Chapter.03 『抵抗勢力 リーダー エイジ・シャンドンの場合』

 スラムの外れの給水塔は、何年か前に使われなくなって以来、ずっと放置されたままだった。機械式ポンプの稼働停止のために暖がとれなくなったせいだろう、いまではそこに暮らす者は誰もいない。さらに近頃、このあたりは夜になると野犬が出て危険なのだ。そしてその時間帯の寸前、夜の帳が降りる前のオレンジ色の夕焼けが、この給水塔には何よりも似合っていた。

 と、少なくともエイジはそう考えていた。うち捨てられた給水塔はなんかとても退廃的で美しくて、なおかつ夕暮れなんていったらもの悲しくて詩的で、そしてその上でひとり考え事にふけったりする自分はなんてニヒルで格好いいんだろう、とか、そんなことを真面目に思ってしまうような年頃だった。

 一ヶ月前、エイジは十五歳の誕生日を迎えたばかりだった。そして同時に、抵抗勢力レジスタンスのリーダーになった。スラムにはもっと大人の人間もいるし、エイジ以上の適材は他にいくらでもいるはずだった。にも関わらずエイジがリーダーになってしまったのは、他でもない同じ抵抗勢力レジスタンスのメンバーのおかげだった。抵抗勢力レジスタンスなんて危ないし儲かるわけでもないのだから、そんな組織のリーダーなんて誰も務めたがらないのはわかりきっていた。そもそも当のエイジにしても、そんな非生産的な活動に携わるつもりは毛頭なかった。というよりも、無理だ。小さな頃から貧弱で、あだ名が「白アスパラ」だの「ハリガネ」だの「もやし」だの「ぎょう虫」だのだったエイジには、そんな武闘派ムード全開な組織に加わるだなんて、まるで思ってすらみないことだった。

 それなのに。と、エイジは歯を食いしばった。真剣な顔つきにありったけの苦悩を滲ませて、右の拳で給水塔を殴る。かっこいい、とエイジは思った。わりと力を込めてしまったせいで手の甲が痛くて痛くて仕方がないけれど、でもここで「いってぇー」とか漏らしたら台無しなので頑張ってこらえた。そのおかげか、不意に目頭が熱くなる。苦悩して泣く俺。かっこいい。

 十五歳の誕生日を祝うから、と言われて連れて行かれたのは、紛れもない抵抗勢力レジスタンスの集会だった。といっても実質はスラムの町内会だ。近所のオッサンたちが「エイ坊も大きくなったなあ」とかなんとか言って、しきりに褒めるのでおかしいな、とは感じていた。その晩はエイジだけではなく、同年代の男は全て集められていた。この時点で気づくべきだったのだ。

「それでは、四年に一度の恒例行事、リーダー決定会議を始めます」

 と、先代のリーダーらしきひょろひょろした青白い男が声を張り上げた。リーダー候補とされているのは、エイジを始め皆十代の男ばかりだ。オッサンやジイサンどもは、

「いやー、本当なら立候補したいところなんだが、最近どうも四十肩でねえ」

「贅沢言うない、その程度ならまだマトモなもんだ。わしなんて腰が痛くて痛くて」

「なあに言うとるか、お前さんのとこなんざ毎晩毎晩やかましいくらいじゃろうが。わしゃあもう使いもんにならなくなってから随分と経つが……」

 とかなんとか、真面目に言い訳してくれればまだいいものを、終始猥談ばかりしているのだからどこからどう文句を言えばいいのかすらわからない。特にまずいことには、エイジはその猥談の輪にすっかり囲まれてしまっていた。結局のところ、エイジはその「リーダー決定会議」の内容になにひとつ加わることが出来ないまま、公正な民主主義によってリーダーへと祭り上げられる羽目になった。

 この屈辱は忘れない、とエイジはもう一度拳を振り上げた。振り上げたまではよかったものの、でもこれを振り下ろしたらきっとさっきより痛そうだ、と思ったらとても振り下ろす気にはなれなかった。突き上げた拳をわなわなと震わせて、エイジはがっくりと、力なく肩を落とした。やばい。社会に絶望する俺、かっこいい。

