7 / 返書

 夕食のためにルーシェを呼びにきたエメルは、いっぱいに開け放たれた窓をルーシェが閉めようとしているのを見、手を伸ばして窓を閉めるのを手伝ってくれた。

「ありがとうございます」とルーシェが言うと、エメルは少し困った顔で笑いながら聞いた。

「虫でもいましたか?」

 ルーシェは内心ひやっとしたが、エメルの問いは部屋の中の虫を外に出したのかという意味のはず。窓にへばりついていた蜻蛉(の姿をした蔦虫)を招き入れるのとは逆だ。

「あ、はい、そうなんです」

 エメルはわずかに目を細めたが、ルーシェはそれには気づかないふりをした。エメルはすぐに表情を戻し、頭を下げた。

「それは大変失礼いたしました。換気中にでも入ったのでしょうね。今後は虫除けをしておきますが、お困りのときは遠慮なくお呼びください」

「ありがとうございます。次はそうします」


 ネコを連れてエメルの後ろを歩きながら、ルーシェは今あとにした部屋を振り返った。

 窓を覆わんばかりだった蔦虫たちは、ルーシェが部屋に入れてやるとすぐに姿を消し、彼女は心からほっとした。「好きに使っていい」と言われたとおり、彼らはここから先は主たる地竜の命に従い、ルーシェの言うとおりにするつもりであるらしい。

 あの地竜とは王宮でも何度か会ったことがある。女王が管財課を通じて塔の上の温室の管理をお願いしているはずだ。その交換条件として女王は彼に、王宮のあらゆる書物に目を通すことを許したらしく、ルーシェも何度か温室で読書中の彼を見た。そのときは本に集中しているせいか物静かで、どちらかと言えば人間嫌いなタイプにさえ思えたのだが——今日の彼の印象は、それとはだいぶ、かけ離れていた。

 それでも「適当に呼びかけた」だけで、あんな数の蔦虫が元いた場所を離れて集まってくるのである。ノイシュトバルトの森を駆け抜けてなお、オト一匹を捕まえてきただけのネコとは確かに格が違うらしい。彼が自称しているという「首座」も、あながち大げさでもないのだろう。ルーシェは廊下から見える窓の外をぼんやり眺めながら考え、足元に目を移した。ネコはルーシェが彼と翠嵐とを比べたことをわかっているのか、彼女のほうを見上げると鋭い牙をむき出したあと、そっぽを向いてしまった。


 食事の部屋の少し手前でエメルが立ち止まった。ルーシェはエメルに託けていた書状のことを思い出し、そうだ、と声を上げたが、エメルも同じ用だったようだ。彼女は「大変失礼いたしました」と言いながらルーシェのほうを振り向き、鎧の隙間から書状を取り出してルーシェに渡した。

「今読んでもいいですか」

「ええ、どうぞ。申し訳ありません、お部屋でお渡しすべきでした」

「いえ、いいんです」

 ルーシェは答えながらも巻紙を広げ、中に目を落とした。相変わらず美しい字で綴られた「クレアリット」からの手紙は、明日の昼過ぎの時間と場所を指定していた。シルカのことには触れられていない。ということはだめだったのだな、とルーシェは落胆したが、その代わりのように書かれていた名に彼女は目を見張った。

「ノイシュトバルト……」

 ルーシェが呟くと、エメルは首を傾げた。

「なんでしょうか」

「あ、いえ、あの。共通の知り合いで」

「なるほど。お友だちですね」

 柔らかく笑ったエメルにルーシェは曖昧な笑顔を返しながら、もう一度文面の最初から目を通し、必死に頭を働かせた。

 明日の昼過ぎ。クレタとルーシェのためにイヴァレットが席を設ける。もちろん彼女も同席する。そこにイシトを連れてくるように。

 どう考えてもイヴァレットはルーシェに——というよりクレタに、自由に話をさせるつもりなどなさそうだった。そしてこの指定。彼女の本命はきっと、イシトのほうだ。ルーシェは唾を呑み込んで、指定された時間を小さく復唱した。


 その日の夕食の部屋にはマルクトもいた。せんだって彼が席を外していた所用についてはシャゼリも何も言っておらず、気にならないわけではなかったが、ルーシェはここではさすがにそれを質問する勇気はなかった。

 今日もフォルセティは、ルーシェに運ばれた器をすぐに受け取りスプーンを構えた。しかしそれに手をつけようとしている間に自分にも運ばれてきた器の中身を見、彼は持っていたスプーンを少し引っ込めて、ルーシェの分は一口だけの毒見にとどめた。

 ルーシェが器を返してもらいながらフォルセティの前を見ると、なるほど彼の器の中身はルーシェの倍くらいは量がある。フォルセティは「ありがたいねえ」とニコニコしながらきれいにたいらげた。

「ねえ、前より食べる量増えてない?」

 ルーシェが聞くと、フォルセティはスプーンを置きながら首を傾げ、後ろを振り向いた。シャゼリがいる。彼は強く同意するように頷いた。フォルセティはルーシェを向き直り、澄んだまっすぐな目で言った。

