Chapter.04 『クレッセリア財閥本社ビル 私設警備兵 ボブ(仮名)の場合』

 カネ持ってんなー、としか言いようがなかった。

 クレッセリア財閥の本社ビルはでかい。そんなことはもちろん知っているつもりだった。しかしいざこうして見てみると本当にでかい。聞くところによると八十階建てだとか百階建てだとか、いや調子のいい日は二百階は行くだとか、まあ要するに誰も何階建てなのか正しく把握できないほどに大きいのだ。でもいくら巨大でも、調子の良し悪しでビルの階層が変わってしまったら大変だろうな、と彼は思った。だから「うそつくな」と反論してやったのだけれど、しかしその話をしてくれたカジノ客のヒゲのおっさんは、

「いや、俺見たんだって! マジだって!」

 とかなんとか、あくまで言い張ってきかなかった。おかげでこっちもついムキになって、

「うわーうそつきマン発見うそつきマン発見! ビルが伸びるわけないじゃんばーかばーか」

 とか理詰めで論破してやったもんだから、しまいにはおっさんが泣きながら椅子を振り回すという大惨事にまで発展してしまった。すぐにこっそり抜け出したからよかったようなものの、なんかいっぱい警備兵みたいな人が来て大変なことになっていたから間一髪だ。しばらくあのカジノには立ち寄れそうもない。念のために変装しておいてよかった、と彼は胸を撫で下ろした。

 しかしこうして本社ビルに辿り着いてしまえば問題はない。変装を解いて警備服に着替え、さらに念には念を入れてまた別人に変装し直した彼は、余裕の口笛さえ吹きながら廊下を進んでいた。なんという曲かは知らないが、彼の幼い頃に祖父がよく口ずさんでいたメロディだ。

『男は追い詰められたときにこそ、呑気に笑って口笛を吹くものさ――』

 それが祖父の口癖だった。だから彼は口笛を吹いた。思いっきり、力の限り吹いた。そうすれば気持ちに余裕ができるかな、と思ったのだ。


 ――クレッセリア財閥の本社ビルはでかい。

 まして、初めて入るのだから、迷子になるのは当然だった。


 歩いても歩いても見覚えのある場所に辿り着けない。それどころか、何度曲がり角を曲がってもずっと同じ廊下が続いているようにさえ思える。まるで出口のない迷宮の中を彷徨さまよっているようだった。首の後ろに嫌な感じの汗が滲む。落ち着け、と心の中で呟いてみても、しかしいつの間にか歩みが早足になる。余裕で口ずさんでいたはずのメロディが、どんどんアップテンポなリズムを刻み始める。しまいには上手く吹けなくなって、「ふスヒー、ふススヒー」と気の抜けた音になってきた。もうだめだ。いくらなんでもでかすぎる。なんてひどい家だ、まるで人生という名のラビリンスだ。なんかおなか痛くなってきた。きっと足もいっぱい疲れたからたぶん疲れたと思った。もうやだ、おうち帰りたい――。


「おいお前、何してんだ」

 突然の声に見上げると、そこには警備服を着た男の姿があった。助かった、と彼は思った。警備兵ならきっと、このビルについても詳しいに違いない。すがるような目で見つめていると、なにやらその警備兵は怒ったような顔で、

「この忙しいときに、こんなところでフラフラと」

 と、悠長に説教を垂れ始めた。そんなことはどうでもいいから早く案内してくれ、と、いつの間にか体育座りをしていた身を起こす。それを見てか、少したじろいだ様子で身を引く警備兵。

「おわ、なんだお前ずいぶんと図体のでかい……それに、初めて見る顔だな。なんか黒いし」

 しまった、変装だからって調子こいて肌黒くしすぎたか――と気づいたときにはもう遅い。まさか今更「いえ本当は色白なほうなんですけど」とか言っても通じないだろう。ここが正念場だ、だってこういうのは色々デリケートだから、と彼は腹をくくった。

