第10章

1 / ふたりの母(1)

 それから数日が、何ごともなく過ぎた。ルーシェは部屋の窓を細く開けたまま虫の帰りを待ったが、戻ってきたものはなかった。

 この無為な時間がなんのためのものなのか、ルーシェはもう知っている。そうして決断を迫られているフォルセティとは相変わらず食事のときくらいしか顔を合わせられていない。しかもその時間でさえ最近はマルクトが必ずいるので、話せる内容は限られていた。

 図書室の本は未だに、表題を網羅することもできていなかった。少し気になったら思わず手に取って開いてしまうし、その中でひっかかる項目を見つけると我慢できずにさっき見かけた別の本を参照する、なんてことを繰り返していたからだ。そうして何度か棚の前を行き来して、この場所の本の整理の仕方が実に理に適っているのにルーシェは感嘆し、その並べ方、分類法も合わせて見るようになったので、時間はいよいよ足りなかった。


 さらに一週間あまりを数えた頃、ルーシェは身に覚えのない人物からの書状を受け取った。薄紅色の紙に、焦げ茶のインクでやさしい文字がしたためられている。それを持ってきたエメルは差出人のことをシャゼリの母親だと説明した。ルーシェは驚いてもう一度、その筆跡を見つめた。

 差出人はルーシェとの面会を希望している。ルーシェはその目的がわからなかったが、シャゼリのことを思い出すと断る気も起きず、すぐに返事を書いた。



 シャゼリの母エリシュカは、先日イシトと一緒に通った場所の、最奥に追いやられていたイヴァレットよりは多少ましなところに部屋を与えられていた。それでもその扉はマルクトの父のこともあってか、寒々しい一角にあった。

 今日は前回と違って女たちとすれ違ったが、エメルに連れられ(そしてネコを連れて)エリシュカの部屋を訪れたルーシェに誰も興味を示さなかった。意図的に無視されているかのようなその扱いが、エリシュカのこの場所での状況を何より雄弁に物語っていた。ルーシェはケープを胸の前で握りしめた。ハイロの町で入手したものだ。

 エメルが外から声をかけると返事があった。扉を開くと独特の匂いがした。

 エメルはあとで迎えにくると言い残して去ったので、ルーシェはネコを連れ中に一歩踏み入り挨拶をした。部屋の中は温かかったが、これは暖房器具に使われている燃料の匂いだ。エリシュカは部屋にいた侍女を下がらせた。


 シャゼリと同じ赤い髪を腰まで伸ばし、柔らかく結った女性であった。年齢はルーシェの母より下にも見えた。シャゼリとルーシェとでは軽く五つは違うので、ルーシェはエリシュカがかなり若くして子をもうけたのだな、と思った。おそらく今のルーシェと似たような年か、もっと。そんなときに彼女はタイガに召されたのだ。妻に名を借りた人質として。

 改めて目の前の女性を見る。鋭い眼光を隠しもしなかったイヴァレットとはほとんど対極にいそうな、筆跡から受けた印象そのままのおっとりした雰囲気の女性だ。エリシュカはルーシェに、部屋の中で一番大きな窓の前に敷かれた絨毯を示した。一番広い絨毯の上に二人掛けソファくらいの幅の、毛足の長いものがもう一枚重ねられている。大きな円筒型のクッションが寝かせてあり、それを背もたれのように使うらしい。ルーシェはほとんど床に座るような形になることには抵抗があったが、それがシャゼリたちの国の文化なのだと思い、示された場所にネコと一緒に腰を下ろした。そうして彼女は主が座るのを待ち、改めて名乗ると切り出した。

「このたびのお招き、光栄ですが……」

「陛下は今お忙しいでしょう? あなたも待ちぼうけをくらっていると聞いて。それで、もし良ければ私を暇つぶしに使ってくれないかしらと思って」

「それはシャゼリ様からお聞きに?」

 茶器を乗せた銀色のトレーをふたりの間に引き寄せたエリシュカは、そう、と微笑んだ。その顔は幼く、ほとんど日にも当たっていないであろう白く柔らかい肌と相まって、成人した子がいる女性にはとても見えなかった。ルーシェは自分の母を思い浮かべながら聞いた。

