Chapter.06 『クレッセリア財閥 社長 コルドナ・ファッテンブルグの場合』
思い出すたびに股間がムズムズする。
一年前のことだ。本社スタッフ部門で行われた交流運動会で、コルドナは病院送りにされた。どうやら「空気を読む」という言葉を知らないらしいひとりの受付嬢に、
しかし今、彼女は再び問題を起こした。そして今度こそは、コルドナには彼女を庇う理由はない。
彼女、フレイラは
問題の受付嬢、フレイラ・アントワイズ。彼女が社から消えることはさしたる問題ではなく、それどころか財閥の利益に繋がるはずだというのに――しかしコルドナは落ち着かなかった。特にこの三日間、股間の古傷が
社長として彼女と会合を持つ理由はないし、また仮にそうしたところで、彼女を叱責する以外のことはできないだろう。コルドナは早々に退勤し、というか秘書の目を盗んでこっそり抜け出し、
夜の街ブラスクラムを一望できるこのレストランは、ひとことで言えば「VIP御用達の高級レストラン」だ。分厚いフカフカの絨毯に、高級木材を使用した椅子やテーブル、そして高名な職人の手による銀食器の数々。だが最も贅沢なのは全面ガラス張りの窓、そこから望むこの街の夜景だ。眼下に広がるカジノ街の
まさにこの街の、クレッセリア財閥の金と権力の象徴。自ら築き上げたその理想郷の、窓際一番奥のテーブルで、コルドナはずっと股間を押さえながら悶えていた。
社長として会えない以上、あとはプライベートで会うより他にない。勇気を出して電話をかけたまではよかった。が、それは保留状態のまま突然切れて、以後待てど暮らせど折り返しの電話はない。股間のムズムズはとうに限界を超えて、いつしかドキドキへと変わっていた。
コルドナ自身、なぜフレイラにそこまで
「……なんと言いますか、さすがに権力者ともなると、随分ですね。公衆の面前で」
突然の声。顔を上げれば、そこには見覚えのある男の姿があった。サラサラの金髪、鋭い碧眼、スラリと細いスーツのシルエット。
「お前、今朝方の貧乏人か。なにしに来た」
「話せば長くなります。ご一緒しても?」
いやだ、という返事が聞こえていないのか、堂々と差し向かいに座るキース。それどころか勝手にウェイターを呼び、あれやこれやと注文している。
「ふざけるな。俺はお前に用などない。帰れ」
「そうでしょうか? あなたほどの権力者が警護のひとりもつけず、こんなところにおひとりということは、よほどプライベートな用件――まあデートか何かでしょう。しかし見たところ、お相手の方がいらっしゃらない。ひとりでお食事というのも寂しいでしょうから、わたくしでよければしばらくお相手を、と思ったのですが」
手にしたメニューを閉じて、キースが微笑む。もともとの顔立ちの良さも手伝って、それは恐ろしく蠱惑的な笑顔だった。もし相手が女性であれば、いや場合によっては男であろうと、一も二もなく信用してしまうに違いない。股間のドキドキはいずこかへと消え去り、代わりにお尻がキュッと
「お、俺にはそういう趣味はない」
「失礼ながら、あなたの趣味はどうでもよろしいのです。あなたの会社にはいろいろと黒い噂もありますし、我々もその証拠をいくつか掴んではおりますが――しかしそんなことはどうでも結構、関係のないことですからね。わたくしはただ、自分のすべきことを遂行するだけで」
「お前、この俺を脅す気か」
コルドナの声は震えていた。ついでに肛門括約筋も震えていた。実のところ、今の脅しはそう恐ろしいものではない。財閥のあまり表沙汰にできない活動に関して、そう簡単に尻尾を掴まれることなどまずあり得ないのだ。また仮に掴まれたとして、その場合は
身を強張らせるコルドナに、だが大袈裟に手を広げてみせるキース。
「滅相もない、脅す、だなんて。わたくしはただ『お互い仲良くしませんか』と申し上げているのです。我々は、
全てを任せる。その言葉にコルドナは戦慄した。さすがは
「まあ、今すぐ結論を出せ、とは言いません。ゆっくり考えませんか、お食事でもしながら」
そう言うなり、キースは当然のように食事を始めた。どこまで人を食った男だろう、こっちは貞操の危機が気になって食事どころではないのに――そう叫びたくなるのをグッと