「思ったより黒くはないですよ。むしろ建前上は白いと言えます」

「いや、言ってる意味がわからんが……それに、やっぱり見覚えがない」

「それは新入りだからです」

「ああなるほど、そうか。で、所属は」

 ――えっ、なにそれ。

 と、思わず言ってしまうところだった。危ないところだった。ぎりぎり「なにそ」までで止まったからよかった。ほっと胸を撫で下ろし、続ける。

「わかりません。ワタシこの国のことほとんど知りマセン」

 警備兵は「おいガイジンかよ」だの「言葉わかるのか」だの、明らかに慌てた様子で独りごちていたが、結局すぐに、

「まあいいや、お前ちょっとこっちこい」

 と、指をくいくいさせるジェスチャーまでして歩き出した。それはどう見ても「ヘイボーイ、かかってきな」のサインだったが、しかし喧嘩は嫌いなのでおとなしくついて行くことにした。なにより今は、それよりももっと気になることがある。

「しかしアナタとても忙しい人デスネ。なにかアリマシタか?」

「人手が足りねえんだ、表のカジノでバカが暴れやがってよ。まったく、ただでさえあの噂のおかげで厳重警戒中だってのに」

 噂。一体なんのことだろう。疑問に思って聞き返すと、

「噂ってのは、アレだ。なんていうのかな。ゴシップ、っていうのか。未確認で信憑性はあまりないんだけど、でもみんながなんか話してるっていうかそういう感じの」

 とかなんとか、「噂」という単語の意味について説明し始めた。ガイジンのフリも意外とめんどくさいものだなあ、と彼は思った。

「それは全然違います。なんの噂か聞いているのデス。それは私たちに関する興味深い出来事ですか? そしてそれを聞いてトムは大いに喜ぶでしょう」

「トムじゃねえ、予告状だよ。あの泥棒の。あーなんつったかな、たしかランバなんとか」

 その言葉に、さしもの彼も動揺した。まさかこんなところに予告状なんぞ届くはずがない、どうせ根も葉もない与太話だろうと思ってこのブラスクラムまで来たのだが――しかし警備兵までもがそんな噂を口にし、なおかつ厳重警戒だなんてそんな大袈裟なことになっているとは、まるで思いもしなかった。

「あーくそ、思い出せねえ。もうここまで出かかってるんだけどな、なんだっけ、ランバ……ええと」

 警備兵は必死で自分の喉元を指さして、もうほとんど思い出しているんだぜ、ということをアピールしているが勿論そんなことはどうでもよかった。何が「ディスイズのど、アウトネームヒア、もうちょっと。ユーノウ、ネーム?」だ、この男は状況を理解できないのだろうか。厳重警戒ともなれば一大事だ、こんな三下警備兵の相手をしている場合じゃない。適当に思いつきで返事をしてやると、

「あーそれだ。たしかラルとか、うんそんな感じだった」

 と、予想外にも警備兵は満足そうに頷いた。頷きながら通路脇のドアを開く。先ほどまでの無機質な廊下とは打って変わって、綺麗に清掃された透明感のある通路が目の前に広がる。少し歩くとすぐに見覚えのある景色に出くわした。巨大な吹き抜けの空間。ビル一階の正面ロビーだ。

「じゃあ俺はカジノのほうの応援に行くからよ、ロビーの警備はお前頼むわ……おい聞いてるか? というか、意味通じてるか?」

 警備兵は熱心に仕事の引き継ぎを依頼してくるが、しかしそんなことをしている場合ではなかった。そもそも彼は変装しているだけで本物の警備兵ではないのだから、別にロビーの警備なんてする必要はまったくない。ないのだけれどしかし、

「あー、アイムゴー。ユーガードヒア、ベリーベリーセキュリティー、ディスイズハッピー。オーケイ?」

 と警備兵があまりに熱心なので、彼も思わずこっくりと頷いて、

「承知いたしました。お気をつけて」

 と警備兵を見送ってしまった。徐々に小さくなるその背中を見つめながら、その場に残された『彼』は、先ほど聞いた例の噂について、何度も心の中で反芻した。考えれば考えるほど、それは不可解な出来事だった。


 ――だって、そもそも、出した﹅﹅﹅覚えない﹅﹅﹅﹅んだけどなあ、予告状。


 新米警備兵の姿のまま、彼――怪盗紳士ランバーンは、繰り返し首をかしげげていた。

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