8 / 歌を、あまねく
城内で必要な資料をかき集め、着替える時間も惜しんで城下のマルクトの家に向かったシャゼリを、イシトはその小さな庭の真ん中で出迎えた。
「ずいぶん慌てているじゃないか」
ニヤニヤしながら言った彼の横を、シャゼリは両手いっぱいの資料を抱えたまま睨みながら通り過ぎた。それから中に入ると荷物をテーブルの上に置いて、ベルトを外し鎧を音を立てて脱ぎ捨てる。後ろを振り向くと、イシトが扉の枠にもたれかかって面白そうに見ていた。シャゼリは体もそちらに向け、イシトに正対すると深呼吸してから言った。
「水が来る。でもまだ周りの準備ができてない。このまま迎えると水が足りない家が出てくるし、報せが遅れたせいで農業用水路の補修スケジュールもずれているはずだから、灌水に影響が出ると最悪、次の冬が越せない。手伝ってくれ」
「なぜ僕がきみたちを助けると思うんだ?」
「陛下がおまえに頭を下げて頼んでいる」
「へえ。タイガが」
イシトは口角を上げ、城のほうを見た。もちろん城など見通せはしないのだが、彼は目を細めると「ふうん」と呟き顎をなでた。それから彼は部屋に進み入ると椅子を引き、斜めに腰掛けてからテーブルに頬杖をついた。
「ならば手は貸してあげよう。ただしあとでタイガ本人が僕に、実際に頭を下げることが条件だ」
「は? そんなことできるわけないだろ」
「彼は僕と友人に詫びるべき罪と非礼を幾重にも重ねている。それを一度の謝罪で済ませてやると言っているんだ。きみも僕にものを頼むのならご尊父にそのくらいさせてみたまえ」
シャゼリは呆れて言葉を失ったが、大きく息をつくと自分の頬を挟むように叩き、わかったよ、と言った。
「わかった。努力する。だからまず助けてくれ」
「承知した。ではきみの考えを聞こうか」
「蔦虫の算段はつけてある。それでなんとかなるか?」
イシトはシャゼリが積み上げた資料の中から地図を引っ張り出し、それをテーブルに広げた。手元から奥に向かって水路を目で辿り、その先にシャゼリが座るのを見ながら彼は聞いた。
「あの地竜に集まってきた虫?」
「そう」
「あれだけいれば市中の水路程度は手を貸すまでもなさそうだが。普段全く手入れしていないわけでもなかろうし」
「範囲は国土全部だよ。広すぎて今の俺ひとりでカバーできる限度を遙かに超えてる。書いて回るのも到底間に合わないし」
イシトは眉を寄せると大きなため息をついた。
「なぜ書いて回る必要がある? 重要なのは音のほうだと何度も言わなかったかな」
「でも書き物は補助としては有効だと言ったのもあんただ。それとも叫べって?」
シャゼリは訝しげにイシトを見た。イシトは呆れた顔で言った。
「どんなにきみが大声を張り上げたところで聞こえる範囲など限られているだろ。きみのしようとしていることを考えてみたまえ。天の与えた歌を、王の統べる土地にあまねく。自分の手駒を見誤るな」
シャゼリは弾かれたように立ち上がり、家を飛び出していった。
そうして城とマルクトの家とを往復してへとへとになったシャゼリを、城の玄関ホールで待ちわびていたルーシェが迎えた。
先刻、ただごとではない顔で部屋に走ってきた彼に、ルーシェは言われるままいる限りの蔦虫を提供したものの、シャゼリは礼を言うとルーシェにその事情を話す間もなく出ていってしまった。もちろんルーシェだって彼が蔦虫を悪用するとは微塵も思っていないが、何が起きているのかはやはり気になる。ルーシェは後宮への扉までを急ぐシャゼリの横を小走りでついていきながら尋ねた。
「何があったんですか?」
「水が来るので」
「道の下の水路の?」
「そうです。報せが今年は遅れました。それで、いつも民がそれを合図に始めるいろいろな準備がすべて後倒しになっているので、本格的に水が来るまでに間に合わない可能性があります、というかこのままだと確実に間に合わない」
シャゼリの言う「いろいろな準備」について、ルーシェは眉を寄せて考えた。城から見渡したハイロの外側には、なだらかな下り勾配に春を待つ農地が見えた。勢いよく山を駆け下りハイロの道の下を通り抜けた水は、きっと脈打つ心臓から体の隅々に送られる血のように周囲に命を供給する。それを受け止める器の準備がまだで、そのまま流れ去ってしまうようなことになったら――ルーシェは思わず呟いた。
「大変」
「ですからお借りした蔦虫と、それからクレアリット様と、シルカの力を借りて。応急的に用水路だけでもフォローします。それがたぶん、一番影響が大きいところなので」
「もしかしてなんですけど、報せが遅れたのって……」
ルーシェがこわごわ尋ねた頃にはふたりは後宮への扉の前まで来ていた。そこで立ち止まり、シャゼリは腰に両手を当ててルーシェを見た。
