9 / ここからすべてを

 ハイロの涸れ川を水が満たし、その流れが緩やかになって市内も落ち着いてきたころ、城に新たな騒ぎがあった。壁沿いに水が流れ落ちる滝がシンボルの第二庭園に突然、一柱の竜が降り立ったのだ。あまり広くはないその中庭は、慌てて出てきた衛兵たちで大わらわになった。 


 マルクトに呼ばれてその場に向かったルーシェとフォルセティが目にしたのは、白銀の毛並みと夜空の色の爪を持つ竜だった。狼に似た姿ではありながら、長い二股の尾を左右から前に回し、そうして自ら作った円の中に鎮座したその竜は、日の光を背負い、神々しささえ湛えていたが、翼は持たず、その代わり足許に光をも呑み込む深淵を従えている。竜はその真中に行儀良く四つ足を揃えた形で在った。

 それが見下ろす先にはタイガが立っていた。竜がちらとこちらを見た。鮮やかな青の目は変わらない。ルーシェはそれで、あれが誰なのか理解した。


 その竜は口を開きもせず、それでもよく通る声でタイガに言った。

〈きみが頭を下げると聞いてね〉

 衛兵がざわめくが、タイガはイシトを見上げたままだ。タイガはにやりと笑って答えた。

「私がわざわざ下げなくとも、そうして座っていてさえおまえのほうが頭が高いだろう。変わらんな」

〈そうでもない。きみが森を焼いたおかげでしばらくはなかなかの異形だったよ〉

「聞いている。それこそ民に望まれた『森の魔物』の姿であったろうに。ともあれ」

 タイガは一歩後ろに下がり、深々と頭を下げた。

「このたびの件、この国の王として礼を言う。それからこれまでのすべての非礼に深甚の謝意を」

 イシトは目を細めたがそれには返事をせず、タイガの後ろに控えたシャゼリを一瞥すると立ち上がった。彼が首を伸ばし、天を仰ぎ、息を吸う。誰もがその声なき咆哮を聞いたそのとき、彼の姿はどこにもなくなっていた。


 ルーシェたちに気づいたタイガは、ふたりを手招きして噴水を示した。フォルセティはその噴水の前をしばらく行ったり来たりして確認し、戻ってくるとタイガに「大丈夫です」と言った。

「濁ってたらまずいなと思ったんですけど問題なさそうです」

「では予定どおり二時間後に」

「わかりました。準備をしてもらうので水竜を下がらせますが、一応僕らも立場上、ノーガードというわけにいかないので」

 そう言ってフォルセティが空を見上げると、砂地の色の体に三双の翼を広げた竜が日の光を遮り、城に大きな影を落としながら空を横切った。それを見送ったタイガの後ろで、ルーシェたちをこの城に連れてきたあの髭面で恰幅のいい衛兵が呑気な感想を述べた。

「今年は竜がよく来るな」

 

 

 午後の会談を控え、ルーシェとフォルセティはいつもの部屋で昼食をとった。いつもと違うのはそのテーブルにシャゼリもついていること。

 シャゼリは思いのほか食べ方が丁寧で、フォルセティの豪快な食事を見慣れたルーシェからはかなり新鮮だった。もっともフォルセティは自分とシャゼリとを比べる気など毛頭ないようで、誰よりも先に器を空にしてしまうとまだ食事中のシャゼリに問いかけた。

「おまえどんだけ勉強したの?」

「なんだよ。いきなり」

「いや、二声対位のアルモニカでまともに実行できるやつなんか初めて見たから。俺たちがこっち来て、それから勉強始めてっていうこの短期間であんな複雑なのが正確に作れる人間がいるんじゃ俺絶望しかないんだけど」

「心配しなくても、仕上がりには俺が書いた草稿なんか最初の数文字しか残ってなかったよ……」

 フォークを置きながら答えたシャゼリは、それに、と続けた。

「外に関しては、長兄が報せが遅いのが気になって、陛下に進言の上で水利組合に指示を出してたそうなんだ。ただ、そもそも民のほうも例年のことだから号令を待ってから動くなんてのは実は少数だったみたいで。今回イヴァレット様にご助力いただいたものでのフォローが必要だった農地は結果的には数えるほどだったと聞いてる」

「じゃあ、なに? 優秀な兄上のおかげでおまえのは結局取り越し苦労だったの?」

「それ以上に民自身の手柄だよ。でもそこから漏れてて今回ので助かったって人もいたんだから無駄じゃなかった」

「そうは言うけどおまえ、要するに親父に試されたんだぞ。腹立たねえの」


 あっさり「別に」と返したシャゼリを前にフォルセティは不服げな顔ではあったが、ふうん、と答えると膝の上のナプキンを丸めてテーブルに置いた。

 それを向かいで見ていたルーシェの膝の上には、ナプキンの下にあの青い筒が置いてある。

 昨日フォルセティから言われた女王の親書の内容は、何度も見たとおり当たり障りのない挨拶だけだったが、念のためルーシェは筒の中のそれ以外の紙もフォルセティと一緒に確認した。切り刻んでしまったレヴィオからの手紙の残り。それから親書と同じ王家の紋章の透かしと金の縁取りがついた特別な用紙。こちらは下のほうに女王のサインだけがされていた。もちろんルーシェはそれを使うつもりはない。ここに書かれる言葉はなんであれ「ユーレ国王」の言葉になる。だからルーシェが使っていいものではない。ただ、それでも万一、親書の体裁を利用しなければ対応できない何か不測の事態が起きたときには——それに備えてデュートはこの自署を添えた大切な一枚を、きっと、国王としてではなく母として委ねてくれた。そのことがルーシェにどれだけの自信と安心と、そして勇気を与えたか、わからない。

