3 / 夕べの祈り

「やるの? ルーシェが?」

 フォルセティは愉快そうな顔を隠しきれずに聞き、姿勢を正すと腕を組んだ。ルーシェは自信ありげに答えた。

「ええ。お任せください」

「じゃあお手並み拝見しようか。しっかりやってごらんなさい、本職の前だが」

「もう。緊張させないでよ」

 ルーシェは笑いながら胸に手をあて深呼吸をすると、では、と言いながら手を合わせ、目を閉じた。

「今日というこの日のしまい、吹き渡る風の竜、湧きあふる水の竜、そして母なるつちの竜に尽きることなき感謝を捧げ」

 ルーシェは合わせたままの手をゆっくりと下ろし、手のひらを器を作るように開いて静かな調子で続けた。

「あめつちの康寧と弥栄いやさかに、明日の我が子らが共にあらんことを願う」

 ルーシェが目を開いて手の中を見ると、そこには水色のぼんやりした光があった。ルーシェは足元で丸まっていたネコを覗き込んだ。ネコはゆっくりと尻尾を動かしてみせた。


 ルーシェは両手をそれぞれ握って離すと顔を上げ、「どうだった?」とフォルセティに聞いた。フォルセティが顎を触りながら首を傾げたので、ルーシェは眉を寄せた。

「もしかしておかしいところがあった?」

「いや、形式的なところは別に……というか模範的だったと思うよ、でもなんでいきなり」

「私、この、最後に頭を空っぽにして手の中を見る前にぎゅっと目をつぶって。そのとき瞼の裏で何色が見えるか、賭けをしてたの。小さいころ」

「いくら退屈でも祈りで賭けるなよ」

「だから最近はずっとやってなかった」

 ルーシェはいたずらっぽく笑いながらテーブルの端で手を組んだ。

「でもね、そこで何色が見えても、それどころか何色も見えなくても私の勝ちってことにしてた。色が見えたら、さっき感謝を述べた竜のどれかが。見えなければお母さまやお父さまが、今日の私を認めてくれた、って思うことにして」

「それ、レヴィオもやってたの」

「どうかしら。一回教えてあげたら、ばかばかしいって言われて。あのときは許さないって思ったわ」

「でも、黙って試してそうだな。あいつ」

 ふたりの前に湯気を立てたスープが運ばれた。フォルセティは自分の前の器を少し脇にどけるとルーシェのほうに手を差し出した。彼はルーシェから器を受け取ると、それを自分の前に置いてスプーンを手にとりながら言った。

「たださ。実際、結果がどれでも勝ちなんじゃ賭けになってないよ」

「いいのよ、それで。今日の私も満点だったって思えたらよく眠れるでしょ」

 フォルセティはルーシェのスープをひとさじ口に運び、それをゆっくり飲み込んでからスプーンを置いた。

「今日の私も満点、ねえ」

 彼はルーシェにスープの器を返し、自分の分を引き寄せた。器を受け取ったルーシェはそれを自分の前に置き直しながら答えた。

「お母さまがね。何か失敗するたびにおじいさまから言われたんですって、道を選ぶのに迷ったならば、選ばれた道はどれであっても価値があるって。私がそれを最初に聞いたのはまだ六つか七つのときで、意味がわからないって言ったらお母さまが『つまり、今日のあなたも満点だったってことよ』って」

 フォルセティは虚を突かれたような顔で唾を呑んだが、頭を振るとへらりと笑った。

「陛下、めちゃくちゃざっくりしてるな」

「うん。でも、いいでしょ」

 ルーシェも苦笑いしながら言い、スープに口をつけた。


 背後にマルクトの視線を感じるせいで、フォルセティにはスープが泥水のように感じられた。運ばれてきた次の深皿によそわれていたのは、根菜と鶏肉の炊き合わせにとろみのついた琥珀色のソースを乗せたものだ。緑の豆が添えられ彩りも鮮やかで、見るからにおいしそうなものではあったが、それでも彼の食指を動かすことはなかった。だからといって毒見をしないわけにもいかない。彼はやむなくルーシェのほうに手を伸ばしたが、ルーシェは差し出した皿から手を離さず、皿はふたりの間にとどまった。

「なに?」

 フォルセティが訝しげに聞くと、ルーシェは彼をじっと見つめて言った。

「だから、今日のあなたも満点よ」

「え?」

 ルーシェは離した手を膝の上に下ろした。フォルセティは困惑した顔で器を自分の前に置くとルーシェを見返した。

「なんだよ」

「隠してることあるでしょう」

「え。ああ、いや、まあ」

 ルーシェは目を閉じて大きく息を吸い、それから再びひたとフォルセティを見た。

「あなたが黙ってる中身も、黙ってる理由も、私にはわからないけど。でも、あなたが黙ってるという選択が、あなたがああでもないこうでもないって考えた結果導き出したものなのだとしたら、私はそれが正解だと思う」

「なんだよ、いきなり……」


 ルーシェは狼狽したフォルセティの後ろでマルクトが目を細めたのも、そしてシャゼリが口を引き結んだのも、見逃さなかった。つまりこの部屋で「そのこと」を知らないのはルーシェだけなのだ。内容はわからなくても、窮地なのだということは察しがついた。そういう中で彼女が差し出せるのは、彼の前を照らし、勇気づける言葉しかない。帆を張り舵をとるのは、あくまで本人だ。

