9 / 彼女の小さな世界

 鏡を前にして身なりを整える。いつもの髪飾りを外した分は、昨晩指に巻き付けておいた紐と、いつかクレタにもらったシルカの衣装の飾り紐を編み込み寂しくないようにした。

 そうして準備を終え、少し緊張した面持ちでルーシェは窓際のデスクの椅子を引いて座った。窓は少しだけ開けている。オトがいつ帰ってきても大丈夫なように。空は薄曇りだ。今日は水竜が舞っている。

 扉を叩く音がしてエメルが入ってきた。彼女にいざなわれ、ルーシェは部屋を出た。後ろをネコがついてきた。背中には蔦虫をくっつけているらしいが、見えない。

 クレタだけなら問題ないが、イヴァレットも虫の音を聞くことは当然できる。となれば飛び回らせておくわけにはいかないので、蔦虫を連れていく苦肉の策である。朝、それを提案したときネコはかなり嫌そうな顔をしたが、じゃあ自分にくっつけていこうかなとルーシェが言うと、彼は慌てて承諾した。

 エメルはいつものように場を和ませる話題を選んで話しかけてくれる。ルーシェはそれをありがたく思いながら彼女の後ろをついていった。広い城だが、この経路は覚えている。最初フォルセティと別々の部屋に案内されたとき、彼と別れたあとシルカと通った廊下だ。ということは、と思っていると案の定エメルが立ち止まった。

 ホールの真ん中に男がひとり、腕を組んで天井を見上げている。首から下は夜闇の色。フードのついたマントは彼の膝下までを隠してしまう丈だが、見えているシルエットの限りではその下に武具の気配はない。エメルは再び足を踏み出すと男に近づいた。

「お待たせいたしました。ノイシュトバルト様でいらっしゃいますね」

「『様』は要らないよ」

「そういうわけにはまいりません」

 イシトはひょいと身を乗り出して、エメルの後ろにいたルーシェを見た。ルーシェはその顔を見てなぜかとてもほっとし、慌てて頭を下げた。


 ふたりで並んでエメルの後ろをついていきながら、ルーシェはイシトと話をした。

「あなたに会うの、久しぶりだわ」

「そうかな」

「ずいぶん長い時間だった気がするけど、日数を数えたら思ったほどでもないかも。ここに来てからまだ数日っていうのも実は信じられないの。もう何日もいるみたい」

「僕からしたら数日も数年も大差ないんだがね」

 エメルが話を聞いているのがわかる。時々、ほんの少しだけだが首が傾くからだ。ルーシェはそのたび襟を正す思いで前を向き直した。


 これまで見たことのない扉の前に来た。両開きで、右側に衛兵がいる。左は誰もいないのかと思ったら、壁に開いた窓の奥に数人詰めていた。そこで通行許可の確認を受けなければこの扉の先には行けないらしい。

 ルーシェが扉の上を見ると白い繊細な細工が目に入った。でももしかしたらこの中にもコードが隠されているのかも——ルーシェが見つめているものに気がついたイシトは彼女の視線の先を見、それから興味なさそうに目を移すと右側の衛兵を見た。目の合った衛兵はぎょっとした顔で、慌てて目を逸らした。

 エメルが通行許可の手続きを終えると、窓の奥の部屋から出てきた別の衛兵が扉の前に立った。右側の衛兵も進み出てきて、それぞれが手にした鍵を差し込む。ふたり揃って鍵を回し、それでようやくこの扉が開くのだ。厳重だな、とルーシェは思った。

 その厳重さの理由など、わかりきっている。


 立ち入ると、空気ががらりと重くなった気がした。花の匂いとか果実の匂いとか、もっと甘いお菓子のような匂いとか。そんなものが複雑に入り交じって、ひとつずつは嫌な匂いではないはずなのに、ルーシェはなんとも言えない息苦しさを感じて、エメルのあとを追いながらも思わず下を向いた。

 しかし隣のイシトときたら淡泊なもので、彼は相変わらず腕を組んだまま歩みを進めながら左右の造作を眺めている。とは言えその表情は全く興味がなさそうで、それが横にいることでルーシェはなんとなく気が楽になって顔を上げた。

 それにしても人がいない。こんなに人の気配はあるのに。ルーシェがきょろきょろ左右を見ていると、エメルが「男性にお会いするわけにはいかない方ばかりですからね」と言い、ルーシェは思わずイシトを見上げた。イシトは苦笑いした。

