5 / ふたりの母(2)
昨日までより少しだけ温かい風が吹いたその日、エリシュカは意を決してイヴァレットを訪ねた。
侍女を連れ、部屋を出て、女たちのどことなく侮蔑的な視線を浴びながら渡り廊下に向かう。その先の通路に沿って植わっている背の低い木は一見、相変わらず針金のような姿だが、よく見れば小さな芽が膨らみ始めている。エリシュカは目を細め、それから前を向いた。
季節を先取りしても到底追いつかないような、美しい庭が広がっている。まとわりついてきた息苦しさが、そこに近づくにつれ引き剥がされて、なんとなく体が軽くなるようだった。しかし気持ちは重たいままだ。
彼女の子であるシャゼリは王の
奇跡のような庭を通り、イヴァレットの部屋の前に立つ。エリシュカは侍女を下がらせた。侍女は渋ったが、主は譲らなかった。
侍女の姿が見えなくなると、エリシュカは深呼吸をしてから扉を叩こうと右手を上げたが、不意にそのとき内側から扉が開かれ、中から飛び出てきた女性がエリシュカにぶつかった。
尻もちをついたエリシュカが呆気にとられた顔で見上げると、彼女にぶつかった女性の後ろには全く同じ顔をしたもうひとりが見えた。エリシュカは狼狽したまま、差し出された手を握ると立ち上がった。
彼女を立ち上がらせたのがクレタだった。クレタは「本当にすみません」と深々と頭を下げ、エリシュカは慌てて頭を振った。
「ごめんなさい、こちらこそ。予告もなくお伺いしてしまった私が悪いので。あの、もしよろしければイヴァレット様とお話ししたいことがあるのだけれど」
「母ですか?」
「……ああ。ではあなたがシルキアーテ様」
「いえ。クレアリットのほうです。シルカならそっち」
クレタが後ろのシルカを示すと、シルカは歩み出てきて恭しく礼をした。
「お初にお目にかかります」
「あ、私もそうだな……」
呆れた顔のシルカの横で、クレタも裾を持ち上げ礼をした。エリシュカはにっこり笑って返礼し、続けた。
「イヴァレット様はいらっしゃる?」
クレタとシルカが振り返る。ふたりが間を開けると、奥からイヴァレットが進み出てきた。
エリシュカは改めてイヴァレットを上から下まで見、感嘆のため息をついた。もともと眉目秀麗な女だとは思っていた。でも以前はもっと鋭い刃物のように周りを寄せつけない雰囲気だったと認識している。それが緩んだのが娘を迎えたからなのか、それとも別のことがあったのか、エリシュカにはわからないが、いずれにせよ自然な自信に満ちた彼女は前よりさらに美しく見えた。
エリシュカは自分が卑屈で弱気で、ひどく見劣りする気がして思わず俯いたが、クレタの心配そうな視線を感じ、己を奮い立たせて顔を上げた。
「私の息子のことで、お力を貸してほしいのです」
エリシュカはそう言って唾を呑み、涼やかな目で見下ろしてくるイヴァレットを凝視した。イヴァレットもじっとエリシュカを見、それから口角を上げた。
「ようこそ。お話、お聞きいたしましょう」
イヴァレットの部屋はほわほわと温かい。油の匂いがむっと籠もった自分の部屋とはあまりに違うが、こんな快適なのは城内でもおそらくここくらいだ。これも彼女がこの国にもたらした「王の業」のほんの一部に過ぎないのだろうと思い、エリシュカは勧められたソファで小さくなって周りを見回した。イヴァレットの部屋は極端にものが少ない。王を喜ばせるための趣向を凝らした自分の――たぶんほかの女たちもであるが――部屋とは全く趣が違っている。
シルカと並んだイヴァレットと、その向かいのエリシュカとの間に、クレタが入れたお茶がコトンと置かれた。花の蜜のような甘い匂いがしている。これは、とエリシュカがクレタに尋ねると、クレタは膝をついたままうれしそうに答えた。
「私、ここに来る前は仲間と各地を回っていて。そのとき訪ねた先でごちそうになったものがおいしくて、分けていただいて大事にしていたんです。本当はこんな乾いたのじゃなく、もぎたての実を落とすんですけど。口に含むとちょっとだけですが潮の香りも」
「そんな貴重なものをありがとう。初めて見ました」
「ええ。ここから遠くの、海に面した国のものですから」
「では私が知っているはずはないわね……」
エリシュカは少し寂しそうにそう言い、慌ててクレタに詫びるとカップを手にとって、立ち上る湯気を吸い込んだ。
一口含むと、エリシュカはカップを置いた。その様子を心配そうに見ていたクレタに彼女は笑顔で頷いて見せた。クレタは大げさに胸をなで下ろし、立ち上がった。
「それじゃ私はもう行きます。エリシュカ様、どうぞごゆっくり」
「ありがとう。引き留めてしまったみたいで、ごめんなさいね」
「いいえ。願ったり叶ったりでしたから」
エリシュカは頭の中に疑問符を浮かべながらも、深追いはせずに笑顔で頷いた。
クレタが行ってしまうと、エリシュカは改めて向かいのイヴァレットを見据えた。イヴァレットはエリシュカの背後の扉のほうに目を細め、それからエリシュカに目を戻して「嵐のような子でしょう」と言った。
「王の娘など願い下げだと言ってきたのです。あの子は」
「それは一体どういう……」
突然、想像もしていなかったあまりの言葉に蒼白になったエリシュカを前に、イヴァレットは膝の上で手を組むと背もたれに背を預けた。