「何が望みか、はっきり言えばいいだろう」
と、正直あんまり聞きたくないのだけれど、それでもあえて問い詰めた。とことんやりあうつもりだった。相手の口からはっきり言わせて、その上で「ごめんなさい。他に好きな人がいるの」と断ってやれば、さすがにこの男も諦めるだろう。そう信じたい。もし引き下がる様子がなければ、あとは警備の数を増やす以外にない。
「どう申し上げたものかと悩みましてね」
咀嚼していたなんとか風なんとかを飲み下すと、キースはそう呟いた。微笑を浮かべ、窓の外の夜空へと目を向ける。
「これでも随分、調べたのですよ。しかし出てくるのはどれも噂程度の情報ばかり、核心らしき答えは何も得られなかった。やれ巨大な宝石だの、古代の天才の遺した芸術品だの、あるいは元々そんなものは実在しないだの。ただひとつ、決まってついて回る文句は――〝世界で最も美しい宝〟だ、と」
その瞬間、コルドナはキースが何を見ているのか理解した。夜空の中央に輝く月、それも今夜は――なんという偶然だろう、三日月だった。予告状の文言と一致する、『ブラスクラムの三日月』だ。
「引っかかるのはそこなんです。そんな正体のはっきりしないものを、あの男が――怪盗ランバーンが盗もうとするでしょうか? 彼は『三日月』の正体を知っているのか? だとすれば、それは一体なんなのか? ――社長、あなたはどう思われます?」
コルドナは息を飲んだ。この男、一体どこまで知っているのか――いや、おそらくは何も知らないはずだ。『三日月』についてだけはそう簡単に情報が漏れるはずがないし、大体わからないからこそこうして聞いているのだろう。試しに「知りたいか?」と尋ねてやると、キースは少し意外そうな表情を見せて、
「ええ。教えていただけるのでしたら、ぜひ」
などと言う。コルドナは、少し自分の中に余裕が生まれるのを感じた。相手の知らないことを知っているというのは気分がいい。それも相手の知りたがっていることなら尚更だ。コルドナは満足した。鼻の穴から大きく息を吸い込み、余裕たっぷりの声で宣言する。
「それは――教えませーん! 残念でしたバーカ!」
「なにやら外が騒がしいですね」
キースは再び視線を外に移していた。どうやら表通りを見下ろしているらしい。聞いていない、というかもう最初からどうでもいいといった態度だ。コルドナは怒りに天を仰いだ。そうだ俺は怒っているのだ、と何度も自分に言い聞かせた。怒りで悔しさを忘れようとしたものの、でも目に溜まる涙は収まる気配がない。溢れないようにするのが精一杯だった。
昔から、こういうタイプは苦手だった。話を聞こうともしてくれないというか、こちらを最初からいないものとして扱う連中。「あれ、いたの?」のひとことすらないし、変なあだ名さえ付けてくれない。話題に上ることがないのだから、そもそも名前が必要ないのだ。あの頃、小学校の教室内において、コルドナは全く空気以下の存在だった。いやこれ以上はもう思い出すまい、と思えば思うほどに、次々湧いてくる嫌な思い出。もう駄目だ。限界だ。
コルドナが自分の涙腺と必死に戦う間に、キースがウェイターを呼びつける。表で何かあったのか訊いているようだが、でもコルドナはもう耳がツーンとして聞こえない。かろうじて聞き取れたのは、ウェイターの返答だった。
「それがどうも、カジノで誰か暴れ出したようで。いえご心配には及びません、優秀な警備兵がすぐに取り押さえますので。この街は騒動が起きやすい分。治安もしっかりしていますからね。それこそ爆弾で武装した自爆テロでもない限りは――」
その瞬間、コルドナの目から涙が溢れた。必死で堪えていたのだけれど、こればかりは仕様がない。突然の爆音と共に、周囲が小さく揺れたのだ。何が起こったのかは分からないが、とにかく泣いてしまったのは間違いない。
コルドナの目には、表通りのカジノから、もうもうと黒煙が立ち昇っているように見えた。
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