Chapter.07 『国際警察機構 主任捜査官 E.E.バードマンの場合』

 わしは腹が減った。と、バードマンは文句をたれる。

 答えるものはいなかった。当然のこと、キースと別行動を取ってからもう随分と経つ。いや別行動というよりは、はぐれたというのが正確か。昼食のために向かったレストランで、バードマンは入店を拒否された。誠に申し訳ございませんがお客様のその服装は当店において云々とかなんとか、小生意気な給仕ウエイターにケチをつけられたのだ。普段なら相棒のキースに任せるところなのだが、しかしそのキースは「念のため危険人物がいないか確認する」と一足先に入店していたのだからそれも叶わない。仕方がないので無理に通ろうとして、ついでに「捜査の邪魔をするなら逮捕だ」と怒鳴ってやったところ、奥からガタイの良い黒ずくめの男たちが現れた。力ずくで放り出されたバードマンは、あてもなくブラスクラムの街を彷徨さまよっていた。

 キースはいまどこにおるのか、とバードマンは考えた。何度か携帯電話にかけてみたが、しかしどういうわけかキースは出ない。したがって状況はわからないが、まさかあれからずっとあのレストランにいるわけでもあるまい。ひょっとしたら何かあったのかもしれん、もしやわしのいない間にランバーンと接触したか――などと考えると、居ても立ってもいられなくなる。

 ランバーンに手錠をかけるのはわしの役目だ、たとえ相棒のキースであってもそればかりは譲れん、と、バードマンは繰り返し電話でキースを呼び出そうとした。結局キースは呼び出しに応じないまま、携帯電話の電池バッテリーだけが切れるという結果に終わった。いつのまにか、日はとっぷりと暮れている。

 昼食は結局食べ損ねた。バードマンは財布を持っていなかった。いつも辺境ばかりを飛び回っていたおかげで、現金を持ち歩くということをすっかり忘れていた。それに、会計(といっても全て捜査費用として計上するのだが)は全てキースの役割だった。レストランを追い出されてから口にしたものといえば、せいぜい屋台のホットドッグ五つ程度だ。カジノで出会った変なヒゲの男に、捜査協力という名目で無理矢理おごらせたのだが、無論その程度で足りるわけがない。捜査の基本は足である、そして歩けば歩いただけ腹が減るのは自然の摂理だ。今までキースを捜して歩きづめなのだから、夕食時であるこの時間に腹の減らないはずがなかった。

 かたわらの鉄柱に、力なく背を預ける。なんとはなしに見上げると、それはすっかり錆びきった給水塔のようだった。使われている様子はまるでなく、周囲はゴミや瓦礫で散らかりきっている。どうやらスラムにまで来てしまったらしかった。まさかこんなところにキースがいるとも思えない。腹立ち紛れにもう一度、バードマンは愚痴をこぼす――いや、怒鳴る。

「わしは、腹が減った。腹が減ったぞ!」

 当然、返事はない――と思っていたのに、見事に答える声がしたのでバードマンは驚いた。それが自分の真横から聞こえ、なおかつ人の声ではなかったので余計驚いた。咄嗟に横目で確認し、そして同時にバードマンは駆け出した。暗闇のせいではっきりとは見えないが、しかし素早くこちらに飛びかかるその影は、なにやら獰猛な野獣のように見えた。

 おそらくは野犬だろう、それも随分と腹を空かした、そして待ちに待った獲物を見つけて喜色満面追いかけてくる野犬だ。同じ腹ペコ同士これもなにかの縁、と思いたいがしかし相手はそうは思ってくれないというかもう「食う気満々です」とばかりに追いかけてくるのだから逃げるしかない。おい待てわしは美味うまくないぞ、などと言ったところで通じないのは明らかで現にそれをジャングルで巨大ワニ相手にやったときは本当に死ぬかと思った。つまりバードマンは走った。あと半年もすれば五十代に手が届く男とは思えないほどのスピードで走った。スラムの町並みが早回しのフィルムのように流れ、体はまるで風になったようだった。さすがに野犬を突き放すとまではいかないものの、しかしバードマンは一瞬「わしってすごい」なんて思ったりした。いやあ人間その気になればなんだってできるもんだな、と、妙に思考が冷静なのも奇妙だった。

 その冷静な頭脳で、バードマンは野犬を撒くための逃走経路を計算した。建物に入るのが上策だ、ドアを閉めてしまえばこいつは入ってくることができない。そのためにはどこか、人の住んでいそうなところへ逃げなくては――バードマンはスラムの住宅街へと踏み込むべく、レンガ造りの塀の角を曲がった。おいおい完璧な作戦じゃないか、と満足したまさにその瞬間、その作戦は見事に崩壊した。

「きゃっ!」

 という女の声がして、というかそれは「きゃっ!」なんてかわいらしいものではなくどちらかといえば「ギニャァァ」という絶叫だったのだけれど、とにかく女の悲鳴がした。全身に衝撃を覚え、バランスが崩れるのを感じた瞬間、バードマンは、