 長い廊下を抜け、庭に出た。通路に沿って低木が植わっているが、季節に合わせて葉は落ち、針金のような枝振りだけが並んで荒漠としていた。この先は長い渡り廊下だ。冷たい風が吹きつけた。身をすくめながら歩いていくと、これまでの殺風景な庭とは全く様子の異なるところに出た。

 その変わりようはまるで、久しくペンと黒いインクしか与えられていなかった画家に絵の具を渡したかのよう。ユーレの王宮の温室ほどには密ではないが、鮮やかな木々と花が四阿あずまやや噴水を彩っていた。風も少しぬるんでいる。ルーシェは感嘆の声を漏らしながらエメルのあとを追った。

 エメルは小さな建物の前で立ち止まった。白い壁には窓がなく、中の様子は窺えない。エメルはふたりをその場にとどめ、数歩進むと扉を叩いた。

「エメル・ウィリドです。イヴァレット様。お連れいたしました」

 ルーシェの前を、ざあ、と風が吹き抜けていった。


 扉を内から開いたのはイヴァレットその人だった。エメルが横に退いて一礼し、戻っていく。ルーシェはその後ろ姿を数秒見送ると、イヴァレットのほうに向き直り、頭を下げた。しかしイヴァレットはルーシェなど見てもいない。彼女はイシトに、何の前置きや挨拶もなく言った。

「来るとは思わなかった」

「一体なんの用なのか興味が湧いたんだよ。まさかきみがここの誰より傍若無人に振る舞えるのを見せつけたかっただけ、ということはないだろう?」

 イヴァレットが鋭い目でイシトを見返した。ルーシェは微動だにしないふたりを心許ない気持ちで見ていたが、不意に足元のネコがイヴァレットの横をすり抜けて部屋に入っていってしまったので、慌ててしゃがんだ。

「うーちゃん。待って」

 イヴァレットははっとして視線を外し、少し腰をかがめるとルーシェの手を取った。

「失礼いたしました。ようこそお越しくださいました、シャルテッサ=セレニタ・シュナベル殿下。さあ、寒いですから中へ」

 ルーシェは背を起こしながらイヴァレットを見、なんと返事をしてよいかわからず頷くと、勧められるままに部屋の中に進み入った。しかしイシトはついてこない。ルーシェが心細そうに振り向くと、彼は「僕は庭を見せてもらうよ」と言って踵を返してしまった。イヴァレットもそれを止めず、扉を閉めた。


 部屋の中は温かかったが、暖房器具の類いは見えない。きっと、風の民の一行を守っていたのと同じように花虫がいるのだ。ルーシェが勧められた席に座ると、向かいにはクレタが掛けていた。

 クレタは居心地が悪そうだった。それはきっと彼女が、これまでルーシェが知っていたのとは全く違う格好をしているせいもある。あんなに露出の多い衣装でも堂々としていたクレタが、こんなふうに着飾ると縮こまってしまうなんて——ルーシェは口元が思わず緩むのを見られじと下を向き、そこで深呼吸をしてから顔を上げ、クレタに言った。

「久しぶりね。元気そうでよかった」

 クレタは少し戸惑ったように頷いた。その隣にイヴァレットが腰を下ろした。何を話すか見張られているのだとルーシェは思った。でも、ルーシェだってひとりではない。足元にネコがいる。そしてその背には蔦虫。ルーシェは息を吸い、続けた。

「あんなに長い間お世話になったのに、別れ際はばたばたしてしまって。ちゃんとお礼とお別れを言いたくて、会いにたいとお願いしたの」

「そう。わざわざありがとう」

 クレタの返事は固く、いかにも他人行儀だったが、ルーシェはそれを不安には思わなかった。その理由に確信があったからだ。押し黙ってしまったクレタを一瞥し、口を開いたのはイヴァレットだった。

「殿下のおかげで最後の興行はとても楽しかったと申しておりました」

「いえ、私は何も……慣れないことばかりでお役に立てることもなく、クレアリット様をはじめ、皆さんにお手間やご迷惑ばかりおかけしてしまいました。でもそれで祖母に会うことができました。母にも報告ができます。本当に感謝しています」

「祖母。……ああ。そうでしたね」

 イヴァレットの涼やかな目元がわずかに細められた。ルーシェは彼女が言葉を続けないよう、即座にクレタに話を振り替えた。

「シルカには、こっちに来てからもお世話になったの。ほんの短い間だったけど、お城の中のことも、町のことも。いろいろ教えてくれた。実は最初のほう、怖い子だなと思ってたんだけど、でもきっと彼女、不器用なだけね? 私が本に夢中で図書室で寝てしまったら次の日、ベッドで寝ろって言われたんだけど。でも晩に誰か、私にストールを掛けにきてくれていて……あれ、きっとシルカなの。部屋に置いていたものだから」

