5 / 智慧と知識

 シャゼリはマルクトの家に向かいながら、あの名のわからぬ男に教えてもらった市中の設備のコードをひとつずつ復習していった。

 昨日あの男は家の外に出ると木の枝を拾い、敷地の角になっているところひとつずつに印を付けて家を取り囲み「虫除け」とやらを施した。シャゼリにはそれがどんな効果があるのかはわからなかったが、もとよりなんの知識もないので黙って見ているほかない。それから男はシャゼリに屋内の掃除を命じ、自分はどこかに行ってしまった。シャゼリが舌打ちをしながら居間兼ダイニングの片付けを終えたころ、男は見計らったように戻ってきた。

 シャゼリは文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、室内を見回した男がそれなりに満足げな顔をしたので、それだけで許してやることにした。それから男が「では行こうか」と言ってシャゼリを連れ回ったのが、今彼が復習しているところの、町中の用例観察であった。


 揚水施設の囲いに施されていたのは、手のひらほどの模様に見えるコードだった。これは何かと問えば男は「鍵のようなものだ」と答えた。許されたもの以外がこの囲いを開放し、設備に手を加えようとしたときには、ここにあてがわれた浮虫うきむしが王城に異常を知らせにいくという。水竜の虫。

 男は「もっとましな使い方があるんだがね」と苦々しそうに言ったが、それは何かとシャゼリが聞いても彼は目を細めて口角を上げただけだった。

 道路の下の暗渠にも、蔦虫のコードが仕込まれているという。涸れ川に水が押し寄せるのを察知ししらせる地竜の虫。この知らせがあったら城は市中に準備を始めるよう通達する。シャゼリは感心しながら、足元にまじまじと目を凝らして言った。

「あの号令はそういうふうに発令されているんだな」

「これもあまり賢い使い方ではない」

 シャゼリはむっとして男を見たが、男は気にも留めずに次に向かった。

 来た道を遡るように進んでいったので、やがて城の外壁に着いた。男は背の高い門柱を見上げ、シャゼリもそれに倣ったが、衛兵がこちらを訝しそうに見ていたのでその場にはとどまれなかった。壁沿いに歩きながら男はシャゼリに聞いた。

「門柱の上のほうにあったものに気がついたかい」

「三つ並んでいる小さいやつか。それとも細長いやつ? 壁まで続いている……」

「長いほう。あれは吹虫のコードだよ。今まで見た中ではかなりまともだ」

「どういう内容なんだ」

 並んで歩いていた男はシャゼリを一瞥し、立ち止まってから城の壁を指さした。

「あれがなければタイガの城は風が強いし冷たいしで、渡り廊下など到底歩けたものではないだろう」

「風を緩めて温めているということか」

「風向きを調整しているだけだ。きみが言うものにしたければアルモニカが必要になる」

「なんだそれは」

 男は答えず、意味ありげに微笑んだだけだった。


 そんなこんなで昨日、イシトがシャゼリに示してみせた町中のコードは両手でぎりぎり数えられるくらいの数になった。シャゼリはそれらを書きとめようとしたが、イシトはどれについても許可しなかった。いずれも複製すれば城に知らせが行くらしく。鍵である以上当たり前なのかもしれないけれども——シャゼリはほんのりと違和感を覚えたが、振り払った。戻ってきた家で、イシトはシャゼリが拭き上げたダイニングの椅子に腰掛けながら「タイガは狭量だね」と言った。

 シャゼリは向かい側の椅子を引き、どっかと音が鳴りそうな勢いで座った。

「あんたは陛下をけなさないと気がすまないのか」

「勘違いしてもらっては困る。先に僕を侮辱したのはタイガだ。彼は自分の目を隅々までゆき届かせ民を支配し、また自分の地位を代替性のない絶対のものと演出する道具としてコードを排他的に利用しようとしている。そういう品のない使い方を僕は不愉快だと言ったんだ。彼はその、僕の示した不快感を狭量だと。その評価がどちらにふさわしいか、きみは考えるといい」