「わしはいま曲がり角で女にぶつかった」

 ということを理解した。と同時に、

「このままではわしはこける」

「こけたらわしは犬に追いつかれる」

「追いつかれたらわしはヤツの牙を避けられない」

「避けられないとわしは食われる」

「南無三」

 ということまで一気に理解した。そして理解し終えるよりも早く、バードマンの手は動いていた。彼同様、バランスを崩して倒れかかっていたその女の腕をつかみ、そして思い切り引っ張って――ふたりはまるでダンスのようにくるりと回転し、お互いの位置を入れ替えるようにして、転んだ。

「ギョエヤァァァァ!」

「キャイン!」

 女の悲鳴と犬の声が重なった。どっちが女でどっちが犬だかわからないがしかしそんなことはどうでもいい。バードマンは地面をごろごろと転がりながら、コートの懐に右手を突っ込んだ。昔見た西部劇の映画で覚えた技だ。膝立ちになると同時に、胸のホルスターから自慢の愛銃を抜き放ち、構える。

動くなフリーズ!」

 目の前にはレンガの壁が見えた。

 間違って真横を向いてしまったらしい。慌てて周囲を見回すと、向かって右側に『それ』は見えた。それ、というのは、恐らくは「さっきぶつかった女」と「追っかけてきた野犬」のことに違いないのだが、しかし闇の中でひとかたまりになっているので何が何だか判然としない。おそるおそる近づいて覗き込んだものの、それでもやっぱり判然としない。なんだか野犬が二匹に増えたように見えるのだが、と思いながらよく目をこらして見てみると、どうにか犬と女の見分けがついた。

 女は犬を抱きかかえるようにして気を失っていた。抱きかかえられた犬のほうも気絶しているらしい。さっきまで見分けがつかなかったのは、他でもない女の髪のせいだった。なにやらボサボサのバラバラのぐっしゃんぐっしゃんに乱れており、これでは頭に野犬を乗せているようにしか見えない。どうもまだ若い、といっても二十代後半ぐらいだろうが、しかしそれくらいの歳の女性が好む髪型とは思えない。服は小綺麗というか何かの制服のように見えるのだが、しかしこれも随分と着乱れていてなんだか尋常ではない様子だ。それになぜか右腕の裾だけが破り取られたように無くなっていて、はてこの女は暴行でも受けたのであろうかこれは犯罪の香りがするな、と思ったところでバードマンはふと冷静になった。自分の左手を見ると、そこにはなにやら服の袖らしきものがあった。さっき引っ張ったときに破れた――というか引き千切ちぎってしまったのだな、と彼は納得した。

 そのままにしておくのも悪いので、バードマンは女に駆け寄った。とりあえず彼女の右腕を持ち上げて、破り取ってしまった袖を元通りに装着させることにした。肩の部分は切れたままだが、しかしぱっと見には元通りだしまあいいんじゃないか、と思っていると、ふいに背後から声が聞こえた。

「ちょっとアンタ、な、なにしてるんだい」

 振り向くとそこには女がいた。当然、野犬ヘアーの女とは別の女だ。年齢はおそらく四、五十代といったあたりで、どうやらスラムの住人らしい。騒ぎを聞いて出てきたのだろうか、前掛けエプロンなんぞをしていかにも主婦、というかおばちゃん然とした格好だ。ただ唯一、彼女に不自然さを感じるのは、その顔色が蒼白である点だ。

 バードマンは再び、冷静に考えた。右手を見ると、そこにはなにやら自分の愛銃らしきものがあった。足下には妙齢の女性が倒れていて、しかも服がめちゃくちゃでなおかつ自分がその手を握っているのだから、これは犯罪の香りがするだろうな、とバードマンは思った。慌ててその場に立ち上がり、そのおばちゃんの方に向き直る。

「安心しろ、わしはなにもやってない」

 そう口にするよりも先に悲鳴が上がる。そしてその悲鳴でようやく、先に銃をしまうべきだったとバードマンは気づいた。ホルスターに銃をしっかりと納めて、顔にはできうる限りの笑顔を浮かべ、これは全て誤解であるからしてまったく通報などするには及ばないしそもそもわしが警察である、と伝えるべく一歩踏み出そうとして――。

「ぬおっ?」

 バードマンは転んだ。

 何かにつまずいたわけではない、後ろから足を引っ張られた――そう気づくと同時にバードマンは身をひねった。這いつくばったままの姿勢で、上半身をねじるようにして後ろを見やると、確かに自分の足首が引っ張られているのが見えた。

 細い手首、そしてその先には野犬――いや違う。これは、あの女だ。

「ちょっと……嫁入り前の乙女を泥の上に突き飛ばして、そのまま逃げる気……?」

 女の顔は決して醜くはなかったが、しかしそれが余計、彼女の表情に迫力を与えていた。なにより「乙女」という単語に必要以上の強調アクセントが込められていて、それがバードマンに妙な重圧プレッシャーを感じさせた。

 スラムの薄暗闇の中、犬頭女の双眼が、怪しく光る。

「逃す、ものですか」

 次に悲鳴を上げるのは、バードマンの番だった。

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