4 / 煤と灰

 ルーシェが部屋を抜け出た頃に、フォルセティもまた部屋を離れていた。と言っても彼が向かったのはシルカやクレタのところではない。床に這い、石と木とに神経を通わせ読み取った城の間取りを頼りに彼が初めて踏み入った図書室は、広さを知っていたはずの彼を、それでも圧倒した。

 高い位置に施された模様は、タイガに招かれたあの部屋と同様コードを隠しているようだが、暗くてはっきりは確認できない。彼は夜目はかなり利くほうだけれども、いかんせんここは天井が高くて、その位置には明かりが全くと言っていいほど届かないのである。

 扉のそばにあったランタンを手にとり、本棚の間を検分するように歩く。色とりどりの手の込んだ背表紙が目を惹くエリアは歴史書だ。手に取りぱらぱらめくるとフォルセティは眉を顰め、元の場所に戻した。それを数冊繰り返している途中で足音がひとり分増え、彼は歴史書の前をあとにした。

 目的の本が置かれていそうな場所にたどり着くと、フォルセティは並んだ背表紙の前で仁王立ちになり腕を組み、本棚を向いたまま少し大きめの声量で言った。

「ここの本、タイガはほとんど読んだらしいぜ」

「俺のほうが読書家だな」

 もうひとつの足音の主が答え、ぺたぺたと柔らかい靴底の音を立てながらフォルセティの隣に立った。フォルセティはその、翠嵐の顔をちらと見上げてから本棚に目を戻した。

「張り合うなよ。生きてきた時間が十倍くらい違うんだから」

「別に張り合ってねえよ。あと五十倍は軽く違う」

「張り合ってんじゃん……」

 フォルセティは呟きながら、目をつけた一冊に手を伸ばし、その中身にざっと目を通して棚に戻した。ルーシェに本のタイトルも聞いておけば良かった、と彼は後悔した。

 周りにあった本を両手に持てる限りまとめて引っこ抜き、フォルセティはそれを抱えてよたよた窓際に向かった。机にどっかと置いてから椅子を引く。窓の外の夜空は隙間の多い雲が覆っている。フォルセティは積んだ本を上から順番に手に取り、崩し始めた。


 頬杖をついて本をめくる。目当ての記事は決まっているが、それ以外でも気になる項目がときどき目に入った。さらに深く知りたくて巻末までページを進め、参考文献のメモを取りかけて我に返る。こんなことをしていたら目的を遂げる前に朝になってしまう。

 フォルセティはルーシェの言葉を思い出し、気を取り直して積んだ本の向きを変えた。背表紙ではなく小口を見、変色や折れがないかを確かめる。何度も読んだ跡があったというならそれなりの変化がないかと思ったのだが、残念ながら本自体がかなり古いものから最近のものまで入り乱れていたので、ほとんど手がかりにはならなかった。

 ちらりと横を見る。隣の机で本を読みふけっている彼の竜は、主の「手伝ってくれないかな」という思いなど声に出されずとも当然に理解しているが、完全無視を決め込んでいた。それどころか彼はわざわざフォルセティのほうに体を向け、今読んでいる本を開いたまま顔の前まで持ち上げて表紙を見せつけてきた。フォルセティは目を細めてその表紙を見、大きなため息をつくと前に向き直った。諸国の名物料理を記録した旅行記は面白そうではあるが、どうひっくり返しても今フォルセティが探しているものとは関係しそうにない。

 そうは言えども本の数も無限ではないので、積んだ山の中腹くらいでフォルセティはルーシェが読んだと思われる記事を探し当てた。

 その鉱毒についての記事は、他の本ではさらりと名前だけ触れるにとどまっていたものを、一項目立てて主役に据え深掘りしている。手書きの線も見え、確かに何度も読んだ跡があった。フォルセティは息を呑み、姿勢を正すとその記事を一文字ずつ慎重に読み始めた。