「陛下の駒になるのはごめんだと。だからここから出ていくとあの子は言うのです」
「そんなことできるわけがありませんでしょう」
即座に答えたエリシュカを一瞥し、イヴァレットは隣のシルカに目をやった。それからイヴァレットは改めて前を見た。
「そしてこの子。こちらは私がここに来てからずっと私の手元にいた子ですが、この子もいよいよ陛下の手先のような私に愛想を尽かしたのですって」
「なんてことを……」
エリシュカは言葉を失い、シルカを見つめた。シルカは素知らぬ顔でお茶を飲んでいる。エリシュカは深呼吸して続けた。
「イヴァレット様はどうして私に、そのようなお話を」
イヴァレットは目を細めると背もたれから離れ、両膝に肘をついて身を乗り出し、ささやいた。
「私はこの子たちに任せてみようと思うのです。幸い、私には子どもを介した血の繋がりがなくとも、陛下にとって有用な知識がある。ですからこの子たちがいなくなっても、私はこれまでの城の奥の庭の主に戻るだけ」
「そうはまいりませんでしょう。陛下への叛逆を見逃したとなったら、いかにイヴァレット様といえども」
「そうでしょうか」
そう言ったイヴァレットの表情はしかし、言葉面とは違って、そんなことなどわかっているとでも言うがごとくだった。エリシュカは思わずシルカを見た。
娘は目を伏せていて表情はよくわからなかったが、狼狽えている様子は全くない。きっと母子の間では結論が出ているのだ。でもそれはきっとイヴァレットの、そして娘たちの、特別さ、強さと優秀さ、だからどうにかなる、どうにかできるという自信があってこそ。一瞬うらやましく思ったエリシュカは、そんな思いを振り払うように頭を振った。そうして唇を強く結んだエリシュカに、イヴァレットは尋ねた。
「それで。ご子息のことというのは」
エリシュカは顔を上げ、一度口を開きかけたが再び閉じた。
ルーシェからはシルカがシャゼリの友人だと聞いた。しかしそのシルカは今こうして自分の前で、タイガに隷従する気がないと明言した。その母もそれを恐ろしく思わないどころか恥ずべきこととさえ感じないらしい。それならばもうここで話すことなどない。
エリシュカは深いため息をついてから顔を上げた。しかし彼女が声を上げる前に、シルカが口を開いた。
「シャゼリ殿がしていることが不安なのでしょう」
「そのとおりです」
エリシュカは目を見開いて答えた。タイガに逆らうような突拍子もないことを言い出したというシルカが、エリシュカを理解しているのが不思議だった。エリシュカは続けた。
「あの子は陛下が複製を禁じた術を複製していると。陛下は一見、面白がっていらっしゃるようでしたが本心は私には推し量れません。あの子は既に王の信頼を損ねているのです。そこにさらにこのような」
「陛下の信頼を損ねてきたのはエリシュカ様やその家臣であって、シャゼリ殿ではありません」
シルカは突き放すように言った。エリシュカが呆然としているのを見、イヴァレットが続きを引き取った。
「ご子息が今もまだご無事でいらっしゃり、そればかりか城内にとどまっておられることに、エリシュカ様はもっと自信を持ってはいかがです。もしお考えのように陛下がご子息を疑っておられるのだとしたら、陛下はわざわざエリシュカ様にそれをお伝えになるでしょうか」
エリシュカは眉を顰め、しばらく目を泳がせてからイヴァレットを見た。
「わからないのです。私には。イヴァレット様のようには……何も。私はただ生まれだけで選ばれた女で、美しくもなければ学もない。自信など持ちようがない」
そうですか、とイヴァレットはため息まじりに答え、続けた。
「でも、私だって他人が考えていることなど推測するほかありません。もちろん陛下のことも。ただ、わからないから進まないでは何もできない。ですから私は自分を信じた。エリシュカ様と違うとすれば、そこだけ」
「ではイヴァレット様ご自身は、シャゼリがしていることを陛下がお怒りではないとお考えですか」
「お返事が難しいけれど。敢えてそのままにしているということは、陛下は当面その行く先を見守るおつもりかも」
エリシュカは息を呑んだ。あの失礼な王女の台詞を思い出し、彼女はその言葉を復唱するようにしてイヴァレットに尋ねた。
「イヴァレット様はご息女らのことを、勇気を持って見守ると決められた。だから陛下もそうではないかと仰るのですね」
イヴァレットは眉を上げ、それからやんわりと微笑んだ。
「少なくとも私は娘たちからの信頼を、これまで築いてきませんでした。自分のことに手一杯で、娘たちのことはその名付けからしてずっと手駒のように扱ってきた。それでも娘たちは勝手に、立派に育ちました。私どころか陛下にまで楯突くくらいには。そうなると今更私が母親面してできる罪滅ぼしといったら、私が娘たちを信じて任せる。その程度しかないのです。ですから私の決断は私のための、私だけのものです。陛下のことなど存じません」
エリシュカはたっぷり時間をかけてイヴァレットを見つめ、大きく息を吐くと目を伏せた。それから彼女は顔を上げた。
シルカが、おや、と思うようなまなざしであった。エリシュカは少し身を乗り出し、イヴァレットに話し始めた。
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