 ルーシェは空を振り仰いだ。もちろんそこには天井しか見えないが、その先の満天の星空の下には水竜が舞っていたはずだ。ルーシェは視線を戻し、フォルセティに言った。

「ご両親のお言いつけ、忘れてないわよね」

「え?」

 フォルセティの後ろでマルクトがぴくりと眉を上げた。ルーシェはそれを気にせず続けた。

「ここに来る前に。私も聞いたわ。思い出して」

 不安げに目を泳がせたフォルセティの足元をネコが体を擦りつけながら一周し、それから膝に飛び乗った。フォルセティがネコを下ろそうとするとネコは怒ったように彼を見上げ、一音ずつ押しつけるように「にやあん」と鳴いた。


 あのときシオンの、クレタの家で。ネコはなんと言った? フォルセティはネコを見下ろしていた顔を片手で覆い、思案を巡らせた。

 このネコは、ユーレにいる彼の母と、そこから彼の父へと、さらにはルーシェの父母へも通じている。そして少なくともまだこの城のものは、このネコが「そういうもの」だということに気がついていない——ハイロの壁の外で、水竜がそうであれと指示したように。

 そしてフォルセティには、まだ呼んでいない「助け」も、それから色々が未知数の言霊の竜もいる。そうして改めて並べてみた駒は、彼の視野を一気にクリアにした。

 ここに来た目的はひとつだ。目の前を塞いでいた分厚い壁、その重苦しい閉塞感を、急に破れるような気がしてきた。フォルセティは手を下ろしながら顔を上げてルーシェを見、フォークを手にとると、ルーシェから受け取った器の中身を指し、ルーシェに言った。

「俺、これ全部食っていい?」

 ルーシェは大きく息を吸い、満足げに頷いた。


 ルーシェが食事を終えて部屋に戻ると、扉の前で男がひとり立っていた。最初にルーシェたちをここに案内してくれた髭面の衛兵と同じような格好をした、まだ若そうな男だ。彼はエメルに敬礼をし、丸めて筒のようになった書状を手渡すと、再び敬礼をして去っていった。

 エメルはルーシェに断ることもなく書状を広げて目を落とし、すぐに片手を離して扉を開いた。エメルの持っていた書状は彼女の手元で再びくるんと丸まってしまったが、エメルは気にせずルーシェを室内に進ませた。

 ルーシェが部屋の奥まで入ってしまうと、エメルは後ろ手に扉を閉めてからルーシェの前まで歩いていった。彼女は持っていた書状を逆さにしてルーシェに渡し、ルーシェはそれをいそいそと開いた。

 中には美しい字で文章がしたためられていた。曰く、自分はこの国の姫であり、この国のために身を捧げる覚悟であること。だからもしもこれまで共にあったものから自分を連れ帰るよう頼まれているのなら、それには応えられないこと。そのような話をしないという約束をしてくれるのであれば会うこと——そして署名、クレアリット。

 ルーシェは「クレアリット」の手ずからのものとの体裁を備えたその書状にかなりはっきりした違和感を感じたが、それを悟られぬよう書状を再び丸め顔を上げた。エメルが問うた。

「クレアリット殿下のご意向です。それで差し支えなければお取り次ぎをいたしますが」

「ありがとうございます。そのつもりではありますが、せっかくなのでお返事を書いて、それを持っていってもらってもいいでしょうか。明日の朝には用意をしておきますので」

「かしこまりました。では紙とペンをお持ちします」

「あ、いえ、大丈夫です。備え付けがありますから」

 エメルは窓際のデスクに目をやると、そこにインク壺と金色のペンとを文鎮代わりにして広げられた象牙色の紙を認め、ルーシェに目を戻した。

「それでは、明日朝食のお迎えに上がりましたときにお預かりいたします。お食事中に殿下にお届けしておきますので、早ければ明後日の午前にでもお会いになれるかと」

「うれしいです。楽しみにしています。シルキアーテ様はご一緒には?」

「ご希望でしたらお伝えいたします。お約束はできかねますが」

「構いません。よろしくお願いします」

 ルーシェが深々と頭を下げるとエメルはすぐに顔を上げさせ、湯浴みのためにタオルを取ってくると言って部屋を後にした。


 扉が閉まったのを確認し、ルーシェは後ろを振り向いた。ベッドにいたネコは部屋中を見回し、ルーシェに向かって片目をつぶった。ルーシェはネコに走り寄ると、手元の書状をその鼻先で広げて見せた。

「どう? うーちゃん」

「クレタのにおいじゃない気がする」

「やっぱりそうよね。クレタが私に向かって自分のことクレアリットって書くの、なんか変だなって思った」

「だいたいクレタって文字書けるの?」

 ルーシェはどうだったかしらと呟きながらネコの隣に座り、改めてまじまじと書状を見た。

 皆の、アルファンネルやドルジたちのところに戻るような話をするなと——つまり、そういう話をされると困るということだ。ならばここにある「この国のために身を捧げる」というのは少なくともまだ、クレタの揺らがない決意ではないのだろう。

 もちろんクレタが熟慮の末ここに残るという選択をしたのなら、ルーシェにはそれをないがしろにするつもりはない。けれどもこれは一体なんだ?

 ルーシェはざわざわした気持ちのまま書状をデスクに置き、転がっていってしまわないようにしっかり開くとインク壺を乗せた。

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