Chapter.09 『クレッセリア財閥本社 秘書課社長付秘書 ファナミリア・エメントの場合』

 こういう肝心なときに限ってあの社長アホはいないのだから困る。

 ファナは忙殺されていた。まさしく目の回るような忙しさだ。ランバーン対策として緊急に警備シフトを組み替えたばかりだというのに、この突然の爆破テロ騒ぎ。現場の警備兵たちは随分と混乱しているらしく、それをまとめ上げるだけでも一仕事だ。社長命令として各部署に通達を出し、今後事件がどう展開しようと即座に対応できるだけの体制を敷いた。随分と社内を駆け回る羽目になったけれど、これでどうにか各部署ごとに対応してくれるだろう。

 あとは、迷子の社長を捜すだけ。ただ正直なところ、これが一番骨の折れる仕事だった。というか、もう単純に面倒くさい。会社の緊急事態のために残業するのは仕方がないにしても、あの社長の間抜けのために残業してやるようなお人好しなんてこの世にはいない。もういっそのこと帰って寝ようか、きっと「忘れてましたごめんなさい」でなんとかなるだろう――。

「え、ええと。なんでしょうか?」

 不意に聞こえたその言葉に、ファナは思わず顔を上げた。若い受付嬢が困惑の表情でこちらを見つめている。どうやらまた考えていたことを呟いてしまったらしく、そしてこの受付嬢――名札にはエイミー・ヒューレルとある――は、その言葉を自分へのものとして受け取ったらしい。ファナは小さく溜息をついた。もう帰るべくロビーを通り過ぎようとしていたところだったけれど、しかしこのまま通り過ぎるのもこの受付嬢に悪い気がした。ファナは少し考えて、口を開く。

「失礼、社長を見かけませんでしたか」

「いえ……ただこちらに、社長を名乗るイタズラ電話ならありましたけど」

 イタズラ電話。その意外な返事に、ファナは少しだけ興味を引かれた。それに、あの社長ならやりかねない。ファナはその電話について尋ねた。

「それが、とにかく文句ばかりで……バカとか貧乏人とか。あと、フレイラ先輩を出せって」

「それで、取り次いだのですか」

「そうしようと思ったんですけど、そのとき先輩はもう飛んでいて、それがもう、ものすごいスピードで」

 あれは、そう、風でした――と、その受付嬢は遠い目をした。

 なにを言っているのかさっぱりわからないけれど、もしかしたら彼女にもわからないのかもしれない。いやきっとわからないに違いない、でないとわざわざ社長を捜しに行く羽目になってしまうのだから、ここはわからないということにして帰るしかない。彼女の「そんな」という声が聞こえたけれど、ここは黙殺の一手だ。

「でしたら問題ありません。お疲れ様でした、私は先に失礼しますので」

 そう早口に告げて過ぎ去ろうとしたところに、突然巨大な影が割って入った。

「ワタシ、シャチョサン、見ました。それはつい先ほどのことで、そしてトムは大いに喜ぶでしょう」

 それは大きくて黒くて見覚えのない男だったが、着ている服から察するに警備兵だった。名札がついていないのは配属されて間もないせいだろうか。というよりも、そもこの国に来て間もないという感じがするが、しかしファナにとってそんなことは最早どうでもよかった。まさか言うに事欠いて「社長を見た」とは。この男、余計なことを――。

「スミマセン」

「いえ、仕方ありません。仕事ですので。で、見かけたのはどちらですか」

 その言葉に警備兵が歩き出す。カモン、と言うのでついて行くと、彼は真っ直ぐにロビー奥のエレベーターへと乗り込んだ。続いてファナが乗り込むと、その警備兵はドアの『閉』ボタンを押して、それから迷うことなく『45』と書かれたボタンを叩いた。このエレベーターで移動できる最上の階であり、そして社長室のあるフロアでもある。ファナは眉をひそめた。

