2 / 言祝ぎの庭

 ルーシェはネコと顔を見合わせ、深呼吸をすると頷いた。

「そのとおりです。彼は我が国のサプレマの竜」

「こんな遠くまで。ご苦労なこと」

 イヴァレットは少し意地悪く言ったが、ネコが澄ました顔を背けてしまったのを見、途端に申し訳なさそうな表情になった。ルーシェがそれを意外な思いで見ていると、イヴァレットはネコの前に膝をついた。この間、ドレスの裾が汚れるのに険しい顔をしていた姿からは別人のようだ。

「私の娘に預けられた、吹虫の主でいらっしゃいますな」

 ネコはイヴァレットを見、それからルーシェを見た。イヴァレットが言うのはルーシェがクレタへの手紙にとりつかせたオトのことだ。もしかして蔦虫のこともばれているかもしれない。ルーシェは息を呑んだ。ネコはルーシェが押し黙ってしまったので、再びイヴァレットに顔を向けると言った。

「あの手紙を書いたのはあんたか?」

「クレアリットが差し出したことになっているものなら」

「においが似てたのは親子だったからだな」

 イヴァレットは立ち上がり、膝の土をはたいた。目の前のネコの上にその土が落ちてしまわないよう、一歩下がる配慮も忘れない。ルーシェは先般の非礼を思い出して詫びたが、イヴァレットは聞いているのかもわからなかった。彼女は誰もいない静かな庭を見回してからルーシェを誘った。

「少し歩きましょう」


 イヴァレットはルーシェより長身で、歩幅もどちらかといえば大股だ。後宮で「女」に期待される振る舞いに比べるとそれはきっと異質なのだろうなと思いながら、ルーシェは彼女に遅れをとらないよう少し早足で歩いた。

 イヴァレットは前を向いたままルーシェに尋ねた。

「こちらにきて何日になりますか」

「ええと……二週間余りになります」

「いつまでご滞在を?」

「まだはっきりとは。我が国の王から親書を預かってきているのですが、国王陛下ときちんとした場ではお会いできておらず、お渡しもしていないので、早くてもその日程が決まってからかなと思っています」

 ルーシェが答えながら横目でちらちら見たイヴァレットの表情は、先日の様子からは信じられないくらい穏やかだ。旅の途中ルーシェがとりとめもない話をして笑い合ったクレタの横顔とよく似ていた。目的のわからない質問が続いても不安を覚えなかったのもその表情のせいだろうな、とルーシェは思った。これらの質問はたぶん間を持たせるためだけのもので、隠された目的などない。


 イヴァレットが足元の小さな黄色い花に目を留め、膝を折った。ルーシェはイヴァレットの後ろで腰を曲げ、膝に手をついて覗き込んだ。花は薄い花弁が五枚に分かれたラッパのような形で、みずみずしい緑の葉の隙間から空を覗き見するようにいくつもついていた。花と花の間を蜂がせわしなく行き来している。

「この庭で生まれたとおっしゃいましたね」

 ルーシェが尋ねるとイヴァレットはゆっくりと振り向いて、立ち上がりながら答えた。

「そうです。巣箱がこの先の、四阿の奥のほうに」

「ハイロの本来の気候であれば、虫がこんなふうに飛び回っているのは違和感があります。でもここは違う。虫たちの命のサイクルが、ここでは外とは別に、出来上がっている」

 イヴァレットは目を細め、足を踏み出した。

「ここは建国当初は城勤めのもののための畑として利用されていたそうです。しかし国が大きくなって外から食料を調達するほうが楽になると次第に使われなくなり、荒れた。やがて手前に後宮ができて、誰も寄りつかない吹きだまりのようになっていたところに私は部屋を与えられました。価値ある家名を持たない女など、ここではそんなもの」

「伺っています。ご苦労をなされたと」

 イヴァレットは懐かしむように少しだけ口角を上げたが、歩みは止めない。ルーシェもそれについていきながら続けた。

「ここの手前の渡り廊下の周りはハイロの気候そのままでした。さきほど伺ったエリシュカ様のお部屋も温かくはありましたが、私が貸してもらっている部屋と同じ、燃料を使った暖房器具によるもので、イヴァレット様のお部屋とは違いました。ですからこの庭も、イヴァレット様が調えなければ……」

「ええ。私はただここを美しい場所にしようと思い、母の遺した知識を必死で学びました。それが私の復讐でしたので」

 ルーシェは眉を寄せた。そのふたつの言葉はあまりにかけ離れている。イヴァレットはルーシェを見もせずに淡々と続けた。

「ノイシュトバルトは母が命を投げ捨ててまで呪った母の仇。しかし私は、私を捨て自分の命を投げ出してまでも森を殺そうとした母のことをも呪っていた。あなたの国でシルキアーテのふりをしていたクレアリットが言ったでしょう。先視は『呪い』をするのです」

 唾を呑んだルーシェを一瞥し、イヴァレットは言った。

「私は、先視としての期待を背負った私を、私の心を守るために、いもしない母に自分を認めさせるために、一方ではそれを見返すために、私という人間が折れないために、呪いを放つ相手を、そしてどんな呪いを放てばいいのかを一心不乱に探した。でも、もとより矛盾しているのだから選べるわけがないのです。そんなときに私は身ごもった」

