Chapter.05 『クレッセリア財閥本社ビル 受付嬢 エイミー・ヒューレルの場合』
先輩の様子がおかしい、ということには気づいていた。
いや、ただ単に「おかしい」というだけなら、それは入社当初からずっと気づいていたことだ。例えばなぜか若い男性職員に対してだけ声のトーンが変わるとか、そのわりに眼差しはいやに冷静でどこか品定めするような雰囲気があるとか、受付カウンターでお辞儀をしながら何か膝の上でメモを取っているとか、ある日つい「何をメモしてるんですか?」なんて聞いたら物凄い目で見られてしまったこととか、その日以来どうやら私と先輩は
そんな先輩のことだから、多少おかしなところがあってもそれはむしろ正常だった。気にすることなんてない、ほら寝癖くらいはいつものことだし――と、エイミーは何度も自分に言い聞かせようとした。同時に、そんな自己暗示はまったく無意味だということも、また彼女は悟らなければならなかった。
その日のフレイラは、もう〝おかしい〟なんてレベルを遥かに超越していたからだ。
多少の寝癖程度は死角にしぶとく生き残っているのを見るけど、でも今日は頭全体が寝癖だった。それはもうフレイラと寝癖のどちらが本体なのかも判然としないような具合で、例えるならパイナップルの葉っぱが一番近い。顔色は蒼白だし目の下には隈っていうかなんか灰色のすごい窪みみたいなのがあるし、服なんていつもの受付の制服のはずなのにまるでそう見えないから不思議だった。なんというか、「つい今し方そこで暴行されてきました」とでも言わんばかりの着崩れようで、しわくちゃのブラウスの襟元がいやこれ襟元っていうかどっちかていうと胸元? ってほどに開けていて、現にブラジャーの肩紐っていうかむしろ本体の大胆な紫のレースが! というくらいだったりするのだから、なんというかこれはもう制服じゃなくてただの半裸だ。そうだこれはそういう新手のムーブメントなんだ、と、そうとでも思わなきゃとてもやってられないくらい、今日のフレイラはただただ痛々しかった。
彼女がこうなってしまった原因はひとつ、あの手紙のせいに違いない。エイミーはあの晩、フレイラが手紙の封を開けた後のことを思い出す。
「エイミー、これは大変なことになるわ。この予告状のことは絶対に口外しちゃダメよ」
手紙をしまうなり開口一番、フレイラはエイミーに総釘を刺した。どうしてです、と聞き返したのは、エイミーにはその手紙がなぜ『大変なこと』を引き起こしてしまうかわからなかったからだ。フレイラは随分と酔っている様子だったけれど、でもその予測そのものは至って冷静だった。
「いいこと。ランバーンなんていったら世界一有名な大泥棒よ。それがこのブラスクラムに、ほとんど独立国家といってもいいこのクレッセリア財閥に、あろうことか真っ向から喧嘩を売って来てるのよ。どういうことかわかるでしょう? ランバーンはかなりの凄腕って聞くし、財閥は一切容赦しないでしょうね。警備兵に強力な武器でも持たせて、命を狙ってでも阻止するはずだわ。でもランバーンが出てきたとあっては
そう
が、それも一晩限りのこと、翌日にはすっかり噂は広まっていた。
いや、それはもう噂なんてレベルのものじゃない。例えばお昼休み、社員食堂の大型テレビモニタを眺めていると、
「ええ、大変びっくりしました。まさか犯罪予告の手紙だったなんて、私――」
と、ローカル局のワイドショー、『第一発見者のFさん』が堂々出演していたのだから驚きだ。プライバシー保護のための磨りガラスはなんだかいやに透明度が高くて、しかも音声加工で変調してあるはずの声もまた、何の不具合なのか
「私、本当に怖くて怖くて。なにしろひとり暮らしなものですから、すっかり気が動転してしまって……こんなときは誰か
と一気に捲し立てたところで立ち上がり、その勢いで、というか故意にやったとしか思えない動作で目の前の磨りガラスを突き飛ばしそして「きゃーごめんなさーい」という棒読みの謝罪と共に姿を現したのは、作為的上目遣いをバッチリ決めたフレイラその人だった。
明らかに不自然なタイミングで
「まあ、そりゃあ私にだって彼氏くらい、ね。学生の頃なんかは二股どころか三股だって――」
