Chapter.06 『クレッセリア財閥 社長 コルドナ・ファッテンブルグの場合』

 思い出すたびに股間がムズムズする。

 一年前のことだ。本社スタッフ部門で行われた交流運動会で、コルドナは病院送りにされた。どうやら「空気を読む」という言葉を知らないらしいひとりの受付嬢に、男の子の﹅﹅﹅﹅大事な﹅﹅﹅ところ﹅﹅﹅滅多めった打ちにされた結果だ。おかげで三日三晩生死の境を彷徨い続け、起きた頃には当の受付嬢は解雇クビ寸前だったが、それを阻止したのもまたコルドナだった。自分で無礼講だと宣言してしまった手前、解雇は逆恨みされる可能性がある。

 しかし今、彼女は再び問題を起こした。そして今度こそは、コルドナには彼女を庇う理由はない。

 彼女、フレイラは解雇クビになる。財閥の人事局はその前提で動いており、またそれだけでなく影響は各所へと波及していた。広報局では予告状を先にテレビ局へとリークされたことが問題になっているし、受付を管轄する総務局では連日のように会議が行われているらしい。彼女ひとりのために各部署はてんてこ舞いの大騒ぎだったが、しかしそこに社長として介入できるような部分はなかった。股間がムズムズする。

 問題の受付嬢、フレイラ・アントワイズ。彼女が社から消えることはさしたる問題ではなく、それどころか財閥の利益に繋がるはずだというのに――しかしコルドナは落ち着かなかった。特にこの三日間、股間の古傷がうずきっぱなしだ。

 社長として彼女と会合を持つ理由はないし、また仮にそうしたところで、彼女を叱責する以外のことはできないだろう。コルドナは早々に退勤し、というか秘書の目を盗んでこっそり抜け出し、目抜き通りメインストリートからほど近い、クレッセリア・インターナショナル・ホテル最上階のレストランに来ていた。

 夜の街ブラスクラムを一望できるこのレストランは、ひとことで言えば「VIP御用達の高級レストラン」だ。分厚いフカフカの絨毯に、高級木材を使用した椅子やテーブル、そして高名な職人の手による銀食器の数々。だが最も贅沢なのは全面ガラス張りの窓、そこから望むこの街の夜景だ。眼下に広がるカジノ街の電飾ネオンは、天上の月光さえ霞ませるような荘厳さがある。

 まさにこの街の、クレッセリア財閥の金と権力の象徴。自ら築き上げたその理想郷の、窓際一番奥のテーブルで、コルドナはずっと股間を押さえながら悶えていた。

 社長として会えない以上、あとはプライベートで会うより他にない。勇気を出して電話をかけたまではよかった。が、それは保留状態のまま突然切れて、以後待てど暮らせど折り返しの電話はない。股間のムズムズはとうに限界を超えて、いつしかドキドキへと変わっていた。

 コルドナ自身、なぜフレイラにそこまでこだわるのかわからない。だが居ても立ってもいられないことだけは確かだった。思い出すたびに股間がキュンとなる。青空に映えるあの爽やかな笑顔、額を伝う健康的な汗、鋭く思い大金槌ハンマーのような膝蹴り。股間を押さえる手のひらが、じわり、と汗ばむ。どうにかして伝えたい、この股間のドキドキを――。

「……なんと言いますか、さすがに権力者ともなると、随分ですね。公衆の面前で」

 突然の声。顔を上げれば、そこには見覚えのある男の姿があった。サラサラの金髪、鋭い碧眼、スラリと細いスーツのシルエット。国際警察機構エスポールの捜査官。名前は確か、キースとかいったはずだ。

「お前、今朝方の貧乏人か。なにしに来た」

「話せば長くなります。ご一緒しても?」

 いやだ、という返事が聞こえていないのか、堂々と差し向かいに座るキース。それどころか勝手にウェイターを呼び、あれやこれやと注文している。

「ふざけるな。俺はお前に用などない。帰れ」

「そうでしょうか? あなたほどの権力者が警護のひとりもつけず、こんなところにおひとりということは、よほどプライベートな用件――まあデートか何かでしょう。しかし見たところ、お相手の方がいらっしゃらない。ひとりでお食事というのも寂しいでしょうから、わたくしでよければしばらくお相手を、と思ったのですが」

 手にしたメニューを閉じて、キースが微笑む。もともとの顔立ちの良さも手伝って、それは恐ろしく蠱惑的な笑顔だった。もし相手が女性であれば、いや場合によっては男であろうと、一も二もなく信用してしまうに違いない。股間のドキドキはいずこかへと消え去り、代わりにお尻がキュッとすぼまるのをコルドナは感じた。この男、デートというところまで推論を立てておきながら、一体なんの〝お相手〟をするつもりだ。

「お、俺にはそういう趣味はない」

「失礼ながら、あなたの趣味はどうでもよろしいのです。あなたの会社にはいろいろと黒い噂もありますし、我々もその証拠をいくつか掴んではおりますが――しかしそんなことはどうでも結構、関係のないことですからね。わたくしはただ、自分のすべきことを遂行するだけで」

「お前、この俺を脅す気か」

 コルドナの声は震えていた。ついでに肛門括約筋も震えていた。実のところ、今の脅しはそう恐ろしいものではない。財閥のあまり表沙汰にできない活動に関して、そう簡単に尻尾を掴まれることなどまずあり得ないのだ。また仮に掴まれたとして、その場合は国際警察機構エスポールごと懐柔すれば済む。にも関わらずコルドナが狼狽したのは、キースの自信に満ちた笑顔のせいだ。この男、一体なにを考えているのか――いや薄々は想像がつく。彼の言う「自分のすべきこと」、その内容を考えると、嫌でも気と括約筋が引き締まる。

