6 / 日没、ふたりのだいじな話

 ネコを連れていても、ルーシェがフォルセティの部屋にたどり着くのは一苦労だった。とにかく広い城だし、何よりエメルを連れずにひとりで出歩いているところを城のものに見られたくなかったからだ。

 わざわざ部屋を引き離したのだから、ルーシェとフォルセティが自由に会うのはきっと、この城のものにとって歓迎すべきことではない。だからこれはルーシェから目を離したエメルの責任ということになるが、エメルに今日はずっと図書室にいると言ったのはルーシェだ。だからエメルがそのせいで何かしらの責を負わされるのはルーシェの本意ではなかった。

 ネコを前にして進み、彼が尻尾を立てるたびに壁に張り付くようにして息を潜める。尻尾が下りるとまた進む。そんなこんなでルーシェがフォルセティの部屋の前までたどり着いたのは、もう日が傾き始める頃合いだった。


 扉を二回叩く。中から気の抜けた声で返事があった。進み入ると目に入ったベッドの上では布団が、中身が抜け出たままの形を保っていた。まるで虫の抜け殻だ。フォルセティはその前で絨毯をめくり上げ、地べたにあぐらをかいていた。素手で、裸足。靴とグローブは床に放り投げられていた。彼は前に立ったルーシェを見上げて言った。

「ひとりで来ていいの?」

「良くないと思う。だから隠れながら来たの。うーちゃんが案内してくれて」

 ルーシェが足元のネコを見ると、ネコはその場に腰を下ろし、澄ました顔で長い尻尾を前に回してふかふかの足を隠した。

「あなたに見てほしい本を見つけたの。土壌浄化について書いてある。汚染された土を、特定の植物を植えて、その植物に毒素を吸わせてきれいにする方法」

「図書室にあったの?」

「そう。その毒素のこと最初に見つけたのは鉱物に関する本の中で、何度も読んだ跡が。それで、そこをヒントにほかの本もいろいろたどって……植物の名前、忘れるといけないと思って書き留めてきた。見て」

 ルーシェは左手の甲を、座ったままのフォルセティの前に突き出した。フォルセティは目を細めてそれを見たが、膝をついて立ち上がると視線はルーシェの手の甲から移さないまま、ぺたぺたと足音を立ててルーシェの隣まで回り込んだ。ルーシェは最初その意図がわからず体を引きかけたが、それが手の甲に書かれた文字の向きの問題でしかないと気づくと、逆に彼に肩を寄せて手を近づけた。

「これ。あなたが買った中にあった気がして」

「よく覚えてるな。暑さが苦手で、だからユーレ近辺では普通には育ちにくいやつだよ」

「ドルジさんたちに伝えられないかしら」

 フォルセティは首をひねりながらルーシェから一歩離れた。

「伝えることはできると思うけど……」

 ルーシェにはその続きがわかる。伝えてどうするのだ、と。彼女は頭を振った。

「もちろん、水が原因なのならそっちを解決しないと、土だけきれいにしたっていたちごっこなのはわかってる。だけど、水をどうにかしたあとには土だってちゃんと整えないといけないでしょう」

「で、根本的な水をどうにかする方法は?」

 ルーシェは俯いた。フォルセティが肩をすくめると、ルーシェは、でも、と顔を上げた。

「でも、汚染されてない水場だって伝えた。だからドルジさんたちはこれで、時間はかかるけど、そして小さいものだろうけど、毒のない畑を手に入れられるようになる。そうすればドルジさんたちの選択肢は増える。暮らしも少しだけかもしれないけど、良くなる」

「ルーシェは、そんな面倒でまどろっこしいことせずに地竜にやってもらおうとは思わないの。エルジェシルの蔦虫みたいに」

 フォルセティがぼそりと聞くので、ルーシェは驚いたように聞き返した。

「やってくれるならありがたいけど。でも、続けるためにはそこに暮らす人たちが、自分でできることが大事でしょ。誰かの恵みをあてにした解決策なんて傲慢だし、そんな提案も無責任よ」

 きっぱり答えたルーシェにフォルセティは目を丸くし、まじまじと見つめたあと、そうだな、と呟いた。

「あのな、ルーシェ。話しておきたいことがあるんだ」


 小さなテーブルを挟んで座り、正面でフォルセティが語ったマルクトからの申し出を、ルーシェは慄然とした顔で聞いた。

「ガイエル王は、そんなことを」

「クレタのことなんだと思ってるんだって思うよな。俺もそう言ったよ」

「私は、あなたのこともなんだと思ってるんだって思ったけど」

「ああ、そうか。そういやそうだな」

 フォルセティは頭を掻きながら答えた。

「いやまあ、ちょっといやらしい言い方になるけどさ、俺は自分の血統というか体質というかが、いろんな意味で有用であることはちゃんと自覚があるんだよ。なんせサプレマは国防の要だなんて言われていたころもあるくらいで。だからそれを取り入れたいと思われることがあっても、まあ合理的に考えればそういう人もいるでしょうねって……」