と、会話の内容が全て過去形になってしまうのだから、エイミーも極力その手の話題を避けるよう努めてきた。そしてそれだけに余計、エイミーは胸の締め付けられるような思いだった。
――まさか先輩が、そこまで追い詰められていただなんて。
社内では、いやおそらくは社外も含めて、一番親しいであろうエイミーですら驚いたのだ。昼休みの社員食堂が騒然とならないはずもなかった。「いまのって、受付の……」だの「マジかよ、信じらんねえ」だの、広い食堂のそこかしこからざわめきが聞こえる。いくら従業員の多い大企業とはいえ、受付嬢であるフレイラはそれなりに顔の知られた存在だ。そも容姿は決して悪くなく、むしろ人目を引くくらいの魅力は充分にあるのだ。例えば男性社員たちからは常々「黙っていればカワイイ」「動かなければ美人」「写真だけなら嫁にしたい」「死んでいれば愛せる」なんて言われているほどだ。つまりそういう意味では、フレイラは良くも悪くも有名人で、そして今回の一件で、さらに有名になったと言えるかもしれない――主に悪い意味で。
――と、ここまでがつい四日前の出来事だ。そしてそれからというもの、エイミーはほとんどフレイラと顔を合わせていない。せいぜいテレビ出演の翌朝に、「しくじった。アイメイクが甘かった」と悔恨の呟きを隣で聞いていた程度だ。彼女はその後すぐに呼び出しを受けて、結局その日は帰ってこなかった。テレビ出演について咎められているのか、それとも予告状について問い質されているのか、その辺は想像もつかなかったけれど――ただひとつ確かなのは、「フレイラが
「ねえエイミー。私、もうダメかも」
そんなことは言われるまでもなくわかるのだけれど、だからってまさか「一目瞭然です」とも言えない。それどころか一体どう声をかけたらいいのか、エイミーにはまったくわからなかった。どうしよう、いくらなんでも「大丈夫です頑張って」じゃ無責任すぎる気がする。といって「私がついてますから」なんて言ったところで、この人は私がついていようといまいと問題を起こすし、というか現についていた上で起こした騒ぎなのだからそれお社逆恨みとかされたら困るなあ、などとぐるぐる考えていたところに、突然受付の電話が鳴り出した。この長い呼び出し音は、外線電話だ。エイミーは受話器に手を伸ばす。
「先輩は休んでいてください」
というより、こんな状態で電話に出て、社外の人相手に泣き出されでもしたら
「お世話になっております。クレッセリア財閥、本社です」
「あーご苦労。俺だ」
――誰だ。
電話では相手の顔が見えないのは当たり前のことで、なのに出し抜けに「俺だ」と言われても、普通は誰だかわかるはずがない。エイミーは経験上、稀にこういう頭の足りない人がいたずら電話をかけてくることを知っていた。こういう手合いのあしらい方など、もはや慣れたものである。
「恐れ入りますが、どちら様でしょうか」
「だから俺だ。知らんのか。社長のコルドナだ」
それはまったく予想外の返答だったが、しかしエイミーは冷静だった。社長が受付に直接、それも外線でかけてくるはずがない。ないのだけれど、でもその男はしきりに、
「このバカめ、貧乏人め」
とかなんとか、好き放題文句を垂れている。こういう手合いは少し強く当たっただけで簡単に泣き出すから取り扱いが大変だ。電話に出たことを後悔しつつ、エイミーは先を促す。
「失礼いたしました。受付にどういったご用でしょうか」
「アホか。そんなん決まってるだろうが、そこにフレイラという女がいるはずだ。代われ」
少々お待ちください、と電話の保留ボタンを押して――そして、エイミーは煩悶した。
確かに、フレイラなら隣にいる。いるのだけれど、はたして彼女に電話を取り次いでいいものかどうか。今の彼女は電話応対どころか、まともな会話ができるのかどうかも怪しい状態だ。そもこの電話相手からして、まずまともな人間とは思えない。まともでない人間同士が会話をしたならば、一体どんなことが起こるのか。エイミーには想像がつかなかった。
「……どうしたの?」
エイミーの視線に気づいたのか、完全に呆けていたように見えたフレイラがそう呟いた。