 シャゼリは言い返したい気持ちを呑み込んだ。この男の示すタイガの像は、彼の認識とはあまりに違う。シャゼリは眉間を押さえながらため息をついて、聞いた。

「教えてほしいんだが。あんたと陛下はいったいどういう関係なんだ」

 イシトは頬杖をつき、少し考えてから答えた。

「一言で表せるような典型的な関係ではない」

「じゃあ、いつから知り合いなんだ。あんたがそれを陛下に言われたというのは」

「彼が『地に満つる喜び』を焼き払ったころ」

 全く意味不明だったが、顔を見ればそれ以上答える気がないのも明らか。シャゼリは頭を抱えた。


 結局その日シャゼリは、その男の知識を披露されただけで終わってしまった——と、思っていたのだが。

 今日歩きながら見直してみて、彼は昨日のほとんどのコードに共通の小さなまとまりがあるのに気づいた。複製を通報するコードが仕込まれているという説明が事実ならば、その記述はこれだろうと思いながら、彼はその部分だけをこわごわと手のひらに人差し指で書き写し息を止めて待ったが、特に何も起きなかった。

 あの男の言うような、それこそ独占を目的としているとの解釈に沿うコードを、王が仕込んでいるとは信じたくなかったから——彼はその、「何も起きない」という事実にほっとして、もう一度同じものを手の上で練習し、それからマルクトの家のある路地に曲がった。

 昨日イシトが敷地の縁に施した虫除けは地面に木の枝で書いたもので、一日経っただけで薄れてしまっている。シャゼリは腰をかがめ、拾った石でその図形の上をなぞり書きすると、石を放り投げて中庭に向かった。

 中庭は昨日とは少し様子が違っている。足元は固く乾いた地面ではなく、少し水気を帯びて空気を含んでいた。壁際には小さな緑の葉も見える。そうすると途端、空気も温んで感じた。シャゼリはほんのりと柔らかい気持ちになりながら、勝手口のそばに芽吹いた双葉を見下ろしたまま扉を開けた。


 テーブルを挟んで腰掛け談笑していたのは、イシトと見知らぬ女性だった。シャゼリはとっさに剣に手をかけながら後ずさり、イシトを睨みつけた。イシトは立ち上がりさえしなかった。

「相変わらず物騒だね」

「ここを他人に知らせたのか。誰だそれは」

「昨日まできみの頭の上を舞っていたものだ」

 シャゼリは思わず空を見上げたが、もちろん天井が見えるだけである。女性が立ち上がり、初めまして、と微笑んだので、シャゼリは剣にかけていた手をひとまず下ろした。

 女性は美しい藍色の目をしている。腰掛けていたときにはわからなかったが、一歩進み出て窓からの光の筋に重なった彼女の髪は、黒ではなく彼女の目によく似た色だった。

「少し彼とお話をしたくて、お借りしていました」

 女性はそう言いながらイシトを一瞥した。首元までの彼女の髪は、毛先のほうに向かって明るく透けている。長い睫毛は瞬きをするたびに光の粒をこぼすようだ。こんな人間を見たことがない。シャゼリは口を開いたが、舌が乾くだけで言葉が出てこなかった。女性は頬に片手を当て少しの間シャゼリを見ていたが、彼が無言なのでイシトに尋ねた。