「……そういえば、お名前を伺っておりませんでしたが」

「ワタシですか? ワタシは、えーと、ボブでしょう」

「そうですか。それではボブさん、もうひとつお聞きしてよろしいですか」

 そう問いかけながらファナが思うのは、いつになく自分が迂闊であったということだ。早く帰りたいという一心に囚われすぎて、気づくのが少し遅かった。この社の警備兵は通常、フロアごとに警備を任されている。ロビーにいたこのボブという男が、仮に社長を見かけたとして、なぜエレベーターで別の階に向かうのか。可能性があるとすれば、それは――。

「……やはり貴女を選んで正解でした。随分と聡明な方のようだ、話が早い」

 今までずっと押し黙ったままファナの呟きを聞いていた、その警備兵が振り返る。

「最初にお断りしておきます。僕は貴女になにかを無理強いする気はありません。どうしても帰りたいというのであればそうしてもらって構いませんし、通報するというならそれでも結構。なにぶん淑女レディの意志は尊重する主義でして――こう見えても一応、紳士で通っているんですよ、僕は」

 取りようによっては脅しと取れなくもない言葉だが、しかしきっと本心だろう。ファナがそう思ったのは、この男――すなわちランバーンについての噂を随分と聞いていたからだった。

「ええと、社長付秘書のファナミリアさん、ですよね。確かこの会社の実権は、実際には貴女が握っておられるとか……?」

 別にそんなつもりはないのだけれど、しかし社長がろくすっぽ仕事をしない分、その代わりに働いているのは事実だった。

「結構。では単刀直入にお聞きします。一体『三日月』の正体とは?」

 三日月。その言葉を耳にした瞬間、ファナは動揺を抑えきれなかった。

 ――この男、まさか何も知らないだなんて。

 なんだか必死に「いえ知っています知ってますけどでも念のため確認というか」なんて言ってはいるけれど、でもこの慌てようを見る限りこの男は明らかに何も知らない。自分で盗むとか言っておきながら何を盗むかさえわかっちゃいなかったのだ。つまりバカだ。この男は少し脳の具合が残念な子なのだ。正直な感想を言うなら、さすがに失望を禁じ得ない。がっかりだ。なんかもう台無しだ。例えるならクリスマスのプレゼント交換会で運良く手に入れた一番大きな箱の中身が木彫りの熊だったとき並の微妙さ加減だ。少しばかりこの男を買いかぶりすぎていたようだ、まったくもって残念でならない。正直なところ、彼が『三日月』を盗み出し、その正体を白日の下に晒すのを、内心楽しみにしていた部分もあったというのに――。

「……え? ファナミリアさん、まさか貴女も知らないんですか」

 しまった、と思ったときにはすでに遅かった。やはり考え事を呟く癖は直すべきだ、とファナは思った。とりあえず「失礼な、あなたよりは知っています」と誤魔化ごまかしてみたものの、しかし言うまでもなくそれは真っ赤な嘘だ。

「そうですか……参りましたね、それは計算外でした」

 彼が肩をすくめるのと同時に、エレベーターのドアが開いた。なにやら「レディーファーストです」とかなんとか言って一向に降りようとしないので、ファナはとりあえず先に降りることにした。絨毯の敷かれた廊下を歩き出すと、彼が後ろからついてくる。呑気に口笛まで吹いて、一体なにを考えているのか――ファナは思い切って聞いてみることにした。

「それで、あなたの思惑は見事に外れたようですが。これから、どうなさるおつもりでしょうか」

 背後から響いたのはいたって呑気な、そして予想だにしなかった言葉だった。

「うーん。正直、盗むつもりはなかったんですけれど。そもそも予告状出したの、僕じゃありませんし」

 予告状を出したのは、彼――ランバーンではない?

