Chapter.15 『国際警察機構 主任捜査官 E.E.バードマンの場合』
間違いなく切れた、とバードマンは思った。
確証はなくとも大体わかる。脳の中の決して切れてはいけない血管が、もう二、三本どころではない勢いで破れたはずだ。でなければこんなに目眩や耳鳴りなどするはずもないし、心臓が通常の約三倍の速度で脈打つのもおかしい。汗だくの全身は鉛のように重く、そして呼吸は一向に整う気配を見せなかった。とにかく、苦しい。
バードマンは地面に寝転がったまま、徐々に意識が薄れていくのを感じた。遠くに綺麗なお花畑が見えて、そこにはすでに亡くなったはずの祖母がいた。懐かしいな、と思った瞬間に、数々の思い出が脳裏を駆け巡る。おやもしかしてこれは、とそう思った瞬間、優しかったはずの祖母の表情が一変した。手前にある大きな川を一足飛びに越えて、あり得ない速度で真っ直ぐ突っ込んでくる。どこから取り出したのか、両の手に振りかざした一見鈍器のようなそれは、巨大な走馬燈のような何か。
――いかん。これは完全に「これから死にますよ」的な流れだ。
こんなにわかりやすい涅槃もそうそうないが、しかし冷静に考えて、いまは死んでいる場合ではない。バードマンにも警察官としての意地と誇りがある、泥棒を追っかけている最中にとりあえず死んでみました、などと、どの面下げて上長に報告しろというのか。最悪は懲戒免職、良くても二階級特進がせいぜいだ――と必死で説明を試みるものの、しかし祖母はまったく聞くそぶりを見せない。しまいにはバードマンの半生を年表形式で綴りはじめる始末である。
さてどうしたものか、と思案しつつ川を渡っていると、突如頭上から声が響く。
「ちょっとあんた、いつまで呑気に寝てる気?」
少しぼやけて聞こえるが、どうやらあの
やだやだ死にたくないもん、と、そう叫んだ瞬間に、バードマンは跳ね起きていた。
「声が大きい!」
と大声が聞こえたので振り返ると、隣にはどうやらあの犬頭女らしき女がいた。らしき、というのはその格好が、少しバードマンの記憶と違っていたからだ。全身を覆うようなヨレヨレの茶色いコートには見覚えがある。それわしの、と言いかけたところを、彼女が目で遮る。
「やめてよね、ちょっと走ったくらいで呼吸停止とか。結構長かったけど、後遺症とか大丈夫? 私たちがいま何をしてたか、思い出せる?」
確か迷子の少年を捜しとったはずだ、と言うと、満足げに犬頭女が頷く。
「で、今はその少年を見つけたところよ。そっと覗いてみなさい、気取られないようにね」
ビルの中にいるってことか、と言うと、目悪いのね、と返事が返る。
「私には見えるわよ、ロビーの真ん中にそれらしき少年。スーツの男と何か言い合ってるみたいで、どうも緊急事態らしいわ。ロビーの他の人間、全員床に這いつくばってるでしょ」
それはどうにか見ることができた。そしてなぜそうなっているのかは、もう説明されずとも予想がついた。ロビー周辺の警備兵らが無線でしきりに叫んでいる。立て
「なるほど。人質、ってことだな」
「ええ。それもあんな子供まで盾にとって。とても許せることじゃない――そうは思わない? 警察官として」
そんなことは受付嬢風情に言われるまでもないが、しかし人質を取られている以上は迂闊に手出しはできない。というよりも、バードマンはランバーンを捕まえに来たのであって、よく考えたらこんなことに関わり合いになる筋合いはない。それにいっぱい走って疲れたしあとおなか空いた。と、そう考えたがしかしそんなことを言えばこの犬頭女は烈火のごとく怒り狂うだろう。バードマンは少し考えて、それとはまったく別の、しかしずっと気になっていたことを訊ねてみた。
「で、それはいいとして。お前、なんでわしのコートを着とるんだ」
お前じゃなくてフレイラよ、と、どうでもいい点を前置きする女。
「あそこ、私の仕事場なのよ。つまり面が割れてるの。このままの格好で突入するわけにはいかないでしょ」
代わりに私のベストあげたからいいでしょ、とか、そういう問題ではない。なんか服がきついと思ったらそういうことか、などと言っている場合でもなかった。
――今、この女は確かに「突入」と言った。
人質を取られているんだぞ、などという理屈は、どうやら通用しそうにない。
「あのね。実は私、業務時間中に抜け出してきたの。戻らないわけにはいかないし、それにあそこには私の同僚もいるの。この状況、黙って見てろって言うわけ?」
中折れ帽を目深に
「あんた、銃は使えるのよね。危なくなったら助けてよ。そうだ、さっきもちょっと言ったけど、ご褒美あげるから」
いつの間にか着せられていた、受付の制服らしき薄緑のベスト。その右ポケットを
わっ、という喚声に振り返る。今度はバードマンにもはっきりと見えた。ロビーの中央、例の爆弾魔らしきスーツの男が、少年の襟首を掴んでいる。状況こそよくわからないものの、でもその光景だけで充分だ。長年の捜査官の勘が、バードマンの脳内に警鐘を鳴らす。
――こいつはもう、いつ〝ドカン〟と来てもおかしくない。
「考えている暇はもうないわ! 突入する! 援護、頼むわよ!」
その声を聞いて理解するよりも早く、バードマンの右手が無意識のうちに動く。一連の動作はもうとうの昔に、体が覚えてくれていた。そもそも西部劇の保安官に憧れてこの職に就いたのだ、早撃ちには絶対の自信があった。例えば
轟く、銃声。
脇の下の位置、内側から生地を貫通して、銃弾が飛び出す。左腕を上げていたのは幸運だった。思いもしない方向へと銃弾が飛んで、そしてそれはバードマンの斜め後ろ、停車していた自動車のボンネットに――それもどうやらエンジンのど真ん中に、炸裂した。
閃光と、爆発音。
本社前の警備兵達が振り返る。彼らの視線を集めたのは、しかし炎上する自動車とは別のもの。
――これは、そう、風だった。
警備兵達に、そしてバードマンにもそう思わせたそれは、言うまでもない。
植え込みの上を凄まじい速度で飛翔する、見慣れた茶色のロングコート――すなわち、フレイラだった。
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