 タイガへのメッセージの入った親書以外はすべてしっかり燃やして、今日を迎えた。

 

 

 食事を終え第二庭園に戻ると、さっき竜がいたところには立派な椅子が数脚運び込まれていた。エメルのほかにいるのは五、六人だけで、先ほどよりだいぶ減っている。ルーシェはエメルに案内された席に腰を下ろし、膝の上に親書の筒を置いた。

 フォルセティはいない。ネコを連れ、ユーレのサプレマや水竜との間で最後の打ち合わせをしているからだ。

 第二庭園はかなり春めいてきたとはいえ、イヴァレットの庭に比べればずっと寒々しい。流れ落ちる噴水を前にルーシェが居心地悪そうに待っていると、不意に後ろから肩を叩かれた。振り向いたところにいたのはクレタだった。彼女はルーシェの隣に座った。

「シルカは?」

「もうすぐ来ると思う。今、母と一緒にタイガ……じゃない。陛下のところに」

「イヴァレット様と? どうして?」

「母とシルカはあなたの国に大変な無礼を働いたからね。一応、先にすりあわせとかないと」

 苦笑いしながら答えたクレタにルーシェは、ああ、と呟いた。

「そういえば私、王宮に侵入したシルカにナイフを突きつけられたこともあったわ。ねえ」

「なに?」

「どうするか決めた? あなたたち」

「うん」

 あっさり答えたクレタの返事の続きを促そうとしたとき、シルカとタイガが歩いてくるのが見えた。ルーシェは立ち上がり、ふたりを迎えた。


 タイガが席に着くのを待っていたかのように、奥からフォルセティがネコと一緒に出てきた。ネコだけルーシェのところに来て、膝の上に飛び乗る。ルーシェはそれを撫でながら、フォルセティがタイガの横で片膝をついて細々とした説明をしているのを眺めた。

 忘れそうになるが、彼はあくまでルーシェの従者なのだ。そんな建前が馬鹿馬鹿しくなるくらい、この道中ふたりの間では遠慮のないやりとりがあったけれど。

 ルーシェがそんなことを考えていると、彼女の隣に腰掛けたシルカが足と腕を組みながら、ルーシェを挟んで反対側のクレタに聞いた。

「もう話したのか?」

「え、あ。まだ。ねえルーシェ。私たちが歌ったコードね」

「え?」

 慌てて振り向いたルーシェに、クレタは「コード」と繰り返した。

「もともとは水路だけって話だったんだけど、母がもう少し手厚くしようって言って、シャゼリさんが作った原案にかなり手を加えたの。イシトはものすごく面倒臭そうな顔しながらだったけど、ちゃんと手直ししてくれた」

「手厚く?」

「シオンの地下を通る水も、一緒にどうにかしようって」

「それを、イヴァレット様が」

 そう、とクレタは頷いた。

「私、ドルジの話をしたのよ。そしたら母、戻るつもりはないけど、それでもみんなにちゃんと自分のこと一目置かせておきたいって……」

 ルーシェは思わず苦笑を漏らした。なるほどクレタとシルカの母だ、きっと心中はそんな単純ではなかっただろうに。ルーシェは尋ねた。

「じゃあ、あとは土をきれいにすればいいだけなのね」

「そう。それをね、ルーシェに頼まなくちゃならなくて」

「私?」

 思わず身を乗り出したルーシェは、周りを見ると慌てて背筋を伸ばし、何ごともなかったかのように前を向き、なるべく小さな声で聞いた。

「私ができることがあるの?」

「あなたじゃないと駄目なの。だから一緒に一度、みんなのところまで戻ってくれる?」

「私じゃないと……?」

 シルカが脇腹を小突いてきたので、ルーシェはまた自分がまっすぐ前を向けていないのに気づいて背筋を伸ばした。

 膝をついてタイガと話していたフォルセティが立ち上がり、タイガの後ろを回り込んでルーシェたちのほうに歩いてくる。衛兵たちも姿勢を正した。ルーシェはフォルセティが自分の後ろで立ち止まったのを足音で判断して振り返ると、ネコの下から引っ張り出した親書の筒を渡した。


 ぴんと張り詰めた空気の中、後ろで筒の蓋を引き抜く、場違いに陽気な音がした。クレタが笑いをこらえ、その反対側ではシルカが白けた顔をしている。ルーシェは深呼吸をすると顔を上げた。目の前の緩やかな滝に目を凝らす。


 水音が少しずつ途切れ、

「……のね、サプレマ。これ」

 とても、とても懐かしい声が聞こえた。

「あら? もしかして」

 もう何年ぶりかのようにも感じる、

「あらやだ。もう繋がっているの?」

 タイガが立ち上がった。


 水の幕の向こう。ユーレの玉座の女王デュートは、目の合ったルーシェに一瞬パチンと片目をつぶって見せ、それから優雅に礼をすると微笑んだ。


「ごきげんよう、ガイエル国王陛下。さあ、はじめましょう」

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