「シャゼリ様とはよくお話しになるんですか」

「直接会うことはほとんどないのよ、こういう場所ですから。だけどあの子、手紙はわりと頻繁にくれるの。大変なお仕事を割り振られることもないので暇なのね。あまり出来の良い子ではないから」

「そうでしょうか。何度かお話ししましたし、私の連れからも聞いていますが、志の高い方だと思います」

 エリシュカは大きな目を丸くして、それから優しく細めた。

「ありがとう。あの子、あなたのお連れさんのこと、友だちだと思っているみたいなの。本人はきっと否定するけど」

「友だち」

 今度はルーシェが目を丸くしたが、考えてみればおかしくもない。もともとフォルセティはきっと、他人の懐に入り込む天賦の才を持っている——マルクトには通じなかったようだが。ルーシェは、そうですね、と頷いた。

「ふたりの話には何度か同席していますが、確かに他人行儀な感じはありませんでした」

「そうでしょう。私がこういう立場だし、エルゼバのこともあったから、あの子、周りに持て余されて……かわいそうに思っていたの。だから私、今のあの子を見ていて心底あなたたちには感謝しているし、できれば長く滞在してほしいとも思っている」

 けれど、とエリシュカは言葉を区切り、ルーシェをじっと見た。

「そういうわけにもいかないのでしょう。あなたたちはきっと今、去り方を考えているところね」


 ルーシェは息を呑んだ。目の前のこの女性はシャゼリの母であるとともに、タイガの妻のひとりだ。もしかしてルーシェたちが、クレタとシルカとをこの国から連れだそうとしていることを——そこまで考えてルーシェは気がついた。

「あの、シャゼリ様は……シルカともお友だちだったと思います」

 エリシュカが不思議そうに瞬きしたので、ルーシェは慌てて言い直しながら続けた。

「シルキアーテ様です、イヴァレット様のご息女の。私たちがハイロに来た翌日に、シルキアーテ様とシャゼリ様が町に連れていってくださいました。おふたり、お店で高値を言われた私たちに代わってお店の人と交渉してくれたり……私の連れが手持ちをほとんど使い切ってしまったものだから。今日着てきたケープ、シャゼリ様に買っていただいたんです」

 笑顔を覗かせたルーシェに対し、エリシュカは驚いた顔でその話を聞いていたが、下を向き、ほう、と息をつくと顔を上げた。

「はっきり申しましょう。私はあの子のことが心配なのです」

「それはもしかして、マルクトさんの?」

 ルーシェが眉を顰めると、エリシュカは首を振った。

「いえ、マルクトは十分なことをしてくれている。でもあの子は自分でものを考えすぎて、マルクトにも抑えが効かないの。あの子はあなたのお連れさんに頼み込んで、陛下のわざを侵すようなことをしているのでしょう? 陛下はご存じです」

 ルーシェは混乱した。シルカの話では、マルクトはタイガの覚えめでたき部下。シャゼリは出自にかかわらず、それに使われる立場だったはずだ。シャゼリのことをタイガが知っているのだとしたら、ならばそれこそマルクトが報告したことでは? ルーシェがことをただそうと口を開きかけたとき、不意にネコが立ち上がった。

 ネコはルーシェを振り向くと、にゃん、と短く鳴いて再び丸まった。ルーシェは自分の手を見下ろすと目を閉じ深呼吸した。それから彼女は顔を上げ、エリシュカを見ながら言った。

「エリシュカ様は、シャゼリ様が危険なことに手を出している、それを私の連れが唆していると仰りたいのでしょうか」

「唆しているというのではないのです。先ほども申し上げたように、あの子は自分で考えすぎる。だからあなたがたにはあの子に請われても、あの子が危険を招くようなことをしているのなら、それには協力しないでほしいと申し上げています」

