3 / 火と灯

 夜、オトを窓から放つと、ルーシェはしんと寝静まった城内に小さな明かりだけを手に踏み出した。

 蔦虫を一匹、フォルセティのところに差し向けておいたから、彼女が今晩クレタに会う挑戦をすることは彼も知っている。でも彼は来ないし、ルーシェもそれを期待してはいない。彼とクレタの関係は今、当人らの思いとは無関係に、高度に政治的だ。

 空には水竜が舞っている。雲間から漏れた月明かりが青い鱗をきらきらと輝かせていた。


 妙に浮き足だって見えるネコに前を任せ、ルーシェはそろりそろりと壁沿いを進んでいった。手元の紙にすき込まれた模様が、下に構えたランタンの明かりで浮かび上がっている。円形をした模様の一番外側はきれいに八等分されていて、出がけに落としたインクの染みは今は円周の一番上のところに集まっていた。これはこのまままっすぐ進めということ。一方で円の中には小さな点がふたつ、円心とその左上にある。ルーシェとクレタだ。

 壁の明かりが間引かれており、廊下は寒々しい。外の様子もほとんど見えなかった。時間としてはハイロに入った最初の夜、あの図書館でタイガに会ったときよりも遅いから、家々の明かりもとっくに落ちている。

 見回りの衛兵を何度かやり過ごし、後宮への扉の前を通り過ぎ、ルーシェはようやく立ち入ったことのない場所まで来た。分厚い木製の扉には鍵がかけられているが、蔦虫に鍵穴に忍び込んでもらえば大丈夫。ルーシェは鍵の開く音を聞き、鍵穴から出てきた蔦虫を回収すると、扉を自分がぎりぎり通り抜けられるだけ押し開け、中に滑り込んだ。


 その先も石の廊下。これまでよりは少し幅が狭く見える。片側はずっと壁で窓もない。ということはそれを挟んだ反対側は後宮なのだろうな、と、ルーシェはさっき通り過ぎた扉のことを思い出した。

 向かい側にはこれまでよりずっと質素な扉が並ぶ。ここの明かりは今までよりも密にある。つまりここはこの時間でも人の出入りがそれなりにあるわけで——誰か出てきやしないかとひやひやしながら、ルーシェはその廊下を小走りで通り抜けた。

 やがて奥からひゅうひゅうと、風の通る音が聞こえるようになった。ルーシェは手元の紙を見、その示す先を確かめた。きっと外に出て少し、離れのようなところにクレタがいる。円の中のふたつの点はもうかなり近づいていた。ルーシェは深呼吸をし、廊下の角を曲がった。観音開きの扉が見えた。

 ルーシェはその扉の前で立ち止まった。ネコも難しい顔をしている。外に出る扉、ということは外からの侵入者に備える場所でもある。ならば守衛がいるだろう。ルーシェは腕組みをした。さすがに堂々と出ていくわけにはいかない、ここに来るまでにも施錠された扉を突破したのだ。絶対にルーシェが来ていい場所ではない。

 扉に両手を当て、そっと耳を寄せた。風の音の隙間でぼそぼそと低い声が聞こえる。外にいるのは少なくとも男がふたり。ルーシェはネコに向かって頷いた。ネコは上を向き、それから振り返った。

 やがて外が騒がしくなった。そして焦げ臭い匂い。鎧をつけた足音が遠ざかっていき、近くが静かになってしまうのを待って、ルーシェは扉を開けた。

 やはりクレタは花虫を連れてきていたのだ。部屋を出る前、オトを通じて託けたルーシェの頼みに彼女はしっかり応えてくれた。城の端のほうで起きたボヤ騒ぎは、ルーシェが一目散に走ってクレタの部屋にたどり着いたころ、急に降り出した雨があっさり消し去っていった。もちろんそれも事前に水竜に頼んでいた段取りである。


 ルーシェは扉を開いて迎えてくれたクレタに遠慮なく飛びついた。クレタはルーシェの勢いに少し驚きながらも、しっかりとルーシェを抱き留めてから体を離し、聞いた。

「あれで良かったの?」

「ばっちり。帰りがちょっと心配だけど、なんとかなるでしょ」

「あなたそんなに無鉄砲だったっけ?」

「誰かに似たのよ。長く一緒にいたから」

 クレタは苦笑いしながら、部屋の端に置かれたテーブルセットにルーシェを招いた。

 部屋は少し寒い。まだ花虫が戻ってきていないからだ。ルーシェは椅子を引いて腰掛け、向かいに座ったクレタがテーブルの上に組んだ手に、身を乗り出しながら手を伸ばした。

「ねえ。単刀直入に聞くけど、どうしようと思ってる?」

 ルーシェのまっすぐなまなざしにクレタは、唇を引き結んで頭を振った。

「わからない。自分でもどうしたいかうまく整理できなくて」

「ここに残りたい気持ちもあるのね」

 クレタは眉を寄せてルーシェを見た。ルーシェは首を横に振った。

「責めるつもりで言ったんじゃないの。ただ確認したくて」

 クレタは頷くと、俯いて答えた。

「もちろん私、ここは好きじゃない。でもだからこそ、ここに母を置いていくことにためらいがあるんだと思う」

 ルーシェは乗り出していた身を引き、椅子に掛け直しながら肩を落とした。クレタにではなく、自分に落胆したのだ。そんなふうに躊躇するのはクレタではなく、イヴァレットと共に過ごした時間の長いシルカのほうだと勝手に思い込んでいた——ふと思い出してルーシェは顔を上げた。