「それは他人の思惑や理屈の話であって、あなたがどうしたいかとは全然関係ないでしょう」

「確かにそうなんだよな。なんかスコンと抜け落ちてた」

 フォルセティは頬杖をついて天井を仰ぎ、しばらく考えたあと視線を下ろしてルーシェを見ながらしみじみと言った。

「かなり嫌だな」

「だけど、クレタのこと嫌いじゃないんでしょう?」

「そりゃまあ。でも、だからこそお膳立てされて乗っかるのは俺のプライドが許さないし、それ以前にそういう無責任なことしていくのは絶対やだ」

「じゃあガイエルに残る?」

「馬鹿言うなよ」

 即答したフォルセティの紫色の目をルーシェはたっぷり十は数えられるくらい見つめ、それから深呼吸をした。

「私たち。これからすることを整理しましょ。最後は必ず、一緒にユーレに帰るとして」

「うん」

「クレタとシルカを、ドルジさんのところに連れて戻る?」

「それは本人たちがどうしたいかを聞いてから」

 ルーシェは頷いた。

「もちろん。もしそこで帰りたいって言うんだったら、それを手伝う。でも無理矢理連れ出すのは解決にならない、ちゃんと皆を納得させなくちゃ。とくにガイエル王を」

「難題だな。実は娘じゃなかったとか言えればいいけど」

「逆ならわかるけど王自身が認めちゃったんだもの、そこに他人が割り込んでうまくやる方法なんて思いつかないわよね……」

 ふたりが黙り込んでしまったそのとき、ドアを叩く音が聞こえた。ルーシェは飛び上がり、扉のほうを振り向いた。

 窓の外を見る。フォルセティの部屋の窓はルーシェの部屋のそれと違ってかなり小さいし、奥まっていて見づらいが、それでももう日が暮れかけていることはわかった。どうしようもないままその場で来訪者を迎えると、そこに現れたのはシャゼリだった。


 フォルセティが立ち上がったが、シャゼリはフォルセティが踏み出す前に既にずかずかと部屋の真ん中まで進んできていた。呆気にとられた顔で見上げてくるルーシェに一瞬ぎょっとした顔をしたものの、シャゼリはすぐ会釈だけするとフォルセティにずいと顔を近づけた。

「おまえの『連れ』について説明してもらおうか。どういうことだ? 竜だと? あの、空を舞っていたやつだけではないのか?」

「待て待て、待てって。悪かったよ。言ってなかった。確かにお前に紹介したやつは竜だ」

「こいつもだろ!」

 シャゼリは右手を払うようにして後ろを示した。そこには翠嵐が腕組みをし、ニヤニヤしながら立っていた。彼は唖然とした顔のフォルセティに、愉快そうに言った。

「久しぶりだな。元気にしてたか?」

 ネコが背毛を逆立てた。


 さっきまでフォルセティが座っていた椅子には今はシャゼリがどっかと腰を下ろしている。フォルセティはベッドに並んで座っている彼の竜から、首に肘をかけて引き寄せられ、ぐりぐりにいじられていた。

「おまえの親父がなあ。孫ができるかもっつったら突然ガラにもなくソワソワしだしてさあ」

「できないよ。なんでそういうどうでもいいことばっかり即座にチクるんだよ」

「どうでも良くねえよ。おまえの次がちゃんとおまえの体質引き継ぐかどうかってのは俺にとっても死活問題だろうが」

「ええ、まあ、そうですネ。でも残念ですがご心配には及びませんよ……」

 投げやりに返事をするフォルセティを半目で見ながら、シャゼリは大きなため息をつくとルーシェに言った。

「貴国の竜というのは……」

「あの……その、いてくれるだけで恵みがあるので、その依り代と竜とがどんな関係なのかまでは私たちは口出ししないんです。というか、しようと思ったことないし、たぶんそもそも、できない」

「そういうものですか……」

 シャゼリは呆れた顔でふたりを見、仕切り直すように長く息を吐いてからルーシェに向き直った。

「そろそろ夕食に呼ばれる頃合いです。お部屋にお戻りになっていたほうが」

「あ、はい。そうですよね。ありがとうございます、忘れてた」

 ルーシェは慌てて立ち上がった。ベッドの上で揺られていたネコが飛び降りてきて彼女の足元にまとわりついた。それに気づいた翠嵐は、フォルセティをいじるのをやめると腰掛けたままルーシェに言った。

「ちょっといいすか。殿下」

「はい」

「王太子殿下の頼みでね。殿下に虫をいくらか預けてほしいっていうことだったんですけど」

 ルーシェは、え、と小さく声を上げた。

「レヴィオが?」

「そう。で恩売っといても損はないんで、こっち来たあとちょちょっと町中まちなかの蔦虫を引き剥がそうとしたんだけど、そこのやつが文句言うんで」

 そこで翠嵐はシャゼリを見、続けた。

「だから外の山のほうのを適当に呼んどきました。そんだけなんでどのくらい来るかわかんないですけど、言うこと聞く気のあるのはそろそろ殿下の部屋にたどり着いてるだろうから、好きに使っていいですよ」

「ありがとうございます。助かります」


 ルーシェは頭を下げ、ネコと一緒に急いで部屋に戻った。

 エメルはまだ来ていない。ほっとしながら扉を開けたルーシェの目に飛び込んできたのは窓にびっしり張り付いた無数の蜻蛉とんぼだった。ルーシェは小さな悲鳴を上げた。

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