「もしかして彼は、竜が人の姿をとることを知らない?」

「おそらく。きみのあるじのご令息は説明を何もしなかったから」

「あら……じゃあびっくりするわよね」

 女性——水竜はシャゼリに目を戻すとにっこり笑った。

「人間の集落は人間の形に最適化されているので、降りたときはこのほうが都合がよいのです。言霊の竜に聞きました。どうやら私の次の主と何か悪巧みをしているようですね」

「次の主?」

 やっと言葉をひねり出したシャゼリにイシトは「フォルセティだよ」と答えた。

「彼女は彼のご母堂の竜だ」

「……言霊の竜というのは?」

「僕だが?」

 シャゼリは口をぱくぱくさせながら後ずさったが、扉ではないものに押し当たり後ろを振り向いた。そこに立っていたのはまたも、知らない人物であった。

 鮮やかな緑の目、短い赤い髪に前髪の一部分だけ金色。シャゼリが、まさかこれもと思う間もなく、マルクトと同じくらいの背丈のその男は、見るからに不機嫌な顔で「なんだよ」と言いながらシャゼリを前に押し出した。

 こうしてシャゼリは突然、三柱の竜に囲まれてしまったのである。



 そんな城外の状況を知りもしないルーシェは、エメルに言ったとおりその日は朝食後から図書室にこもっていた。先日は暗い中だったので、手元の明かりで照らせる範囲の本しかわからなかったが、今は日の光がいっぱいに入る時間だから、書架に収められた数々の本のタイトルはどれも明瞭だ。

 タイガはこれらがもともと自身の蔵書であることを否定しなかった。そうであれば、タイガはきっとこの大半を——もしかしたらすべてをも、読んでその血肉としているのだろう。さすがに同じことはできないが、タイトルだけからでも得られるものがあるかもと思い、ルーシェは左端の列から順に、数えるように背表紙を観察した。


 まず固めて並べてあったのは歴史に関する本だった。サイズも厚みも装丁も、綴じ方さえもがばらばらで、どれもルーシェが聞いたことのない国。それらはルーシェに、その本が編まれた各国の経歴に思いを馳せさせた。おそらくいずれも今はガイエルの一部になっている。

 次に動物に関する本。動物の種類ごとの生息地、特性、何に利用できるか。その育て方、しつけ方。小動物に関する本を手に取ったルーシェは心の和む挿絵を期待したが、詳細に書かれていたのは残念ながら、適切な罠やその仕掛け方、捕獲後の止めさしの注意、それから捌き方だった。

 本に没頭しているうちに日は一番高い位置を過ぎた。昼食をとりに部屋に戻り、はたと気づいてルーシェはネコを見た。ネコは仕方ないというフリをしながらも、久しぶりの人間と同じ食事を喜んで毒見した。そしてすぐに図書室に戻るとルーシェは作業を再開した。次の棚には治水関係の本が並んでいる。少なくともハイロには、ユーレの首都を流れるような大きな運河はない。しかしルーシェは、シャゼリが言った道の下の暗渠は、もしかしたら想像したよりずっと激しい流れになるのかもしれないな、と思った。

 その棚の周りには植物や植生に関する本、鉱業に関する本などが並んでいる。ルーシェはしおりのリボンがはみ出ていた本を手にとり開いた。何度も読み込まれた跡のあるその本は鉱毒についても詳しかった。ルーシェは目を皿のようにしてその頁を読み、いくつかの言葉を口の中で復唱しながら、それをタイトルに冠した本を探した。

 その本は通路を挟んで反対側の本棚にあった。小口ほどには中身は日焼けしていない。目次の中に「土壌浄化」の項目を見つけ、ルーシェは深呼吸をするとその頁を開いた。いくつかの植物名が並んでいる。ルーシェはその本を読みながら窓辺まで歩いていき、本を手で押さえて開いたまま机につくと、ペンをとって手の甲にその植物の名前を書き付けた。


 ルーシェは本を閉じ、手の甲の文字をまじまじと見つめた。肌理きめに沿って少しだけインクがにじんでいる。ここについた次の日、そう、あのタイガとの昼食をとった日の午前。あの店でフォルセティが買い求めた種の中に、同じ名前のものがあった気がした。

 ルーシェはいてもたってもいられなくなり、立ち上がってその場を離れようとしたが、慌てて引き返して本を手に取り、もとの場所にしっかりと戻してから部屋を出た。

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