 エイジにとってなにより不幸だったのは、武闘派としての身体的な適正よりも、彼自身の温厚な性格だった。エイジはいままで、言いつけられたことには全て従順に従ってきた。社会や大人たちに対して逆らおうと思ったことなど一度もない。そんな人間が急に反社会的非合法組織のリーダーに任命されたのだ。上手くいくはずがなかった。決定会議直後の就任の挨拶などは、もう無惨としか言いようのないものとなった。

「えー、その、みなさん。いろいろ大変だとは思いますが、まあ仲良くのんびりやりましょう」

 思い出す度に恥ずかしさが蘇る。大人たちのしらけた目、同年代の連中の嘲るような表情、先代リーダーの同情に満ちたフォロー。悔しくて仕方がなかった。いったいどうしろというのか。急に社会に対して反抗しろと言われたって、そんなのできるわけがない。エイジには理解できなかった。反抗とは、叛骨はんこつとは、いったいどのような感情なのだろう。まったく想像もつかないけれど、ただひとつ言えることは――エイジは決して『彼ら』を許すことはないだろう、ということだ。

 信頼していた大人たち、仲間だと思っていた同年代の連中、エイジはその全てに裏切られた。信頼も友情も全ては儚い幻想に過ぎず、そして大人たちの汚いルール、『公正な民主主義』によって、一気に奈落へと落とされたのだ。信じられるものなど何もない、スラムの社会も、友情の輪も、大人も何もかも、みんなクソ喰らえだ。俺には反抗がなんなのかわからないけれど、でもお前らのことだけは許さない――そも民主主義だなんて幻想に乗っかっている時点で、あいつらはマーケットに迎合した『社会の fuckin' 歯車』に過ぎないのだ。資本主義の豚だ。それを駆逐するために、民衆の真の自由と権利を手にするために、立ち上がらなくてはならない。反抗だとか抵抗だとかよりも、そっちの方が大事なんだ! フリーダム!

 立ち上がり天に慟哭どうこくするエイジの姿は、無論エイジ本人からは目視することはできないのだけれど、でもだいたい想像はつくしそして彼にとっては明らかに格好よかった。天に向かって吠える俺、胸に込み上げるのは無力感ばかり。でもその空しさがまたかっこいい。もう最高だった。いやむしろ最低で最悪な状況なのだけれど、しかしなんとなく気持ちいいというか、この清々しいような気分は一体なんなのだろう。いや違う、俺はいま社会に追い詰められていてとても最悪な気分ででも這い上がるそんな俺最高。かっこいい。

 その言いようのない陶酔感に酔いしれていたところに、しかし唐突に響いたのはそれを阻害する声。

「なにやってんの、ギョウちゃん」

 聞き覚えのある、というよりも毎日聞いている声だった。思わず振り返ったエイジの目に、思った通りの人影シルエットが飛び込んでくる。七分丈というのか、すねくらいまでしかないジーンズに、重ね着の白いキャミソール。まだ夏には早いこの時期にこの格好は少し寒いんじゃないかと思うけれど、彼女にとってはいつものことだから別段気にならない。黒いロングヘアを夕焼けに翻しながら、荒れ放題の大地に仁王立ちするその姿は――。

「昔っから、落ち込むとここに来るよね、ギョウちゃん」

 幼なじみで同い年の、ユエン・マキシマその人だった。

 ――考えるよりも早く、体が動いた。

 給水塔の柱を思いっきり蹴り、宙に飛び出す。逃げなくては、なんて、考えている余裕もなかった。エイジは生まれてこの方、彼女と関わり合っていい思いをしたことは一度もない。例えば恥ずかしいポエムを自作しているところを覗き見されたり、自己陶酔的な妄想に浸っているところを目撃されたり、なにより一番こたえたのは、ボランティアの保健団体によって実施された、寄生虫検査の結果を彼女に横取りされてしまったことだった。おかげであだ名は決まってしまうし友人たちとの関係まで微妙に変化してしまうしで、とにかく大変な目にあったのは間違いない。他にも数え上げたらきりがないが、数えるまでもなく胸に鈍い痛みのようなものを感じたので、エイジはそれ以上考えないようにした。いまはなにより、逃げなくては――着地の衝撃に身構えたその瞬間、不意にエイジの視界が陰った。