「貴国は竜と上手く付き合っているようですが、我が国は相性が悪そうです。ことにあの地竜は」
「やっぱり……あの、本当にごめんなさい。私たちにも責任があることだわ」
ルーシェが下を向いて額を押さえているのに適当に慰めの言葉をかけると、シャゼリは扉の横の守衛と交渉を始めた。後宮で生まれた彼はここに立ち入ることができるが、入室を許されているのは自分の母の部屋のみ。イヴァレットの部屋はもちろん、どこにあるかも知らされていないクレタやシルカの部屋など訪ねるべくもない。だからふたりに連絡をとりたければエリシュカとイヴァレットを介するほかなく、そこに多少の時間の無駄は覚悟せざるを得ないと彼は考えたのだが――そうしてシャゼリとルーシェが訪ねたエリシュカの部屋には、その主がイヴァレット、そしてシルカとクレタと共に待っていた。
そのころフォルセティはルーシェの部屋を訪ねたが、ルーシェもネコも不在で、部屋は施錠され入ることもできなかった。それで彼は親書の内容を確認できなかったが、タイガの言うとおり内容など知れているだろう、なんせ故フォルセティ=トロイエの時代以来互いの情報をほとんど持たない国どうしの最初の挨拶である。
仕方ないと割り切った彼は、次はマルクトを探した。城内を散々うろついて、ようやく探し当てた相手は門衛と世間話をしていた。今のフォルセティはそれが、タイガに呼ばれたあと部屋に戻らなかったシャゼリを捕まえたいからだとは十分理解している。しかしシャゼリにはたぶんその相手をする暇はないので、フォルセティはマルクトを引きずるようにして自分の部屋に向かった。
しっかり扉を閉める。若は、と尋ねるマルクトを尻目に、フォルセティは荷物の下に押し込んだ書き物を引っ張り出して、マルクトの前のテーブルに広げた。
かなり精緻な図面だ。マルクトはそれを腰をかがめて隅々まで見、それから顔を上げた。
「よくできた間取り図だね」
「あんたの陛下からお願いされたんですけど、この中で国王どうしの会談に使っていい感じの場所ってどこですか」
「国王どうし?」
怪訝な顔で聞き返したマルクトに椅子を勧め、フォルセティは自分も腰掛けながら答えた。
「うちの女王陛下と話したいらしくて」
「どういうことだ? 貴国の国王がお越しになるのか? それなら……」
「いや、来ないですしたぶんガイエル側も並み居る群臣を見せつける感じでもないです、もうちょっと形式ばらない感じでいいと思う。詳しい話はあとでしますけど、とりあえずこのくらいの水盤が置けるか水が幕みたいに流れ落ちるタイプの噴水や滝があって、明るくて、我が国の女王陛下に見せても問題ないところ」
両腕を広げながら説明したフォルセティを、マルクトは片肘をつき、顔は図面に向けたまま視線だけ上げて見た。彼はそれ以上の説明の気配がないのにため息をつくと、図面の上でいくつかの場所を指さした。
「それなりに重いものを置くつもりなら、床の心配がないのは、ここか、ここ。格式が高いのはこちらだが少し暗い。明るいのは……」
「そこ俺たちが最初に昼飯食ったところでしょ、あの不穏な。絶対やだ。絶対だめ」
「だめか。ならあとは今あるものをほとんど片付けてしまわないと使えない部屋か、それか少し弱い床の部屋でもやむを得ないか。あるいは第二庭園だが」
「庭園。それがいいです」
マルクトは肩をすくめた。
「残念ながらこの時期は水は枯れていてね」
「それなら数日後に来ますから大丈夫」
「そんなにすぐには来ないよ。号令だってさっき出たばかりで」
「それが来るんだ。だからあんたの若が走り回ってるんですよ」
マルクトは絶句してフォルセティを見た。フォルセティは慌てて首を振った。
「シャゼリがやらかしたわけじゃないです、いや間接的にはあいつの責任もあるけど主に俺たちです。シャゼリはそれで、おたくの陛下からその尻拭いを託された」
「陛下が? 若に?」
「やってみなさい、って言われてましたよ」
マルクトは瞬きをすると大きく息を吸い、背もたれに背を預けて天井を仰いだ。
フォルセティの予言どおり、ハイロの大通りの下を激流が走り抜けたのはその二日後だった。
シャゼリが徹夜で殴り書きイヴァレットが大幅に手を入れてイシトの容赦ない手直しを経たコードは、蔦虫と浮虫、そして吹虫に同時に指示を与える複雑なものになった。
涸れ川に水が満ちるその日、シルカとクレタはそのコードの
普段より軽く一週間は準備期間が短かったので、ハイロ市内では十分な貯水ができなかったものも何軒かあったが、不思議とその年は春の水が来た直後も、井戸の水が濁ることはなかった。
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