「危険を招くというのは、要するに、タイガ王の怒りを買うということ?」

「そのとおりです」

「エリシュカ様が怖がっているのは結局、ご自身に危険が及ぶことではありませんか」

 ルーシェは、口を突いて出た言葉が思いがけなく言葉足らずで攻撃的になってしまったので、慌てて小さく頭を下げた。しかし彼女はその続きも言いよどむことはなかった。ここに自分を送り出してくれた母を、自分を信じてくれた母を、この目の前の「母」に否定されたような気がしたからだ。

「シャゼリ様のことを心配しているのはもちろんわかります。でも、私はシャゼリ様が王のことをとても尊敬しているのも、王がこの国を守るために果たされている責任に思いを馳せて、王を支えることを誇りに思っていることもわかります。私にわかるのだからエリシュカ様だって理解されているでしょう」

「それは、そうだけれど」

「そういう方が、自身のその目的の役に立つはずだと思って学ぼうとしていることを、進もうとしている道を、エリシュカ様は勇気を持って見守ることはできませんか」


 エリシュカの顔はもはや蒼白ですらあった。ルーシェはこの、大人になる猶予を与えられないまま母になったような女性に、自分の言ったことは残酷過ぎた気がして胸が痛んだが、静かに息を吐いて続けた。

「申し訳ありません。私のような若輩の部外者がこのようなことを申し上げる無礼は承知しています。でも、エリシュカ様。自分で考えることをやめさせて、そうして道を閉ざすほうがきっと、ずっと簡単なんです」

「私が臆病だと言いたいのでしょ」

 エリシュカは言葉を絞り出した。その険しい視線をルーシェは真正面から受け止め、「いいえ」と答えた。

「エリシュカ様だけではありません。タイガ王もです。人の命は王といえども有限ですが、それに備えた王のなさりようがエリシュカ様のお考えのとおりであるならば、私はそう感じました」

 エリシュカは唾を呑み込んだ。

「あなた、怖いもの知らずなのね」

「はい。だからこそ、ここに来ました」

 自分をひたと見据えるルーシェの視線に困惑したようにエリシュカは目を落とし、ほう、とため息をつくとトレーの上のポットに手を伸ばした。

「ごめんなさいね、忘れていた。もう冷めて、渋いと思うし……」

 ルーシェはエリシュカの意図を察し、できるだけにっこりと笑って立ち上がった。

 

 

 外に出てもエメルはいなかった。きっとこんなにすぐに終わる予定ではなかったのだ。しかし彼女がいないことには後宮から戻るあの扉を抜けることができない。ルーシェはどうしたものかと周りを見回し、少し暇をつぶすことにした。

 となれば知っている場所はひとつだけだ。ルーシェはすれ違う女官が眉を顰めるのを無視して、堂々とした足取りで絢爛な廊下を通り抜け、イヴァレットの庭に向かった。


 先日と同じくイヴァレットの庭は、そこだけ春を呼んだように周りと空気が違っている。ルーシェはこの間イシトがいたあたりまで行くと、イシトの真似をして腕を組み、その辺をゆっくりと歩き回ってみた。

 彼はここで何を見たのだろう。確かに美しい庭だ。でもそれだけで彼があんな言葉を贈るとは思えない。「実に見事な庭」。その評価は、いつもならば過剰なほどに言葉を重ねる彼の、おそらく最大の賛辞だ。

 風は柔らかく、水も温み、花々は歌っているが——足元でネコが顔を上げて鼻をひくつかせ、その先に白い蝶が止まった。ルーシェは周りを見回し、しゃがむとネコに聞いた。

「その蝶って、竜の虫?」

 ネコは鼻先に目を寄せながら答えた。

「違うよ。普通に蝶だ」

「こんな寒い季節に……この庭で生まれたのかしら」

 立ち上がりながら周囲を見ようとしたルーシェに不意に答える声があり、彼女は驚いて振り返った。そこにいたのはイヴァレットだった。

「その蝶も、それからその花の周りにいる蜂も。ほかにも何種類か虫がいます。いずれもこの庭で生まれ、育ち、死んでいく」

「イヴァレット様」

「やはりそちらはただの猫ではありませんでしたね。シャルテッサ=セレニタ殿下」

 息を呑んだルーシェの前で、イヴァレットが目を細めた。

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