8 / 亡国の主従

 朝食を終えさせフォルセティを部屋に放り込んだシャゼリは、いそいそ出ていこうとしてフォルセティに呼び止められた。

「今日はあいつ、おまえの相手できないんじゃないかな」

 シャゼリは振り返り、なぜ、と聞いた。フォルセティは肩をすくめて答えた。

「昼からルーシェが連れていくって。クレタと会うのに。イヴァレットから言われたんだと」

「イヴァレット様が?」

 シャゼリは眉を顰めて下を向き、少ししてから顔を上げた。

「あの、言霊の竜は一体、何者なんだ」

「何者っておまえ、今自分で言ったじゃん。竜だよ」

「じゃなくて。イヴァレット様とどういう関係が?」

 フォルセティは頭を振った。

「よく知らない、あいつの説明意味わかんないし。でも少なくとも良好な関係ではないと思う。たぶんルーシェのほうが詳しい」

 シャゼリは瞬きをし、顔を上げた。細い窓からは少しだけ空が見える。彼はそちらに顔を向けただけで特に何を見るでもなしにしばらく考え、それからフォルセティに目を戻した。

「昼からなら午前中はいいんだろ?」

「俺に聞かれてもね……」

「とりあえず行ってみるよ。いなければ戻ってくるだけだし」

 フォルセティは、そうかい、と首をひねりながら答えると、シャゼリを追い払うように手を振った。シャゼリは「おとなしくしとけよ」とだけ言い残し、部屋をあとにした。


 鎧を脱いで平服に着替え、町に出る。シャゼリは昨日と同じように、言霊の竜から聞いたコードを復習しながらマルクトの家に向かった。

 昨日彼を取り囲んだ三柱の竜は、人当たりもしゃべり方も実にさまざまであった。一番親切だったのは水竜で、彼女はシャゼリに揚水設備のコードのことを詳しく教えてくれた。

 言霊の竜と地竜とを家に残して通りに出、水竜に尋ねてみれば、シャゼリが推測したとおり、ほかのコードとも共通していたあのひとかたまりの記述が、複製を禁ずるコードであるらしい。シャゼリが水竜に言霊の竜の言い草を伝えると、水竜は「まあ、そうでしょうね」と緩やかに笑った。

「この設備に施されたコードは、せっかく浮虫に指示を与えているのに、内容は必ずしも浮虫でなくてもできること。虫の特性を理解し適切なコードを与えれば、この設備は水を汲み上げるだけでなくその質も安定させます。ここの水、今は量が確保できるだけで、質自体はあまり信用がならないでしょう?」

「確かに飲用前には必ず沸かしていますが、それは普通では」

「それを『普通』と諦めてしまうのは自由ですが、それで追いつかないこともあるでしょう。たとえばそこの」

 そう言って水竜は石の敷かれた広い道を指さした。

「暗渠に水が押し寄せるとき。一時的にとはいえ、濁ったりはしませんか」

「ですからその前に必ず城が飲用水は貯めておくよう号令を出します。その号令のタイミングを計るため、水路に蔦虫のコードが仕込まれていると聞きました」

 水竜は目を細め、見えない水路を遡るように道路に沿って視線を移していった。少しずつ上がる勾配の先に城、その背後には急峻な山。

「指示の内容がそれであれば、その蔦虫のコードにも言霊の竜はもの申したのでは?」

「はい。不服げでしたが……でもなぜ」

「せっかく蔦虫を使うのであれば、もっと端的かつ根本的な解決を図ることができる。なのにそれをしないことに歯がゆさを感じたのでしょうね」

 シャゼリは眉を寄せた。だからその、コードを学びたいと言っているのに。水竜はシャゼリのそんな不満を見透かしたかのように目を細め、ゆるりと人差し指を立てると城の向こうを指さした。

「浮虫を使う方法のほかに蔦虫でも、この水路に水が集まる経路自体に細工をし、流向や流量を調整することで、その時期の水の濁りは避けることができます」

「しかし流量が減ると流域は水不足になりますし、流向が変わるだけでも周辺の灌水かんすいには影響が出ます。そうなると収穫量が減り食糧難が予想されるので、その方法は避けるべきかと」

「そう。人間がコードを用いて今あるものに手を加えようとするならば、人間はそれが何にどう波及するかを予測し、そのフォローまで考えたコードを選択し、構築する必要がある。ですからあなたの王の現在のコードの使い方は、ある意味では賢明です」

 シャゼリは町中のコードを思い出しながら呟いた。

「今あるものに、手を……」

「ええ。あなたもお気づきだろうけれど、この町のあちこちに施されたコードの大半は、今のあるがままを受け入れ、ただその知らせを受け取るのを早めて、右往左往しないで済むように備え、あとは待ち、受け止めるだけ。一貫して受け身の、風下への影響を懸念して火を起こすこと自体を避けるような、賢明で、臆病な使い方です」

 人間にはその先に挑戦する権利が与えられているのにね——そう言って水竜は昨日、形のよい人差し指でシャゼリの額を軽く突いてみせたのだった。まるで子どもにいたずらするかのように。