「それが、先輩に代われって言うんですけど……なんか、変な人なんです」
その言葉に、フレイラの瞳が少し生気を取り戻した。そういえば、と、エイミーは思い出す。先輩は「変な人」と聞くと、なぜかテンションの上がってしまう変な人だった。いつも「どれどれ任せなさい」なんて電話を代わって、そしてどんな奇人変人怪人であろうと撃退してみせる――そんな対変態工作のプロフェッショナルのような、あるいは頼れる姐御のような、とにかくよくわからないところで力を発揮する人だった。
現にフレイラは「やれやれ」と立ち上がり、受話器を受け取るべく手を差し出している。先ほどまでの無残な姿はどこへやら、凛々しささえ感じさせるその佇まいは、もはや完全な臨戦体制だった。
「で、今度のバカはどこのどいつよ。男? いくつくらい?」
「男のかたで、小学生か三、四十代くらいかと……どこのどなたかはわかりませんけど、ただ、そのかたが言うには」
「言うには?」
「なんか、コルドナっていう、うちの社ちょ」
ドン、と激しい衝突音が聞こえて、そしてエイミーは目を疑った。
そこには受付の壁が見えるだけだった。さっきまで、つい一瞬前まではそこに見えていたフレイラの姿が、突然霞のようにかき消えている。まさか、とロビーの方を振り返ると、そこには予想通りものが見えた。
宙に翻る制服のスカート。自慢のセミロングの髪を
エイミーは思った。どんなに追い詰められていようと、やはり先輩の健脚は本物だ、と。
あれは確か、社内交流レクリエーションとして行われた運動会でのことだった。ほとんど全ての競技に出場したフレイラは、圧倒的なその俊足で伝説を作った。長距離走で常務をぶっちぎり、騎馬戦で専務をグラウンドに沈め、棒倒しで社長をボコボコにした。競技種目がどうもいい大人にふさわしいとは思えないし、そもそも役員らの参加率が高すぎるような気がしなくもないけれど、しかしこの運動会は受付と秘書課は強制参加の上にブルマー着用が義務づけられていたのだからまあそういうことだ。完全に小学生レベルの発想、だが企業に隷属する以上は逆らえない――そんな空気の中でフレイラはひとり、本格的な陸上用ユニフォームにスパイクシューズという出で立ちで、あらゆる理不尽を
その伝説を今、エイミーは再び目の前にしていた。突然の出来事に、ロビーにいた誰もが、厳しい訓練を乗り越えた警備兵でさえもが、まるで身動きが取れずにいる。止まった時間の中、ひとり宙を舞うフレイラの姿。それかかつて見た、あの走り幅跳びのフォームとぴったり重なる。これは伝説の再現だ、とエイミーは思った。フレイラは、エイミーの発した〝社長〟という単語に反応して、本能的に逃げたのだ。
いや、まだ用件もわからないのに、というかこれが本当に社長かどうかだって――。
そう引き止める暇さえなかった。フレイラは受付台の上から跳躍し、ソファの群れをハードルよろしく飛び越えて、一瞬のうちに風になっていた。タイミングよく開いていた自動ドアをすり抜ける、その背中がみるみる小さくなる。それが夜の闇に溶けて消える頃には、もう誰も追いつけるものはいなかった。状況がわからぬままに駆け出した数名の警備兵も、彼女を捕らえることは叶わないだろう。どこへ向かったのかもわからないし、そも捕らえる理由もはっきりしない。しばらくすれば「見失いました」と戻ってくるだろうし、彼らはそれでいいのだろうけれど――。
呆然と立ち尽くすエイミー。この電話、一体どうすればいいんだろう。まさか「すごいスピードで消えました」とも言えないし、もし言ったところで理由を聞かれでもしたら困る。というか、なんで逃げたんだろう。まあ精神的に不安定だったのは明らかだし、ほとんど発作的な防御反応みたいなものだと思うけれど――でも、脊椎反射で職場から逃走するのはやめてほしい。残された側が大変困る。
ぼんやり佇立するエイミーの耳に、安っぽい保留メロディが響く。どうしていいのかわからないけれど、でも、とりあえず。
かちゃり、と受話器を元に戻すと、エイミーは再び受付の業務に専心した。
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