 足下の地面に見えるのは、夕日に長く伸びた自分の影――いや、明らかに違う。ざわざわとうねるこの長い髪のシルエットは――。

 上か! と気づいたその瞬間には、すでに背中に衝撃を感じていた。

「ね、ギョウちゃん。なにしてたの」

 相変わらず、ユエンの身体能力はすさまじかった。まさかあの給水塔を飛び越えて、なおかつエイジの上に膝蹴りの体勢のまま飛び降りて、そのうえ地面に引き倒して馬乗りの体勢マウントポジションから拳のシャワーを浴びせるのだから大したものだ。というか、なぜこのひとは拳のシャワーを浴びせるのかさっぱり理解できない。おかげで質問に答えようにも、

「ご、ごめんなざあぐっ、やべあ、やべでぐだざぅあっ、ゆるじげぼ」

 としか喋れない。健康なのはいいことだけれど、でもノリで人を殴るのはよくないとエイジは思った。人道的に考えて「ごめん、つい」で済む問題ではない。ないのだけれど、そんなことを冷静に討論できるような状況ではなかった。泣きながら正直に全て自白するのが精一杯だ。

「あーそっか、ギョウちゃん、抵抗勢力レジスタンスのリーダーだもんね」

 わかりきったことだった。そして彼女にそのことを思い出させるためだけにボコボコにされたのか、と思うと、エイジは言いようのない無力感に襲われた。地面の上に正座をするのは足が痛い。殴られて口の中を切るのはもっと痛い。なによりも、もう全部忘れておうち帰って寝たいと思う自分の心が痛かった。ごめんなさい、と謝ろうとして、でもその一言ひとことを発する勇気すら持ち合わせていない自分に、エイジは胸の中を熱くした。

「なに泣いてんのー、もう。大丈夫、なんとかなるって!」

 いつも前向きで、そして周囲の人間を明るく励ますのがユエンのいいところだ。とはいえ、エイジにしてみれば涙の原因が彼女自身なのだからあまりありがたくはない。そもそもにして、このユエンが前向きに、至ってポジティブにつとめようとしたときは、だいたいロクなことが起きない、というのがいつものパターンだった。

 夕日が逆光になっているおかげで、エイジにはユエンの顔が見えない。でもきっと、彼女はいつも通りの笑顔でいるのだろう。差し出された右手に手を重ねて、引っ張り上げられるようにして起き上がると、ユエンは、

「じゃ、いこっか」

 と、エイジの手を力強く引いて歩き出した。この感覚には覚えがある、小さな頃、同じように夕焼けの中を、ユエンに手を引かれて歩いた思い出。同年代の男子にいじめられていたエイジに、彼女は「大丈夫」と微笑みかけて――強くなるには修行だよ、と、野犬の群れの中に放り込んだのだった。

「どうか命だけは」

 そう叫んで逃げ出したいところだったが、しかしユエンの握力から逃れることはできそうもなかった。ずるずる引きずられるようにして歩いていると、前をゆくユエンが振り返る。

「ちょっとー、ちゃんと歩いてってば」

 そう軽く凄んでみせるユエンに、エイジは思わず、まったく無意識に、「どこ行くんすか」と聞き返していた。あとあとエイジは、この軽率な行動を深く後悔することになる。聞かなければよかった。それならばせめて、こうして歩いている間は怯えずに済んだのだから。

 夕焼けの中、ユエンの大きな瞳が、柔らかく輝くのが見える。薄い唇がゆっくりと開いて、そこから漏れ出したその言葉は――。

「どこって、決まってるじゃない。抵抗勢力レジスタンスなんだから、財閥の本社ビルに殴り込みでしょ?」

 その有無を言わせぬ口調は、まったく疑問形の体をなしていないなと、エイジは思った。

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