 クレタが表情を緩め、頷いた。ルーシェは続けた。

「シルカにも会いたかったんだけど、今日は都合がつかなかったのね。ふたりにプレゼントを用意してきたんだけど……」

「渡しておきましょう」

 隣からイヴァレットが口を挟んだ。ルーシェは一瞬俯き、考えを巡らせてからイヴァレットに目を向けた。

「お申し出、痛み入ります。ですができれば自分で渡したいんです」

 クレタがルーシェを凝視している。ルーシェはその視線を感じながら、イヴァレットにいかにも気後れした顔で言った。

「その、こんなことになるとは思っていなくて。それで、本当に間に合わせのおもちゃみたいなものしか用意できなくて……それを渡すのにお手を煩わすのはさすがに申し訳ないですし、何より恥ずかしいんです」

「じゃあ私が代わりに渡しておく。それならいい?」

 クレタが言うとイヴァレットはふたりを交互に見、少し困った顔をして頷いた。


 そのあとの話も、本当に話したいことは何も話せない上滑りなもので、もちろんフォルセティのことなど絶対に触れるわけにもいかなかったが、ルーシェはクレタの顔を見られただけでも良しとすることにした。この会談で重要なのは話す内容そのものではない。

 ほぼなんの成果も得られない会話を終え、ルーシェは立ち上がるとクレタの横に行き、腰掛けたままの彼女にふたつの重ねた箱を手渡した。

「上の、紐を斜めにかけてあるほうがあなたの。十字にかけてあるほうをシルカに」

「中身、別々なの?」

「あ、実はね。詰めるとき敷紙に、クレタへ、シルカへって名前を書いたんだけど。そのまま蓋をしたら、箱が一緒だから見分けがつくようにしなくちゃって……プレゼント自体は同じよ。ふたりでお揃いになる」

「ありがとう。大事にするね」

 クレタの足元をネコが体を擦りつけるようにすり抜けていく。クレタは箱を膝に置き、右手を下に伸ばすとネコの顎の下を撫で、それから指の背で頭も撫でてから、そこに潜んでいた二匹の蔦虫をそっと引き取ると再び顔を上げ、ルーシェに言った。

「シルカにも必ず渡すから」

「うん」


 帰りの扉もイヴァレットが開けた。クレタは部屋の中に残ったまま、ルーシェとネコを見送った。

 扉を閉めて外に出たイヴァレットは、ルーシェがきょろきょろしているのを見、ゆるりと手を上げると庭の中ほどを指さした。

「ノイシュトバルトなら、あそこに」

「あ、ほんと。……あの」

「何か」

「差し出がましいようですが、イヴァレット様はあの人と話したいことがあったのではありませんか。わざわざお呼びになったのですから……」

 イヴァレットは眉を顰めた。ルーシェはそれを見、言葉を続けるのをやめた。イヴァレットがその問いに「そうだ」などと言うわけがないからだ。その代わりルーシェは、すうと大きく息を吸い、イヴァレットの手をとった。

 突然のことに動揺しているイヴァレットを尻目に、ルーシェは彼女を庭の中まで引っ張っていった。ルーシェに引き続きイヴァレットの白い靴も渡り廊下の石の床を離れ、柔らかい土に沈んだ。

 それに気づいたイシトはふたりのほうを振り返ったものの、様子を見ているだけでその場を動こうとはしなかった。大股で進んできたルーシェがもう手も届くというところまで来ると、彼はようやくふたりのほうに向き直り、いかにも愉快そうに笑った。

「ずいぶん子どもっぽいことをするね」

「そうよ。そのために来たの。イヴァレット様」

 振り向いたルーシェを、汚れたドレスの裾を気にしていたイヴァレットが不機嫌さを隠しもせず睨んだ。しかし、

竜の娘イヴァレット

 彼女は呼ばれた名前に顔を上げた。そして呼んだ男は周りを見渡し、

「実に見事な庭だ」

 そう、満足げに言った。

 

 

 ルーシェはネコを先頭に、イシトと並んで渡り廊下を戻った。屋内との境にエメルが待機していたので、そこからの先導は再び彼女が担った。

 またあの、甘ったるくて重苦しい廊下を、押し黙ったまま通り抜ける。待ち構えていたように扉が開かれた。ルーシェは振り返ることなくそこを通り、鍵の掛けられる音を聞いた。

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