 身を強張らせるコルドナに、だが大袈裟に手を広げてみせるキース。

「滅相もない、脅す、だなんて。わたくしはただ『お互い仲良くしませんか』と申し上げているのです。我々は、少なくとも﹅﹅﹅﹅﹅今回の﹅﹅﹅捜査では﹅﹅﹅﹅、あなた方の黒い噂については口出ししません。我々がこの街に来たのは、ただランバーンを捕らえる、そのためだけなのですから。あなた方にとっても、社内をコソ泥にうろつかれるのは気分の良いものではないでしょう? 利害は一致すると思いますが。いかがです? わたくしに全てを任せていただけませんか?」

 全てを任せる。その言葉にコルドナは戦慄した。さすがは国際警察機構エスポールの捜査官、なんと巧みな交渉術だろう。全て、というのはとどのつまり、身も心もということではないか。そんなものを任せてたまるものか――そうコルドナが気色ばむ瞬間、ウェイターが料理を運んできた。前菜のなんとか風なんとかです、とのことだがコルドナにはよくわからない。高くておいしければいいのだ。

「まあ、今すぐ結論を出せ、とは言いません。ゆっくり考えませんか、お食事でもしながら」

 そう言うなり、キースは当然のように食事を始めた。どこまで人を食った男だろう、こっちは貞操の危機が気になって食事どころではないのに――そう叫びたくなるのをグッとこらえて、

「何が望みか、はっきり言えばいいだろう」

 と、正直あんまり聞きたくないのだけれど、それでもあえて問い詰めた。とことんやりあうつもりだった。相手の口からはっきり言わせて、その上で「ごめんなさい。他に好きな人がいるの」と断ってやれば、さすがにこの男も諦めるだろう。そう信じたい。もし引き下がる様子がなければ、あとは警備の数を増やす以外にない。

「どう申し上げたものかと悩みましてね」

 咀嚼していたなんとか風なんとかを飲み下すと、キースはそう呟いた。微笑を浮かべ、窓の外の夜空へと目を向ける。

「これでも随分、調べたのですよ。しかし出てくるのはどれも噂程度の情報ばかり、核心らしき答えは何も得られなかった。やれ巨大な宝石だの、古代の天才の遺した芸術品だの、あるいは元々そんなものは実在しないだの。ただひとつ、決まってついて回る文句は――〝世界で最も美しい宝〟だ、と」

 その瞬間、コルドナはキースが何を見ているのか理解した。夜空の中央に輝く月、それも今夜は――なんという偶然だろう、三日月だった。予告状の文言と一致する、『ブラスクラムの三日月』だ。

「引っかかるのはそこなんです。そんな正体のはっきりしないものを、あの男が――怪盗ランバーンが盗もうとするでしょうか? 彼は『三日月』の正体を知っているのか? だとすれば、それは一体なんなのか? ――社長、あなたはどう思われます?」

 コルドナは息を飲んだ。この男、一体どこまで知っているのか――いや、おそらくは何も知らないはずだ。『三日月』についてだけはそう簡単に情報が漏れるはずがないし、大体わからないからこそこうして聞いているのだろう。試しに「知りたいか?」と尋ねてやると、キースは少し意外そうな表情を見せて、

「ええ。教えていただけるのでしたら、ぜひ」

 などと言う。コルドナは、少し自分の中に余裕が生まれるのを感じた。相手の知らないことを知っているというのは気分がいい。それも相手の知りたがっていることなら尚更だ。コルドナは満足した。鼻の穴から大きく息を吸い込み、余裕たっぷりの声で宣言する。

「それは――教えませーん! 残念でしたバーカ!」

「なにやら外が騒がしいですね」

 キースは再び視線を外に移していた。どうやら表通りを見下ろしているらしい。聞いていない、というかもう最初からどうでもいいといった態度だ。コルドナは怒りに天を仰いだ。そうだ俺は怒っているのだ、と何度も自分に言い聞かせた。怒りで悔しさを忘れようとしたものの、でも目に溜まる涙は収まる気配がない。溢れないようにするのが精一杯だった。

 昔から、こういうタイプは苦手だった。話を聞こうともしてくれないというか、こちらを最初からいないものとして扱う連中。「あれ、いたの?」のひとことすらないし、変なあだ名さえ付けてくれない。話題に上ることがないのだから、そもそも名前が必要ないのだ。あの頃、小学校の教室内において、コルドナは全く空気以下の存在だった。いやこれ以上はもう思い出すまい、と思えば思うほどに、次々湧いてくる嫌な思い出。もう駄目だ。限界だ。

 コルドナが自分の涙腺と必死に戦う間に、キースがウェイターを呼びつける。表で何かあったのか訊いているようだが、でもコルドナはもう耳がツーンとして聞こえない。かろうじて聞き取れたのは、ウェイターの返答だった。

「それがどうも、カジノで誰か暴れ出したようで。いえご心配には及びません、優秀な警備兵がすぐに取り押さえますので。この街は騒動が起きやすい分。治安もしっかりしていますからね。それこそ爆弾で武装した自爆テロでもない限りは――」

 その瞬間、コルドナの目から涙が溢れた。必死で堪えていたのだけれど、こればかりは仕様がない。突然の爆音と共に、周囲が小さく揺れたのだ。何が起こったのかは分からないが、とにかく泣いてしまったのは間違いない。

 なか自棄やけ気味に振り返ると、そこに唖然とした表情で窓の外を眺めるキース。いや、キースだけではない。ウェイターも、他の客も、皆一様に外の通りを見下ろしている。つられて、コルドナも目を向けた。ああこれは涙で視界がぼやけているせいだと、そう思いたくなるような光景がそこにはあった。

 コルドナの目には、表通りのカジノから、もうもうと黒煙が立ち昇っているように見えた。

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