはわからない。だが――と、キースは胸の銃に指を伸ばす。

 上司を相手にこんなものを使う、そんなつもりは当然、ない。そんなに。だがこの冷たい銃把グリップに触れる度、キースは自分が警察官であることを思い出す。避けられない戦い、そして戻れない道を前にしたとき、彼はいつもこの銃に触れ、そして自分の覚悟を確かめる。

 ――なんとしても、止める。あの男に余計なことをさせるわけにはいかない。いまこの身には様々なものがかかっている。警察の威信が、世界の平和が、この国の未来が、自分の将来が、ものすごい出世が、常夏リゾートと銀幕美人が、つまりは金と栄誉と権力とが、今かとばかりに待っているのだ。

 タブレットPCを脇に抱え、本社ビルへと向けて歩き出す。さてあのやかましい田舎者を、一体どうやっておとなしくさせるか。そのことだけに意識を傾け、素早く思索を巡らせる。国際警察機構エスポールでも一、二を争うとさえ言われる、キースの頭脳。その思考は、しかし思いもしない妨害によって中断された。

 耳を裂くような、爆音。すぐ隣の自動車だ、と理解するよりも早く。

 真横に飛び退き銃を抜く。爆発の寸前、確かに聞こえたその原因の音。銃声――狙撃か、と植え込みの脇に身を隠す。炎に照らされた夜の空、そこを見上げるようにうかがった瞬間、キースの背筋が凍り付いた。

 ――飛んでいる。

 鳥ではない。まして飛行機であろうはずがない。人間、それもごく見慣れた、このヨレヨレのロングコート。バードマン主任だ、などとはどうしても思えない。いくら警察官でも空までは飛べないからだ。強いて言うなら、鳥人間か――と、いつもは冷静であるはずの思考でさえ、この動揺の影響は免れ得ない。

 爆発に気をとられていた警備兵の群れ、その真ん中に着地する鳥人間。息つく暇さえもなく、その勢いのまま即座に駆け出す。対応できずにいる警備兵の間を縫うように走る、その速度はやはり人間のそれではない。強いて言うなら、犬人間――本社ビルに向かうそれが何者なのか。その判断はもう、後回しにするより他になかった。

「何してる! そいつを捉えろ!」

 いつもの癖でそう怒鳴ったものの、しかしよく考えたらこの警備兵たちはキースの部下でもなんでもない。しかしようやく状況に気づいたのか、彼らはそのコートの影を振り返ると――たぶんいつもの癖なのだろう、キースに言われるがまま、それを取り押さえるべく動き出した。

 飛びかかる屈強な男たち。しかしそれをものともせず、考えられないスピードで駆け抜ける人影。あんなものは人間ではない、人間の範疇に含めてはいけない脚力だ。だがこの際、あれが何であるかはどうでもいい。銃を構え、精一杯の声で警告する。

「そこの貧乏くさいゴミ同然の小汚いコート、止まれ! 止まらなければ――」

 その人影が、小さくこちらを窺う。目深まぶかに被った中折れ帽のせいか、キースにはその顔までは見えなかった。しかし、かろうじて覗いたその口元が――一体、どういう理由だろうか。

 薄く笑うように、動く。

 キースの頭に血が上った。

 銃声。その正確な射撃は、まるで魔法のように警備兵の群れをすり抜けた。ただ一点、キースの予想を上回ったのは、その脚力。発砲と同時に身をかがめ、さらに加速する人影。着弾するはずの地点を外されて、ギリギリ中折れ帽だけをかすめて弾いた銃弾。それはそのまま真っ直ぐに飛翔を続け、やがては別のところへと着弾する。

 穴が空き、そしてヒビが入ったのは、本社ビル入り口の強化ガラス製ドア。

 舌打ちをすることさえも忘れた、そのキースの脳内に計算が閃く。あの速度で駆ける人間にとって、被弾して強度の落ちたガラスを蹴破るのは――。

 決して困難なことでは、ないはずだ。

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