 図書室は静かだ。聞こえてくるのは紙をめくる音だけ。普段好んで読書をすることもないフォルセティも、この空間は結構居心地がいいな、と思った。

 高い天井からは、水に垂らした墨のようにゆっくりと静寂が降りてくる。その下で知識と向き合う。本は求めれば求めるだけ応えてくれるが、それがそのまま信じられるものなのかの判断は読み手に委ねられている。たとえばこの本の土壌浄化に関する記載は詳細だった。例の植物は乾いた土地でもよく育ち、実りの季節は一面が金の絨毯を敷いたようになるという。しかし鉱脈に関する記載は、ハイロに至るまでにフォルセティとルーシェ(と、そこで本を読んでいる地竜)が作った記録と照らし合わせるとそれなりに不正確だ——作者が入手できた情報の限界。フォルセティは隣を見た。まだ翠嵐はあの旅行記を読んでいるが、その顔はかなり退屈そうだった。

 再び手元の本に目を戻し、ページを繰った。関連記事はもうない。本を閉じると脇に避け、彼は積み上げた未読の本の背表紙を眺めた。次はほとんど当てずっぽうに下から三冊目の本を見てみることにした。その前に一度、目を通したが関係のなかった本を戻しに行こうと考え、彼は席を立ちかけた。そのときだ。

 扉の開く音が聞こえた。フォルセティは中腰のまま振り返った。彼の位置からでは扉は見えない。彼は隣を見、翠嵐がそこにいるのを確認した。頬杖をついてフォルセティを見ている。フォルセティが人差し指を口元に立てると、翠嵐はため息をついて姿を消した。

 それからなるべく音を立てないように椅子に座り直すと、フォルセティは本を読んでいるふりをしながら耳をそばだてた。


 来訪者の靴は踵が硬そうだったが、それでもかすかな足音しか立てない。フォルセティは目線だけを上げ、目の前にある窓に映った室内をじっと観察した。ガラスは外の町の灯と同じように、室内を少し歪ませている。それでも、蜻蛉に先導された人影がだんだん近づいてくるのはわかった。フォルセティは息を潜めてそれを見ていたが、不意に顔を上げると安堵の息をついて立ち上がり、後ろを振り向いた。

 そこに立っていたのはシルカだった。彼女はランタンを顔の高さまで持ち上げフォルセティの顔をまじまじと見てから、それを胸元まで下ろしながら言った。

「さっき、どこぞの誰かのせいでボヤ騒ぎが起きたぞ」

「えっ。そりゃ大変」

 シルカの言いぶりも顔も、明らかに事情を理解している。フォルセティのしらじらしい返答は高い天井に吸い込まれていった。シルカは上を見、それから腕を組んで言った。

「まあ、すぐに消えておおごとにはならなかった。偶然、通り雨が降ってな」

「そいつは幸運でしたネ」

「そうだな。ここらはこの季節に雨が降ることは珍しいし」

 シルカは先ほどまで翠嵐のいた机を見、そちらに歩いて行くと椅子を引いて、フォルセティのほうを向いて座った。


 シルカは時間が時間だから部屋着なのだろうが、それでもこれまでフォルセティが見慣れてきた彼女の衣装よりずっと手の込んだ装いをしている。これまで雑に結ばれただけだった髪は後ろ頭の曲線に沿って美しく結いつけられ、大きく広がった袖の端には緻密で繊細な刺繍が施されている。プライアの端くれとして、また自国の姫君の従者として、それなりの質の衣を見慣れているフォルセティからしてもかなり目を引くものだった——が。

「そういうの好きじゃないんじゃね? 似合わないよ」

 自分も腰掛けながら腕組みをしたフォルセティがしみじみと言うので、シルカは思わず吹き出した。

「自分でもそう思う。思うがおまえは不敬だな。私は王女だぞ」

「知ってるけどさ。ここんとこずっと王女についてきて、そのご友人やら刺客やらと知り合いになって、でもそのふたりも王女に昇格して、俺の周り、今や王女ばっかりなんだよ。ありがたがれってほうが無理がある」