「クレタたち……」

 四阿にたどり着いた。イヴァレットはその段を指し示し、腰掛けた。ルーシェも遠慮がちに隣に腰を下ろした。イヴァレットはルーシェが落ち着いたのを待って続けた。

「私が持て余していた母の知識をどう使うべきか、その男は指し示してくれました。私は暗闇の中に初めて光を見つけたように、それにひかれていった」

「それがタイガ王だったんですね」

「そう。私は娘たちの名前を慎重に選びました。馬鹿馬鹿しいことに、タイガの役に立てようと。それしか考えていなかった」

「馬鹿馬鹿しくは、ないと思います」

 ルーシェが答えると、イヴァレットは眉を上げてルーシェを見、それから庭を見渡した。

「私はここに来たあとも。タイガに必要とされていることを、自分が唯一無二の存在であることをなんとか確認しようと、そのためにタイガに自分の力を見せつけようと、ここに躍起になって、虫とコードを駆使したアルモニカの庭を作りあげた」

 ルーシェが首を傾げると、イヴァレットは膝に頬杖をついて空を見上げながら続けた。

「均衡とか調和とか。いえ、そうね。和音とか合奏、協奏とでも訳しましょうか。でも私はそれをどれだけ積み上げても全然満足しなかったし、安心もできなかった。ガイエルが大きくなればなるだけ、そうして私の道標であったはずのタイガが遠くなるだけ、私はここを磨き上げ続けなければという焦りばかり募って、どんどん疑心暗鬼になった。この庭が美しく育てば育つほどに私の不安は大きくなっていく。かといってやめる勇気も持てない。それでは私は私を認められない。私は自分の首を絞め続けた」

「ご自身への呪いみたい」

 呟くように言ったルーシェを一瞥し、イヴァレットは大きく息を吸うと、膝の上で両腕を組み、それに片頬を埋めるようにしてルーシェのほうを見た。

「結果的に、そうね。でも言霊の竜はたった一言でその呪いを解いてしまった」

 ルーシェは少し驚き、それから躊躇しながら聞いた。

「イヴァレット様は、あの……もしかして」

「違います。私は『竜の娘』なのです。そのせいで私を認めることができるのが、いえ。私の名がそれを許しているのが、彼だけだった。だからそれだけです。本当に」

 イヴァレットは無垢な少女のようにはにかんだ。ルーシェは何も答えることができず、ただ目の前の美しい庭を見ているほかなかった。


 梢のささやきが聞こえる。虫の羽音もときどき、風に乗って。

 柔らかい光が降り注ぐ。ルーシェは胸いっぱいに空気を吸い込むと、それをゆっくりと吐き出し、独り言のように言った。

「本当に、美しい庭」

 

 

 イヴァレットは部屋に戻った。ルーシェは彼女を扉の向こうに見送ると、振り向いて半ば放心状態のまま、目の前の庭を見るともなしに見た。そうしてしばらくぼうっとしていたので、ネコがルーシェの足を鼻先でつつき、ルーシェは慌ててしゃがんだ。

「ごめんなさい。どうかした?」

「さっきイヴァレットになんて言おうとしたんだ?」

「え? ああ、えっと」

 ルーシェは上を見、それからネコを見て「秘密」と答えた。ネコは不服げな顔をしたが、ルーシェはもう彼を見ていない。渡り廊下を慌てた顔のエメルが小走りでやってくる。ルーシェはケープを羽織り直し、エメルに向かって足を踏み出した。


 

 その晩ルーシェの部屋には、見慣れた小鳥の姿の脚に紙片を結びつけたオトが帰ってきた。急いで開くとそれはクレタからの託けだった。

 文面はごくごく簡単だ。「贈り物ありがとう、会ってお礼が言いたい」。イヴァレットが書いた手紙と比べるとかなり癖のあるたどたどしい字だったが、ルーシェはそれを何度もなぞって読み返した。

 会って話したいのはルーシェだってそうだ。でも連れ出すのは至難の業だろう。かつてクレタが言っていた「お姫様を連れ出すこと」の難しさに今度は自分が悩まされることになるなど思ってもみなかった。今回はしかも、どこにいるのかさえ知らされていないのである。

 だけれども——「贈り物ありがとう」。クレタはきっと、あの箱と蔦虫を手元に置いている。ルーシェは水竜から受け取った青い筒を取り出すと、クレタとシルカへのメモを切り取った白紙の残りを光に透かした。

 手紙にわざわざ白紙をつけてきたレヴィオのしたり顔が見えるようだった。ルーシェはその紙をデスクに置くとインク壺を開けて蔦虫を呼んだ。それから彼女は深呼吸をし、紙の両脇に置いた両手のひらを天井に向けて片方ずつ親指を折り、目指す相手の名を声に出した。

 インク壺を離れた蔦虫は、ルーシェの手の間の図案の上にインクを一滴落とした。

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