「シルカは?」

「別の部屋にいるよ」

「会ってる?」

 クレタは頭を振った。

「あなたにもらったプレゼントを取りに来てもらったときの一回だけ。それも母は本当は嫌だったみたいで、話もさせてもらえなかった」

「そうなのね。でもそんなに心配要らないと思う。私、話したわよね、シルカに世話係についてもらってたって。あなたたちが王女だと認められたって聞いて、そのあとすぐに交代になって、そこからは会ってないけど……でもシルカのお友だちみたいな人にも会った。たぶんね、シルカ、ここではひとりじゃないから」

 クレタは少し驚いた顔でルーシェを見たが、ふいに表情を緩め、目を伏せながら言った。

「シルカは私がみんなと一緒にいる間、こっちで、こっちの人として暮らしてたんだもんね。私、ひとりで勝手に心配して、シルカは寂しいはずだ、幸せじゃないはずだ、私たちのところに戻ってくるべきだ、それがシルカにも幸せなはずなんだって思ってたけど、ここに来るまでシルカと話して、そんなの私の独りよがりだったんじゃないかって不安になって。私のほうがずっと無知で弱くて、それを偉そうに何しにきたんだろうって」

「もしそうだとしても、シルカの幸せを願ったこと自体は何も恥ずべきことじゃないわよ」

「そうかな。そうだといいな」

 ルーシェは前よりずっと覇気のないクレタを前に、もどかしさとは違う割り切れなさを感じたが、大きく息を吸い込むとそれをゆっくり吐き出してから話し始めた。

「フォルセティのこと聞いた?」

「フォルセティ? 何があったの?」

 クレタが眉を顰めて聞き返したので、ルーシェは息を呑んだ。きっとクレタは何も知らない。でも今聞き返してきた彼女の目は、さっきまでのようには頼りなく揺らいではいない。ルーシェは意を決し、ひとつずつ、フォルセティから聞いたタイガのもくろみを話した。


 クレタは身じろぎもせず口元を強く引き結び、だんだん睨みつけるようなまなざしになりながらルーシェの話を聞き終えた。その表情とは裏腹に、ルーシェは確かな安心を感じた。寄る辺を失っていたクレタが芯を取り戻したように見えたからだ。

「そんな話、一度も聞いてない。どうしてそんな計画が私抜きで進んでるの」

「たぶん……まだフォルセティが承諾してなくて、どうなるかわからないからだと思う」

 クレタはルーシェをじっと見、大きなため息をついてから、しっかりとした口調で尋ねた。

「母は知ってるの?」

「ああ、えっと。どうかしら」

 おそらく知っているだろう。むしろ首謀者でさえあったかもしれない。そうは思ったけれどもルーシェは、イヴァレットをそんな計算高い女だと言うのはどうしてもはばかられ、はぐらかすように答えながら目を泳がせた。クレタは深いため息をつくと眉間を押さえた。

「母のこと、かわいそうだって思った私が馬鹿だった。王に媚び売る道具みたいな名付けだけならまだしも、私に見せた顔さえ結局自分のためだったのね。今でも変わってない……」

「待ってクレタ。私、あなたのお母さまと少し話ができたのだけど」

「母と? なんの話をしたの」

 クレタの語気は鋭い。ルーシェは少し気圧けおされたが、気を取り直して身を乗り出しながら答えた。

「竜の娘の呪いは言霊の竜が解いたわ」

「どういうこと?」

「あなたのお母さまがご自分でそう仰った。私、あなたはお母さまともう一度話すべきだと思う。あなたがどうするかはそれから決めて。そしたら私はそれを全力で手伝うから」

 クレタはルーシェを睨むように凝視したが、不意に部屋がほんのりと温かくなったので窓のほうを振り返った。通り雨をもたらした水竜が暗い町の上を大きく旋回している。戻ってきた花虫を手の上に止まらせると、クレタは深呼吸をしてから静かに尋ねた。

「どうして話したほうがいいと思うの?」

「どういう決断をするにしても、怒りだけで決めるべきじゃないと思うから」

「話したら怒りが収まる?」

「収まらないかもしれない。でも、お母さまのことが嫌だからお母さまが嫌がる選択をする、なんてことよりそっちのほうが、絶対に後悔しない」

 ルーシェはテーブルの端で手を組み、どうかしら、と問いかけた。

「お母さまと話せる? 機会は設けられるかしら」

「それはたぶん、できるけど。でも」

「して。あなたは『神の歌』を媚びを売るような名前と言ったけど、私はそうは思わない。あなたが何を神とするのか、そしてどんなふうに歌うのか、そういう一番大事なところはあなたに任せられているでしょ?」

 ルーシェの前でクレタの花虫が、ぶるる、と体を震わせた。ルーシェは息を吸い、それから言葉を選んで、ひたとクレタを見据えると口を開いた。

「あなたはあなたの意味を、怒りじゃなく、たどり着きたい未来から決めるべきだと思う」

 クレタは息を呑んでルーシェを見、それからゆっくりと頷いた。

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