「腹が減るんだよ」

「それは見たらわかるけど。でも今日、一歩も外には出てないでしょう?」

「出てないよ。おとなしくしてた。でも減るんだよ。たぶんあいつのせいだ」

 そう言いながらフォルセティは左腕を、肘で何かひっかけるように動かしてみせた。ルーシェは、ああ、と相槌を打った。

「そういうところも連動するのね」

「連動っていうか、吸われてる感じがする。いつもみたく自分で食っててほしいんだけど」

「そうしてもらったら?」

「金がないって」

 フォルセティの後ろでマルクトがわずかに首を傾げるのが見えた。ルーシェはこれ以上翠嵐のことを話すのは得策ではないと思い、話題を切り替えた。

「明日、クレタに会えるの」

「そっか。良かったな」

「うん。でもお母さまが同席されるみたいで……緊張する」

 フォルセティは、次の器がルーシェのところに運ばれてくるのを目で追い、それがテーブル上に着地したのとほぼ同時に手を差し出しながら答えた。

「俺も行っちゃだめかな」

「あ、ごめん、聞いてない。でもたぶんだめだと思う。場所が場所だし、それに連れてきてって言われた人がほかにいるから」

 怪訝な顔をしたフォルセティに、ルーシェは器を渡しながらささやいた。

「イシトよ」

 フォルセティは受け取った器を自分の前に置き、フォークを手に取ると、どこを食べるか迷っているふりをしながら言った。

「いいなあ。なんの話すんだろ」

「戻ってきたら教えてあげるから」

「いや、それはいいよ。俺のいないところで遠慮なくしゃべってきたまえよ」

 適当に選んだ具材を口に運びながらフォルセティはルーシェに目配せをし、マルクトからは体の陰になって見えない位置で、器の縁を人差し指でトントンと叩いた。

 あとで聞くつもりはないというなら——その場で共有しろということだ。ルーシェには今、そのための道具が手元にある。ルーシェが蔦虫を連れていけば、それが得た情報は主たる地竜を通じて、その依り代に伝えることができるだろう。つくづく便利なものだと思いながらルーシェは器を受け取り、「わかった」と答えた。


 食事を終えて部屋に戻ると、ルーシェはエメルに頼みごとをした。親指の爪ほどの大きさの石が入る箱をふたつ。エメルは「プレゼントですね」と微笑み、ルーシェは頷いた。

「私の髪飾りについている石を外して、クレタとシルカに。私の国の沿岸で、古い遺跡から掘り出されたものです。もともとひとつだったものをふたつに分けて磨き上げたと聞いています。今は失われた文明の時代に作られたのだとか」

「貴重なものですね。よろしいのですか?」

「はい。今私が持っている中では、一番ふたりにふさわしい贈り物だと思うので」

「かしこまりました。では、箱の中で傷がついてしまわないように柔らかい布と、間に合わせになりますが革紐も合わせて探してまいりましょう」

 ルーシェが礼を言うとエメルはすいと体を横に乗り出し、ルーシェの髪飾りを指さして「これですね」と聞いた。ルーシェがそうですと返すと、エメルは頷いて部屋を後にした。


 その晩ルーシェは、手のひらより少し大きいくらいの淡いセージグリーンの紙を用意し、シルカとクレタに宛てて、それぞれ簡単なメッセージを書いた。紙はあの青い筒の中に親書と一緒に入っていた、レヴィオからルーシェ宛の手紙の白紙を利用したものだ。すき込まれた円形の模様は旅の無事を願う、見慣れたまじない。ただ、今のルーシェにはそれがコードの記述をもとに図案化されたものであることもわかる。その模様がひとつずつ残るように慎重に紙を切った。小さくはなってしまうし、裁ち落とした跡も不格好だったが、それでもそれを使いたかった。箱の底に敷くと、あつらえたかのようにぴったりだった。

 それから彼女はその上に布を、真ん中を凹ませる形でくしゃくしゃにして入れ、手元の石をできるだけ磨いてから革紐を通し、巻き付けるように丸めてからそっと置いた。蓋をして、エメルが気を利かせて準備してくれたリボンをかけてみたが、箱の大きさに対してどうも幅が広すぎるよう。試しにハイロの町でもらった糸を置いてみたらしっくりきたので、その糸をちょうどよい長さに切ってリボンの代わりにした。同じ箱、同じ糸なのでどちらがどちら宛かわからなくならないように、糸のかけ方は別にした。中途半端に残ってしまった糸は、なんとなくかわいい気がして左の人差し指に巻き付けておいた。

 それから彼女は少し早めに床についたが、明かりを落としたあともネコがずっと中空をひっかいたり飛びついたりしてドタバタしているのでなかなか寝付けず、かといって叱りつけるのも気が引けたので、やむなく中庭を眺めて眠気を待った。


 あの壁の向こうに、タイガの「妻」たちがいるという。併合された国々の、あの色々な装丁のようにそれぞれ違った歴史を持った国々が残した最後の花。でもそれはタイガにとってはただの「保証」。今彼が求めているのは花束ではなく、強い種だと聞いた。

 タイガが所望しているというその血を、ユーレはその器として作られたという建国経緯を背景に、当たり前のように享受してきたが——それがどれほど恵まれていることか。フォルセティが「自覚がある」と言ったことが、ルーシェには実は、思った以上に衝撃だったのだ。何より彼がその自覚がゆえに彼自身の思いを、きっと彼も無意識のままに呑み込んで後回しにしていることが。

 ルーシェは不意に、ドルジが言った「大人にはできないこと」という言葉を思い出し、少し身を乗り出すと窓ガラスに顔を寄せ、空を見上げた。

 濃紫の夜空を大きな影が、星の光を引き連れ横切っていった。

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