「確かに」

 シルカは机の上に置かれたままになっていた本に目を落とし、それを端に寄せると頬杖をつきながらフォルセティに尋ねた。

「おまえの姫君は何をしに?」

「話しにいったんだよ。本人がどうしたいのかわからないんじゃ俺たちも身動きとりにくいし。で、あいつ次はたぶんおまえのところ行くつもりだったと思うんだけど。おまえよく出歩けたね」

「私はもと刺客の王女だからな。そんじょそこらの王女と一緒にしてもらっては困る」

 フォルセティは、確かに、と呟くと、自分の脇腹に目をやってから顔を上げた。シルカはその様子を見、ため息をつくと腰掛けたまま、膝に手を置き深く頭を下げた。

「あのときはすまなかった」

 フォルセティは思わず目を見開いた。椅子が少し後ろにずれて床との間で音を立てた。彼は思わず辺りを見回すと誰もいないのに安堵して深呼吸し、再びシルカのほうを見た。シルカは首を傾げている。

「そんなにおかしいか」

「いや、おかしくない。おかしくないけど、改めて言われるとなんか不気味」

「ならどうすればいい」

「どうすればって……俺が許せるかどうかの問題だけど……過ぎた話だよ」

 シルカはじっとフォルセティを見、それからもう一度頭を下げた。

「ありがとう」

「いや、もうさ、ほんとにいいよ。そんな何回も頭下げられるとこっちが恐縮する」

「そうか。では」

 シルカはゆっくりと顔を上げながら言った。

「その気後れをチャラにしてやる。私に手を貸せ」

 呆れた顔を隠しもしないフォルセティを前にシルカは立ち上がった。

「私はこれまで母の指示に従い、求められたことにはすべて応えてきた。そうすれば自分が安泰だと思っていた。でももうやめる。血の繋がりだけを理由に気まぐれに押しつけられる期待に応えても、結局私にはなんの利もなかった。私はいよいよ愛想が尽きた」

 フォルセティがわずかに眉を寄せた。シルカだって彼の立場は知っている。彼女は目を伏せて言った。

「期待をすることや受けることが全部悪いと言っているんじゃない。その期待を受けた本人が、それを愛だの生きがいだのと読み替えたいと思える関係かどうかの問題だ」

 フォルセティが顎をしゃくり、シルカは続けた。

「クレタが来て。さらにおまえという駒が降ってきた。それでタイガは即座にクレタに王女という肩書を与え、クレタとおまえを使ったを描いた。今の母にはもう、タイガと同じ目を持たない娘は用なし。私が期待に応えて十年余り積み上げ続けた実績は一顧だにされず、私にはただクレタのおまけとして王女の肩書きが」

「だからって俺を使ってイヴァレットに意趣返ししようってんならお断りだぞ」

 少し低い声で答えたフォルセティをシルカは睨んだが、何も言葉はない。フォルセティは長い息を吐くと続けた。

「さっきルーシェもクレタにだいたい似たようなこと言ったよ」


 虚を突かれた顔のシルカの前でフォルセティは立ち上がり、自分の耳を指さした。それから「ルーシェは蔦虫を連れていったから」、そう言って彼はその指でシルカをさし直した。

「おまえは俺たちの国からあの本を連れ出し、ここまで持ってきた。それがこの国に結果的に言霊の竜を招き入れ、イヴァレットと引き合わせた。たとえ発端が命じられたからって理由だったとしても、おまえが始めたことの顛末てんまつを、おまえはちゃんと知るべきだ」

 シルカは唾を呑み、絞り出すような声で言った。

「……ノイシュトバルトは母に、何を」

「ほらやっぱり心配なんじゃん。会って本人の口から聞いてこいよ。俺にはおまえがイヴァレットと話すのを避けたくて屁理屈こねてるようにしか見えない」

 呆れた顔のフォルセティを前にシルカは唇を固く結び、ほんの数文字だけの絞り出すような返事をすると、裾を翻し図書室をあとにした。

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