 賢明で、臆病。そのとき水竜が与えたタイガへの評価は決して褒め言葉ではなかったが、シャゼリの腹には不思議とすとんと落ちた。彼はそれを口の中で繰り返しながらマルクトの家のそばまで来た。

 虫除けのコードがまた薄くなっている。シャゼリは今日もその印を上からなぞって補強し、建物の隙間の細い通路を入ってマルクトの家の中庭に入った。

 中庭は昨日ともまた違った様子になっていた。茶色く枯れていた蔦は青々と伸び、濃淡さまざまな緑の葉で壁の一面を塗りつぶしている。足元には小さな黄色い花をたくさんつけた柔らかい茂み。その奥の壁際では埋もれたままになっていたらしい球根から、膝下くらいの高さまで力強く茎が伸びて赤や紫の花とつぼみをつけていた。

 虫もいない今の季節の庭とは思えない。シャゼリは地竜がいるのだろうと思い、昨日の彼の行状を頭に浮かべて、大きく深呼吸をしてから扉に手をかけた。

 ところが果たして、そこにいたのはマルクトであった。


 シャゼリは唾を呑んだ。マルクトは険しい顔で目を細め、一歩進み出るとシャゼリの前に立った。彼の鎧が音を立てた。

「どういうことでしょうか。若」

 シャゼリは目を泳がせた。竜は誰もいない。彼は覚悟を決め、マルクトを睨み返した。

「別に悪いことをしているわけではないはずだぞ」

「善し悪しは若がお決めになることではありません。あの竜の使いと何を企んでおいでですか? 陛下のお気に障るようなことをなさいますなとあれほど」

「お気に障るとは思っていない。俺はこの国を発展させる力になりたいだけだ。陛下がそれを嫌がるものか」

「若」

 マルクトの視線は鋭い。シャゼリは怯んで一歩後ずさり、しかしそこで踏みとどまった。

「あの竜の使いは。城の一室にいながら、城の造りを把握して弱いところも指摘してみせた。ハッタリかと思って確認したが事実だった。そういう力を、人を超えた力を、その片鱗をでも、俺たち国民がこの国のために使えるようになったら、陛下はおひとりで何もかもを背負い込む必要はなくなる」

「陛下がご自身以外の人間に、そのような力を持つことをよしとされるとお思いですか。日々研鑽を積まれているご自身の子さえ信用されず、今もなお傀儡を作り育て上げようとなさっているあの方が、それほど民を信用されると?」

 シャゼリは返事に詰まった。マルクトから発されるその言葉は、シャゼリにとっては世界一重い。マルクトがその父と兄の命と引き換えに守った最低限の「信用」が、今のシャゼリとその母を生かしている。

 それでも。それでもだ。

「じゃあおまえは、陛下がいつまでもおひとりで国を導く今の施政を続けることができると思うのか? 偉大な方だ。でもだからこそ誰もがあの方に頼り過ぎる。あとを追うばかりでは共に歩むことはできない。誰もが陛下を讃える。でもそれは理解でも支援でもない。あの方は孤独だ。おひとりでできることには陛下とて限度がある。なによりあの方だっていつまでもご壮健なわけではない」

「陛下が孤独であるとすれば陛下自身の身から出た錆というほかない。ご存じでしょう」

 シャゼリはぐ、と言葉を呑み込んだが、下を向いて深く息を吐くと顔を上げた。

「俺よりおまえのほうがよっぽど不敬だぞ」

 マルクトは一瞬虚を突かれた顔をし、それから眉を顰め、ため息をついた。

「今のは失言でした。撤回します。ですがあまりエリシュカ様を心配させるようなことは」

「俺は大丈夫だよ。陛下の脅威になりうる器では到底ない。陛下はそのことをよくご存じのはずだ。だからこそ俺は処分どころか城からの放逐さえされなかった。そんなの母上もよく言ってるだろ」

「お言葉ですが、その処遇の目的は見せしめだと」

「それでも別にいいんだよ。無事なんだから」

 シャゼリは力なく笑った。だから、マルクトはそれ以上何も言わなかった。


 マルクトが去り、シャゼリはひとりになった。彼は椅子に深く腰掛け、テーブルに突っ伏した。

 そのまま横を向く。中庭が見える。蔦の茂った壁。前、あんな賑やかな壁を見たときには、この部屋にはマルクトの母と、兄と、それからマルクトがいた。あの温かな家族を犠牲にしてマルクトはシャゼリとその母を守った。そうして生かされた命をどう使うかを、シャゼリだってそのとき真剣に考えたのだ。母に言われてきて、だから自覚もしている、跡継ぎとしては到底足りないこの頭で。

 これはそうして考え抜いて出した結論だ。タイガが大きくしたこの国、今やっと地に足をつけて豊かになろうとしているこの国の、足場を支える杭となる。そうしてガイエルの欠くことのできない基盤を担うことが、それなしにはこの国が立ちゆかない歴史を刻むことが、この国に呑み込まれた彼の国イェルファンを、その一族を、マルクトの一族が仕えた王の血胤を、その存在と名誉を、永遠に生かす。その考えには今も一切の揺らぎはない。

 シャゼリは再び下を向き、大きなため息をついた。

 その日マルクトの家には、どの竜も現れなかった。

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