「ちょっと噂を確かめるだけのつもりでしたが……でも、少し興味が出てきました。貴女も知らないほどの、そして噂によれば『世界で最も美しい宝』。美術品かあるいは、宝石あたりでしょうかね。ファナミリアさん、貴女はどう思われます?」

 どう思われるか、と聞かれても、まったくもって想像もつかない。ファナは足を止め隣を振り向いた。必要以上に重厚な両開きの扉は、何度も出入りしている社長室のものだ。胸ポケットからIDカードを取り出して、壁の認証装置にそれをかざす。

 ファナはまだ迷っていた。この男、国際指名手配犯である大怪盗を、一体どうするべきなのか。うまいこと追っ払えばいいのか、それとも足止めしておいた方がいいのか――横目にちらりと覗き見ると、彼は相変わらずの呑気さで、というよりも、大胆不敵にも微笑んでみせた。

「単刀直入に言いましょう。取り引き、といいますか、できれば貴女のお力をお借りしたい。三日月の正体を探るにしても、僕ひとりではどうも厳しそうだ。この財閥を統括する立場にある貴女にお手伝いいただけたら、大変手間が省けて助かるのですが」

 その言葉に、ファナはドアノブへと視線を落とした。手をかけながら、少し考えて、尋ねる。

取り引きビジネス、ですか。であれば、その報酬は?」

「もし三日月が宝石や貴金属の類であれば、の話ですが。もしそうなら、この僕がそんなものを持っていたところで仕方ありません。宝石なんてものは、それにふさわしい女性とともにあってこそ意味を成すものですからね――もっとも、貴女のような美しい方に所有されては、かの『三日月』の輝きもおぼろになってしまうかもしれませんが」

 ランバーンが言い終えるのを待たず、ファナは樫材のドアを開いた。奥の壁一面、ガラス張りの窓から、月光が降り注いでいる。部屋一面を青白く染め上げる、三日月の光。見慣れたはずの社長室が、なぜだか異空間のように感じられた。

 怪盗は『三日月』を渡すと言った。しかしそれではまったく取り引きにならない。会社から盗まれたものを、どうしてその社員が持っていることができるだろうか。ファナは溜息をつきながら、社長室の中へと足を踏み入れた。室内灯を点けることもせず、ただ真っ直ぐに壁際のサイドボードへと向かう。電気ポットのスイッチを入れ、盆の上にコーヒーカップやらソーサーやらを準備しながら――入り口に佇むランバーンに、振り返りながらひとこと。

「私には『三日月』は不要です。宝石などといったものは、身につける機会がありませんので」

 それは勿体ない、と、まるで宝石商かなにかのような返答。

「ではその機会も併せて、というのはどうです。そうですね、とっておきのシャンパンをご馳走させていただきますよ。もっとも、盗品ではありますけど、ね」

 満面の笑顔で両手を広げる、どこか飄々としたその姿。どこまで本気なのだろう――という呟きに、「僕は泥棒ですが、詐欺師ではありませんよ」と困り顔の怪盗。思わず吹き出しそうになるのを堪えて、ファナは口を開く。答えはもう、決まっていた。

「悪くないお話です。ですが、それは結構です。ただ、『ブラスクラムの三日月』――その正体には、私も興味があります」

 よろしければこちらで詳しくお話を――そう誘いかけたところでようやく、ランバーンが室内へと身を乗り出した。

「交渉成立、ですね。やはり貴女を選んで正解でした。話が早い」

 そう言うなり、彼は、自分の首元へと手をかけた。いったい何を、と思うと同時に、ファナはひとつの噂を思い出す。確か、怪盗紳士ランバーンは変装の達人。はたして彼は予想通り、自分の顔を、あるいは顔の〝皮〟をとでも言うべきか、とにかくマスクのようなそれを一気に脱ぎ捨てる。そしてその下から現れたその素顔に、ファナは一瞬、目を奪われた。

 ――なるほど。犯罪者でありながら、紳士だなんてもてはやされるのもわかる気がする。

「いや、ええと。お褒めにあずかり光栄です」

 またやってしまった、例の呟き癖だ。でも今度はそう悪い気分ではなかった。そのランバーンの言葉に、そしてどこか本気で照れくさそうにしているところに、なんとなく愉快な気分になるのをファナは感じた。この男、意外と俗っぽいところもあるのだな、とファナは微笑んで――そして改めて、世紀の大怪盗へと向き直った。その顔にはもう、笑みはない。

「では、始めましょうか。仕事ビジネスの話を」

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